【SF短編小説】終焉と夜明けのレゾナンス ―生命標本の蒼い光ー(約9,600字)
藍埜佑(あいのたすく)
【SF短編小説】終焉と夜明けのレゾナンス ―生命標本の蒼い光ー(約9,600字)
◆第1章:『蒼い予言』
人は誰でも一度は考えるのだろう。
なぜ自分は生まれてきたのか。そしていつ、何のために死ぬのか――。
葉山夜詩子は研究所の白い廊下を歩きながら、ふとそんなことを考えていた。床に反射する蛍光灯の光が、彼女の白衣をより一層白く染め上げる。
生命科学研究所の主任研究員として、夜詩子は「生命の本質」を追い求めていた。遺伝子やタンパク質の構造解析から、生命の起源に迫ろうとする日々。しかし、その研究が進めば進むほど、彼女の心の中で奇妙な空虚感が膨らんでいった。
「葉山先生、今日の実験データの解析が終わりました」
後輩の春瀬アキラが声をかけてきた。
「ありがとう。私の机に置いておいて」
夜詩子は軽く会釈をして通り過ぎようとした。その時だった。春瀬の頭上に、奇妙な数字が浮かび上がったのを見た。
『2052年8月15日 13時24分』
夜詩子は足を止めた。目を瞬かせる。数字は消えない。
「先生? どうかしました?」
「……いいえ、なんでもないわ」
その日を境に、夜詩子の世界は一変した。
人々の頭上に死の期限が見えるようになったのだ。最初は幻覚かと思った。でも、研究所で亡くなった実験動物の死亡時刻が、彼女の見た数字と完全に一致した。これは現実だった。
そして、決定的な出来事が起きる。
四月の終わり、桜の花びらが舞う夕暮れだった。
いつもの帰り道、夜詩子は研究所での実験の失敗を反芻していた。風が街路樹を揺らし、影が歩道で踊る。その時、前方の交差点に制服姿の女子高生の姿が目に入った。
長い黒髪を風になびかせ、スマートフォンを覗き込みながら信号待ちをしている。春の陽射しに照らされた横顔は、まるで初々しい蕾のようだった。
ふと、夜詩子は足を止めた。少女の頭上に、例の数字が浮かんでいる。
『2024年4月26日 18時05分』
喉が乾く。明日。しかも具体的な時刻まで見えている。今までこんなことは――。
「あの」
声が出かけて、夜詩子は唇を噛んだ。少女が振り返る。大きな瞳に、夕陽が映り込んでいる。
「……」
何を言えばいい? どう伝えれば? 明日の午後六時五分、あなたは死ぬ。そんなことを、誰が信じるだろう。むしろ、不審者として通報されかねない。
信号が青に変わる。
「気をつけて」
やっと絞り出せたその言葉は、風に消されてしまったかもしれない。少女は友達からのLINEに笑顔で返信しながら、向こう側へ消えていった。
夜詩子は、その後ろ姿をずっと見つめていた。制服のリボンが風になびく。スカートのプリーツが揺れる。そして、頭上の数字が、夕陽に照らされてぼんやりと輝いている。
「私には、何もできない」
その夜、夜詩子は眠れなかった。テレビをつけっぱなしにして、パソコンで事故の統計を調べた。東京都内の交通事故死、年齢別の発生確率、時間帯別の危険度。でも、そんなデータに何の意味があるのか。
数字は、運命なのか。それとも、警告なのか。
翌日。一日中、落ち着かない。研究所でも実験に集中できず、何度もミスを重ねた。時計を見るたびに、胸が締め付けられる。
午後五時半、夜詩子は早退した。あの交差点に向かって走った。でも、そこには誰もいない。
どこだ? どこで? どうすれば?
六時。街にはサラリーマンたちの姿が目立ち始める。夜詩子は、通りを血相を変えて歩き回った。
そして、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
夜詩子のスマートフォンが震える。緊急速報だ。
『近隣で交通事故発生』
気付けば走っていた。サイレンの音を追って。でも、間に合うはずがない。時計は既に、18時05分を指していた。
その夜、テレビの前で夜詩子は硬直していた。
『本日午後6時5分頃、渋谷区内の交差点で、女子高生が大型トラックに巻き込まれる事故が発生。女子高生は病院に救急搬送されましたが、まもなく死亡が確認されました』
画面に映し出される事故現場。そこに散らばっていたのは、見覚えのあるスマートフォン。ケースには、桜の花びらのステッカーが貼られていた。
夜詩子は、震える手で画面に触れた。冷たいガラスの向こうで、アナウンサーの声が続いている。でも、もう言葉の意味は耳に入ってこない。
窓の外で、桜の花びらが舞っていた。儚く、そして無慈悲なほど美しく。
「私には何が見えているの? そして、なぜ……」
鏡に映る自分を見つめる。そこには何も数字は浮かんでいない。自分の死期だけは、見えないらしい。皮肉なことだ。
研究所での日々は、以前とは全く違う色彩を帯びるようになった。同僚たちの頭上に浮かぶ数字。誰かが真剣な表情で将来の研究計画を語るとき、その人の死期が目に入ってしまう。その計画が完遂される前に、その人は……。
「生命の本質を追究する」
夜詩子は実験ノートに書き付けながら、苦く笑った。生命を研究しているはずが、むしろ死に取り憑かれているような日々。でも、これも何かの意味があるのではないか?
研究所の最上階で進められている「エターナル・プロジェクト」のことを思い出す。極めて機密性の高い研究だという噂だけが、研究員たちの間で囁かれていた。
「葉山先生」
ノートの字が滲んだ。いつの間にかペンを強く握りしめていた。声をかけてきたのは、研究所長の九條だった。
「ええ、なんでしょうか」
「よろしければ、ちょっと私の部屋まで」
九條の頭上には『2045年12月31日』の文字。まだ先は長い。しかし、それは果たして幸せなことなのだろうか? 夜詩子はため息を押し殺して立ち上がった。
「実は、エターナル・プロジェクトの件で相談があるんです」
九條の言葉に、夜詩子は息を呑んだ。これは偶然なのか、それとも……。
窓の外では、夕暮れの空が赤く染まっていた。まるで、何かの予兆のように。
◆第2章:『永遠を追う者たち』
「私たちは、人類の悲願に挑戦しているんです」
九條の声は静かに研究所長室に響いた。窓からは東京の夜景が一望できる。無数の光の点が、まるで地上の星座のように広がっている。
「不老不死……ですか」
「そうです。私たちは既に、細胞の寿命を制御する遺伝子の特定に成功しています」
九條は机の引き出しから一枚のデータシートを取り出した。夜詩子の目が広がる。そこには、彼女が見たこともない遺伝子配列が記されていた。
「これを……私に?」
「私はあなたの能力を買っています。このプロジェクトに参加してもらえませんか」
夜詩子は一瞬、九條の頭上に浮かぶ数字を見上げた。2045年12月31日。この男は、自分の死期を知らない。だからこそ、こんな研究が出来るのだろうか。
「考えさせてください」
研究室に戻る途中、春瀬とすれ違った。
「先生、もう帰られるんですか?」
「ええ、今日はここまで」
春瀬の頭上の数字が、蛍光灯の明かりに照らされて浮かび上がる。『2024年7月1日』。あと2ヶ月とちょっと。その時、夜詩子は決意した。
「春瀬くん、ちょっといいかしら」
研究室の片隅で、夜詩子は静かに話し始めた。自分に突然現れた奇妙な能力のこと。人々の死期が見えること。そして……。
「先生、それって本当ですか?」
春瀬の声が震えている。
「信じられないでしょうね。でも」
「僕の……死期も見えているんですか?」
その問いに、夜詩子は言葉を失った。告げるべきか。告げられるのか。
「見えています」
夜詩子は覚悟を決めて答えた。春瀬の顔が蒼白になる。
「いつ……ですか?」
「7月1日」
春瀬は小さく震え出した。
「冗談、ですよね? 僕には婚約者がいるんです。来年の春に結婚する予定で……」
夜詩子は黙って春瀬の肩に手を置いた。
「だからこそ、話したの。あなたには、やり残したことがあるでしょう?」
その夜、研究所を後にする時、夜詩子は空を見上げた。満天の星空。それぞれの星には寿命がある。でも、その光は美しい。
翌日から、夜詩子はエターナル・プロジェクトに参加することを決めた。不老不死の研究。それは人類の夢だ。でも、彼女の目的は違った。死期を変えることは可能なのか。それを確かめたかった。
プロジェクトの研究室は、最上階の特別セキュリティエリアにあった。入室には生体認証が必要だ。
「ようこそ、葉山先生」
プロジェクトリーダーの氷室真琴が出迎えた。彼女の頭上には『2024年12月24日』の文字。クリスマスイブか。何という皮肉な日付だろう。
研究は急ピッチで進められた。細胞の寿命を延ばすことは、既に可能になっていた。問題は、それを生体レベルで実現すること。そして何より、その安全性の確保だ。
「面白い発見がありました」
氷室が顕微鏡から目を離して言った。
「この細胞、通常の2倍以上の寿命を示しています」
夜詩子は黙ってデータを見つめた。確かに驚くべき結果だ。でも、それは本当に人類が求めるべきものなのか?
研究室の隅には、小さな水槽が置かれていた。その中で、発光クラゲが静かに漂っている。不老不死の研究に使われる実験材料の一つだ。このクラゲは寿命を迎えたり、傷ついたりすると、クラゲからポリプ……つまり幼体へと若返る。そして理論上は永遠に生き続けることができる生物だという。
夜詩子は、その青白い光を見つめながら考えた。永遠に生きることと、幸せに生きることは、同じことなのだろうか?
水槽に映る自分の顔が、クラゲの光に照らされてぼんやりと浮かび上がる。そこには相変わらず、死期を示す数字は見えない。
だが、それは彼女に、新たな疑問を投げかけていた。
◆第3章:『光と影の境界線』
実験データの山を前に、夜詩子は目を細めた。不老不死の研究は、思いのほか順調に進んでいた。しかし、それと比例するように彼女の心の中の違和感も大きくなっていく。
六月も終わりに近づいていた。
「先生、これを見てください」
春瀬が差し出した資料に目を通す。彼の死期まで、あと数日。何もできないまま、時間だけが過ぎていく。
「ありがとう。よくまとめてくれたわ」
その時、研究室のドアが大きな音を立てて開いた。
「大変です! 氷室先生が……」
駆け込んできた研究員の声に、夜詩子は立ち上がった。特別実験室で氷室が倒れたという。すぐに救急車が手配された。
しかし、夜詩子の頭の中に疑問が浮かんだ。氷室の死期は12月24日のはず。なのになぜ――。
救急車が去った後、夜詩子は特別実験室に忍び込んだ。普段は氷室しか立ち入ることのできない場所だ。そこで彼女が見たものは、衝撃的だった。
実験台の上には、見覚えのある遺伝子配列のデータ。そして、それを応用したとされる薬品の残骸。人体実験の痕跡。氷室は、自分自身を実験台にしていたのだ。
「やはり、ここにいましたか」
背後から聞こえた声に振り返る。九條だった。
「これは、どういうことですか?」
「説明する必要があるでしょうね」
九條は深いため息をついた。
「氷室は、自分の死期を知っていたんです」
夜詩子の瞳が揺れた。
「彼女にも、あなたと同じ能力が――」
「そうです。半年前から突然、人々の死期が見えるようになった。そして、自分の死期も」
九條の説明は続く。氷室は自身の死期を変えようと、無理な実験を続けていたという。エターナル・プロジェクトは、そもそも彼女の提案だった。
「でも、それは上手くいかなかった。むしろ、副作用で体を蝕んでいった」
夜詩子は実験データを見つめ直す。確かに、ここには致命的な欠陥がある。生命の根幹に関わる部分で、予期せぬ反応が起きている。
「なぜ、止めなかったんですか?」
「止められなかった。彼女の執念は、私の制止が効かないほど強かった」
九條の表情が歪む。
「私にも、見えているんです。人々の死期が」
その告白に、夜詩子は言葉を失った。
「この能力を持つ者が、他にもいる可能性は?」
「わかりません。でも、これほど短期間に三人もの研究者が同じ能力に目覚めるのは、偶然とは思えない」
夜詩子は水槽のクラゲを見つめた。その青白い光が、真実を照らし出すかのようだ。
「この研究所で行われている実験が、何らかの影響を……」
「その可能性は考えられます。でも、それを証明する手段はない」
九條は窓際に立ち、夜空を見上げた。
「人は誰でも、自分の死を恐れる。でも、その時期を知ることは、もっと恐ろしい」
その言葉に、夜詩子は春瀬のことを思い出した。彼は死期を知って、どんな日々を過ごしているのだろう。
「私は、この研究を中止するつもりです」
九條の声が、静かに響く。
「不老不死の追究は、人類の驕りでした。私たちは、もっと大切なものを見失っていた」
その時、夜詩子のスマートフォンが鳴った。病院からだ。氷室の容態が急変したという。
夜詩子は、氷室の頭上に浮かんでいた日付を思い出す。12月24日のはずが、なぜ今――。
「死期は、変えられる……」
夜詩子は呟いた。でも、それは望ましい形ではなかった。むしろ、逆効果だった。
研究所の廊下を駆ける足音が、虚しく響いた。外では、梅雨の雨が静かに降り続いていた。
◆第4章:『生命の共鳴』
病院の廊下は、深い静寂に包まれていた。夜詩子は集中治療室の前で足を止める。ガラス越しに見える氷室の姿は、見る影もないほど老化していた。。
医師の説明では、全身の細胞が急速に劣化しているという。まるで、圧縮された時間の中で老化が進んでいるかのように。
「先生」
背後から、春瀬の声が聞こえた。
「どうして、ここに?」
「氷室先生のことは、研究所中に広まっています」
春瀬の頭上の数字が、蛍光灯に照らされてちらついて見える。あと三日。
「春瀬くん、婚約者の方には会えた?」
「はい。昨日、会ってきました」
春瀬の声は、不思議なほど穏やかだった。
「何も話せませんでしたけど、ただ、一緒に公園のベンチに座って、夕日を見ました。それだけで、幸せでした」
夜詩子は胸が締め付けられる思いだった。
「知っていますか? 人は誰でも、いつか必ず死ぬ。でも、そのことを意識せずに生きている。それは、ある意味で幸せなことかもしれない」
春瀬は窓の外を見つめながら続けた。
「でも、自分の死期を知ったことで、僕は気づいたんです。一瞬一瞬が、こんなにも愛おしいものだったんだって」
その時、監視モニターのアラームが鳴り響いた。氷室の容態が急変したのだ。医師と看護師が駆け込んでいく。
夜詩子は、氷室の頭上を見た。数字が、揺らめきながら変化している。まるで、砂時計の砂のように、刻々と零れ落ちていくように。
「先生、僕、研究所に戻ります」
「え?」
「残りの時間で、やれることをやりたいんです」
春瀬は軽く会釈をして去っていった。その背中は、不思議と凛としていた。
夜詩子は、氷室のデータが保管された研究所のサーバーにアクセスした。そこには、彼女の詳細な研究記録が残されていた。
『死期を知った者は、それを変えようとする。それは、人間の本質なのかもしれない。でも、それは正しいことなのか?』
氷室の残した言葉が、画面に浮かび上がる。
『私たちは、生きることの意味を取り違えていたのではないか』
夜詩子は、自分の研究ノートを開いた。そこには、生命の本質を追究しようとした彼女の必死の足跡が記されている。
「生命の本質は、その終わりにこそあるのかもしれない」
夜詩子は、研究所の最上階に向かった。もう、誰もいない実験室。水槽の中で、クラゲが静かに発光している。
目の前の視野には、クラゲの細胞が青白く光を放っている。通常、この発光は一定のリズムで明滅するはずだった。しかし今、その光は奇妙な変化を見せていた。まるで、何かに呼応するように。
「これは……」
夜詩子は急いで自分の血液サンプルを用意した。採血の痛みも気にならない。顕微鏡の倍率を最大まで上げ、注意深く観察する。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
彼女の血液中の細胞が、かすかに発光している。その波長は、クラゲの発する光と完全に一致していた。しかも、その明滅のパターンが――。
「時を刻んでいる?」
夜詩子は慌ててコンピュータを起動し、波形解析を開始した。画面には複雑な干渉パターンが表示される。クラゲの細胞と人間の細胞が、目に見えない次元で共鳴し合っているのだ。
彼女は立ち上がり、実験室の壁一面に貼られたデータを見つめた。そこには、エターナル・プロジェクトで収集された膨大な実験結果が並んでいる。
「なぜ気付かなかったんだろう」
夜詩子は赤ペンを手に取り、関連性のありそうなデータを線で結び始めた。
細胞の寿命制御メカニズム。
テロメアの長さの変化。
ミトコンドリアの活性パターン。
そして、量子もつれの可能性を示唆する奇妙なデータの数々。
それらは全て、一つの真実を指し示していた。
「生命は、共鳴している」
声に出した瞬間、背筋に電流が走った。
生命は決して独立して存在しているわけではない。全ての細胞が、目に見えないレベルで情報をやり取りしている。そして時として、その共鳴は意識レベルにまで達する。
夜詩子は自分の手のひらを見つめた。そこにも、かすかな光が宿っているように見えた。
「死期が見える」という現象は、この共鳴の一つの形なのだ。生命と死の境界線で起きる、未知の相互作用。それは、個々の細胞が持つ寿命の情報が、量子レベルで共有される現象だったのかもしれない。
水槽のクラゲが、いつもより強く発光する。まるで、夜詩子の発見を祝福するかのように。
「氷室さんも、これに気付いていた?」
机の上に残された氷室の研究ノートを開く。その最後のページには、かすかな光の写真が貼られていた。そして、欄外には小さな走り書き。
『私たちは、決して一人じゃない』
夜詩子は深いため息をついた。今まで「死の宣告」だと思っていた能力は、実は生命の神秘的な繋がりを示す証だったのだ。
窓の外では、夜明けが近づいていた。東の空が、わずかに明るさを帯び始めている。
夜詩子は顕微鏡を覗き直した。細胞たちは今も静かに光を放ち、互いに呼応し合っている。その光は、生命の持つ本来の可能性を示すシグナルなのかもしれない。
「これが、私たちの本当の姿」
その言葉は、静寂の中でゆっくりと響いた。まるで、全ての細胞が共鳴するように。
窓の外では、夕暮れの空が赤く染まっていた。そこに、一筋の光が差し込む。
夜詩子は、自分の手のひらに浮かぶ青白い光を見つめた。まるで、クラゲの光のように。
◆第5章:『星屑のレゾナンス』
七月一日の朝は、どこまでも青い空が広がっていた。
夜詩子は研究所に向かう途中、立ち止まった。通りを行き交う人々の頭上に、いつものように数字が浮かんでいる。でも今は、それを見ても胸が締め付けられることはない。
春瀬の机に、一輪の白いユリが飾られていた。昨夜、彼は全ての研究データを整理し、詳細な引継ぎ資料を作成して帰っていった。
「お疲れさま」
夜詩子は小さく呟いた。机の上のユリが、朝日に照らされて輝いている。
◆
七月一日、午前十時十五分。
研究所に併設された病院の待合室で夜詩子はただ茫然と佇んでいた。三日前、春瀬は急性骨髄性白血病と診断された。異常に急速な進行で、そのスピードは医師たちも困惑を隠せないほどだった。
夜詩子には分かっていた。これが、春瀬の定められた死の形なのだと。
「先生」
病室から看護師が出てきた。
「お呼びです」
白を基調とした病室に入ると、春瀬は窓際のベッドで穏やかな表情を浮かべていた。点滴の針が刺さった腕で、手帳を持っている。
「先生、これを」
差し出された手帳には、びっしりと研究メモが記されていた。
「最後まで、研究者でいたかったんです」
春瀬の声は弱々しかったが、その目は澄んでいた。
「僕ね、先生に死期を告げられてから、毎日記録をつけていたんです。自分の体の変化、心の変化、全てを」
夜詩子は手帳を受け取った。
「なぜ?」
「先生の研究の役に立つかもしれないと思って。死にゆく人間の記録として」
春瀬は少し咳き込んだ。夜詩子がそっと、彼の背中をさする。
「それに、もう一つ理由があるんです」
春瀬はゆっくりと続けた。
「死期を知ることで、僕は人生で初めて、本当の意味で『生きている』と実感できました。残された時間の一瞬一瞬が、こんなにも鮮やかで……」
病室の窓から差し込む光が、春瀬の横顔を優しく照らしている。
「美咲さんにプロポーズしたとき、こう言われたんです。『私たちの未来は、きっと素敵なものになるわ』って」
春瀬の目に、涙が光る。
「その未来は、こんなに短いものだとは知らなかった。でも不思議と、それでも幸せだったんです」
時計の針が、正午に近づいていた。
「先生」
「ええ」
「人は、なぜ生まれて、なぜ死ぬのか。その答えは、きっと見つからないのかもしれない。でも」
春瀬は窓の外を見つめた。そこには、夏の青空が広がっていた。
「その問いを持ち続けること自体に、意味があるんじゃないでしょうか」
それが、春瀬の最後の言葉となった。
時計は十二時を指していた。窓辺では、一羽の白い鳥が羽ばたいていった。
夜詩子は、春瀬の頭上から消えていく数字を見つめていた。その瞬間、不思議な光が部屋中を満たしたような気がした。まるで、無数の生命が共鳴するように。
春瀬アキラは、二十六歳の生涯を、そこで静かに閉じた。彼の手帳には、最後のページまでびっしりと観察記録が記されていた。そして、その末尾には、たった一行こうあった。
『生きているということは、それだけで奇跡なのかもしれない』
◆
エターナル・プロジェクトは、正式に終了が宣言された。氷室の死後、研究所は大きく方針を転換した。不老不死の追求ではなく、生命の神秘を理解することへと。
「葉山先生」
九條が声をかけてきた。
「新しいプロジェクトの件です」
九條が差し出した書類には、「生命共鳴現象の研究」という文字が踊っていた。
「私たちの能力、あれは生命が持つ本来の可能性だったんです」
夜詩子の発見により、全ての謎が解き明かされつつあった。生命は、目に見えないレベルで互いに共鳴し、影響を及ぼし合っている。そして時として、その共鳴は意識レベルにまで達する。
「死期が見える、というのは、その現象の一つの形なんですね」
九條の言葉に、夜詩子は静かに頷いた。
「でも、まだ分からないことも多い。これからも研究を続けていきましょう」
その午後、夜詩子は研究所の屋上に上がった。東京の街並みが、陽炎の中でゆらめいている。
ポケットから、一通の手紙を取り出す。春瀬からの手紙だ。
『先生へ
死期を知ったことは、僕にとって祝福でした。限られた時間の中で、本当に大切なものに気づくことができました。先生には感謝してもしきれません。
人は誰でも、いつか必ず死にます。でも、それは決して悲しいことではないのかもしれません。むしろ、だからこそ、一瞬一瞬が輝いているのだと思います。
ありがとう。そして、さようなら』
夜詩子は、手紙を胸に抱きしめた。目に涙が浮かぶ。でも、それは悲しみの涙ではなかった。
水槽のクラゲは、今も静かに光を放っている。その光は、生命の神秘を物語るように、儚くも美しい。
夜詩子は、自分の手のひらを見つめた。そこにも、かすかな光が宿っている。もう、自分の死期を知ることは怖くない。
「生きているということは、死に向かって歩いているということ。でも、それは同時に、かけがえのない時間を重ねているということでもある」
夕暮れの空に、最初の星が瞬きはじめていた。
人は誰でも、星屑のように儚い存在なのかもしれない。でも、だからこそ美しく、そしてかけがえのない。
夜詩子は空を見上げた。そこには、まだ数字は見えていない。でも、それはもう彼女を不安にさせなかった。
これから先、どれだけの時間が残されているかは分からない。でも、それは誰もが同じこと。大切なのは、その時間をどう生きるか。
研究所の窓に夕日が差し込み、水槽のクラゲが金色に輝いた。まるで、新しい夜明けを予感させるように。
(了)
【SF短編小説】終焉と夜明けのレゾナンス ―生命標本の蒼い光ー(約9,600字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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