麦茶はだれが置いたんだ?
脱力系人間
麦茶を置いたのはだれ?
夏休み前日、つまり終業式。空調が切られて外の暑さが侵食してきた放課後の教室の私の席の上に、それはあった。麦茶だ。じんわりと汗をかいた麦茶はどうしてか机の上で妙な存在感を放って鎮座している。 喉が渇いていた私にとってこの麦茶は輝かしい存在に思えたのだけれど、はて、誰が置いたんだ? 私は頭を唸らせる。だれが買って、だれが私の席に置いたのか、この麦茶はだれかが買ってくれたとして私のために置いてくれたものなのか。はたまた、だれかが間違って私の席に置いたものなのか。うーーーーん、分からない!
第一として、私は買った覚えがない。万が一にも、私が一時的な記憶喪失で麦茶を買ったことを忘れていたまま教室に戻ってきたという可能性はなくはない。私は鳥頭である。自分の記憶力はそこら辺の石ころのようなものだと自負している。一生懸命考えていると前に考えてたことは抜けていく。これぞ負のスパイラル。……言ってみたかっただけである。
とはいえ、この麦茶はペットボトルが汗をかいているけれども、買ってからそこまでの時間が経過しているようには見えないのだ。その証拠にペットボトルの底にまで水滴が流れておらず、机に円形の痕もついていない。おそらく、置かれてから十分経っていないくらい、だと思う。教室暑いし。だから、私が麦茶を買ったのにおバカなことに忘れていたという線は消える。
しかし、ここで問題が出てくるのだ。誠に残念ながら、私がどのくらい教室を離れていたのかを思い出せない。時計をじろりと睨みつける。現在の時刻は午後六時三十二分。ホームルームを終えて、いざ夏休み突入だとマイちゃんたちと騒いでいたのが午後四時二十分。それからなんと大変素晴らしいことに夏休みの宿題を放課後の教室で取り組んでいたのが……あれ、何時だっけ?
マイちゃんやムギちゃんが「部活があるから」と教室を去って、それから私は二人の部活が終わるまで勉強して待っていようと健気にも机に向かっていた。そして、数分経たないうちに飽きて校内徘徊に勤しむことにしたのだ。断じて、数学が嫌だったからではない。断じて。
確か、教室を出てからは廊下が暑かったので窓を全開にして、校庭を走る運動部を眺め、職員室に向かった。目的は悪しき数学の先生である。己に分からない問題を出題した暴虐な数学の教科担任に直訴し、ついでに教えてもらおうという算段であった。
そう。そうして、勤勉かつ品行方正でまじめな私は無事先生と問題分からないヨ問答を終えて教室へ戻ろうとした。が、声をかけてくる人間がいたんだった。クラスの吉田である。こいつは高校生にしては好きな女の子にちょっかいをかけてしまうようなシャイな面がある不器用ボーイなのだが、時折恋バナに乗っているうぃんうぃんな関係である。夏休みに好きな子と会う約束をしたくてあの手この手で誘ってやっと頷いてくれたという報告を聞かせてくれた。おかげで私の気分は跳ね上がりそれまでに先生に教えてもらった数学の知識は吹っ飛んでいった。吉田のせいである。
吉田のきゃっきゃうふふな恋愛事情に一緒に喜んだあと、教室に一度教科書を置いて、飲み物を買いに行った。時計を見ていないから時間は覚えていない。けれど、その時点では私の机の上には何も置かれていなかった、はず。
自販機は私の一年五組の教室からは少し離れていて、一階に降りて渡り廊下を進んでやっとたどり着く。自販機自体は近くにだってあるけど、お目当ての飲み物はそこにしかなかった。レモンスカッシュである。なんとなく飲みたくなって、でも、レモンスカッシュは一階の渡り廊下先の自販機にしか置いていないので意気揚々と向かって買ったのだ。
冷たいレモンスカッシュを片手に足の速度を落として歩いた。一階の渡り廊下は校庭側の窓が全開で、反対側は半分くらいだけ空いていた。半分だけ空いていたのを思いきり横にスライドさせると、風が吹き抜けて涼やかな空気が入ってきた。「ネネ!」私の名前を誰かが呼ぶ。振り返ってみると案の定、校庭から少し走ってきたムギちゃんがいた。
ムギちゃんは陸上部に所属していて、毎日のように炎天下の中汗だくになりながら走っている。部活動に一生懸命なのが眩しいなと思いつつ、「部活おつかれさま!」と声をかけた。軽く声をかけてムギちゃんはすぐに去るかと思いきや、私の手にあったレモンスカッシュを目ざとく見つけて、笑った。
「レモンスカッシュ美味しいよね。大好き」
「うん」
「自分の名前と同じ漢字入ってるとなんか複雑な気持ちにならない?」
「たしかに私の漢字はレモンの『檸』って入ってるけどそのくらいじゃあならないです~」
ムギちゃんだって自分の名前に『麦』が入っているのにからかってくるのだ。それに膨れて見せるとムギちゃんは大抵面白そうにくつくつと笑った。誠に遺憾なり。あとで覚えとけ。
「吉田がね、マイちゃんと遊ぶ約束取り付けたんだって」
「え! マイと約束できたの!?」
「びっくりだよね」
思いがけない驚きを提供されたムギちゃんは一気に熱気を帯びて暑くなったのか体操服で汗をぬぐってパタパタと手で顔を仰ぐ。その様子を見て、出来心、というわけではないのだけれどなんとなく、 「ムギちゃん、のど渇いてない?」と聞いたのだった。
ムギちゃんに部活の応援をして別れたあと、しばらく校内をぶらぶらして図書室で涼んだり、マイちゃんの部活動を見学したりして、時間の経過を感じながら教室に戻ると、麦茶のお出ましである。
こうして今に至るわけなのだが、謎である。この麦茶、私が飲んでいいのかな。私に麦茶をくれそうな人を思い浮かべる。マイちゃん、ムギちゃん、それか勉強のご褒美に先生? 大穴で恋バナを聞いた吉田かな。でも、吉田はマイちゃんにしかこういうことしたくないって言いそう。
最終的に、まあ麦茶だし仮に私宛じゃなかったとしても買いなおして渡そうか、と考えることを放棄して、ペットボトルの蓋を開けた。
なにより、喉が渇いていたので水分が欲しかった。男女の話し声がする。だんだん一年五組の教室に近づいてきて、とうとう正体が分かるのかと身構えてみた。けれど、教室に顔を出したのは見慣れた二人だった。
「おまたせー! ネネ帰ろっ」
「部活少し長くなっちゃて、ごめん」
「ううん、部活おつかれさま」
ひとまず、マイちゃんとムギちゃんに免じて麦茶を置いたのはだれだ問題はこれにて閉幕しよう。そうして、私は鞄をもって二人のもとへ駆け寄った。
麦茶はだれが置いたんだ? 脱力系人間 @Clover5294
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