はくちょうと海と僕らの夏

雨虹みかん

はくちょうと海と僕らの夏

 見えない。

 最後くらいは姿を現してくれてもいいのに、星のやつめ。

 夏の大三角くらいしか知らないけれど。ベガ、アルタイル、あともう一つは忘れた。高校受験で詰め込んだ理科の知識はきれいさっぱりいなくなったから。高校三年間で地学の授業を取らなかったんだからそれも仕方のないことだろう。

 まあ、星が見えなくたって構わない、

 ビルの明るさで星が瞬かない夜の仙台駅前が僕の好きな場所だったから。

 今日は夏休み最終日。

 ペデストリアンデッキから下を見下ろすと、地面と自分との距離が長いような短いような、不思議な気持ちになった。えい、と飛び込んだら痛いだろうか。案外水の中に飛び込むときのように痛くないかもしれない。そのまま泳げたらいいのに。飛び込んで、僕は魚になる。魚は水の中で呼吸ができるから、地上で息苦しさを抱いている僕に海で暮らすのは向いているかもしれない。

 でも僕は知っている。僕は人間だから魚にはなれないことも、ペデストリアンデッキの下が海ではないことも。

 ぼーっと手すりに寄りかかっていると酔っ払いと肩がぶつかった。よろよろとふらつき足元が不安定になる。僕はこのまま歩けなくなって、尾ひれが生えて、きっと魚になるのだろう。そして夜の街を泳ぐのだ。

 明日が来る気がしない。明日を生きている自分を想像できない。

 だからきっと、僕の世界は今夜で終末を迎える。

 ペデストリアンデッキの下にあるものは海ではなく終末であることを僕は知っている。


 理由のない憂鬱が僕に襲いかかる。死にたいわけではないんだと思う。ただ、明日を生きる僕を想像できないだけ。だからといって世界を終わらせる僕も想像できない。「これから」を想像するのに疲れた僕は、アーケード街に向かう。

 たどり着いたのは、午後九時のゲームセンター前。店の入り口には小型のクレーンゲームが大量に並んでいる。流行りのキャラクターにも、昔好きだったキャラクターにも心がときめかないまま僕は店の中に入った。店の中には小型のクレーンゲームだけでなく、大型のクレーンゲームも多く並んでいた。ガラスの向こうには大きなぬいぐるみたちが寝転んでいる。その数多くの機械の中に一つだけ、僕の心を惹きつけたものがあった。それは大きなアヒルのぬいぐるみだった。

 このアヒルがなぜ僕の心を惹きつけたのかは分からない。可愛いかどうかもわからない。アヒルの表情はとぼけているように見える。アヒルはきっと自分がガラスケースの中に閉じ込められていることに気付いていないのだろう。だったら僕が助けてやる。僕の世界が終わる前に、このアヒルの命を救おう。そうすれば僕は何も後悔することなく終末を迎えられるはずだ。

 財布から百円玉を一枚出し、クレーンゲームの機械に入れると明るい音楽が流れ始めた。

 アヒルの胴体をアームで掴むがアームの力は弱くすぐに落ちてしまう。今度はアヒルの小さな頭を掴んでみるが、また落ちる。落ちる。落ちる。気が付けば僕は何も考えずに両替機とアヒルの前を往復していた。

 絶対にこのアヒルを助けなければいけない。アヒルを助けなければ。

 千円、三千円、五千円。五回目の両替をして百円玉を使い切ると、僕は一気に現実に戻された。

 さっきまで目が合っていたアヒルと目が合わない。アヒルは死んだような目でガラスケースの中で横たわっている。ただのぬいぐるみのアヒルにあん   

なにも執着していた自分が怖くなる。

 怖い。怖い。怖い。

 自分が自分でなくなるような感覚に襲われて、その場にしゃがみこむ。

 孤独な夜が僕を覆う。現実に戻されると、「明日」を意識させられるから苦しい。


 クレーンゲームの機械にもたれかかりながらしばらくうずくまっていると後ろから、

「これ、いります?」

と声をかけられた。

 ゆっくり顔を上げると、僕がさっきまで執着していた大きなアヒルのぬいぐるみを抱えた高校生くらいの女の子が立っていた。

「さっき私、取ったの」


 ショートヘアをしていて、やや大きめのTシャツにジャージのズボンを履いているその女の子は、自分のことを「リサ」と名乗った。僕の名前も聞いてきたから、「僕はミナトっていうんだ」と名前を教えた。

「ねえ、ミナトくんはどうしてここにいるの?」

「リサさんこそ」

「んー、私はいつもここにいるから」

「そうなの?」

「うん、夏休みだし」

「でももうすぐ終わるよね。僕の学校は今日で夏休み終わり」

 僕がそう口にしたとたん、リサさんは黙ってしまった。

 気まずい沈黙が流れる。

 僕はどうすればいいのか分からなくて俯いた。

 その瞬間、

「やあ」

とどこからか声がした。

 辺りをきょろきょろ見回していると、

「ここだよ、ここ!」

と大きな声がした。

 その声はリサさんが抱えたアヒルから聞こえた。

 まさか……とアヒルの口の部分に目を向けると、アヒルの口がぱくぱくと動いていてた。

「なんでぼくのなまえは聞かないの?」

 リサさんと僕は驚いて目を見合わせる。

「ぼくは、すぅっていうんだ」

 アヒル……いや、「すぅ」が僕らのことをにこにこと見上げている。

 しかし、すぅは突然困った顔をした。すると僕らを見上げてこう言った。

「リサちゃんとミナトくんにお願いがあります。ぼく、おうちに帰りたいんです」

「おうち?」

 リサさんがすぅを覗き込んだ。

「そうです。おうちです。でもぼく、おうちの場所をわすれちゃった」

 すぅがえーんえーん、と泣き始めた。

「僕たちと一緒に探そう」

 気が付けば僕はそんな言葉を発していた。

「ありがとうございます!

 リサさんとすぅと僕はアーケードの中を歩き、広瀬通駅の方まで歩くことにした。


「ねえ、すぅのおうちってどんなところ?」

 リサさんがすぅを抱きかかえながらそう言うと、すぅは口をぱくぱくと動かして言った。

「海みたいなところです」

 海。

 僕はペデストリアンデッキの下のコンクリートを思い出す。

 すぅは続けて話した。

「いつもおうちから仙台駅を見ていました。ぼくのおうちがある場所は全国でも有名みたい」

「もしかして松島?」

「うーん、ちがう」

 すぅはしょんぼりと俯いた。

 

 僕たちは夜街を歩き続けた。夜のアーケード街は静かなような騒がしいような、不思議な光景だった。シャッターが降ろされた店の前に座り、アコースティックギターで弾き語りをしている若者とそれを見ている通行人。飲み会の帰りのような会社員たち。ここにいる人たちは明日何をするのだろう。

「ミナトくんは海に行ったことありますか?」

 すぅが、ぴょーんと僕の腕の中に飛び込んできた。

「海かあ。小さいころに行ったきり行ってないなあ」

「ぼくも行ったことない。ぼく、仙台駅って一面が海なんだと思っていたんだ。上から見ているとね、広くて海のように見えていた」

 僕はすぅの言葉を聞いて、再び終末について考え始めていた。

「海から遠いところに住んでいると、海に憧れを持つの分かるよ」

 リサさんが僕たちの方を見てそう言った。そして寂しそうな表情を浮かべた。

「海に潜ったら自由になれるのかなって思うときがある。特にこんな夜はね」

 僕はリサさんの寂しそうな表情に目が離せなくなった。


 広瀬通駅に着くと、突然すぅが泣き出してしまった。

「えーん、おうち見つからなかったよう」

「と、とりあえず、どこかお店に入ってゆっくり話そう」

 僕はそう提案した。

 そして僕たちは二十四時間営業のハンバーガーショップに入ると、四人席に僕とリサさんが向かい合って座り、すぅは僕の隣に座った。時刻は午後十時半を過ぎていた。隣のテーブルでは男女の大学生カップルのような二人が会話に花を咲かせていた。

 すぅはポテトを口いっぱいに頬張ると、さっき大泣きしていたのが嘘かのように泣き止んだ。

「これ、ポテトっていうんですね。とってもおいしいたべものだ」

「おいしいでしょ? ケチャップに付けるともっとおいしいんだよ」

 リサさんがすぅにケチャップが入った小さなプラスチックの容器を差し出した。

 すぅは不思議そうにケチャップを眺めた後、ポテトにケチャップを付けてぱくっと口に入れた。

「おいしー。ミナトくんもたべよーよ。ケッチャプおいしいよ」

「すぅ、ケッチャプじゃなくてケチャップだよー」

 すぅに正しい発音を教えると、すぅは「けっちゃぷ、けちゃっぷ、けちゃっぷ、けちゃっぷ」とぶつぶつ唱え始めた。

 その様子を見た隣の席のカップルが僕たちを見て驚いた顔をしている。

「ぬいぐるみがしゃべってる!?」

 彼女は前髪をかき上げていて、彼氏は前髪をセンター分けにしているため、二人の眉毛が上がったのがよく分かった。

 リサさんと一緒に事情を説明すると、カップルはにやりと目を合わせた。

「僕たちもね、不思議な体験をしたことがあるんだ」

「そうそう、中学一年生のときだったかな」

 彼女が懐かしそうに語り始めた。

「私は中学一年生の春、深夜二時に謎の遊園地にワープしたことがあったんだ。あの頃の私は学校が嫌いでね。前髪もながーくして目を隠してた。明日が来てほしくないって思っていた夜、遊園地にワープした私は今の彼氏と出会ったんだ。」

 すると彼氏もうんうんと頷き、口を開いた。

「明日っていうものは思っているほど怖くない。案外大丈夫なものなんだよ。まだ終電に間に合うよ。僕たちが駅まで送っていくから、帰ろう」

 二人は僕のことをお見通しのようだった。確かに、高校生がこんな夜遅くにハンバーガーショップにいたら心配するのも無理がない。

 リサさんと僕はお互いのことは何も話さなかった。分かるのはお互い高校三年生ということだけだった。どこの高校に通っているのかも分からないし、なぜこんな夜遅くにゲームセンターにいたのかも分からない。でも、あんな寂しそうな表情を浮かべたり、カップルの言葉を聞いて目に涙を浮かべて歯を食いしばっていたりしたリサさんを見て、リサさんも明日を怖がっているのかもしれないと思った。リサさんも自分の世界の終末を迎えようとしているかどうかは分からないけれど、リサさんの今日が今日で終わりになってほしくないと感じた。

「ぼくも帰りたいな」

 すぅがしょんぼりとした表情をして言った。

「すぅ……よしよし」

 リサさんがすぅを優しくなでた。

「あ、そうだ、このアヒルの名前すぅっていうんです」

 僕がカップルに説明すると、彼女が口を開いた。

「この子、アヒルじゃなくて白鳥じゃない?」

 僕とリサさんは「え!?」と顔を見合わせた。

 するとすぅがぱああっと笑顔を浮かべた。

「そうだ、ぼくはアヒルじゃなくてはくちょうでした」

 すぅは、わーいわーいと飛び跳ねて喜んだ。

「でも、おうちが分からない」

 そう悲しそうに呟くすぅに僕は優しく声をかける。

「すぅのおうち、分かったかも」

 僕は、星が見えない夜空を見上げてゆっくり呟く。

「ベガ、アルタイル、そしてデネブ。すぅのおうちはデネブにあるんじゃないか?」

 僕は忘れかけていた中学の理科の教科書の中身を思い出したのだ。

「ありがとうございます。思い出しました! ぼくのおうちははくちょう座のデネブってところにあります」


 カップルにペデストリアンデッキのある仙台駅前まで送ってもらい、カップルと別れるとすぅが立ち止まった。

「じゃあ、ぼくは帰ります」

 すぅはそう言うと、羽をぱたぱたと動かしてみせた。

「元気でね」

「さよなら!」

 僕は夜空に向かって手を大きく振った。

 リサさんも大きく手を振っていた。

 すぅは羽を大きく広げ、夜空の向こうに飛んで行った。

「私たちも、帰ろうか」

 リサさんがぽつりと呟いた。

「また来年も夏が来て、夏が終わる。再来年も。その度空を見上げようよ。すぅが私たちのこと、見てくれてるから」

 僕はなんだか胸がきゅーっとなり、ぽろぽろ涙をこぼしていた。

「じゃあ、元気でね」

 ありがとうを言う前に、リサさんは駅の中に走って行った。

 僕はしばらく星の瞬かない夜空を見上げた。

 もう、ペデストリアンデッキの下は見ない。

 帰ろう。

 家までの帰り道は暗いから、またすぅと会える。


 見えたよ。

 駅から家への帰り道に夜空を見上げるとそこには夏の大三角があった。

 リサさんとはきっともう会うことはない。

 平行線上にいる僕らはもう交わらない。

 いつかまたこの夏のように平行線が交わる日が来るのならば、それは僕らが終末を迎えるときだろう。

 少年少女は終末に。

 僕らは夏の終わりに明日を見つけた。

 何か特別なことをしたわけじゃない。冒険をしたわけじゃない。小説にしたら一万字にも満たないような一瞬の出来事だったけれど、今夜の出会いが僕の背中を押した。

 明日、学校が終わったら映画館に寄ってキャラメルポップコーンでも食べようか。

 秋を生きる、自分が見えた。


 それからのこと。

 僕は夏の終わりになると夜空を見上げて夏の大三角を探す。

 そして思い出すのだ。

 リサさんのこと、そして、すぅのことを。

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はくちょうと海と僕らの夏 雨虹みかん @iris_orange

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