戸惑いのフィッシュ・ザ・モーメント

たぬき85

戸惑いのフィッシュ・ザ・モーメント

「うちにもやらせて」


 金髪の女の子はそう言ってこちらに笑いかけた。

 マサトは一瞬の逡巡の後、自分の竿さおを女の子に差し出した。


★☆★☆★☆★


 マサトは最寄りのS駅から電車で三十分程のところにある自動車教習所に通っていた。その自動車教習所の近くに小さな池があるのを発見したのは、三日前だった。教習所のすぐ裏のT川の堤防を越えると、広大な河川敷の片隅に、取り残されたようにその池はあった。


 マサトはおびただしい数のススキとセイタカアワダチソウが立ったまま枯れている堤防を越えて、池のほとりに立った。十二月の空はどんよりとしていたが、空気は妙に生暖かかった。


 マサトはリュックサックに突き刺していた釣り竿を取り出した。二本を継ぎ合わせて一本にする。リールを取り付けて、糸の先にはミミズ型のルアーを結んだ。


 池の水は澄んでいた。上等なすまし汁のような透明感のある褐色の水だった。

 生き物の気配がまるで感じられないのは、季節によるものなのか、元来何も住んでいないからなのかは分からなかった。


 マサトはルアーを池に投じた。


 わざわざ実家に帰って道具を引っ張り出してきたのだから、何かしら生き物からの反応が欲しかった。


「釣りしてるん?」


 突然話しかけられたマサトは、驚きのあまり足を踏み外して池に滑り落ちそうになった。振り向くと、金髪の女の子が立っていた。オーバーサイズの革ジャンを着ているので体型はよく分からなかったが、背はすらっと高かった。興味津々といった顔でこちらを見ている。


「あ、ああ、ブラックバスでも釣れないかと思って」


 マサトが上ずった声で答えると、女の子は目をぱちくりさせた。


「うちにもやらせて」


 金髪の女の子はそう言ってこちらに笑いかけた。

 マサトは一瞬の逡巡の後、投げ込んでいたルアーを巻き取ると、手にしていた釣り竿を女の子に差し出した。

 女の子はさんきゅーと言って釣り竿を受け取った。そして、リールのフットを綺麗に指で挟んでそれを構えた。


「なんだ、経験者かよ」


 マサトが呟くと、


「え、うち釣りすんの人生初やで」


と女の子が反論した。


「ロッドの持ち方が“芸能人持ち”じゃなかったから経験者かと思った」


 “芸能人持ち”とは、テレビ番組の釣りロケなどで芸能人がよくやる釣り竿の持ち方だ。片手で釣り竿のグリップの先端を持って、片手でリールのハンドルを巻く。初めて釣り竿を握った人間がやりがちな、誤った持ち方だった。


「いや、フツーここ持つやろ。先っちょだけ握っても気持ち悪いやん?」


 女の子は苦笑しながら釣り竿をヒュンヒュンとしならせた。今、彼女がやっているようにリールのフットの部分を指で挟むように持つのが正しい持ち方なのだ。

 勘のいい人間というのは、誰かに何かを教えられるでもなく、その本質的な部分を理解するらしい。


 マサトが教えると、女の子はぎこちないながらもすぐにルアーを投げられるようになった。


「名前なんつーの」


 マサトが尋ねると、女の子は端的に、


聖里菜せりなちゃん19歳」


と名前と年齢を明かした。


「もしかして堤防の裏の教習所に通ってる?」


「そーやで」


「じゃあ何か芸能の仕事してるんだな」


 マサトが通っている自動車教習所は、都内に何箇所かある芸能人御用達の教習所の一つだった。


 芸能人向けの高額コースには、専用の送迎車があったり、専用の待合室があったりする。そうやって各人のプライバシーを守ってくれるのだ。規則で個人レッスンなどはできないらしいが、忙しい芸能人のために、その他の配慮は行き届いている。


 学科の教室ではテレビで見たことがある若いアイドルや歌手の姿をしょっちゅう見かけたし、そもそもマサト自身も芸能に従事する人間の端くれだった。


 聖里菜と名乗ったその女の子のルックスは、明らかに芸能人のそれだった。


「何の仕事してんの? アイドル?」


「そこんところはスィークレットや。もっと仲良うなったら教えてあげるわ。自分は?」


「俺は前田まえだ朝斗あさと。俺も教習所通ってんだ。ダンサーやってる」


 マサトは本名を名乗った。マサトは芸能事務所に籍を置くプロのダンサーだった。今年で19歳になる。


「ふうん。ガタイがええからプロレスラーの卵かなんかかと思ったわ」


「なんでだよ」


 聖里菜は悪戯っぽくケラケラと笑った。


 マサトはしばらく聖里菜が釣りをしている姿を後ろから見守った。ルアーを投げ込んで底まで沈めたら、リールをゆっくり巻いてズルズル引っ張れ。聖里菜はその指示を忠実に守っている。


 聖里菜はなあなあこれいつ釣れるん?と目をキラキラさせている。マサトは少し申し訳ない気持ちになりながら、冬だからそう簡単には釣れないと伝えた。聖里菜はそれでも楽しそうに釣り竿を振り続けた。


 マサトは聖里菜から、芸能人特有の「エゴ」を感じないことに気がついた。それは表現者なら誰もが持っているもので、どんな行動をしていてもその身体からほとばしるものだ――そんな風にマサトは思っていた。どんな場であっても自分が主役じゃなければ気がすまない。周囲にいる誰よりも自分を見てほしい。そんなオーラだ。

 聖里菜から漂うのは逆に、来る者を拒まないオープンな雰囲気だった。


 鉛色の空の下、黙々と釣りに打ち込んでいる聖里菜を見ていると、マサトの心は知らず知らずリラックスしていった。


「なあ、なんかヌンヌンすんねんけど」


 最初、聖里菜が何のことを言っているのかマサトには分からなかった。だが、釣り竿の先が大きく弧を描いているのを見て理解した。


「魚が食ってる! アワセて!」


「アワセってなんや!?」


「竿立ててリール巻いて!」


 軽い手応えで上がってきたのは、シャチホコのように魚体を仰け反らせた小さなブラックバスだった。


 普段はグリーンに近い体色が、白っぽい金色になっているのを見て、ああ、冬のブラックバスってこんな色だったよなとマサトは思い出していた。


「なあなあ、どこ持ったらええんやろ」


 聖里菜はしゃがみこんで足元の枯れ草の上で硬直しているブラックバスを見つめていた。


「口開けてるだろ。下顎したあごを指で摘んだら持ちやすいよ」


 マサトがハリを外してやると、聖里菜はおそるおそる獲物の顎を掴み、持ち上げた。おっかなびっくりな様子で顔の前までバスを持ってくると、まじまじとそれを観察した。思ったより綺麗やな、と聖里菜。


「これ、どーするん?」


「リリースだな。放してやってくれ」


 聖里菜はバスを池に戻した。硬直の解けたバスは、我に返ったようにゆっくりと深みに潜っていった。


「もう騙されたらあかんで。大きくなれよ。ばいばーい」


 聖里菜がバスに手を振る姿は、子供っぽくて可愛らしかった。


 その一尾で釣りに飽きたのか、聖里菜はマサトの後ろに座り込んで携帯を触り始めた。聖里菜から釣り竿を取り戻したマサトは釣りを再開した。人生で初めて竿を振った人間でも釣れたのだ。自分にもチャンスはあるはずだとマサトは意気込んだ。


 数分後にそれは来た。コン!と明確なアタリがマサトの手元に伝わった。竿を思い切りあおってアワセを入れると、グングンと魚が抵抗を開始した。


 その手応えでわかる。これは大物だ。


 糸と竿を通して、ブラックバスとの格闘が始まった。釣り竿が満月のように弧を描く。水中で身体をくねらせているそいつは、軽く50センチはありそうだった。


「え、え、え、なに。釣れてんの? 釣れてんの?」


 無言で魚とのファイトを始めたマサトの後ろで聖里菜が声を上げた。その声に応えるようにバスが水面を割ってジャンプした。


「うわ、でっか!」


 聖里菜が叫んだ。そして応援するように、マサトの背後にピタリと張り付いた。マサトはまいったなと思う。これは絶対に釣り上げなければならない。


 そして、そういう風にりきむとどうなるかは、経験者であるマサトはよく分かっていた。


 足元まで寄せてきたブラックバスは、最後にこちらに大きな口を見せて水面に上がってきた。聖里菜が歓声を上げる。


 次の瞬間、バスは大きく頭を振って、口の端に掛かっていたハリを弾き飛ばした。

 糸に掛かっていたテンションが緩み、曲がっていた竿がボヨンと余韻を残して元に戻った。


「あれ?」


 聖里菜はまだ何が起こったのかよくわかっていないようだった。


「逃げられた」


 マサトは肩をすくめてフッと息を吐いた。


「え、もしかしてうちが騒いだから?」


「関係ねーよ。よくあることだ」


 実際、こういった形で足元まで寄せた魚に逃げられるのはよくあることだった。原因は分かりきっている。聖里菜の前でいい格好しようとして、魚をいなすのに集中し切れなかったのだ。


 聖里菜はお詫びにこれあげるわと言って、革ジャンのポケットからブラックの缶コーヒーを取り出してマサトに手渡した。缶にはまだほんの少し温かみが残っていた。


「ワリィな」


 プルタブを起こすマサトの後ろで、聖里菜は枯れ草の上に腰を下ろした。池をじっと見つめている。


「ブラック飲めるんだな」


 あおった缶コーヒーは、いかにも缶コーヒーらしい味と香りだった。


「いや? うちコーヒーとか飲まれへんタイプやけど」


「じゃあ何で買ったんだよ」


「今日仮免試験があんねん。それで緊張し過ぎて普段買わへんの押してしもたんや。なあ、うちってこんなにビビリやったっけ」


「俺に言われても知らねぇよ。誰かアドバイスしてくれる奴とかいないのか?」


 聖里菜はマサトの言葉に答えずに、遠い目をして静まり返った水面を見ていた。そして、アドバイスなぁとひとちた。

 

「リリースした魚ってどうなるん?」


 唐突な質問だった。


「うーん、そりゃもっと成長するやつもいるし、釣られた時の傷が原因でそのまんま死んじまうやつもいるだろうな」


 本当のところはよくわからないが、マサトは思いついたことを話した。実際、生き残る魚もいれば死ぬ魚もいるだろう。


 聖里菜は口をつぐんでネコのように目を細めた。


 なんとなくキャッチ・アンド・リリースの偽善性を責められているような気分になったマサトは、何かに急き立てられるように口を開いた。


「ま、まあ、キャッチ・アンド・リリースなんて不純な行為だよ。ただ釣る魚がいなくなったら困るからやってるだけだし」


「――そうなんや」


「釣った魚を食べなきゃならないほど飢えてもないしな。釣りって遊びは魚がいなきゃ成り立たないから、リリースして全滅しないようにしてるだけだよ」


 キャッチ・アンド・リリースに何か深い意味や意義を持たせる釣り人も中にはいるが、マサトの中の理屈はそうだった。


「ふーん、ただドキドキだけ味わえたらええってこと? 傷つけといて?」


 聖里菜の声には明確に非難するようなニュアンスがあった。


「まあな」


 マサトは缶コーヒーを飲み干した。


 聖里菜は缶コーヒーが入っていたのとは逆のポケットからタバコを取り出して、ふかし始めた。吸い始めてから何年になるのかは分からないが、その姿はやけに様になっていた。マサトは何も言わずコーヒーの空き缶を灰皿としてすすめた。聖里菜は、持ってるからと携帯灰皿を取り出した。カラビナの付いた金属製の無骨なその携帯灰皿は、着ているブカブカの革ジャンと合わせて、背後にいる男の姿をマサトに連想させた。


 紫煙を空に向かって吐き出し、聖里菜が尋ねる。


「リリースするときってどういう気分なん?」


「さっき自分も言ってただろ。いっしょだよ」


 マサトは帰っていくバスに手を振る聖里菜の姿を思い出していた。


「もっと大きくなれって?」


 聖里菜の声にはどことなく皮肉な響きがあった。


「まあな、また釣れるかもしれないし」


 聖里菜は革ジャンの袖から両手を抜くと、それを頭からかぶった。突然の行動にマサトはギョッとする。顔を黒いレザーで覆った聖里菜はそのまま空を仰ぐ。


「リリースした魚、もう一回釣ったことある?」

 

「いや、俺はない。でも、釣ったことあるって言ってるやつは、たくさんいるよ」


 特徴のある魚体だった場合、二度目に釣ったときにも分かるらしい。何年も経ってから同じ魚を釣ったという話も聞いたことがあった。


 聖里菜は何も言わずにしばらく上を見ていた。あんな分厚い革ジャン越しに、空の何が見えるというのだろう。


 あるいは、何かがこぼれないように、上を向いているのか。


「それは――釣られる魚のほうがアホやな」


 辛うじて聞き取れるぐらいの音量だった。聖里菜の表情はマサトからは分からない。だがマサトは、その声色から、聖里菜が恋の巨大な落とし穴の真っ只中にいるのだろうなと思わずにはいられなかった。

 聖里菜をリリースした相手はきっと、革ジャンが似合って、飲んでる缶コーヒーはブラックで、そしてきっと運転も上手いヤツなのだろう。


 聖里菜は唐突に立ち上がると、かぶっていた革ジャンを丸めて勢いよく池に投げ込んだ。


「おい! 何やってんだよ!」


 革ジャンはまだ手の届く範囲に浮いていた。マサトは池に手を突っ込みそれを拾い上げる。水は刺すように冷たかった。マサトはずっしりと重い濡れた革ジャンを聖里菜に突き出した。

 予想に反して聖里菜は泣いてなどいなかった。聖里菜は唇を噛んでそれを受け取った。


「ごめんやって」


「……いいよ」


 聖里菜が革ジャンの下に着ていたのは、身体のラインが分かるほど薄手の黒いスウェットだった。冬にしては暖かい日だとは言え、見ているだけで寒々しい。聖里菜は革ジャンを振り回して水気を取るとそれを羽織った。


「いや、絶対さみーだろ」


 聖里菜はマサトの言葉を無視して携帯を取り出すと、時間やと呟いた。


「そっか、がんばれよ聖里菜」


「朝斗もな」


 互いに名前を呼ぶと、なんとなく仲良くなったような気分になった。どちらともなく苦笑する。聖里菜は俯いてため息を一つ吐くと、マサトに向き直った。


「また釣りに来てもええ?」


 聖里菜がマサトの目を覗き込んでいた。


「いいよ、俺はいつもここにいるから」


 とっさについた嘘だった。マサトが池に来たのは今日が初日だったし、釣りをしにここに通うつもりも、一秒前までなかったのだ。


 こうやってデタラメでもいいから口にして、聖里菜との繋がりを保っておきたかった。


「おっけー。ほな、また来るわ。次はあの逃げられたやつ、釣らなあかんな」


 聖里菜は満足そうに笑うと、ぴっと指で風を切るように挨拶をして、踵を返した。マサトは跳ねるように堤防を上がっていく聖里菜の後ろ姿を見送った。


 連絡先を聞いておけばよかったなと思ったが、同じ教習所に通っているならまた会うだろうと自分を納得させた。

 

 しかし、それから何日池で釣りをしても、マサトが聖里菜と再会することはなかった。教習の最終日、暗くなるまで池で竿を振っていたマサトの鼻先に冷たいものが落ちてきた。暗闇の中、音もなく降ってきたそれは、その年の初雪だった。


★☆★☆★☆★


「で、その聖里菜が、伝説のAV女優、星野里菜だったってことっすか?」


 話を聞いていたススムが目を丸くした。ススムはマサトと同じ事務所に所属する後輩だった。しょうもない昔話にも付き合ってくれる気の良い奴だ。


 マサトとススムはダンス練習の合間に、スタジオの床に座り込んで休憩しているところだった。


「そーゆーこと。気づいたのは何年も経ってからだったけどな」


 星野里菜は伝説のAV女優だった。


 気鋭の子役が高校中退して18歳でAVデビュー。それだけでも話題性たっぷりだが、里菜はそこから僅か一年で数百本のAVに出演し、そのまま流星のようにAV業界から姿を消した。その若さと美貌、日本人離れしたスタイルは、引退から十年近くになる今でも成年雑誌で特集が組まれる程の人気だった。


 マサトと聖里菜が出会った時期は、ちょうど彼女が引退する前の活動休止期間だった。

 

 池のほとりで過ごしたのは僅かな時間だったが、その時の自然体な聖里菜の姿と、ビデオの中で男と交わりながら嬌声を上げる里菜の姿はあまりにも違っていた。偶然見た動画に彼女の姿を認めたときも、最初は半信半疑だった。


 正直、今見てもピンとこないとマサトは思っている。

 そして、あの池での出来事は、夢だったのではないかとも。


 当時の聖里菜は既に何百人もの男と撮影中に身体を重ねていた筈だ。当たり前の話だが、見た目にはそんな風にはまったく見えなかった。マサトの目に映った聖里菜は、失恋の傷心に陥った一人の女の子でしかなかった。


 聖里菜はいったい今頃何をしているのだろうか。革ジャンの主とはヨリを戻せたのだろうか。今はもう27歳になっている筈だ。


「いや、マサトくん。逃がした魚はデカいっすね。せめて連絡先聞いておけばよかったのに」


 ススムがカラッと笑う。こういう話をする時に下品にならないのが、この後輩のいいところだった。

 マサトはスタジオの天井を見上げた。何があるという訳でもない。それでも見上げたくなる時があるというだけのことだった。

 革ジャンを被って空を見上げていた聖里菜の姿を思い出す。


「そーだな。でも、逃がした魚ほど、案外ずっと覚えてるもんなんだぜ?」



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