第4話

 奉行所を出られたのは、それから四日後のことだった。

 金吉、女房殺しの下手人と目されていたらしい。向こうからすると、丙吾はまんまと現れた、ということになる。現場で顔をぐしゃぐしゃにして泣いていたことは、まったく考慮されなかった。

 奉行所では拷問を受けた。心が弱っているところへの肉体の苦痛は耐えがたいものだった。事実、丙吾は自分がやったと何度も言おうとした。苦痛から逃れたいだけではない。かつての女房が殺されて、心の中に張っていた糸が切れてしまったのだ。復縁できるなんてずうずうしいことを考えてはいなかったが、金吉含めて見返してやろうとどこかで思っていた。

 気力を失いすぎた。

 拷問を受ければ気絶、目を覚ませば自分を取り戻すのに精一杯。喋れるころには再び拷問の苦痛で気絶。拷問をする同心の腕が悪いにもほどがあった。もしくは、丙吾という男を見誤っていたのか。同心は彼のことを知っているようだったから、かつての様子から拷問の程度を決めていたのかもしれない。

 少なくとも死から免れるという目的では、すべてが丙吾に味方した。最後の最後、拷問に飽いた同心は「やったなら、ただ首を縦に振ればよい」とさえ言い、丙吾もそれに従おうとした。しかしそのとき、今まで一度たりとも顔を見せたことがなかった大柳新八郎が現れた。

「放免だ。押し込みのころに、こいつのおおいびきを聞いているやつが山ほどいた。そろそろ長屋から追い出されるそうだ」

 それだけ告げると、すっと消えてしまった。拷問していた同心は舌打ちをしたが、手荒ながらも丙吾を解放した。

 丙吾は奉行所を出てすぐ、近くの川に飛び込んだ。身投げではなく、ただ頭を冷やすために。だが誤解した複数の人間によって助け出され、しばらく説教をされた上に、食事をおごってもらった。蕎麦だ。

 幸いなことに、それでようやく頭が動いた。

 自分の長屋には戻らず、まっすぐおてつのところへ向かう。そして、何も言わずに障子を開けた。

「なんだい!」

 化粧をしないおてつが身構えていた。そばには、床に臥せっている鹿蔵がいる。天井を見上げ目を閉じていた。顔は血の痕とあざで黒くなっている。丙吾の想像よりも、事態ははるかに悪い方向に進んでいたようだ。

「あんた、急になにさ」

 丙吾だとわかったおてつは、声を落ち着かせる。その様子を見て、丙吾は確信した。

「天鼠の正体は最初からわかってたんだな」

 鹿蔵が目を開け、起き上がろうとするが……できなかった。せめて肘をついて、顔だけは起こした。布団からはみ出た胸のあたりに包帯がまかれ、まだ血がにじんでいる。

「俺たちには、なんのことだかさっぱりだ」

「安心しろ。俺も身内をあいつらに殺された手合いだ」

「天鼠は三か月前に打ち首になった」

 鹿蔵にあわせて、おてつもうなずく。

「鹿蔵、俺は問答をしに来たんじゃねえ。三か月前にやりかけたことをやりに来ただけだ」

「なんだよ、それ」

「俺が時間を稼いでやるから、おまえらは故郷に帰れ。今すぐ。ぐずぐずしてる暇がねえのは、おまえらもわかってんだろ」

 鹿蔵とおてつはお互いの顔を見てじっと黙っている。丙吾にしてみれば、そんな時間も惜しいというのに。

「鹿蔵、おまえが用心棒をしていた旗本連中が、天鼠なんだな」

 二人が丙吾を見た。丙吾にしてみれば半ば勘であったが、ここで真実になった。すると、他のことにも合点がいく。

「おてつは襲われたときに天鼠の顔を見たんだな。いや、それだけじゃねえ。そこから自分で正体を探り出したんだ。……ああ、二人で、か。お上の手を借りずに恨みを晴らそうって腹か。でなきゃ、こんなに都合よく天鼠の近くにいやしねえわな。とにかく、鹿蔵は仇を討つために近づいた。旗本連中は、こんな岩みたいなやつがまさかそんな複雑なことを考えているなんて思いやしなかったのか、なぜか近くで機会をうかがえた。いやいや、違うな。旗本たちは、おまえじゃなくて、お上の追跡のほうを気にしていた。自分たちよりも目立って腕の立つ用心棒が欲しかったのも、そのためか。押し込みをやればやるほど足がつきやすくなる。しかし、てっとりばやく金が稼げるからやめられもしない。とはいえ、続けていればいつかは足がつく。だから、身代わりを用意した。それが、打ち首になった三人だな」

 鹿蔵がため息をついた。

「旗本とつるんでいた馬鹿だよ。こういうときのために、連中は自分たちが天鼠なのを黙って金をばらまきながら、一緒になって騒がせていたんだ」

 だが、それだけでは身代わりになるまい。おそらく、知らないと本当のことをわめいたはずだ。丙吾は唇を噛む。それがどうだというのだ? それこそ、罪から逃れる嘘としか思えない。

 旗本が金を出してくれたと告げたとして、誰が聞く耳を持つのだろうか。なにしろ、江戸中の人間が天鼠が捕まることを求めていたのだから。

 極端な話、そうなってくれるのであれば、本物である必要はない。たとえ処断されたのが偽物だったとしても、本物もしばらくはおとなしくしているはず。目先のことを考えるのなら、悪くない処置だ。

 だから、口を割るまできつく拷問する。

 どこかの阿保がそう考えたのかもしれない。丙吾は、かつては自分もその阿保の一人であろうことに気づき、胸糞が悪くなった。しかも、今も阿保は阿保で、単に十手を持っていないからその阿保が表に出ていないだけだった。

 しかも、嫌なことに思い至った。

「金吉は気づいたんだな。自分たちが捕まえたやつらが、天鼠の身代わりだってことに」

 鹿蔵はうなずく。

「いい目明しだった。だが、よすぎた。旗本たちにも動きが見えて、先回りされた。同じ時期に、連中がまだおてつを探していることを、俺は知った。向こうも正体がばれたのをわかっていたんだ。身代わりを用意しても、おてつがいる以上は、いつまで経っても不安でしょうがねえみたいだ。何をしていても荒れるようになったよ」

「多少は予想はしていたんだろ? だから、おてつが昼間は白粉をして、花魁の時代が忘れられない年増になった。そして、おまえと馬鹿なやり取りをする。本来、これだけの別嬪の頬にでかい傷があれば、どこに隠れていようとも噂にならねえはずがねえ。噂になれば、天鼠のやつらの耳に入るのも時間の問題だ。だから、もっとくだらねえことで噂を上書きしようとしたってえ寸法だな」

「いや」と、鹿蔵がうつむいて頭をかいた。「白粉はそうだが、あのやり取りは……ちげえ。あれは、その……なあ、うん。俺は昔から、まあ……」

 よく見れば顔が赤くなっている。ついでにおてつも同じだった。あのままごとは、本来の目的から逸れた、くだらない照れ隠しだったわけだ。

 丙吾は今までのことが全部馬鹿らしくなって、土間に唾を吐いた。「あっ」と鹿蔵とおてつが仲良く声をあげる。だが、そんなものは無視だ。

「とにかく、おまえは天鼠とやりあって負けた。それが今、この状況だな。死なずに済んだのはめでたいが、やつらはおまえを生かしておくまい。おてつとのつながりも気づくかもな」

 鹿蔵とおてつは急に現実に戻ってきて、顔を強張らせた。

「この人だけでも、どうにか――」

「俺のことはいい。おまえは身を隠せ――」

 また自分が蚊帳の外に置かれたやり取りが始まりそうだったので、丙吾は土間の砂をつかんで二人に投げつけた。

「なにすんだ!」

「本当だよ、あんた何考えてんのさ!」

「それは俺のせりふだよ!」怒鳴る二人を上回る大声で丙吾が返す。「いいか? 天鼠はここに来る。正体がばれないように、おそらく夜だ。見ろよ、もう夕方だ。へへ、これからすぐの話だな。俺がここで天鼠を待つ。おまえらはとっとと故郷へ帰れ。鹿蔵、俺はおまえの叔父さんとやらと、くだらねえ約束をしちまった。だが、約束は約束だ。守れなけりゃ、男がすたる。約束のためなら、おまえたちを首だけにしてでも故郷に帰すからな……って、くそっ」

 ここまで言ったのに、よく見れば鹿蔵とおてつは互いの手を絡ませて見つめ合っていた。丙吾の言葉をどこまで聞いていたのか。

 丙吾の我慢も限界だった。草鞋のまま部屋にあがり、まずは弱っている鹿蔵を蹴りつけた。

「なにしやがんだ!」

 声はでかいが、怪我をしているため力は弱かった。おてつは、そんな鹿蔵の姿に戸惑っているようで、彼を助けるか丙吾に立ち向かうか決めかねている。丙吾は鹿蔵を蹴り飛ばして壁まで追い詰めた。

「出てけ、江戸から! とっとと出ていけよ! おらおらおら!」

「ちょっと待って、なんなんだい、あんたは!」

 さすがにおてつも顔色を変えて、鹿蔵に覆いかぶさる。だが、丙吾は一顧だにせず、おてつごと鹿蔵を蹴り続ける。

 さすがに手負いの鹿蔵に耐える力はなく、丙吾の足を避けようと壁伝いに少しずつ移動し……おてつと一緒に土間に落ちた。「ぐっ」とどちらかがうめく。それでも丙吾は二人の身体が盛大な音を立てて障子を倒し、そのまま外に出るまで、蹴るのをやめなかった。

 夕暮れの赤い日差しで赤く染まった鹿蔵が、おてつの肩を借りてゆっくりとだが立ち上がる。

「……丙吾。おまえは、昔からくずだった。俺のあやまちは、前に会ったときにおまえにとどめをささなかったことだ」

 苦々しさが多分に含まれた声に、丙吾はようやく溜飲が下がった。

「最低だよ、あんた」

丙吾に向けられたおてつの目が、縦に見るほど吊り上がっていた。

 丙吾は笑って肩をすくめる。そして、わざと少し時間を置いてから口を開いた。

「さっさと行け。でないと、天鼠が来る前に俺に命を取られるぞ。じいさんには、俺が約束を果たしたことを、ちゃんと伝えておいてくれ」

「この借りは必ず返す。叔父貴の次はおまえだ、まともに死ねると思うなよ!」

 丙吾は手で払うしぐさをした。

 鹿蔵はおてつに支えられながら、徐々に沈みゆく太陽へと消えていった。まぶしいので、丙吾も途中で見送るのはやめ、外れた障子を直してから、そのままおてつの長屋にあがった。

 部屋の中をさっとあらためてみるが、衝立があるくらいで、金目のものは何もなかった。ついでに、武器になりそうなものも。もちろん、丙吾は今、徒手である。金もない。

 鹿蔵のいた布団は湿っていたので脇に置き、畳に直接寝ころんだ。どうせ敵は夜まで来ない。

 やけになってこんな状況にまで持ってきたものの、どうしたらいいのかまるでわからない。鹿蔵とおてつを故郷へ帰し、老人との約束を守ったからといって、特に満足感もなかった。こなすべき労働を終えた疲労感くらいしかない。

 ただ、この世でやるべきことはもう何もない。だから、どうしたらいいのかわからなくても問題はなかった。

 眠りもせず、退屈もせず、何も考えず、ただただ日が落ち、夜になり、目当ての相手がやってくるのを待つ。明かりは星の光だけ。どこかでささやかに鳴く虫の声を聞いていると、静かに障子が開いた。来たのは三人。

 丙吾はおもむろに立ち上がった。こちらが喋る前に向こうから話しかけてきた。

「おまえは、誰だ?」

「誰でもない、ただの風来坊だよ」

「馬鹿か、てめえは」

 丙吾はため息をついた。

「馬鹿はおまえらのほうだ。俺はおまえらを捕まえに来た目明しだよ」

「武器も持たずに一人でいる目明しなんて、やっぱりただの馬鹿じゃないか」

 三人とも口の端をあげて、同時に刀を抜いた。

「一応、聞くが、鹿蔵と女はどこだ?」

「どっかで乳繰り合ってるよ。妬けるよな、こんちくしょう」

 向こうはもう戯言に付き合ってくれなかった。丙吾の命を奪いに来る。上段からの斬撃を期待したが、旗本たちはやはり室内での殺しに慣れていて、三人で一斉に突きを放ってきた。

 丙吾は飛ぶように部屋の奥に下がり、そこにあった衝立を投げつける。このままここにいては死ぬ以外に道はない。丙吾は衝立に続いて突進し、一人にぶつかった。地面に倒れると同時に、死に物狂いで転がる。先ほど、旗本三人組が戸を閉めていないのを確認している。外に出たら急いで飛び起きて逃げるつもりであった。

 しかし、何かにぶつかった。

 誰かの足だ。

 ――しくじった! 天鼠が三人しかいないなんて、どうして決めつけた。

 その誰かに腕をつかまれ、無理やり立たされた。

 背後から三人の追撃が来るはずだが、なぜか何もない。

 丙吾は自分を立たせた人間の顔を見て、驚愕した。

「大柳新八郎……」

「どうして呼び捨てなんだ、丙吾」

 同心の大柳新八郎だった。片方の眉をあげて、不快そうにしている。周囲にはめいめいに得物を持った捕方が十人はいた。提灯も多く、ここだけ異様に明るい。

 面食らっている丙吾に、新八郎は十手を差し出した。

 丙吾は、自分でも意外なほど自然と受け取っていた。重さも手触りも、懐かしい感覚だ。

「どうして、これを?」

「はあ? おまえは目明しなんだろ?」

 さも当然のように新八郎が答える。丙吾もそれで気づいた。

「聞いてたんなら、早く助けてくださいよ」

「おまえが痛めつけられてるところを見たくてな。こんなにさっさと長屋出てくるとは、つくづくつまらん男だ」

「あいかわらず、人でなしなことで」

「人のことが言えるか、小悪党」

 そして新八郎は薄く微笑み、丙吾の背後を指さした。

「さあ、仕事をしろ。おまえの獲物だ」

 丙吾はうなずいて振り返った。

 捕方が集まっていたことに面食らったのか、旗本は三人とも刀を構えたまま立ち尽くしている。顔が憎悪で歪んでいた。

「くだらねえ茶番に巻き込んでくれたな」

「俺も巻き込まれたほうだよ。ちょうどいい、この同心には恨みがあるんだ。手を組んでやっつけないか?」

 背後で新八郎が鼻を笑う声がした。

 旗本三人はこの提案でさらに怒りが増したらしい。

「死ねえ!」と、頭の悪い叫びとともに、丙吾に斬りかかってきた。

 丙吾は笑う。長屋にいたときと違い、今は素手ではない。使い慣れた十手がある。その十手で一人の刀を受け止め、身体をひねってもう一つをかわす。三人目は足を払って転ばした。

「気をつけろー、この悪い目明しは、十手を持たせると馬鹿みたいに強いんだぞー」

 新八郎の気の抜けた声がする。

「あんたはどっちの味方だ!」

「正直に言うと、共倒れを期待している」

 新八郎のくだらぬ本音を聞いている間も、丙吾は二人の刀をさばく。三人目も起き上がった。しかし、丙吾は負ける気がしなかった。腕に覚えがあるから、だけではない。

「まっとうな町人ばかり手にかけているから、人をあれだけ殺していても、てんで強くならねえんだ。それを思い上がりやがって」

「どちらが思い上がっているか、教えてやるよ」

 三人が丙吾を囲むように立ち、正眼に構えた。

 今度は、丙吾が彼らの戯言に付き合わなかった。正面の男に向かって間合いを詰め、刀を峰から押し下げると同時に、人中を十手で思い切り突く。男の目がぐるんと回転して白目になる。押し下げた刀は彼の足に刺さった。

 続けて丙吾は十手を右に振り、お行儀よく刀を振りかぶっていた二人目の右脇をしたたかに打ちつけた。稽古不足なのか、あっさりよろめいた。それを踏ん張ろうとした左足を、丙吾の足が踏みつける。

「うわっ!」

「ちゃんと道場に通え!」

 丙吾は踏みつけた足を上げ、その膝で男の股間を打った。

「まあ、もう無理だがな」

 十手は視界の外、最後の一人が刀を振りおろすであろう場所で構えておく。がちっと十手の鉤に刀が収まった。

「後ろに目がついてんのか」

 動揺した男が、驚きを素直に口に出す。

「だ、か、ら、人殺しのくせに、おまえらが弱すぎんだよ!」

 丙吾が十手をひねると、刀ごと男は体勢を崩した。そこへ丙吾は体当たりをし、彼を地面へあお向けに転がした。

 男はすぐさま立ち上がろうとするが、丙吾だけに手柄を取られてはたまらない捕方たちが、即座に十手やらさすまたやらで男を押さえつけた。

 他の二人も昏倒しているうちに、捕方によって縛られている。

 苦戦はしなかったが、久しぶりにこういった具合に身体を動かしたせいで、丙吾は肩で息をしていた。その肩に、新八郎が手を置く。

「実は、おまえが金吉たちを殺した人間とつながっていると思って、泳がせていたんだ。まさか、違うとはな。さすがの俺も思いつかなんだ」

「……そういうのは、本人には隠しておいてもらえますか」

 丙吾は不快さを隠さなかったが、新八郎が気にした様子もない。丙吾が手にした十手を取り上げると、旗本三人を拘束した捕方たちとともにあっさり引き上げてしまった。去り際の言葉さえない。

 暗闇に一人取り残された丙吾は、ため息をついたあと、自分の長屋へと戻った。


 ◆


 それから三か月経った。

 あの旗本三人組は磔になった。奉行所としては、天鼠はすでに死罪になっており、今さら彼らが本物であったと言えるわけもなかったため、単なる盗人として極力目立たぬうちに処断された。他に仲間もおらず、江戸の闇で蠢いていたでかい蝙蝠は無事に絶滅した。

 丙吾は目明しに戻っていた。

 捕りものの翌日、新八郎が訪ねてきて目明しの手札を渡してきたのだ。

「金吉が死んで、人手不足でな。腕も、俺よりは数段下だが、悪くない」

 これも本音としか思えないところが、気味の悪い話である。しかし、丙吾はそれでもかまわなかった。

「俺はどうも、目明しをやっているのが好きらしい」

 新八郎には無視されたが、手札を受け取るときにそう答えた。

 今もなわばりの店からは小遣いをもらっているが、以前よりはぐっと額を抑えている。そうはいっても、性格というのは大きく変わらないものなのだ。それに、急に善人になるのも、なんだか自分らしくない気がした。

 そんな彼のもとに、秋口のある日、鹿蔵の叔父だというあの老人が訪ねてきた。

「遅くなりましたが、鹿蔵を故郷へ戻してくれた礼を言いに来ました」

 今年の刈り入れが終わり、ようやく暇ができたから、江戸まで来たという。目の周りには、なぜか青いあざができている。

 鹿蔵とおてつのことを教えてくれたのだが、想像していたとおりだった。二人は夫婦になり、年明けには子供が生まれそうだとか。

 二人が故郷に戻ってから三か月程度なのだが……。

「昼間にあんなやり取りをしていたってのに、やることはやってたんだな」

 丙吾がにやけるも、老人には通じなかった。とにかく彼は、力持ちの鹿蔵が村の農作業に加わってくれたのがありがたかったようで、ひたすら丙吾に礼を言っていた。

 老人が帰るとき、丙吾は見送ろうと外に出る。だが、前夜は大雨で地面がぬかるんでいた。おかげで足を滑らせて頭を打ち、そのまま気絶してしまった。

 怪我はなかったが、目が覚めたとき、老人はもういなかった。

 ただ、長屋に見慣れない袋が置かれていた。中は少量だが、米だった。よく見ると、紙も入っていて、たどたどしい文字で「鹿蔵、てつより」と書かれている。

「これが、返しにきた借りってわけか。なるほど、二人とも約束は守るんだな。こわいこわい」

 丙吾は照れくさそうに笑った。

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小悪党の意地 どんより堂 @donyoridou

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