第3話

 それからはもう、抜け殻である。丙吾はあらためて、人としても男としても目明しとしても、金吉に負けたことを思い知らされた。十日経った今でも鹿蔵と女を見張ってはいるが、まるで身が入らない。単に習慣に従っているだけにすぎなかった。しかも、ゆすりのたねになりそうなものなんて、何も見つからない。

 丙吾は旗本たちとともに偉そうに歩く鹿蔵を遠目に、ため息をつく。同時に腹が鳴った。さすがに行きつけの飯屋もつけが厳しくなってきた。金を借りるあてもほとんどない。振り売りでもやって日銭を稼がねばならないのだが、鹿蔵のことを諦めてしまうと、二度と自分に自信が持てない気がして、やむなく空腹に耐えていた。

 そんなとき、通りを闊歩する鹿蔵のもとに一人の老人が駆け寄った。口を大きく動かしているが、声は丙吾のところまで届かない。鹿蔵は歩みをとめることなく、すがってきた老人を振り払った。老人は往来でへたりこんでしまう。そのまま旗本と一緒に鹿蔵が去ってしまうも、老人はなかなか起き上がろうとしない。道行く人々は誰も彼に手を貸そうとしなかった。

 丙吾も老人を放って鹿蔵を追いかけたかった。だが、十日前に金吉を殴られて気絶したときのことを思い出す。

 ――俺も道端で倒れていたのに、誰も助けちゃくれなかったな。目が覚めたら夜になっていた。財布みたいに盗られるものを何も持ってなかったのが不幸中の幸い……なわけあるか。ただの不幸だよ、こいつは。

 だから、老人のもとに近づいた。

「じいさん、立てるか?」

 老人は丙吾を見て、がっかりしたような顔をして自ら立ち上がった。

「なんでもないですよ」

 笠こそ持っていないが、手甲に脚絆と、旅装だった。手で股引についた砂を払うと、「どうも」と言って立ち去ろうとする。

 しかし足取りがおぼつかない。道に人もいないのに、左に右にまっすぐ歩けもしない。丙吾がしばらく見ていたら、ぐうと音がした。最近、丙吾も親しくしている腹のやつだ。

 彼は老人に並び、肩に手を回した。

「ちょうどいい、俺も飯を食べるところだったんだ。一緒に行こう」

 言い終わると、丙吾の腹もうなりをあげた。老人は素直にうなずく。

 丙吾は蕎麦屋に行くことにした。そこは、しばらく顔を出したことがなかったものの、唯一つけがきく可能性があるところだった。

 ただ大きな問題がひとつある。

 そこは、逃げられた女房のやっている蕎麦屋なのだ。そりゃあまあ、顔なんか出せるわけもない。金吉がいたら、またも殴られて終わりだろう。だが、あの様子だと、まじめに悪人を追っているようなので、今の時分は大丈夫にちがいない。丙吾はそんなふうに考えていた。

 それに、腹をすかせたこの老人は、鹿蔵のことを何か知っていそうだ。蕎麦でも食べれば、代わりに抱えていることはつるりと口から出てくるかもしれない。うん、つるりと。

 なるべく平気な顔をして暖簾をくぐる。正面に元女房のおたえがいて、ばっちり目があった。

「あんた、よくここに顔が出せたねえ」

 嫌悪よりも驚きが前に出ている。若くも美人でもないが、前よりも背筋がしゃんとして、少しふっくらしたように見える。幸せそうだった。

「じいさんが腹を空かせていてな、悪いがつけで蕎麦でも食わせてくれよ」

「はあ?」と、おたえが呆れた声を出す。

「わしは払いますよ。見ず知らずの人に出してもらう謂れはありませんから」

 老人は丁寧ながらきっぱりと言った。

「まあ!」と、またもおたえ。

 丙吾もばつが悪かった。確かに、老人に金があるかどうか確認していない。鹿蔵に足蹴にされているところを見て、勝手に自分よりも下に思っていた。自分に金がないから、老人にも金がないだろう、と。鹿蔵の話を聞くという目的の裏に、自分の醜い欲望があることに気づき、いたたまれなくなった。

 老人を置いて逃げてしまおう。丙吾はそう思ったとき、おたえのため息が聞こえた。

「まあ、いいさ。元旦那の顔を立ててやるよ。二人とも座ってな」

 老人が素直に座ったので、丙吾も「お、おう」と腹が押されたついでに口から出たような返事をして、床に腰を下ろした。

 まもなく蕎麦が二人分運ばれてくる。

「ほら、あの人が帰ってくるかもしれないから、さっさと食べな」

「あの人?」

 聞かないでほしいのに、老人がおたえに問う。

「今の旦那だよ」

 丙吾は答えながら、急いで蕎麦をすすりはじめた。老人も「へえ」とつぶやいてから、それに倣う。

 ここの蕎麦を最後に食べたのがいつだったか思い出せないが、そのときよりもはるかにうまかった。あの夜鷹蕎麦なんぞ言うに及ばない。

 おたえの要求どおり、あっという間に食べ終えて、丙吾は老人をつれて店を出ようとする。そのとき、おたえが丙吾を呼びとめ、小さな袋を手渡した。

「少しだけど」

 重さと音で、丙吾にも銭だとわかった。店には他に客がいない。それほど暮らしが楽でもないだろうに。

「なんで助けてくれるんだよ」

「多少なりとも縁があった相手だからね。あ、でも、情はないから、そこんとこ勘違いしないでおくれよ。あたしはもう金吉の女房」

「ああ、わかっているよ、ありがとう」

 丙吾は自分の口からすんなり礼が出てきてびっくりした。しかし、悪い気はしない。

 歩きながら、自分の事情や鹿蔵との関係を軽く伝えつつ、老人の話を聞いた。

 老人は鹿蔵の叔父で、上州の農民だった。鹿蔵を故郷に連れ戻してほしいという文が届いたので、そのとおりに迎えに来たそうだ。

 文を送ったのは、おてつという女だとか。丙吾に聞き覚えはないが、鹿蔵の幼馴染だという。鹿蔵が日参している女だろうか。想像よりも親しい間柄の可能性もある。であれば、どういう事情かで彼が邪魔になったから、叔父の力を借りて排除しようということなのかもしれないが、どういう事情かはまったく見えてこない。

 鹿蔵に対する態度と夜鷹蕎麦をやっている姿には大きな差異を感じたものだが、その鹿蔵を追い払う方法もまた、今までの彼女のすじとは異なるように思える。ただ、見えないところは多いものの、二人がああいった関係に収まるわけはなんとなくわかった。

「わしもそうだが、二人ともあまり裕福ではない家に生まれてな。ちょうど幼い頃に飢饉が起きて、器量がよかったおてつは吉原に売られ、鹿蔵は人買いに連れられ京へ行った」

「鹿蔵は今、江戸にいるぞ」

「暴れて京にいられなくなっただけだ」

 彼が鹿蔵にあたりが強いのは、昔からいろいろと尻拭いをさせられてきたからだとか。江戸で数々の迷惑をこうむってきた丙吾も大いにうなずくところである。

「で、おてつってのが鹿蔵を故郷に戻した理由はなんなんだい?」

 老人はかぶりを振った。

「それは何も書いちゃいなかった。でも、あの子の頼みは聞いてやらないかん。家族のために進んで身売りした子だ。その子がわざわざ頼んできたんだよ」

 だとしたら、身売りをするときになんとかしてやれよ、と丙吾は思う。けれど、次の言葉で腑に落ちた。

「だが、わしでは鹿蔵を連れ戻すことなど無理だ。すまんが、あんたはあいつと縁があるみたいだから、村に戻るよう説得しちゃくれんか?」

 なるほど、悪人ではないのかもしれないが、他力本願な人間なのだ。鹿蔵は老人を見て面くらっていたから、彼が村に戻るよう説得を試みたのは今日が初めてだろう。それでもう、頼めそうな相手が出てきたら、あっさり投げてしまう。

 問題は、

「ああ、わかった」

 と引き受けてしまった自分だ。どうも、誰かに必要とされたかったらしい。考えるより先に口が承諾していた。老人は返事を聞くや否や「頼みましたぞ」と、あっという間に丙吾の視界から走り去った。厄介ごとを人に回し慣れている。

 だがしかし。本当のところ、丙吾だって投げ出してしまってもいいのである。鹿蔵に会えば確実にぶん殴られるし、ぶん殴られてまでやることではない。

 にもかかわらず、丙吾はやるつもりになっていた。なんとなく、自分が崖のふちに立っている気がしたからだ。ここで何かをしないと奈落行き――

 覚悟を決めて、翌日、鹿蔵に直接会いに行く。

 旗本衆と別れ、あの女のところに向かう前に、丙吾は鹿蔵を捕まえた。ここのところあとを追っていたせいで、彼の一日の足取りは難なくわかっていた。

 鹿蔵は丙吾の顔を見た途端、鼻息を荒くして拳を振り上げる。丙吾はそれが飛んでくるよりも早く「おてつ」と叫んだ。うまいこと鹿蔵の動きが止まる。

「なんでおめえがあいつの名をっ」

 興奮は収まっていない。まだまだ会話は綱渡りだ。

「昨日、おまえさんの叔父さんとやらに聞いたんだよ。おまえさんを村に帰してやってくれって文が、そのおてつってやつから届いたから、わざわざ江戸へ出てきたんだとさ」

「おまえにゃ関係ねえ」

「関係はないさ」

丙吾は鹿蔵の眼光と声に気圧されるが、どうにか踏みとどまる。

「だが、叔父さんに頼まれたんだ。ひいては、おてつから頼まれたってことだよ」

「おてつ」という名前には、口にするだけでも威力があるようで、鹿蔵はずっと上げていた拳をおろして舌打ちをすると、丙吾の横を通りすぎていった。

 背中に汗をびっしょりかいていた丙吾に、彼のあとを追いかける気力はない。大きく息を吐き、胸を撫でおろした。

「慣れない親切はするもんじゃねえな」

 しかし、不思議なことにやめる気にもなれなかった。もしかしたら、直近では二回だけだが、人に殴られ慣れたのかもしれない。

 仕方がないので、女のところに行くことにした。まだ日は出ているので、家にいるだろう。着いたころには、ちょうど鹿蔵と激しくやりあっていた。しばらく待って、鹿蔵が泣き言をわめきながら出ていったため、入れ替わるように裏長屋の障子を開けた。

「ごめんよ」

 中にはいつものように、髪を結い、白粉をして、派手な着物を身に着けた女が座っていた。

「なに、まだやるのか――あ? 誰だい、あんたは? ん? ああ、あたしの蕎麦を食べたことがあるね? 帰っておくれよ、あたしは蕎麦しか売らないし、それも夜だ。こんなお天道様が出ているうちには、なんにもしないから」

 鹿蔵に対するものとも、蕎麦を食べにきた客に対するものとも違う、女の態度。表情は迷惑そうでも声は弾んでいるので、それこそ花魁に遊び半分でもてあそばれているような気分になる。丙吾にとっては悪くなかった。ただ、少し気恥ずかしい。丙吾は咳ばらいをしてから口を開いた。

「おてつさん、だね」

「ああ、そうだよ。でも、どこであたしの名を?」

 驚くほど素直だ。これが本当の彼女なのだろうか。

「鹿蔵を故郷に連れ戻してほしいと、文を送ったね」

 おてつの目がすうっと細くなる。

「――そうだけど?」

 丙吾はへらっと笑ってみせた。

「なに、そんなに警戒するな。鹿蔵の叔父とかいうじいさんと知り合って、俺がそいつを引き受けることになったんだよ」

「じいさんは生きているんだろうね」

 訝しげなおてつに、丙吾はことさら大きく笑う。

「俺に押しつけた途端、風のように帰っていったよ」

 それを聞き、おてつは鼻を鳴らした。

「確かに、あのじいさんらしいや。昔から全然変わらない。じゃあ、さっさと鹿蔵を帰してやっとくれ」

「そうもいかねえから、こうして来たんだ。ちょっといいかい」

 おてつはうなずいた。丙吾は後ろ手で障子をしめる。

「あがってもいいんだよ」

「いや、立ったままがいい」

 そちらのほうが、昔を思い出すから。丙吾もそこまでは言わない。

「理由をさ、聞かせてくれよ。でないと、どうしても覚悟ができねえ。鹿蔵はあの図体だ。俺も何度か殴られている。事情を知らないことには、正面から向き合う気持ちが生まれなくてな」

「あんなのただの岩だよ?」

「岩に当たったら痛いだろう。しかも、向こうから飛んでくるんだぞ」

 おてつは肩をすくめる。どうも、鹿蔵を勘違いしているようだ。呆れた丙吾がでかいため息をつくと、おてつも「ちょっと待ってな」と言って立ち上がり、丙吾の脇を抜けて外へ出ていった。丙吾がばか正直に待っていると、すぐにおてつは戻ってきて、また元のところに座る。井戸で白粉を落としてきたようだ。わずかだが、目に疲れが見える。

「蕎麦屋のときに、気づいてると思うけど」と、おてつは顔を傾けて、頬にある大きな傷をこちらに晒した。

 丙吾は無言でうなずく。傷だけでない。それが盗賊の天鼠によるものであることも知っている。だが、もちろん話せはしない。

「これはね、天鼠って盗賊たちにつけられた傷だよ」

 それ以上、おてつの言葉は続かなかった。きっと傷をつけられたときの話が出てくるはずだった。しかし、言わないわけでも、言いたくないわけでもなく、言えないようだ。顔がおびえ、かすかに震えている。当時のことがいまだに恐ろしくて仕方がないのだろう。

「もういい。その傷と鹿蔵が関係あるんだな」

 おてつは首を縦に振りつつ、呼吸を整える。少しして落ち着くと「変なところ見せちまったね」と言って、その先を話しはじめた。

「鹿蔵はね、この傷の仇を討とうとしてんのさ。あたしが頼んだわけでもないのに」

「あいつは、天鼠がどこのどいつだか知ってんのか!」

 丙吾が内心の驚きをそのまま声に出す。だが、おてつは渋い顔で手を振った。

「もうすぐって話だったよ。あの人は、ちゃらけた旗本の用心棒をしながら、天鼠の正体を探ってるんだ。でもさ、わかったら、天鼠とぶつかっちまう。最初はあたしもそれを願ってた。でも改めて考えると、相手は何人も殺してる血も涙もない連中。いくら鹿蔵が強くったって、命が足りない。危ないんだよ」

「だから、故郷に文を送って、連れ戻してもらおうとしたのか」

「あたしがどんだけ怒鳴りつけても、江戸から出ていこうとしない。もうどうしようもないのさ。……さあ、理由は話したんだ。あの人が死ぬ前に、なんとしてでも江戸を追い出してくんな」

 面倒なことになった。丙吾はそう思った。かといって、やはり話を降りる気にはならない。

「わかった、そうさせてもらうよ」

「ありがとう。頼んだよ」

 おてつがにかっと笑う。白粉を落とした顔にはとてもよく似合う。

「ところで、あんたは一体、誰なんだい?」

「元目明しだ」

「なるほど、性が悪そうなやつだね」

「ほっとけ」と、丙吾も笑った。

 ただ、文を出した理由はわかったものの、おてつが裏長屋にいるときだけ白粉をしている理由はわからない。あの様子では聞けもしないし、今のところは知ったとしても意味はなさそうだが、丙吾の心のどこかに引っかかりとして残った。まあ、悪い人間ではなかろうが。

 とにかく、鹿蔵を故郷へ戻す方法をいよいよ考えなければいけないのだが、そんな都合のいい手など、まるで浮かんでこない。そもそも、深く考えるのは苦手な丙吾である。翌日には天啓を待つために、自分の長屋で寝ころんでいた。

 しかし、世の中は不思議なもので、その天啓が向こうからやってきた。ただし、まったく望んでいない形で。

「天鼠が捕まったよ、天鼠が捕まったよ!」

 外で読売が叫んでいる。それを聞いて、丙吾はぱっと起き出して、読売のもとへ向かった。金がない――元女房にもらった金など、何日も持っておくべきものではない――ので、群がる人の間にまじって、さっとかわら版を一部奪い取る。そして、すっと物陰に隠れる。が――

「お客さん、勝手に持ってっちゃ困りますよ」

 ばれていた。頭を下げた丙吾は、なけなしの金を払った。これでもう素寒貧だ。明日の生活は考えないことにして、買わされたかわら版を読んでみる。

 昨夜、やはり大店に押し入ろうとした天鼠だが、町を警戒していた同心たちによって捕縛されたという。捕まったのは三人。捕方が十数名もいたためか、さしたる抵抗もなかったそうだ。

 友人同士だというその三人は、最近そろって金遣いが荒くなったことで、以前から奉行所に目をつけられていたらしい。

盗んだ金は女とばくちですべて消えたという。天鼠などと名前はつけられても、実態はよくいるつまらない盗人だった。

 丙吾が驚いたのは、天鼠を捕まえるのに活躍したのが、同心の大柳新八郎と目明しの金吉だったことだ。それが、かわら版に書かれ、江戸中にばらまかれる。

 悔しさと諦め。全身から力が抜け、丙吾は気づけばへたり込んでいた。だが、誰も声をかけないし、彼を気にすることもない。やがて読売は去り、群がっていた人々もいなくなる。いつもの日常になり、自らの用事で人が行きかう様子を、丙吾はぼうっと眺めていた。蝶が彼を花と勘違いしたのか、しばらく肩にとまっていた。

 もう鹿蔵を故郷に戻す必要もなくなった。ただ、おてつにそれを言いに行けそうにはない。

 夜になり真っ暗になったところで、丙吾はようやく腰を上げ、自分の長屋に戻っていった。翌日から知り合いに頼み、葉物の振り売りを始めた。早朝に仕入れて、昼までに売る。それからはひたすら長屋でぼんやりする。そういった毎日を繰り返し、丙吾は少しずつ自分を受け入れる準備を整えていく。

 三か月が経ち、天鼠の三人が市中引き回しのあと、打ち首になった。丙吾も引き回しの様子は見に行った。三か月牢獄にいたせいか、若いがみすぼらしい三人だった。ずっと下を向いたまま馬に揺られ、人々から罵詈雑言浴びせかけられても、微動だにしない。

 その足で、おてつと鹿蔵の様子も見に行った。

 不思議なことに、あの奇妙なやり取りは続いていた。おてつは白粉をつけて怒鳴り散らすし、鹿蔵はちんまりとした土産を持ってきている。気になってさらに調べると、おてつは夜鷹蕎麦を売り続け、鹿蔵も旗本たちの用心棒のままだった。

 天鼠がいなくなったというのに、二人は変わっていない。

 丙吾の中で、不安の種が生まれた。だがそれを押し殺す。もはや目明しでもなんでもない自分の勘など、まるで頼れるものには思えなかった。

 けれど、そんなときに限って当たる。

 数日後のこと。かつてちょこちょこ金をたかっていた茶屋に青菜を売りつけているとき、店の婆さんが言った。

「丙吾の旦那、聞いたかい。あんたの元女房がやっていた蕎麦屋に押し込みが入って、金吉の親分が殺されたそうだよ」

「なんで!」

 丙吾は反射的に叫んでいた。さらに婆さんに詰め寄ったときに売り物の青菜をすべて地面に落とし、しかも踏んづけてしまった。婆さんは何一つ動じない。

「茶屋の婆に何がわかるよ。旦那も昔は目明しだったんだ。自分で調べてごらん」

 言われるや否や、丙吾は駆け出した。背後から婆さんが大声を出す。

「桶と青菜はどうするんだい!」

「あとで取りに行くから、青菜はきれいに洗っといてくれ!」

「相変わらず図々しい男だね!」

 しわがれた声に腹を立てつつも、丙吾は蕎麦屋へ急ぐ。

 蕎麦屋には人だかりができていた。どうにか彼らを押しのけて店の前まで行くと、建物の前面はぐちゃぐちゃに破壊されていた。さらに、つんと血のにおいが鼻を襲う。丙吾は元女房と金吉がどうなったのか悟った。

「二人とも、ひどいもんだぜ」

 横に町人風の男が立っていた。知らない顔だが、十手を持っているところから察するに、目明しにちがいない。

「ご丁寧に、ばらばらだよ。二人なのに、三十は分かれていたな」

 見る影もない蕎麦屋に視線を向けたまま、目明しらしき男が平然と口にする。

「女もか」

「女もだ。犯されたどうかもわからんくらい、ばらばらだった。だが」男が下卑た笑みを浮かべる。「年増だろ? そんな心配はあるまい」

「なんだと!」

 丙吾は男の胸倉をつかんでいた。それでも、男は笑っている。十手で丙吾の腕を軽く叩く。

「いいのかい、そんなことして」

「おま、おま、おまえがっ、俺の、にょ、にょうぼの……」

 丙吾の目と鼻から大量の水が零れ落ちていく。喋ろうにも、そいつらが邪魔をして、まともに声も出せない。胸倉をつかむ力を弱めずに、丙吾は「うぐぐぐ」と涙をこらえることに専念しようとした。しかし、男は待ってくれなかった。丙吾の腕をつかみ、ひねる。「うがっ」と丙吾は泣きながらうめく。そのまま膝をつかされる。全身を揺り動かして抵抗するが、すぐに数人が集まって押さえつけられた。

「下手人が現場に戻るって、本当だったんだな。手間が省けたぜ。なあ、丙吾の旦那」

 丙吾は顔をあげようとしたが、首に衝撃を受け、意識を失ってしまった。

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