第2話

 意識を取り戻した丙吾は、自分の長屋に戻って確認してみると、目の周りに青いあざができていた。鹿蔵は相も変わらず強い。覗きをしたのはこちらだが、いきなり殴られるほど悪いことをした覚えもない。あっても、それは愛嬌の部類だ。そう思うと、丙吾は腹が立ってきた。よせばいいのに、水の入った桶で青あざを見るたびに、怒りはますます深くなる。

 仕返ししてやりたい。しかし、暴力はだめだ。まっとうな人間がやるものではない。悩んだあげく、丙吾は二人の弱みを見つけて金をゆすることにした。これくらいなら、まっとうな人間がやってもよかろう。丙吾はほくそ笑んだ。

 それからの数日間、二人をじっくり調べてみた。

 鹿蔵は、女郎屋の常連である旗本衆の用心棒をしている。元はその女郎屋のそれだったのが、旗本衆にとって連れまわすのに便利だったらしい。彼らが毎日のように従えているうちに、ほとんどお抱えの用心棒になってしまったのである。彼らがやんちゃをしにいくときも、後ろでぬっと立っている。確かにこれなら、旗本衆が少々の粗相をしても、相手は何も言えない。

「だが、下品だねえ、こりゃ」と、酒に酔った旗本の一人が調子に乗って町人をいたぶる様を見て、丙吾はつぶやいた。

 ただでさえ武士に逆らえないところに鹿蔵がでんと立ちはだかっていたら、沸騰したお湯だってすぐに氷になってしまう。

 気分は悪いが、自分の向き不向きを見極めた金の稼ぎ方である。

 一方の女のほうは、奇妙だった。

 昼間はこの間のようにけばけばしい花魁じみた化粧をして、いつ来るかはわからないが必ず一日一度は何かを抱えてやってくる鹿蔵を大声で𠮟りつけている。

 しかし夜になると事情が変わる。住んでいるおんぼろな裏長屋にふさわしい地味な着物姿でかつぎ屋台を出し、蕎麦を売りはじめるのだ。顔の白粉もきれいに落としている。蕎麦屋は嘘で、夜鷹でもやっているのかと思ったが、本当に蕎麦だけを売っていた。夜鷹だと思って声をかけてきた酔っぱらいをてひどく追い払ってさえいる。

 丙吾も食べに行くことにした。

 あのわずかな時間で顔を覚えられたかもしれないが、そうであったとしても別にかまわない。どうせ、命以外に捨てるものはないし、その命だって捨ててもさほど惜しくない。

「一杯頼むよ」

「あいよ」

 不愛想というわけではないものの、淡々としていた。ばれるも何も、そもそもこちらの顔をじっくり見ようとしない。すっと蕎麦が出てくる。かつおだしのにおいが鼻を愉しませる。丙吾は元女房が蕎麦屋をやっていただけあって、味の良しあしの判断はともかく、食べなれてはいた。蕎麦をちょっとつゆにつけると、ずずっと一気にすする。

 その音に女が反応し、丙吾の顔を見た。だが、彼の食べっぷりがなかなかのものだったからか、黙ってその様子を眺めていた。

 食べ終えると、金を置いて「ごっそさん」と丙吾はさっさと店を後にした。本当はもっと女を探るつもりだったのに、いつもの癖でやってしまった。だが、戻れば不自然だ。それにこれで顔を完全に覚えられた。

 丙吾は諦めて帰途につく。

 ただ、一つ気になったことがある。明かりに乏しくてよく見えなかったが、化粧をしていない女の顔には大きな傷がついていた。どういったたぐいのものかはわからなくても、ぎょっとするほど目立つものだった。蕎麦屋での不愛想な態度は、それをあまり見せないためかもしれない。

蕎麦の味は普通だった。

 ひと月ほど二人を見続けたが、妙な関係だった。いびつと言ってもいい。

 男のほうが金回りはよく、外では堂々としている。逆に旗本衆を従えているようにさえ見えた。しかし長屋のあそこでは、誰よりも情けない面をさらしている。

 一方、昼間は顔に白粉を厚く塗った女は、あの男に対しては吉原の太夫もかくやという扱いである。にもかかわらず、日々の銭は夜鷹蕎麦で地道に稼いでいる。

 夫婦でも恋人でもなさそうな関係。しいて例えれば〝ままごと〟だった。毎日のように、そのときだけ普段と違う性格になり、それぞれに与えられた役回りを演じる。本人たちは楽しいのかもしれないが、大の大人が興じるものではない。

 いずれにせよ、ゆすりに使えそうなたねは見つからなかった。

 とはいえ、ここで引き下がるつもりはない。なにせ丙吾には、諦めても他にやることがないのだ。

 だから、周囲の聞き込みを始めてみた。やりやすくするために、いまだ目明しであるようにふるまう。決してそうだとは言わないが、言葉と態度の端々でそうにおわせる。袖の下をねだるときと同じことをするだけでいい。

 そうしたら、丙吾自身がびっくりするほどうまくいった。

「また目明し、やりてえなあ」

 聞き込みを終えた道すがらそんなふうにつぶやいてみるも、誰が聞くでもなく、その言葉は宙に消えていった。やめたあとになって、やりがいがわかる。よく耳にする話だが、自分の身に起きるとは思わなかった。まあ、他人にとっては迷惑だったとはいえ、であるが……。

 丙吾は肩をすくめるだけで、手に入れた情報を頭の中で整理する。といっても、たいていは、あの二人は一緒に住んでいるわけでもないのに夫婦じみている、という感想くらいだった。情があるんだかないんだか、あのやり取りを聞いているだけではわからない。

 ただ、気になる話もあった。

 女はかつて、本当に吉原にいたという。それも花魁だったというからなかなかのものだ。したがって身受けの話もきたらしい。いや、実際に大店の旦那に身受けされ、妾として優雅な暮らしをしていたそうだ。

 では、そんな彼女がどうして粗末な長屋にいるのか。

「天鼠だよ、天鼠」

 と、女と同じ長屋に住む老婆が教えてくれた。

 それだけで、丙吾もだいたい事情を悟る。

 天鼠とは蝙蝠の別名。だが、老婆は蝙蝠そのものをさしているわけではない。これは、一年ほど前から巷で騒がせている盗賊のあだ名でもあった。

 大店ばかりを狙う正体不明の押し込み強盗。一人なのか複数なのか、人間なのかあやかしなのかもわからない。

 なにせ、真夜中にばっときて、ざっと殺して奪い逃げていく。命を拾ったものはほとんどいない。数少ない例外もあまりの恐ろしさで何も見ていないという。だから、夜にうごめく天鼠などという名前を仮につけている始末だ。

「あの女は、天鼠に襲われて生き残ったのか」

 元目明しの心の底からの驚きだった。そこには、本人も気づかないくらいのわずかな安堵と喜びもある。

「じゃあ、あの傷は……」

 老婆はにたりと笑う。嫌な顔だ。

「不運な女だよ」

 妾である彼女は、本来なら店にはいない。しかし、押し込みがあったその日は、忘れ物を届けに行って、酒に誘われたそうだ。酔ってしまったので泊めてもらうことにしたら、夜中に天鼠がきた。

 斬りつけられたときに、死んだふりをしたのだとか。必死だったため、天鼠の姿はまともに見ていなかったという。人間のような姿形をしていたらしいが。

 彼女はその店のただ一人の生き残りだった。旦那を失い、金を奪われ、顔に傷を負い、この粗末な裏長屋にたどりついた。

「あの岩みたいな男がくるまでは、幽霊みたいだったんだけどね」

 鹿蔵はやはり岩に見えるか、と丙吾は内心笑った。

「でも、あいつのせいで、毎日うるさくてかなわないよ」

 老婆が苦々しい顔をした。

 あのままごとも、鹿蔵と女にとっては大事なもののようだ。

 だがそれ以上のことはわからなかった。二人がどういう関係なのか、老婆も知らないという。女が花魁だった時分に懸想していた金なしのひとりでは、と話していたが、丙吾もそんな気がしている。

 ただ元目明しの丙吾としては、天鼠と聞いて落ち着いていられない。そのもやもやをなんとかしようと、同心の大柳新八郎に会いに、奉行所へ足を向けてみた。若干の開き直りも入っている。会えなくてもともと、会えればいやみのひとつでも言ってやろうと思っている。

 しかし、

「お会いにはならないそうです」

 と、門番のところで文字どおり門前払いだった。

 会えなくてもともとのはずが、実際にあっさり無下にされるとそれはそれでしんどいものがある。それこそ門番に文句を言おうとしたものの、この門番が異様に眼光鋭くて、どうも気おくれしてしまう。

 結局、「けっ」とだけ吐いて、奉行所の門前をあとにしようとしたとき。

「おや、丙吾じゃねえですか」

 こちらを小ばかにしたような声。見れば、丙吾のすべてを奪った古馴染みの金吉が、へらへら笑っているではないか。

「よくも、俺にそんな面ができるな」

 丙吾は爆発しそうになる感情を抑えるが、声にはその激しい怒りがどうやっても漏れていた。にもかかわらず、金吉のふざけた笑みは変わらない。

「あんたがこんなところにくるからでしょ。部外者は近寄らねえでください」

「天下の往来のどこを歩こうと、そいつは俺の勝手じゃないか」

「大柳の旦那に会えなかったんでしょ?」

 丙吾は言葉に詰まった。強がりがばれているのは承知の上でつっぱってみたが、そううまくいくものではなかった。

「俺の女房はどうしている」

 強気に話を変えようとしたが、逃げられた女房の名前がどうにも口に出せなくて、かっこわるい物言いになった。

「今は、俺の女房ですよ」

 ほらみろ。こう返ってくるに決まっているじゃないか。丙吾は予想通りの返答を、内心苦々しく受け止める。

「以前は、俺の女だった。それをおまえが無理やりかどわかしたんだ」

 金吉の目が吊り上がった。

「人聞きの悪いことを言いなさんな」威嚇するように声も低くなる。「甲斐性のないあんたを必死で支えていたおたえを、ずいぶんと手ひどく扱ったじゃねえか。殴る蹴る、金を奪って女遊びをする。あんたの女房でいて、楽しいことはなんにもなかった。あいつはそう言っていたぜ」

「へっ」と丙吾は鼻を鳴らす。「そんな殊勝なたまか――」

 言葉の途中で、頬を殴られた。

「俺の女房を悪く言うのは、やめてもらいましょうか。あいつを足蹴にして、散々苦労させたあんたに、そんな資格はねえよ」

 丙吾も金吉を睨みつける。理屈は金吉にある。それでも、引き下がりたくなかった。

「へっ、本当のことを言うのに、資格が必要あるわけな――」

 再び殴られて、丙吾は尻もちをついた。顔をあげたときには、金吉にふざけた笑みが戻っていた。

「御託は十分だよ。十手を持っていたあんたは怖くてしかたがなかったが、素手の今はかよわくて、むしろかわいそうに思えてくるな」

 そして、懐からわざわざ十手を取り出して、丙吾の眼前にぶらさげてみせる。

「俺たちは今、天鼠を追ってんだ。あんたみたいな溝鼠と遊んでる暇はないんだよ」

 そこから何をどうされたのか、丙吾は顔に強い衝撃を受けて、意識を失った。

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