小悪党の意地

どんより堂

第1話

 雨上がりの朝、長屋の障子を開けると、まぶしいほどの陽の光が差し込んできた。薄いふとんでしのぐにはつらい冬の寒さも、今はわずかだが和らいでいる。

「くそっ。なんで気持ちいいんだよ」

 丙吾は白いものがまじりはじめた髪をかきつつ、悪態をついた。お天道様を見ながら外に出たせいで、地面のぬかるみに足を突っ込んでしまう。ふんばりがきいて転びはしなかったが、団子みたいな丸っこい指がにゅっと泥の中に沈んだ。

「ああ、くそっ」

 また悪態をつく。

 氷が張っていた井戸の水でいやいや足を洗ってから、通りへ出た。

「くそっ。くだらねえことで時間をくったじゃねえか」

 別に用事があるわけではない。むしろ暇も暇、これから一日どう過ごせばいいのか、皆目見当もつかないくらいだ。でも、文句を言わずにはいられない。

 丙吾は一か月前から、あらゆるものが気にくわなかった。

 それまでは目明しで、蕎麦屋をやっている女房がいた。生活は彼女に頼り、自分はちょっと小遣い稼ぎをすれば日々が成り立っていた。

 だが、全部が手からこぼれ落ちてしまう。

 最初は、丙吾に十手を渡した同心の大柳新八郎だ。ふらっと顔を見せると、さらっとお役御免を告げ、目明しの証しとなる手札を奪っていった。理由を聞く暇もなかった。そういう性格の男なので、追いかけても無駄なのはわかっている。

 次が女房だ。目明しをくびになったその日のうちに追い出された。蕎麦屋に居座ろうとしたら蹴とばされて、もうどうにもならない。

 やむなく知り合いのなかで一番のお人よしに長屋を借りて、雨風をしのぐところだけは確保した。

 翌日、どこでどう丙吾の居場所を知ったのか、金吉という古い馴染みがそのおんぼろ長屋に顔を出す。いつもふらふらして調子のいいことばかり言って笑っている――それが丙吾の彼に対する印象だった。そんな金吉が丙吾を見るなり笑い、ふところから十手を取り出した。

「ま、悪く思うなよ」

 その身体から、ぷうんと嗅ぎなれた蕎麦つゆのにおいがして、丙吾も悟った。このろくでなしは羨んだのか、どう思ったのかは知らないが、丙吾の場所をそっくりそのままぶんどってしまったのだ。頭がかっとなって殴りかかったが、十手で頭をぶたれてあっさり負けた。

 蕎麦屋に行って女房に問いただすと、金吉がいかに自分を好いているか長々とのろけられた。自分もそれなりに大切に扱っていたと思うのだが、どうも相手はそう考えていなかったらしい。

 ついでに大柳新八郎にも話を聞きに行けば、彼は渋い顔をして言う。

「おまえさんは、たいした手柄もあげないくせに、なわばりの店から金をゆするからなあ。額が少ないから見逃してやっていたが、それなりに恨みをかっていた。おかげで、俺の立場が少し危うくなってきたんでな。金吉も似たような小物だが、ちょうどよかった。おまえじゃなければ誰でも、な」

 なんとなくは自分の評判をわかっていたものの、他人から言われると胸にずんとくる。自業自得はそのとおりでも、すんなり受け入れるのは簡単ではない。気が萎えてしまった丙吾は、居場所を取り戻すのは諦めて、飯は顔見知りにたかりつつ、ただただ無為に時間をつぶしていた。この先のことなど、何も頭に浮かばない。だが、このまま枯れていけるほど無欲な人間でもなかった。

 井戸で洗った足が乾かぬうちに、丙吾は通りである男を見かけた。

「鹿蔵……!」

 思わず声に出たが、距離があったため相手には届かなかったようだ。届かなくて本当によかった。もし聞こえていたら、丙吾は今ごろぶっとばされて地面に転がっていただろう。

 鹿蔵は三十くらいの、顔も身体も岩みたいにごつごつした巨大な男だが、鈍そうな見た目とは裏腹に、笑えるほど頭に血が上りやすい。

例えば、鹿蔵が友人と肩を組んで歩いているところを見たとする。ちょっと通りがかりの美人に目をやってまた戻したら、何がどうなったのか、その友人の胸倉をつかんで殴りつけている――なんてことがちょくちょくあった。

 目明しだった丙吾は運悪く鹿蔵のそういった場にいあわせ、逃げようとしたところを野次馬につかまり、しかたなく仲裁に入ったことが何度かある。そして、そのたびに怒りの矛先を向けられ、けがをするはめに。しかも、仲裁を恨みに思ったのか、いつしか顔を見るなり鹿蔵のほうから殴りかかってくるようになった。丙吾の逃げ足は速くなった。

 ここ半年ほどは姿を見なかったのでほっと胸を撫でおろしていたのだが……目明しでなくなった今、おっかなさよりもなぜか怒りが先に出てきた。

 鹿蔵が岩みたいな顔をしているくせに、妙に元気そうなのが、自分のみじめさとあいまって余計に腹が立つのかもしれない。

 ――これまでは逃げる一方だったが、今度は俺から追ってやる。

 丙吾は久しぶりに、口元を下品に緩めた。

 よく見れば、鹿蔵は大事そうに何か小さなものを抱えている。実に面白そうではないか。彼のあとをつけていくと、粗末で薄暗い裏長屋に入っていった。鹿蔵の住処なんぞ知らないので、ここが彼の長屋だとしても問題はないのだが、でかい図体に対してそこはあまりにこじんまりとしている。丙吾は鼻で笑った。彼の長屋も似たようなものなのだが。

 丙吾は障子のそばまで近づき、耳をすます。

「なんだい、こんなもの!」

 そんな必要はなかった。女の怒声がはっきり聞こえてくる。同時に、どしゃっと何かが落ちる音。

「ごめんな、ごめんな、ほんとごめんな」

 情けない男の声だ。鹿蔵のものだった。丙吾は、彼がこんな弱々しい声を出せるなんて考えたことすらなかった。

「でもよ、高くて珍しくて、手に入れるの大変だったんだぜ」

「はン! そんなの昔、さんざん食べたさ! 持って帰って、一人で食べな!」

「いや、おまえのために買ったん――」

「いいから持って帰れ!」

 女が一方的に鹿蔵を怒鳴りつけている。聞いている丙吾まで背筋が冷えてしまいそうだった。それでもなお、鹿蔵は自分が持ってきたものを差し出そうと、女に食い下がっている。しばらくこのやり取りが続いたが、やがて鹿蔵はつぶやいた。

「また来るよ」

 そして障子がゆっくり開くと、そのでかい図体を限界まで丸めた鹿蔵がとぼとぼ出てきた。中から「こいつも持って帰んな!」と叫び声。同時に、きんちゃく袋が飛んできた。鹿蔵は振り向きもせずに、歩いていく。地面に落ちたそいつを、丙吾はそっと拾い、中身を確かめみた。「おお」と自然と声が出る。

 ――金平糖じゃねえか。

 けしの実に砂糖をたっぷりまとわせた、きらきらとお星さまみたいな真っ白な菓子。近頃は江戸でもぼちぼち売られはじめているとはいえ、そう簡単に庶民の口に入るものでもない。特に、今の丙吾には見ることさえかなわぬ代物だ。

 一粒つまんで口に含んでみる。じんわりと舌に甘みが沈んでいく。が――

「あんた、何してんだい」

 開いた障子の奥から、女がこちらを見て戸惑っている。先ほどのきんきん声とは打って変わってまっとうなそれだが、確かに鹿蔵とやりあっていた女だ。

 派手だった。しかも、顔には白粉をべったり塗りつけている。白粉の奥はとうがたっていて、何本ものかんざしをじゃらじゃら頭にさし、着物を着崩して色気を出してやがる。頭のおかしくなった元花魁にしか見えない。実際、十年前はさぞかしいい女だったろう。鹿蔵と同じくらいか。

……なんてゆっくり考えている暇が丙吾にあるわけがなく、これはあとから思い出したことだった。

声をかけられた途端、丙吾はきんちゃく袋を持って、それこそ脱兎のごとく駆け出した。しかし、ちゃんと前を見ていなかったのが運の尽き。ばん、と何かにぶつかった。

「てめえ何しやがる!」

 とりあえず文句を言ってみたが、何にぶつかったかわかったとき、丙吾の顔が真っ青になった。

「し、鹿蔵!」

 歩き去ったはずの鹿蔵が、立ち止まってこちらを向いている。ぶつかったのも当然、彼の胸……ということは、金平糖が気になったのか、女の声が気になったのか。

 鹿蔵は丙吾とは逆に顔を真っ赤にしていた。鼻息荒く、低くうなっている。山で出会った熊や猪だってもう少し落ち着いているだろうに。話は通じそうにない。ないが、それでもわずかなのぞみをかけて、

「久しぶ――」

 ごつごつした拳を顔面に思い切りぶつけられて、丙吾の意識はふっとんだ。

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