ゆれる

湖ノ上茶屋(コノウエサヤ)

🍡一話完結🍵


 菜津は、用件だけが記された短い文字列を見つめ、天を仰いだ。

 ――もう一度、話をしませんか。

 うだうだと演説をしないだなんて、聡美らしくない。長い時を経て、彼女も変わったのかもしれない。もう、あの頃の彼女ではないのかもしれない。そんな淡い期待が心の中でゆっくりと膨らんでいくのを感じた。あと一回。もう一回だけ賭けてみるかと、指を動かす。

 ――わかりました。それでは、年末に伺います。

 送信が済み、もう取り消すことができなくなった文言を幾度も読み返しながら、他人行儀が過ぎたかもしれないとため息をつく。聡美は変わったかもしれないというのに、自分は変わらぬままなのか。


 菜津は、かつて聡美とともに暮らしていた頃、物事を根も葉もない想像で否定することを常とする聡美に辟易していた。

 菜津は聡美に否定されるたびに、その否定を否定した。それは菜津の主張が現実離れしている場合を除き、肯定へと変化するはずだが、対聡美においては何を論じようが無変化だった。否定を否定したところでそれを否定されるためだ。菜津には、何度ひっくり返されようが、肯定をつかみ取ろうとする力が欠けていた。結果、否定を肯定することとなり、同時に腹の中に毒々しく苦々しいものを飼うこととなるのだ。

 自分の意見が最終的に肯定されるという成功体験を積み続ける聡美が、菜津が辟易する癖をなおそうとすることはなかった。

 そんな人間と住み続けることに限界を感じた菜津は、家を出た。

 そうして手に入れた物理的な距離は、これまでなかなか感じることができなかった安静をもたらしてくれた。


 しかし、メッセージを通じて繋がりあうことは幾度もあり、その度に菜津はやっと手に入れた安静を汚されたように感じていた。

 聡美は物理的距離など軽々と飛び越えて、いつまでも否定を繰り返す。

 ある日、いよいよ我慢の限界を迎え、菜津は「あなたとは話にならないので、もうお話ししたくありません」と突き放した。それは、いつまで経っても否定を肯定へと変えられない菜津の、精一杯の抵抗だった。


 年末が近づくほどに、菜津は心が重だるくなるのを感じた。

 相手は変わったかもしれない。だから、会いに行っても大丈夫。と、都合のいい言葉で自分をだましながら、完全に突き放せない自分を呪う。

 彼女がそう簡単に変わるはずはないと、この世で一番と言っていいほどに、私は知っているはずじゃないか。

 そう、自分を責め立てては、虚しさの海に沈む。

 自分が変われていないから、人も変われていないことにしないと安心できないというだけだという、見たくもない現実が、ニヤリと汚らしい笑みを浮かべながら迫ってくる。


 手土産を持って行く仲ではないのだろうが、心的距離を視覚化するためにと買った菓子折りを手に、もう二度と乗らないと来るたびに宣言する、一時間に一本あればいい方のオンボロバスに乗り込む。ブルルン、ガタタンと、それは揺れた。壊れかけのバスは、菜津をそっと記憶の旅へ導く。見覚えのない新しい建物すら、どこか懐かしく映る。


 ただいま、と入っていけばいいのだろうが、菜津はそうしなかった。菓子折りを見つめ、深呼吸をし、指をボタンへ近づける。指先がプルプルと震えていることに気づく。ふ、と笑う。壊れかけの心が、帰りたいと言っていた。一時間、バス停で突っ立っている方がマシだと言っていた。

 インターホンを未だ押してはいないというのに、玄関の扉が開いた。ひょこり、と顔を出したのは、見覚えのない女だった。その女が聡美であると菜津が気づくまで、数秒かかった。

「おかえり」

「あ、ああ。こんにちは。これ、ささやかですが」

「いいのに。そんなもの。さぁ、入りなさい」

「ああ、はい。お邪魔します」

 やはり、来なければよかった。と、菜津は心の底から後悔した。


 聡美は、変わっていた。しかし、その変化は菜津が描いたものとは異なっていた。ただ、歳をとっただけだ。老化というものは時に人を醜くするのやら、老化によって醜い姿を化けの皮でうまく隠せなくなっただけなのやら。菜津の嫌いを煮詰めたような姿をした現在の聡美と同じ空間にいるだけで、菜津は息苦しさを覚えた。

「親を納得させることなく結婚を決めたことは水に流すわ。でも、子どもができたらどうするの? おばあちゃんは死んだとでも言うわけ?」

 話は結論から述べた方がいいこともあるが、本題から、というのはよほど急いでいる場合を除いては、プレッシャーを与えるばかりだ。菜津はピリ、と背筋に痛みが走ったのを感じながら、言葉を探した。

 けれど、言葉はぐるぐると脳内を回遊するばかりで、口から吐き出すことができない。

 長い時を経ても、聡美は変わっていなかった。

 同じように、菜津もやはり変わっていなかった。

 菜津は焦り、混乱しながらも、自分だけが不変なのではないということに安堵していた。そして、安堵する自分に恐怖してもいた。

 彼女が今どうであるか。そんなことはどうでもいい。けれど、自分は変わっていたかった。変われなかったことが、変わらなかったことを良しとしてしまう自分が存在することが、悔しかった。

「何か言いなさいよ」

 菜津は、一回だけ、今回だけ、あるか分からない勇気を振り絞ってみようと思った。

 変わる、と、心を決めた。

「もう、関係ないでしょ」

 自分が知っている自分の声と比べて、低く太く凍てついた声が出たことに、菜津は刹那驚いた。その驚きを気取られないように、心を宥める。

「関係ないって、何言ってんのよ。あなたは私の」

「いつまで親面をし続けるんですか? もう、親になってもおかしくない女相手に」

「あんたが幾つになろうが、親であることは変わらないのよ!」

「血が繋がってようが、他人であることも変わりませんがね!」

 叫びに叫びを返す。

 家の中は、しんと静まり返った。

 一体なぜ、暇を持て余しているわけでもないのに、こんな辺鄙な町まで出向いたのだろう。馬鹿らしい。さっさと帰って、年を越す準備をしようじゃないか。そうだ、初詣の前に、厄落としへ行ってこよう。幼少期、毎年通った神社に、「もう二度と来ない」と、「今までお世話になりました」と伝えがてら。

 菜津は脳内で自分の未来を組み立てると、力強く立ち上がった。

「いつもいつも、頭ごなし! 昔っから、本当に、何かを認めようとなんてしないよね。今回はもしかしたらって期待した私がバカだったって認識できたっていう唯一の収穫をありがたくいただいて、私はお暇させていただこうと思います。では」

 深々頭を下げ、玄関へと迷いなく歩みを進めた。

 老化による処理速度の低下によるものなのか、それとも呆気に取られていただけなのか、聡美の反応は何拍も遅く、ようやく菜津の背中を追いかけようと体を動かした頃には、菜津は玄関ドアに手をかけていた。

 聡美が「ちょっと!」と叫んだ直後、ドン、と鈍い音がした。

 段差などないはずの廊下でつまずいたらしいが、菜津は振り返ることなく、その場を後にした。


 バス停に着くも、バスが来るまでにはまだ三十分近くあった。持て余した時間を有効に使い、懐かしの神社に別れを告げに行く。後ろ髪を掴まれかけたような気がして、髪の毛をそっと撫で払う。未練をそぎ落とすように力強く歩き、バス停へ向かう。菜津は追っ手がそこで待ち伏せていることを警戒したが、追っ手はそこにいなかった。ふと、追っ手の安否を気にしたが、そんな自分を否定した。変わる。今、この瞬間から。いや、つい先程から、自分は変わったと思い込む。

 追っ手に追いつかれる前に、オンボロバスがやってきた。

 オンボロバスが走り出す。窓の向こう、遠く遠く、数十分前に数分滞在した家からのびる軽自動車でないとすれ違えない半端な幅の道の上に、聡美の姿を見つけた。

「さよなら」

 菜津はそう呟くと、スマートフォンを手に取った。

 連絡先を開くと、聡美のデータを削除した。

 

 ブルルン、ガタタンと、バスが揺れる。バスが停まり、扉が開くたびに、ふわりと懐かしい香りに鼻をくすぐられる。

 土と草と太陽の香り。部活帰りの汗に、いつの間にやら乗り込んできたカメムシの匂い。

 目を閉じ、すぅ、と大きく息を吸う。記憶の中の香りとは、違うような気がする。けれど、今の香りがあの頃と繋がりあう。

 懐かしさに、酔う。

 今は、あの家へはもう二度と行く気にはなれない。もう一度があるとすれば、それは聡美の葬式だ。

 けれど、このバスにはあと一回、いや、ふとした時に何度でも、乗りたいような気がした。

 聡美のことは嫌えても、菜津は心に根付いたこの町を、どうにも嫌いになれなかった。








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゆれる 湖ノ上茶屋(コノウエサヤ) @konoue_saya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ