夏の終わりに万年筆を出す

星見守灯也

夏の終わりの万年筆

 万年筆を買ったのは、就職してしばらく経ったある夏のことだった。昔から万年筆に漠然とした憧れがあった。「なんかかっこいい」くらいの気持ちだ。今まで鉛筆やボールペンにこだわったことはない。だけど、万年筆というのは特別感があり、一度は使ってみたいアイテムのひとつだった。


 どうせならいい万年筆がほしい。近くの文具店に行けば、十万を超えるものから千円で買えるものまでがある。予算は二万円。見てもよくわからなくて、インクもきれいな色が欲しいと思って、一度家に帰って調べることにした。


 すると県庁の通りに万年筆専門店があることがわかった。インクもたくさん揃っているという。私は次の休みにバスに乗り、その専門店へと向かった。


「あの、万年筆が欲しいんですけど……」


 それなりの広さのフロアに、紙と文具が並んでいた。インクもある。万年筆本体は、レジの横のガラスケースに並べられていた。わたしは店員さん――わたしと同じくらいの若い女性だった――におずおずと声をかける。


「はい、お決まりですか?」

「いえ、あの、初めてで……」


 店員さんは「ああ」という顔をした。


「どういったものをご希望でしょうか」

「ええと、インクが色々入れられるやつがいいです」

「コンバータですか、吸入式ですか」


 わたしは万年筆について何もわかっていないのだと、このときはっきりと感じた。


「万年筆にコンバータをつけると、お好きなインクを使えます。吸入式というのはインクを入れる機構が一体化しているものですね」

「どっちがいいんですか?」

「コンバータはインクが入る量が少ないですね。でもカートリッジという取り替えできるインクが使えますよ」

「……うーん」

「お悩みでしたら実際に手にとって書いてみますか?」

「いいんですか?」

「はい。ご予算はどのくらいですか?」

「インクと合わせて二万くらいで……」

「では、これなんかどうでしょう」


 店員さんが出してきたのは、銀色のペン先で軸が透明な万年筆だった。説明によると吸入式らしい。


「書きごこちをためしてみてください。万年筆は力を入れなくても書けますからね」


 真っ白なメモ帳に震えるペン先を落とす。力を入れなくても、触れた瞬間、ぬるりと黒い色が落ちた。はっとしてペン先を離す。もう一度、ペン先をつけ、そっと手前に引く。さり、という感触と共に、なめらかな線が引かれた。


「わ……」

「どうです?」

「すごい……」


 そうしてわたしはその万年筆を買った。もう少しお金を出せばこういうのもありますよ、と出してもらった金のペン先の万年筆もあったが、わたしの筆圧がもともと強いせいか、いまいちしっくりこなかった。それに、透明の軸にインクが溜まっているのがキレイだと思った。その万年筆に似合うような深緑のインクも買った。




 それがもう三年前。万年筆はずっと筆箱の中だ。なんといっても、書く習慣がない。書くものがない。それにインクの入れ替えが結構面倒で、手にインクがついて色が取れなくなってしまう。そんなこともあって手が遠のいていた。


「……ん、手紙?」


 そんなある夏の終わり、一通の手紙が届いた。大学時代の友人からだ。何年ぶりだろうか、LINEもメールも通じなくなってしばらくがたつというのに。

 かわいい切手の封筒を開けると、少しにじんだ文字が書かれていた。


「ガラスペン買っちゃったから、手紙を書きます」


 そうか、それはいいな。手紙には「まだ暑いね。そっちはどう?」というようなあたりさわりのない言葉が並んでいる。爽やかな水色のインクで。便箋はところどころインクの溜まりがある。それがまるで打ち水のようで。手紙は「ありがとう。また書いていい?」で終わっていた。


 思わずあの筆箱を開け、万年筆を取り出した。便箋あったっけ、封筒は。いま郵便っていくらだっけ。私の胸はわくわくとはずんでいた。

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夏の終わりに万年筆を出す 星見守灯也 @hoshimi_motoya

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