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ぼんやりとした意識の中、色褪せた映像が脳裏に流れた。
母親が台所で包丁を小刻みに動かす音、ぐつぐつと煮えた鍋の熱気と、ほのかに漂ってくる味噌汁の香り。B G Mとして点けられた朝の情報番組の笑い声に混じって聞こえる小鳥の囀りと、遠くの方から母親が俺を起こす声。そんななんでもない日常の中、目を覚ますのが好きだった。
17歳。退屈な高校生活から抜け出して単身海外へと渡り、がむしゃらに武者修行をしていた俺にとっては、長らく体験していていない懐かしい記憶。
なんで今になってそんな昔の記憶を思い出したのだろう。
そもそも俺って死んだはずじゃ——。
——ぐぎゅるるるゥゥッッッ
雷鳴のように歪で独裁的な音が、静寂だった空間に響き渡る。
混濁する記憶などお構いなしに、今までに感じたことのないほどの空腹感によって全てを上書きされる。空腹を訴える腹の虫が、耐えきれずに胃袋を蝕んでしまっているような嫌悪感が襲った。
「——ッア……っ!」
意味もなく何かを発しようとするが、乾いた喉からは声すらも絞り出せない。筋肉や関節が軋み、まるで自分の体ではなく、他人の体を操作しているような猛烈な違和感を覚える。
視界は暴れ狂ったイカが墨を吹いたように真っ暗だった。
体のあちこちの不調に気を取られてしまって気付くのが遅れたが、巨大な冷蔵庫にぶち込まれているのではないかと思わせるくらい、暴力的な冷気が肌を突き刺した。反射的に体を摩ると、自分が何も衣服を身につけていないことに気づく。
——いやいや、どういうこと、まじで?
死んでいることのほうがもはや楽なのではないかと錯覚するほどに絶望的な状況だということだけひとまず理解させられた。
空腹と寒気。構築する部品が足りないと感じさせる程に猛烈な体の不調。そして、30歳おじさんの謎の誰得全裸シチュエーション。
そんな絶望的な状況の中で、ふと、匂いがした。
吸い込む冷たい空気に混じってほのかに感じる、既視感のある香り。
ほんのりとした甘みを感じさせる、柔らかくて優しいこの香りは……。
俺は本能的に、匂いのする方へと歩みを進めていた。
視界は真っ暗なため、臭いの痕跡を辿っていた。
前から嗅覚は鍛えていたつもりではあったが、今のこの感覚は、研ぎ澄まされているとかそういう次元を超越しているような気がした。
感じている匂いを、もっと細かく識別できているような気がする。
ただ、それを表現する言葉を知らない。
甘いとか、柔らかくて優しいとか、そういった表現に頼ってしまうが、仮に「甘い」よりもさらに「甘い」ことを的確に表現する言葉があれば、迷わずそれを使っていただろう。
俺の記憶と合致する「あれ」とほとんど同じ匂い。
しかし、ここまで存在感をアピールするものではなかったはずだ。
匂いはどんどん近くなる。
近くなるにつれて、その濃厚さに溺れてしまうような感覚だった。
まるで樹液に集まる虫のようだ。
滑稽だと理解しながらも、お腹を空かせてしまった本能がそれに抗えなくなって、すでに制御不能だった。
味覚を失ってから、食べることへの執着はとっくに捨てたはずなのに。
自分の意思で、味覚を失った人生に見切りをつけて、死ぬことを選んだはずだった。それなのに、どうしてかこんな意味のわからない極限の状況下にいて、「ただ匂いを嗅いだだけ」で、生きるために行動をしてしまっているあべこべな自分がいる。匂いを嗅いだだけでは、ここまでの生存衝動に駆られることはこれまでなかったはずなのに——。
ピトっ、と。
天井から水滴が垂れ落ちたかのように、右手が恐ろしく冷たい何かに触れた。
慎重に触って確認すると、水瓶のような何かであることを知った。そして、その中にたっぷりと溜まっているものが匂いの主であることは否が応でも理解できた。
牛乳。
俺は目の前にあるそれの正体に気づいていた。
それを認めた途端、乾いた喉から手が無数に這いずり出てくるようだった。次の瞬間には、それがそもそも飲めるものなのかも、飲んでいいものなのかも確認せずに口をつけていた。
「――ッ!」
飲んだ瞬間、脳天を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
牛乳——じゃなかった。
何かに乳であることは間違いないが、食材そのものが持つ
液体なのに、まるで厚切りのステーキ肉を頬張っているような満足感があった。蜂蜜のような濃厚な滑らかさと気品のある甘い味わい。数十種類のスパイスを配合したような複雑な風味が鼻腔を抜けると、雨風に打たれながらも悠久の時を重ねる大地を彷彿とさせるような奥深い余韻が口内に残った。
【食…——S …——り…ゅう》————ット——功】
ノイズ混じりに何か淡々とした声が聞こえた気がしたが、今はそんなことなどどうでも良くて。
聴覚も、視覚も、嗅覚も、触覚も——。
全てが躍動し、衝撃的な出会いに感情を爆発させている。
でも、本当に、そんなことはどうでもよくて——。
気づいたら、何かが頬をつたって落ちていった。
それは詮が抜けたように、とめどなく溢れてきて。
俺は嬉しくて、その溢れる涙を隠すようにさらにそれを飲んだ。
水瓶の中に入った謎の液体を、受け皿に入れられた水を飲む猫のように、一心不乱に飲み続けた。
お腹も、心も、全てが満たされていく。
久しぶりに感じる「生」の感覚。
——ああ、これは間違いない。
失ったはずの味覚が戻っていた。
味覚を失ったシェフのやり直しグルメライフ〜異世界転生した先は神々が究極の美食を堪能するためだけに創生した楽園でした〜 塩少々 @noberuberu
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