味覚を失ったシェフのやり直しグルメライフ〜異世界転生した先は神々が究極の美食を堪能するためだけに創生した楽園でした〜
塩少々
プロローグ
最初の違和感は鏡を見たときだった。
舌に小さな白い点を発見した。
すぐに治るだろうと思って放っておいたが、日が経つにつれて酸っぱいものや熱々のコーヒーを飲むとやたらと痛みが走るようになった。
『あなたが29歳で働き盛りなのは理解していますが、1日18時間を厨房で過ごしているみたいだ。仕事によるストレスで、無意識に舌を噛んでしまっているのでしょう』
恰幅の良い医者には呆れられるように働きすぎと診断された。
デスクには仲睦まじく並んだ4人家族の写真が飾られている。趣味で釣りをするのだろうか。船上で巨大なクロダイを釣り上げている男性が満面の笑みでこちらを見ていた。
価値観の違いかな。
そう結論づけ、厨房にいる時間はそれ以降も変わることはなかった。
29歳の夏。ちょうど夏野菜たちが旬を迎える頃。
セミが悲願の地上進出に喜びを爆発させているように、俺は料理に全ての時間とエネルギーを捧げていた。
小田急小田原線と東京メトロ千代田線が交差する代々木上原の一角。
開店から4年を迎えるお店の経営は順調だった。
国産の食材にこだわり、フレンチのテイストを交えた和モダンな創作料理。
一年目には一つ星。2年目と3年目に二つ星。今年こそは三つ星を獲ると食通たちの間で噂されていた。
休んでいる暇などはなかった。
ただひたすら料理に溺れているこの瞬間が楽しくて、自分のことも、周りのことも見えていなかったのだろう。
舌に違和感を覚えて数ヶ月のこと。
銀座にある老舗の鮨屋で、経営する店の出資者と食事をしている時、ふとその話をしてみた。
心配をされ、すぐに知り合いだという別の大きな病院を紹介された。
その日は溶けるような暑さなのに、病院内はやけに涼しかったのを覚えている。
外では蝉が、残り短い余生に爪痕を残すようにけたたましく鳴いていた。
『これ以上進行してしまった場合、それに伴う舌の大部分の切除を執り行い、生存率は30%で——』
大画面に写し出される複数のC Tスキャンの写真。
鼻をつく様な医薬品の匂いが気になる。
白に統一された室内で、写真のある一点を親の仇のように執拗に指しながら淡々と説明をする医者。
まるで辻褄が破綻したB級映画を眺めているように感情が置いてきぼりを食らっている。
『——味覚は失われます』
現実味のない世界を彷徨っていた俺は、その一言で現実へと引きずり戻された。
それはシェフにとっては死刑宣告そのものだったから。
今後の治療計画の説明を受けて病院を後にした俺は、誰かにそれは嘘だよと言って欲しくて出資者に電話で報告をしていた。
『今はゆっくりで治療に専念してくれ』
彼の判断は迅速だった。
営業日と営業時間を変更し、治療に専念できる環境を作ってくれた。
そして、世間にこのことを包み隠さず公表する決断をした。
将来的に三つ星を作るために作られたレストランだ。味に敏感な客が多く通うため、そこを誤魔化すことはできない。下手に誤魔化してブランドを傷つけるよりも、傷つく前に対策し、被害を最小限に抑えて将来への可能性に賭けたのだろう。
『何よりも、僕は君の作る料理のファンなんだ』
『その神の舌は、絶対に失わせない』
『君は必ず三つ星の獲るシェフだから』
そう言って彼は電話を切った。
それから数日後、世間へ全てが発表された。
“【神の舌】消失!”
“《テラ・ディヴィーナ》シェフ
“新進気鋭の天才シェフ。史上最年少三つ星獲得は絶望的か……”
名声に興味がなく、メディア露出を極力避けていた一介の料理人の話題など、その界隈だけで盛り上がって大部分の世間は放っておくと思ったが、それは意外な形で話題となっていった。
“《テラ・ディヴィーナ》元スタッフが暴露! 輝かしい栄光に隠された天海大地裏の顔”
『——…そうですね彼の振る舞いはまるで王様のようでした』
『自分の考えている通りに動かなければ「厨房から出ていけ」と怒鳴られるのは日常茶飯事で……』
『料理の世界がそういうところだというのは覚悟の上でしたが、今のご時世、暴力はダメかと……』
『朝の5時には厨房にいて機材のセットなんかをして……帰るのは12時過ぎ。終電もないので片道1時間の道を歩いて帰っていました。タクシー? 最低賃金で働かされていた下っ端には身に余る贅沢ですよ』
『客席の天国のような雰囲気とは隔絶されていました。まるで地獄のような厨房でしたね』
『辞めていった人たちの数は途中で数えるのを辞めました』
『——…はい。彼の下で働いて僕も料理人として生きる道を諦めました』
《テラ・ディヴィーナ》元スタッフだと名乗る男が、暴露系配信者にしたリークが、同時期にネットで一気に拡散したのだ。
インタビュー形式で進むおよそ20分程度のその動画は、テロップで毒々しく強調され、視聴者のニーズを満たすように添加物まみれの編集がされていた。
その動画を基に、嫌な部分だけ切り抜きされ、編集され、都合よく解釈される。ネットでその飛び火は燃え広がっていった。
実際に店を利用したことのある者が、S N Sで「隣の客と対応があからさまに違ったかも〜」と呟いた。丹精込めて作った野菜を売り込みにいったが、一口食べるなり「親を選べない野菜たちが可哀想だ」と門前払いを食らったという生産者の呟きまで現れた。
事実に紛れて、根も葉もない物語が世間によって掘り返されていく。
料理に命を捧げる覚悟で厨房に立っていた俺にとって、料理人は皆、同じく熱い意思を煮えたぎらせている同志だと思って接していた。
ましてや三つ星を寸前とされていた世界屈指の精鋭たちの集う厨房だ。
最高のクオリティを実現できるのであれば、それが誰かを傷つけ、壊し、血で血を洗うことを厭わなかった。
スタッフ間の昔ながらの上下関係や躾という名の暴力行為も、店の起爆剤として見てみぬふりをしていたことも事実だし、生半可な覚悟で包丁を握る料理人に対して感情を爆発させ、つい口調が荒立ってしまっていたことも事実。どうしてそのレベルのことができないのだと苛立ち、呆れて、スタッフを切り捨てることにも容赦がなかった。
業者だろうが、それは対等だ。野菜の件も身に覚えがあった。
それを言えるだけの努力をしてきたし、結果も出してきたつもりだった。
料理人は、皿の上でしか自分を表現できないし、語れないのだ。
やられたらやり返せばいいだけ。悔しくて、憎らしくて、恐ろしくて、殺したくて感情が爆発し壊れてしまいそうなら、皿の上でそれを表現して、皿の上で殺し返せばいいだけ。
結果が全て。
そうやって育ってきた俺にとって、なぜ周りはそうしないのか不思議で仕方がなかった。
「おい、何だこれ、薄すぎるぞ」
「誰だ! この味付けしたヤツは——」
粛々としながらも熱の籠っていた厨房が一瞬にして静まり返った。
静寂。まるで犯罪者を見るような視線が突き刺さる。
その反応で察してしまった。
また、味覚が鈍ってしまっていたのだと。
「いや、塩はもういい……すまない」
1日、また1日とお店に人はいなくなっていった。
どれだけ劣悪な環境でも、俺の技術を学びたい一心で耐えていた若者も。
質のいいジビエを卸してくれていた業者や老舗ワイナリーの生産者も。
妻にプロポーズをし、それからは毎年結婚記念日に必ず利用してくれた夫婦も今年の利用はなかった。
——結果が全て。
その言葉は自分に返ってきた。
『残念ながら、癌は予想以上に進行しており、治療の効果が十分に現れていません。現段階だと、手術を本気で検討する必要があります』
その頃には薬の副作用で嘔吐することが増えていた。
倦怠感や食欲不振が連日続き、気付けば精神的にも肉体的にもボロボロになっていた。
『レストランを閉店しようと思うんだ』
出資者からそう告げられた。
驚きはしなかった。味覚を失いつつあるシェフに価値はないのだから。
せめてもの情けなのか、完治するまではサポートしれくれるとも言った。
その提案に対して感謝を伝え、でも、丁重にお断りした。
俺の意思はもう決まっていた。
今にして思うと、上に立つ者の器でなかったのだろう。
ただ純粋に料理に向き合っていたかった。
仲間とか、お金とか、地位とか名誉と世間体とか。
そういったしがらみにとらわれず、ただ食材たちと戯れていた頃が楽しかった。
料理人として——いや、食を生きがいとしている人間として、味覚の機微が薄れゆく人生に興味はなかった。
季節は食欲の秋になっていた。
あれだけうるさかったセミの声はもうどこからも聞こえなかった。
——それからしばらくして、天才シェフ・天海大地の訃報が世間を賑わせるのだった。
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