猫カフェ♡CATすとりーと

宵宮祀花

愛の記憶


 残業に次ぐ残業で、精根尽き果てた深夜の帰り道。

 楽しそうに大声で喚く酔っ払いを恨めしく思いつつ、一人歩いていたときのこと。


「猫カフェ……?」


 ふと目に留まった『CAT♡すとりーと』という可愛らしい看板の喫茶店。最初は猫耳つけたお姉さんが接客する店だと思ったが、良く見ると従業員一覧が本物の猫。キジトラにハチワレにミケに茶トラ。どの子も可愛い。

 深夜営業の猫カフェなんて珍しいな、と思ったときには既に私の手は扉にかかっていた。疲れていたんだ。癒されたいんだ。頭の中で自分に言い訳をして扉をくぐる。


「いらっしゃいませー!」


 奥から響く元気な声。

 見ればロングメイド服を着て頭に猫耳カチューシャをつけた可愛い女の子がいて。あっ、やっぱそういうお店だった感じ? と思ったのもつかの間、床に、ソファに、カウンター席に、あらゆる場所に猫がいた。

 よくよく見れば、メイドさんも白髪に青と金のオッドアイで白猫さん風だ。こんなところでも世界観を作ってるなんて凄いなぁ、って感心しちゃう。


「一名様ですか?」

「あ、はい」


 お好きな席へどうぞと言われて、折角なのでソファ席を選んで座った。向かい側に座っている猫さんは錆猫さん。チラッと此方を見たけど欠伸一つして丸くなった。

 うん、実に猫さんだ。


「メニューとおしぼりどうぞ。お水置いときますね」

「ありがとうございます」


 ごゆっくりーなんて言って離れようとするメイドさんに「あの」と声をかけた。

 振り向いたメイドさんの目が、きょとりと瞬く。


「あ、えっと……深夜営業の猫カフェって珍しいですね」

「みたいですねぇ。でも猫は夜行性なんで、寧ろこのほうが働きやすいんですよー」

「なるほど」


 言われてみれば。

 猫さんたちはカフェの中で自由に過ごしている。けど、テーブルに乗っている子は一匹もいない。奥に設置されてるキャットタワーと猫ちぐらで走り回っている子も、興奮してこっちに暴走してくるなんてこともない。皆いい子たちだ。

 メニューを開くと、軽食やデザートも猫モチーフだった。肉球焼き印パンケーキや猫のピックがついたミックスサンド、にゃんにゃんパフェに、季節柄だろうか、黒猫カボチャのクリームプリンなんかもある。

 頁をめくっていくと、最後に『特別メニュー』なるものがあった。


「これ……」


 ゴロゴロ野菜のクリームパイシチューと書かれたそれは、他のメニューと異なり、器が猫ちゃん柄ってだけで料理に猫モチーフは使われていない。でも私は凄くそれに惹かれて、メイドさんを呼んだ。


「はーい、お伺いしまーす」

「あの、この特別メニューってまだありますか?」

「ございますよー。それにしますか?」

「はい」

「お飲み物はいかがですか?」

「えっと……じゃあ、紅茶をください」

「畏まりましたー」


 カウンター奥のキッチンへ下がっていくメイドさんと入れ違いに、一匹の猫さんが近寄ってきた。その子を見た瞬間、私の涙腺がギュッと絞られた感覚がして、慌てて顔を伏せて眉間を摘まんだ。

 猫さんは構わず私の隣に飛び乗り、のそりと膝に乗ってくる。その仕草が、程良い重みが、多忙な日々にかこつけて心の奥底へと追いやっていた記憶を呼び覚ます。


 ――――私は以前、猫を飼っていた。

 サバトラの男の子で、名前は小太郎。男の子のわりにはとろんとした手触りで少し小柄な子だった。なにをするにも一緒で、大好きで、朝から晩までずっと傍にいた。親の声より聞いた喉のゴロゴロ音も、控えめな音量で高い声の可愛い『にゃー』も、全部が大好きだった。子供らしく、ずっと一緒にいられると根拠もなく思っていた。

 あの子が病気になってからも、私たちは一緒だった。母親が口内炎で膿が出たのを臭い臭いと聞こえるように言うのを、泣いて「小太郎は臭くない!」と叫んだ。夜も一緒に寝て、朝晩毎日おしめを取り替えた。

 日に日に弱っていくのがつらかったけど、一番つらいのはあの子だからとひたすら傍にいて、撫でて、抱きしめた。暴れる力もなくなっていたから、病院に行くときはわたしが膝掛けにくるんで抱っこしていた。点滴や薬で延命もしたけど、白い前足に巻かれた包帯と刺さりっぱなしの針が痛々しくてつらかった。どれもこれもあの子に生きてほしかったからだけど。

 いま思うとそれが自己満足に過ぎなかったんじゃないかと、本当はあの子はずっと苦しいだけだったんじゃないかと、尽きない後悔が押し寄せてくる。

 だから私は、あの子を最後に猫と関わらなくなっていたのに……どうしてだろう。表の従業員一覧の写真にサバトラの子を見た瞬間、私は此処を訪ねていた。


「……不思議。君が私を呼んだのかな?」


 なんて。同じ模様だからって同一視するのは、あの子にもこの子にも失礼だよね。


「お待たせ致しましたー」


 メイドさんの明るい声に、ハッとして顔を上げる。

 我に返ると途端にトレーの上に乗ったパイシチューの香りを感じて、お腹がか細く空腹を訴えた。そういえば、お昼もまともに食べてなかったっけ。


「此方クリームパイシチューと、紅茶ですー」


 ごゆっくりどうぞ、と言い残して、メイドさんはカウンターに戻っていった。

 膝の上の猫さんは相変わらずまったり寛いでいて、背中を撫でると、とろんとした懐かしい手触りを感じた。お尻を覗いてないからこの子の性別はわからないけれど、男の子だったらお揃いだなあ、なんて思う。

 持ち手の先が猫の形になった銀のスプーンを手に取り、パイ生地をサクサク崩す。その音に猫さんの耳がピクリと反応した。


「猫さんもこのパイ好きなのかな? 音が気になるだけ?」


 見下ろして訊ねたところで答えるわけもなく。

 ただ、代わりにメイドさんが「うちの食べ物は全部猫ちゃんNGの食材使ってないですよー」と答えてくれた。言われてシチューをかき混ぜてみたらタマネギが入っていなかった。

 ひと匙掬って吹き冷まし、口に運ぶ。とろけるシチューのほのかな甘みと大きめに切られた人参、ほろほろ崩れる良く煮込まれた鶏肉に、パイ生地の香ばしい食感。

 全てが過去に置いてきたはずの記憶に結びついて、私はとうとう涙を零した。


「ごめんね……ごめんなさい……」


 いい年した大人が突然スプーン握りしめてグズグズ泣き出して、メイドさんもさぞお困りだろうと思うのに、一度決壊した涙腺は仕事をしようとしない。 


 あの子も、シチューが好きだった。

 普段は人間の食べるものをほしがったりしないのに、わたしが作るシチューだけは毎年おすそ分けを期待して、膝に居座っていた。タマネギを使わない、人参と鶏肉のシンプルなシチュー。指先にちょっとつけて舐めさせてあげると小さな声で鳴いて、あとはずっとご機嫌で膝の上でゴロゴロ言っていた。

 袖で涙を拭って目を開けると、膝の上の猫さんがじっと私を見上げていた。


「どうしたの?」


 何だか恥ずかしくて今更平静を装って訊ねてみたら、小さな声で控えめに鳴いた。

その声もあの子にそっくりで、止まったはずの涙がまたぐっと押し寄せそうになる。


「あ、の……ちょっとだけ、あげてもいいですか……?」


 怖ず怖ずと伺う私に、メイドさんは親指と人差し指で丸を作ってokポーズをして見せながら笑った。

 許可をもらったので、指先にちょっとだけつけて、鼻先に持ってきてみる。匂いを嗅いだ勢いで鼻面にシチューがついて、ピンクの舌がそれを舐め取った。それから、指についたシチューを美味しそうに舐めて、とっくに味なんかしなくなってるはずの指を舐めていたかと思えば全然関係ない隣の指まで舐め始めて、そのあいだもずっとご機嫌に喉を鳴らしていて。それがあまりにもあの子と同じで。


「小太郎……」


 気付いたら名前を呼んでいた。

 猫さんはまん丸な瞳で私を見上げて、小さな高い声で一つ鳴いた。

 耐えきれなくなって、溢れんばかりの後悔と愛しさが涙となってボロボロ零れた。泣きながら抱きしめる私の耳元で、優しい音がする。ずっと昔に失ったはずの体温が腕の中にある。やわらかな最愛の命。私の家族。大好きな弟。


「ねえ……小太郎は、しあわせだったかな……?」


 嗚咽を漏らす私の耳元で、控えめな声量の高い声が一つ、聞こえた。



 気付いたら私は、自宅ベッドで目を覚ました。

 あれは夢だったんだろうか。だとしたらいつの間に帰宅して、シャワーも浴びて、部屋着に着替えてから寝たんだろう。飲酒した覚えもないのに記憶がない。


「幸せな夢だったな……」


 一抹の寂しさを覚えつつ、のそのそと布団から這い出ると、枕元になにか置かれているのに気付いた。


「CAT♡すとりーと……?」


 夢で見た猫カフェの名前が書かれたコースターだ。白い円形のコースターに茶色のインクで店名とロゴが印刷された、何処にでもありそうな作りの可愛いコースター。

 何となく裏を返すと其処には、こう添えてあった。


『しあわせをありがとう』

 『ずっと だいすき』


 ただのお店のサービスかも知れない。

 思い込みでも、都合のいい夢でもいい。

 それでも私は後悔と共に、あの子の心を信じて生きていく。


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