アル駅のこと

鈴ノ木 鈴ノ子

アル駅ノコト

 卯野原洋一が28歳の誕生時間を迎えたのは、毎年やってくる9月25日の午後2時28分のことだった。

 彼は畑の真ん中で夏を過ぎても照りつける日差しを浴びながらカカシのようにぼんやりと一点を眺めていた。

 ただ、ただ、ぼんやりと眺めていた。

 腑抜けていたわけではない、畑の先にある陽炎がゆらめく道路の先、そこに電車の駅があって、あたりまのことだが駅舎もある。古びた駅舎だ。平屋建ての瓦葺き、確か雨漏りもしていた。駅舎内は綺麗に片付けられていて、駅員室も待合の椅子もない。線路の敷石隙間から草が生えてはぐんと伸び、辺り一面好き放題に暴れていた。その草達に囲まれてまるで包まれるかのごとく、古びて錆の汗をかいた電車がポツンと留め置かれていた。

「どうした、洋一」

 草刈鎌を持ったまま、ぼんやり駅を見ている息子に父親が声をかけた。

「父さん、先生がいる」

 そう言った息子の表情はぼんやりではなくなっていた。とても真剣な眼差しをしている。

 指先が指し示す先を目線で追ってみたが、父親の目には伽藍堂の寂れた駅舎が見えるだけだった。

「どこだ?」

「駅舎のとこ、ほら、駅名板の横!」

 古く立派な柱が二本立つ駅舎の出入り口に駅名板がぶら下がっていた。風に揺られてカタンコロンと乾いた木製板特有の音がその風に乗り聞こえてきていた。

「誰もいないぞ?」

「いや、確かに、先生が立ってる、迎えに行ってくるよ」

 息子は真剣に言った。

 父親は暑さで頭がどうかしてしまったのではないかと心配したが、隣でそのやりとりを聞いていた母親は父親の肩にポンと手を置いて言葉を遮る。

「大丈夫、よくあることよ。私も時もそうだったでしょ?」

「だったかなぁ」

「そうよ、お義母さんが言ってたわ、あなたがいきなり駅へと駆け出していって、頭が狂ったかと思ったけど、戻ってきたら私を連れていたって……」

 父親の右手を柔らかなぬくもりが掴む。

 その長年連れ添った母親の手のぬくもりを父親も愛おしさが滲み出るほどに優しく優しく握り返した。

「時が来たのか」

「ええ、時が来たのよ」

 息子は畑の畦を走っていた。

 全身を躍動させ、汗を煌めかせ、まるで風と共に駆け抜けてゆくスプリンターのように、早く、早く、一時も無駄にしたくないとでも言いたげに。

「立派になったなぁ」

「ええ、そうね」

 駆け抜けてゆく姿に息子の成長を垣間見れた気がして感慨深くなった。

 18年前の冬、駅舎の前で寒さに震える幼子を見つけた。ガチガチと歯を鳴らして薄着で震える可愛らしい顔をした幼子を2人は自宅へと連れ帰り、そして行くあても戻るあても失ってしまった幼子を息子として育て始ることにした。

 そのままにしてしまったら、寂しさから幼子の体が霧のように霧散してしまうことは明白であり、この小さな命を私達が守らねばと心に誓った。

 こちらとあちらを行き来する手立てを、長く生きる村長から学んで習得した息子は、あちらの学校で学びながらこちらに帰ってきてはその日の出来事を語ってくれて、それを聞くことが2人の楽しみだった。

 息子が高校生となったとき、町でちょっとしたいざこざに巻き込まれて、両親はあちらに出かけて行って、息子は悪くないのにも関わらず、手を出して殴ってしまったが故の暴力行為の謝罪のため、こちらの菓子折りを持ってお詫びして回った。

 喧嘩の原因は些細な理由ではなく、大変な問題を含んでいたが、被害者面をした加害者の親達がそれを隠蔽した。優しく厳しく指導をして、慕われていた女性教諭が1人、遡行の悪い生徒達から暴行され傷ついたことをまったく無かったことにしたことに対して、息子は憤慨し立ち向かった。

 それが今回の騒動の本当の顛末なのだが、世間はそれを冷ややかな目で無かったことのように見つめたのだ。

「洋一くん、私は大丈夫だから」

「先生、無理しないでよ」

 頬にガーゼをして教師として毅然と立ち向かう姿に息子は心配と憧れとそして仄かな恋心を抱いたようでもあった。

 だが、世間は冷たい。

 もちろん当たり前のことだ。2人の関係を愚かな目で見つめ、ありもしない噂の煙を発煙筒を焚くよう遡行の悪い生徒達が呟くと、枯野に火を放つ如く燃え広がった。

「もう、いいの!私も苦しいの、でも、それ以上に洋一くんを巻き込むことも苦しいの!未来がある子の重荷にはなりたくない!ごめんなさい、私にはこうするしかないのよ」

 夜遅くの職員室、したくもない退職の届を出した先生は、机を片付けながら必死に説得した息子にそう心の内を吐露して去っていってしまった。

 去り際に息子は先生の手荷物の中にそっと手紙と切符を入れた封筒を忍ばせた。手渡せば断られる、だけれど、もしこの荷物を開けて遂に気がついてくれることがあったのなら、開く気持ちがあったのならと一縷の望みをかけたのだ。

 悔しさと辛さに咽び泣ながら話してくれた息子に私達は寄り添うことしかできず、暫く抜け殻のようになった姿を見守ことしかできない。でも、再び一歩を踏み出した息子は教師を目指し大学に進み、3年前からあちらの小学校の教師として勤めている。

 息子の姿は駅舎へとたどり着いた。駅名看板の前で息を切らして姿の見えない誰かに話しかけた。

 やがて薄らと人形が見え、それはやがてしっからとした姿に至る。黒いTシャツにデニムパンツ、薄手の白いショールを纏った先生だった。

「あら、先生ね」

「ああ、先生だな」

 私達はホッと胸を撫で下ろし、そして父親は手を真上に挙げて大きく手を振ると、気がついた息子が何かを呟いて、先生が慌ててこちらに頭を下げた。

 駅名の看板がカタンカタンと強い風に吹かれ、嬉しそうな音を立てた。


 駅名は睦びの月を冠している。

 良縁を睦び。悪縁を断つ。仲を睦ぶ幸多き名。

 駅名を「きさらぎ」と言う。

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