奇跡

新出既出

五分後の虹を濡れずに見に行こう

秋雨の昼下がり、ロケットの打ち上げを待っていると、隣に座った女の子が、雨粒をみんな目玉で受けようとしていた。

この世には、絶対に失敗するロケットの打ち上げよりも絶望的なことがあるんだ。

彼女のピクニックシートはレインボー柄で、象が耳で空を飛びながら、こう言っているイラストが描いてあった。


五分後の虹を濡れずに見に行こう


そういえば最近、虹はなぜだか、ありふれたものにおちぶれてしまった。

あんなに不思議で、あんなにきれいで、あんなに儚くて、あんなに巨大なのに。

とはいえ、わたしだって連絡船を一便遅らせてまで5分後の虹を待ったりはしない。

虹は偶然見つけるから尊いのであって、目的地にするものじゃないと思う。


じゃ、来週、虹の下で、四時に。

OK。


例えば、波止場経由のバスを待っている夕空に虹がかかってくれたら、バスが来るまでは虹を感じて過ごしたい。

そしてその間、わたしは時制の定まらない日記の続きを書き続ける。日記に句読点を打つたびに、わたしは虹の所在を確認し、信じていたよりも遥かに巨大で、はるかに夢のような虹を確かめずにはいられないのだ。

もちろん、やってきたバスを見送ってまで眺め続けたいとは思わない。ただ、虹は待ち合わせに丁度いい奇跡だということを言いたいだけなのだ。


今はロケットの打ち上げを待っている。


五分後に雨が上がったら、発射台に虹がかかるかもしれない。

大勢の人が、大切な人と同じピクニックシートを分け合って、同じ方角を眺めている。

発射の時間が近づくにつれて、それらの眼差しは、祈りのように、静かに澄んでいく。


けれど、隣で一心不乱に雨だれを目玉で受け続けている女の子は、今のところ、ロケット発射には目もくれず、ただひたすら、虹になれなかった雨だれを瞼の裏に埋葬し続けている。


彼女は虹が好きだろうか?


と、クエスチョンマークを日記に記した瞬間に(地球と呼ばれるこの星を濡らす最後になるかもしれない)雨だれがインクを滲ませて、うるうると文字を喰いながら、彼女のピクニックシートの上に、ボトボトと鼻血のような赤を零した。


わたしは彼女を見た。彼女もわたしを見ていた。

「ごめんなさい」がハモった。


その日、発射台に虹はかからず、ロケットはやっぱり排他的経済水域に落下した。

それは宇宙的規模においても、地球的規模においてもありふれた出来事だったけれど、わたしと彼女という個人的規模においては重要な、友好条約締結の千倍くらいハートウォーミングな関係性の第一歩だった。


わたし、タケチマミウナ。日記を書いています。

わたしは、キラサギサギリ。最近、猫と話せるようになったの。


それからお互いにどう呼び合えばこの記念日を忘れずにすむかを議論した。

空に三度虹がかかっては消える間、議論は平行線のままだったから、多数決をとったら、ネエ、という呼び方が二票を獲得した。


ネエ。タマとキサも悪くなかったけどね。

ネエ。アメとニッキだって捨てがたかったよ。


お互いに同じ名前で呼び合っても、わたしたちの間でこんがらがることはない。

これはとても大切なことだよね、と、ネエが言って、わたしたちはうなずきあった。

でも同時に、こんがらないというのは、悲しいことでもあるよね、と、ネエがいった。

それで、わたしも改めて、本当にその通りだと思ったから、たまらなくなってネエを抱きしめた。

ネエは小刻みに震えていて、わたしも同じように震えていたので、抱き合って体を密着させると、二人の振動が倍増したり打ち消し合ったりする感覚が痺れるような、くすぐったいような感情を芽生えさせた。

これがビックバンの0.00000000000000000000000000000000000000000000000000000001秒前くらいの状況だったりしないだろうか。


ネエ。どうして今が大事か教えてあげようか?

ネエ。ごめん。今は、別のことを話したい。

どんなこと?

ネエ。あの丘で、ネエはどうして雨を目玉で受け止めようとしていたの?

傘がなかったから。目玉は濡れてもいい場所でしょ。

口は?

酸っぱいのイヤ。

目だって、沁みたんじゃない?

どーってことない。お豆腐よりぜんぜん平気だったし。

お豆腐?

ネエ。知らないの?! お豆腐って目に沁みるんだよ。

お豆腐が目に入る状況なんてないんですけど。

えーあるよ。角に頭をぶつけてる最中とか。


それでわたしは、ネエが誰かに「死ね」と言われたことがあることと、言われた通り死のうとしたことがあったことを知った。

この世には、同じ名前で呼び合ってもこんがらないことよりも絶望的なことがあるんだ。

そしてそういう絶望の世界でしか幸せは爆発しないんだってことが、たまらなく愛おしかった。


ネエ。じゃあおまんこは?

ネエ。唐突だね。

だけどさ、おまんこなら濡れてもよくない?

そうだけどさ、ネエ。わたし、そこには嘘をつきたくないんだ。


空が濡れると虹が立つ。

わたしとネエは、この先、あと、いくつの虹を見送るのだろう。


本当だよ。最近、ネコと話せるんだ。帰るとずっと、ネコと話してるんだ。

ほんとうに?

ほんとうだよ。

信じられないよ。

猫はわたしのことをピストンレールって呼ぶんだよ。

どういう意味で?

知らない。猫の言うことだもん。

猫に聞いてみるしかないのか。

そうよ。

こんど、家にいってもいい?

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