とつこもつこ
壱原 一
わたくしごとで恐縮ですが先ごろ勤め先の上司が変わりまして、これがまたすこぶる個性の光る逸材であらせられる。
例えば当方のデスクがパーティション(衝立・間仕切り)を挟んで右に上司と隣り合っているのですが、上司は着任の日、いかめしい面持ちで威厳ある挨拶もそこそこに、デスク右端の書類棚の上へ卓上鏡を置きなさる。
すわ身だしなみに余念ない社会人の鑑かと思えば、やたら背もたれへもたれ掛かって鏡の角度を調整し、どうやら斜め後ろから鏡像にて当方の様子を窺っている風情。
自デスクに向かう視界の端で一連の挙動を見届けている当方の胸中たるや、戦慄ここに極まれりと言ったあんばいで、こいつはとんでもねぇ御仁がきなすったぜと脂汗を掻きながら午前を乗り越え、昼に上司から誘われた蕎麦屋で「どうして蕎麦を頼まないのか」と問われ「すんません自分そばアレルギーなんで」と答えるなり痛恨の一撃をかまされてしまいました。
いわく「あなたは事前にリスクがあると分かっているタスクについて上司である私に報告せずご自分で対処しようとする方なんですね」とのこと。
以後、上司と当方とに醸成された空気については語るまでもないでしょう。
そんな訳で当方は退勤後これが飲まずにいらいでかの毎日を過ごしており、帰路は疲労と酩酊から常態的に脳の働きが鈍っていました。
千鳥足で歩く自宅への道の半ばに、もう畳んでしまわれた一面ガラス張りの習字のお教室跡がありまして、そのガラス窓の前に飲み物と煙草の自動販売機が並んでいます。
深夜、びかびか光るそれらの自動販売機へたどり着いたら、それぞれから水とわかば(煙草の銘柄)を買って、のんで一息ついてから残りの道程をこなすのがルーチンです。
習字のお教室跡はもう畳んでしまわれているので、一面ガラスのドアや窓にポスターだかカレンダーだかの裏側とおぼしき真っ白つやつや大判の紙がセロハンテープでべたべた貼られ塞がれています。
その夜はテープの一角が剥がれたらしく、真っ白な紙の一枚がべろんと内側へめくれて、頼りない街灯の光では何も見て取れぬほど真っ暗なお教室跡の内部があらわになっていました。
水を買って、わかばを買って、取り出し口から取り出すために屈んだ背中をよっこら戻すと、必定、自動販売機の奥のガラス窓と向かい合う一瞬が生まれます。
普段は真っ白つやつやな大判の紙が街灯の弱い光を受け流すばかりですが、その夜は真っ暗なお教室跡の内部に向かい合う当方がガラス窓につるんと映りました。
お教室内部を見たことがないので、内部がどうなっているのか全く想像がつきません。
つい、真っ暗なお教室内部がどうなっているのか補完しようと、てんで鈍っている脳みそが要らない労力を裂きはじめ、いやいやそれには及ばないよと視線を落として背後の道路へ振り返りかけた刹那、真っ黒なガラス窓と、びかびか光る自動販売機の背面の間に、ほっそりした人が挟まっているのを発見しました。
地面に仰向けに寝そべって、頭をガラス窓に預け、ちょうどこう、ややお行儀の悪い、とてもリラックスした姿勢で、スマホを見るような具合ですね。
その姿勢で顔だけこちらへ真横に据え、ほそおい隙間にほっそりした人が挟まっていて、当方と目が合うと不意を突かれた風に頬のあたりをぴくりと震わせ、それからなにか気まずそうに、愛想よく場を取り持つように、ぐぐぐと喉をけいれんさせて、かすれた声で呟きました。
とつこもつこで…
地面に仰向けに寝そべっていて、当方のすねくらいの位置から呟かれたので、聞き違いかなと思いました。しかし自動販売機のぶぅーん…という稼働音が耳障りなまでによく聞こえるくらい静かだった記憶があるので、たぶんそう言ったと見込んでいます。
当方は先から述べているように、非常に頭が鈍っていたため、「そうですか…」とうなりつつ自動販売機の前へ視線を運び、その人の姿勢からして、当然、自動販売機の下の隙間から両足の先が突き出しているはずなのに、爪先も見えないなんて変なのと不満に感じました。
自動販売機の下の隙間に足を曲げるスペースなんてありませんから。もしかして自動販売機の中に空洞があって、そこで膝をお山にして隠しているんだろうか。
ていうか「とつこもつこ」ってなに?
にわかに面白くなってその人に訊こうと笑顔でガラス窓と自動販売機の背面の間へ視線を戻すと、そこにはもう誰もいませんでした。
そもそも人が挟まれるような隙間ではありませんでした。
ほわんとした違和感が徐々に怪訝へ固化してゆき、どうも妙だと内心で言語化され、困惑して無為に顔を上げるなり、真っ暗なお教室跡のガラス窓に、思いも寄らぬほど強張った自分の顔を目撃し、「これ怖いのでは」と思い至って早々に帰宅しました。
そうして今日しったのですが、「とつこもつこ」は東北某県で「もつれた」「からまった」状態を指す言葉だそうで。
あの夜じかんが経つにつれ冷や水をぶっかけられたように脳と背筋がぞわぞわ冷えていった結果、翌日いたく冷静になり勤め先のお悩み相談窓口を訪れました。
昼食の歓談の折、経緯や発話者を脚色して未知の言葉「とつこもつこ」を話題に挙げたところ、新しい上司からお国の言葉でそう言うと教えてもらった次第です。
終.
とつこもつこ 壱原 一 @Hajime1HARA
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