第9話「嵐を越えて」
早朝の研究室に、早乙女燐の指先が軽快に踊る音が響いていた。彼女の瞳は、モニターに映し出される複雑なデータの海を泳ぐように動き、時折満足げな微笑みを浮かべては、キーボードを叩く速度を上げる。窓から差し込む朝日が、彼女の長い黒髪を優しく照らしていた。
ふと、燐は深呼吸をして背筋を伸ばした。その仕草は、これまでの彼女からは想像もつかないほど自信に満ちていた。慎ましやかな姿勢をとり続けてきた燐だが、今や研究への情熱が彼女の内側から輝きを放っているようだった。
「これで……きっと」
燐は小さくつぶやき、モニターに映る最終的な研究結果に目を細めた。長い月日をかけて開発してきた新たな乳がん検診法。それは単なる医学の進歩だけでなく、彼女たちの住む世界そのものを変える可能性を秘めていた。
そのとき、研究室のドアが静かに開いた。
「やはり来ているか。相変わらず早いな、燐」
鷹宮翔の穏やかな声に、燐は振り返った。
「おはよう、翔さん」
燐の声には、かつての緊張感はなく、親密さと信頼が滲んでいた。二人の間には、長い時間をかけて育まれた深い絆が感じられる。
翔は燐の隣に立ち、彼女の肩に優しく手を置いた。
「最終確認は終わったのか?」
「ええ、もう大丈夫よ。これで発表の準備は整ったわ」
燐の答えに、翔は満足げに頷いた。彼の瞳には、燐への深い信頼と、どこか切ない思いが混ざっていた。
「燐、君は本当によく頑張ってくれた。この研究は、君のおかげで成功したんだ」
翔の言葉に、燐は少し赤面した。彼女は、ゆっくりと立ち上がって翔と向き合った。
「いいえ、翔さん。これは私たち二人の成果よ。私一人では、ここまで来られなかった」
燐の瞳には、翔への感謝と、言葉にできない想いが宿っていた。二人は無言で見つめ合い、その瞬間、研究パートナー以上の何かを感じていた。
しかし、その静寂は長くは続かなかった。
「おはよう! 今日は大切な日ね!」
葉月詩織の明るい声が、研究室に響き渡った。彼女は、興奮気味に二人に近づいてきた。
「あら、二人とも随分と早いのね。さすがは優秀なパートナー」
詩織の言葉には、かつての敵意はなく、純粋な尊敬と友情が込められていた。燐は、詩織との関係が変化したことを改めて実感し、心の中で感謝の念を抱いた。
「詩織、ありがとう。君の協力があったからこそ、ここまで来られたんだ」
翔の言葉に、詩織は嬉しそうに頷いた。しかし、その表情にはかすかな寂しさも見え隠れしていた。詩織は、翔への想いを諦めきれていない自分をまだ感じていたが、燐との友情を大切にする決意も同時に持っていた。
そのとき、研究室のドアが再び開き、常盤教授が入ってきた。
「おはよう、みんな。今日は大切な日だ。準備はできているか?」
教授の声には、厳しさの中に期待と誇りが滲んでいた。彼は、燐と翔の成長を見守ってきた親のような存在だった。
「はい、教授。全て整いました」
燐の答えに、教授は満足げに頷いた。
「よし、では最終確認をしよう。今日の発表会は、単なる学会発表ではない。我々の研究が、社会そのものを変える可能性を秘めているということを忘れるな」
教授の言葉に、全員が真剣な表情で頷いた。彼らは、自分たちの研究が持つ重要性を十分に理解していた。
発表会の準備が進む中、燐は一人、研究棟の屋上に立っていた。彼女は、遠くに広がる街並みを見つめながら、これまでの道のりを振り返っていた。
内気で控えめだった自分が、ここまで成長できたのは翔との出会いがあったから。そして、この研究を通じて自分の価値を見出せたから。燐は胸に手を当て、そこにある特殊な模様を感じた。かつては恥じていたその特徴が、今では誇りに変わっていた。
「燐、ここにいたのか」
翔の声に、燐は振り返った。
「ええ、少し頭を整理していたの」
翔は燐の隣に立ち、共に街を見つめた。
「緊張しているのか?」
翔の問いに、燐は小さく首を振った。
「不思議と、落ち着いているわ。これが正しいことだという確信があるから」
燐の言葉に、翔は優しく微笑んだ。
「そうか。僕も同じ気持ちだ」
二人は、しばらく無言で並んで立っていた。そのとき、街の喧騒から一つの光景が目に入った。
大通りを歩く女性たちの中に、一人の男性の姿があった。彼の周りには、常に数人の女性たちが付き添っている。男性は、疲れた表情で歩を進めていた。
「翔さん、あれを見て」
燐が指さす先を、翔も見つめた。
「ああ、あれか。一夫多妻制の現実だな」
翔の声には、複雑な感情が込められていた。
「私たちの研究が成功すれば、こんな状況も変わるかもしれないわね」
燐の言葉に、翔は深く頷いた。
「そうだな。単に医学の進歩だけでなく、社会の価値観そのものを変える可能性がある」
二人は、改めて自分たちの研究の意義を確認し合った。
時間が経つにつれ、大学の講堂には多くの人々が集まり始めていた。医学界の権威者たち、政府関係者、そしてメディアの姿も見られる。この発表会が、単なる学術的なものではないことを、参加者全員が感じ取っていた。
控室で、燐は最後の準備を整えていた。彼女は、鏡の前に立ち、自分の姿を見つめた。かつての慎ましやかな服装は影を潜め、今や自信に満ちた研究者としての燐の姿がそこにあった。
「燐、始まるわよ」
詩織の声に、燐は深呼吸をした。
「ありがとう、詩織」
燐が控室を出ると、そこには翔が待っていた。
「行こう、燐。私たちの新しい未来へ」
翔が差し出した手を、燐はしっかりと握った。二人は、講堂へと向かう。その背中には、これまでの苦難を乗り越えてきた強さと、未来への希望が満ちていた。
講堂のステージに立った燐は、満員の聴衆を前に、凛とした表情で口を開いた。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。私たちの研究『新世代乳がん検診法の開発と社会への影響』の発表を始めさせていただきます」
燐の声は、かつての内気な少女のものではなく、自信に満ちた研究者のものだった。彼女の言葉一つ一つに、聴衆は聞き入っていく。
発表が進むにつれ、会場の空気が変わっていった。燐と翔の研究は、単なる医学の進歩を超えて、社会構造そのものを変える可能性を秘めていた。新たな検診法は、乳がんの超早期発見を可能にするだけでなく、全身の健康状態を簡単に把握できるものだった。
さらに、この技術が普及することで、現在の極端な男女比率を徐々に是正できる可能性も示唆された。それは、一夫多妻制や男性の希少価値に基づいた社会システムを根本から覆す可能性を持っていた。
「我々の研究は、単に医学の進歩だけを目指すものではありません」
燐の声が、会場に響き渡る。
「これは、私たちの社会そのものを、より公平で健康的なものに変えていく可能性を秘めているのです」
翔が続けた。
「現在の極端な男女比率は、決して自然なものではありません。私たちの技術が普及すれば、健康的な男児の出生率が上がり、徐々にバランスの取れた社会へと近づいていくでしょう」
会場には、驚きと期待が入り混じった空気が充満していた。
質疑応答の時間には、鋭い質問が次々と投げかけられた。しかし、燐と翔は冷静にそれらに答えていった。彼らの姿は、まさに新時代を切り開く先駆者のようだった。
発表が終わると、会場は熱狂的な拍手に包まれた。常盤教授が壇上に上がり、感動に震える声で語りかけた。
「この研究は、医学の枠を超えた、人類の未来を左右する可能性を秘めています。早乙女燐と鷹宮翔、二人の若き研究者たちの努力が、新たな時代の幕開けとなることを確信しています」
教授の言葉に、再び大きな拍手が沸き起こった。
発表会が終わり、燐と翔は控室に戻った。二人の表情には、達成感と安堵の色が浮かんでいた。
「やりましたね、翔さん」
「ああ、君のおかげだよ、燐」
二人は、言葉では表せない感情を見つめ合いながら共有していた。そのとき、ノックの音がして、ドアが開いた。
「素晴らしい発表だったわ!」
詩織が駆け込んできて、燐を抱きしめた。
「本当におめでとう、燐。あなたは本当に強くなったわ」
詩織の目には、涙が光っていた。それは喜びの涙であると同時に、翔への想いを完全に諦めた決意の涙でもあった。
そのとき、常盤教授と棗栖啓人が部屋に入ってきた。
「おめでとう、二人とも。素晴らしい発表だった」
教授の声には、深い感動が滲んでいた。
「これからが本当の勝負だ。社会を変える一歩を踏み出したんだからな」
棗栖も、二人に祝福の言葉を述べた。
「私の会社でも、この技術の実用化に全面的に協力させていただきます」
燐と翔は、周囲の支援に感謝の意を表した。彼らの前には、まだ多くの課題が待ち受けているが、それを乗り越える自信が芽生えていた。
夜、大学の中庭。燐と翔は、星空の下で並んで座っていた。
「燐、君に言わなければならないことがある」
翔の声に、燐は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
「私も……翔さんに」
二人は、互いの目を見つめ合った。そこには、研究パートナー以上の深い絆が宿っていた。
「燐、僕は君を愛している」
「私も、翔さんを愛しています」
二人の告白は、自然な流れのように響いた。そして、彼らは静かに抱き合った。
その瞬間、燐と翔は、自分たちが新しい時代の先駆者になるのだと確信した。彼らの愛は、単なる個人的な感情を超えて、社会に新たな価値観をもたらす象徴となるのだ。
星空の下、二人は新たな未来への一歩を踏み出した。それは、科学の力と人間の愛が融合した、かつてない形の革命の始まりだった。
【SF短編小説】95%が女性の社会の中で輝く超越男子との禁断の恋と医療革命 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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