第六話 迫り来る運命の影

夕暮れの山道を歩く蔡華ツァイホアは、風が運んでくる山の香りにふと足を止めた。


日常の一コマでありながら、心の奥底で何かが変わろうとしているような不安が広がっていた。


霊山の風景はいつも通り穏やかで、木々が優しく揺れる音が静寂を保っていたが、その背後に潜む見えない何かが、蔡華ツァイホアの心をかすかにざわつかせる。


小華シャオホア、父君が呼んでいるよ」


屋敷の玄関先から陽昇ヤンシェンの声が響いた。その声には、わずかな緊張が込められているように感じられた。


蔡華ツァイホアはその真剣な声に反応し、顔を上げた。剣を腰に差した陽昇ヤンシェンの姿は、いつもと同じように凛々しいが、その目に浮かぶ影が気にかかる。


「父上が?わかった、すぐに行くわ」


蔡華ツァイホアは小さく息をつき、心の動揺を抑えるように歩を進めた。


石畳を一歩ずつ踏みしめながら、彼女の心には、何か大きな変化が訪れようとしている予感が膨らんでいた。


陽昇ヤンシェンの横顔をちらりと見つめると、その端正な顔立ちにはどこか憂いが漂っていた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



書斎では、父・羅士ルオジーが彼女を待っていた。


重厚な空気が部屋を包み込み、木の壁に掛けられた古い巻物や武具が、その威厳をさらに強調していた。


羅士ルオジーの表情はいつもより一層厳しく、彼が座る高い椅子がその存在感を際立たせている。


蔡華ツァイホアが部屋に入ると、羅士ルオジーは静かに顔を上げ、手で座るよう促した。


蔡華ツァイホア、座りなさい。話がある」


低く落ち着いた声だが、その奥には重々しい不安が滲んでいた。蔡華ツァイホアは父のその様子にただならぬものを感じ取りながら、書斎の前にある低い椅子に腰を下ろした。


「何か......あったの?」


胸の中で鼓動が早まるのを感じながら、蔡華ツァイホアは問いかけた。羅士ルオジーの目には冷静さの中に緊張の影がちらついていた。


巫女みこの力を狙う者たちが動き出しているというしらせが入った。影道教えいどうきょう――かつて巫女を狙った連中が再び現れたのだ。我々は何度も戦い、力を守ってきたが、再びその時が来た」


蔡華ツァイホアの顔がこわばり、冷や汗が背中を伝った。今代の巫女、母・杏霞シンシアのことがすぐに思い浮かび、声を震わせて尋ねる。


「じゃ、じゃあ母上が……危険なの?」


すぐに母の危険を感じ取った彼女は、思わず声を上げたが、父は首を横に振った。


「――違う」


その一言に、蔡華ツァイホアの息が詰まる。


「え……?」


羅士ルオジーの表情は苦しそうに歪む。彼の声はさらに低く、重たく響いた。


「狙われているのは杏霞シンシアではない。――狙われているのは、お前だ、蔡華ツァイホア

「私......?」


彼女は言葉の意味を理解しながらも、それを口にすることを恐れていた。父もその答えを知っていながら、しばらく沈黙が続く。


「……でも、私にはまだ巫女としての力は目覚めていないわ。それに、母上が今は――」


不安げに言葉を絞り出した蔡華ツァイホアに、羅士ルオジーは静かに口を開いた。


「だからこそ、準備が必要だ。お前が完全に巫女の力を受け継げば、影道教えいどうきょうも手を出せなくなる。それまで、我々が守る」


父の言葉は静かだったが、確固たる決意がこもっていた。


「お前が巫女の力を引き継ぐのを早める。それまで、我々がお前を守る。お前が完全に巫女の力を受け継げば影道教えいどうきょうも手を出せない」


羅士ルオジーの声には揺るぎない決意が込められていた。蔡華ツァイホアはその重さに圧倒され、しばらく言葉を失った。まだ覚悟ができていない自分に対し、運命が冷酷に迫ってくる感覚に息を呑んだ。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



父・羅士ルオジーから「自分を狙う集団がいる」と告げられたその日から、蔡華ツァイホアの稽古は修士たちとの武芸などの鍛錬から、母・杏霞シンシアのもとで行う巫女としての修行へと変わった。


その内容は、巫女として星家シンジアの高度な技の習得に加え、星家シンジアの歴史的背景――すなわち、巫女の一族と「邪神じゃしん」との因縁について学ぶことだった。


「――邪神が世界に破滅をもたらそうとしたとき、星家シンジアの祖先である初代の巫女が、星と月の力を借りてその邪神を封じたの」


母の口から静かに語られる言葉に、蔡華ツァイホアは耳を傾けた。


星家シンジアは、星と月の霊力を操る特別な一族。星や月は古くから「見守る存在」として崇拝すうはいされ、世界の秩序を保つ役割を果たしてきた。そのため、星家シンジアの歴代の巫女たちが受け継いできた霊力は、邪神を封印するための鍵だった。


「巫女たちは代々、邪神を封じる儀式を行い、封印を維持してきたの。それが私たち巫女の使命。星と月の力を最大限に引き出して、邪神の力を抑え込んできたのよ」


杏霞シンシアは語りながら、昔の記憶を思い出しているようだった。


だが、星家シンジアの祖先たちには、星や月を司る神からの予言があった。「邪神は不滅の存在であり、封印されてもいずれその力を取り戻すだろう」と。そのため、巫女たちは常に邪神が復活しないように見守り、必要なときには再び封じる天命を受け継いできた。


「でも、いつ目覚めるの?」


蔡華ツァイホアは疑問を投げかけた。母は優しく首を振る。


「......それは誰にもわからないわ。もしかしたら今日かもしれないし、100年後かもしれない......」


だが、杏霞シンシアは知っていた。封印を続ける儀式を通して、邪神の力が日々少しずつ強まっていることを。


予言の時は近づいている――。


杏霞シンシアには、自身の儀式を通して、いずれ邪神が目覚める日が訪れるという確信があった。だが、自分にはその時が来たときに立ち向かう力はもう残されていないかもしれない。


それをたくすべきは、自分を超える才能を持つ、神に愛された娘――蔡華ツァイホア


弱まる邪神の封印。それは予言通りであり、その時期に生まれた類まれなる才能を持って生まれた巫女、我が娘。


それが、ただの偶然とは感じられなかった。それは、もはや運命であり、宿命なのかもしれない。


(この子が、いずれすべてを背負うことになるのかもしれない……)


杏霞シンシアはそっと愛しい娘の方を見つめ、その想いを胸に秘めたまま、優しい微笑みを浮かべた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



霧が立ちこめる夜。星祭家の屋敷は、普段と変わらぬ静寂に包まれていたが、蔡華ツァイホアはその静寂の奥に潜む異様な気配を感じていた。窓の外に広がる霧は視界を遮り、何か不吉なものが忍び寄っているように思えた。


「なんだろう……この感じ……」


蔡華ツァイホアは胸の中でざわめく不安に身を縮こませた。寝台の上で何度か寝返りを打ち、深く息を吸ってみたものの、心の奥底に潜む恐怖は収まらなかった。


遠くで聞こえる金属音、怒声、そして断末魔の叫び――それは、家族と一族に迫る危機を知らせる音だった。


蔡華ツァイホアは意を決して寝台から飛び起き、震える手で戸を開けて廊下に駆け出した。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



廊下は暗闇に包まれていたが、遠くから伝わってくる騒動の気配が蔡華ツァイホアを一層緊張させた。耳をすますと、怒声と剣のぶつかり合う音、そして叫び声が響いていた。胸が締めつけられるような恐怖を感じつつも、彼女は両手を拳にして、勇気を振り絞って一歩を踏み出した。


蔡華ツァイホア!ここにいたのか!」


急に聞こえた声に、蔡華ツァイホアは驚いて立ち止まった。そこに現れたのは陽昇ヤンシェンだった。彼は額に汗を浮かべ、顔には明らかな焦燥が走っていた。剣を腰に差し、戦いの緊張を宿したまなざしで彼女を見つめていた。


陽昇ヤンシェン……」


蔡華ツァイホアが彼を見上げると、陽昇ヤンシェンは急いで彼女の手を取った。彼の手は熱を帯び、わずかに震えていた。だが、その手は彼女を守るために強く握られていた。


「ここは危険だ。すぐに母上と一緒に避難しろ!敵はもう屋敷の中に侵入している」


「敵……影道教えいどうきょうなの?」


蔡華ツァイホアの声は震えていた。陽昇ヤンシェンは鋭い眼差しで彼女を見つめ、その問いに答えた。


「そうだ。だが、今は質問している時間はない。早く!」


彼は蔡華ツァイホアを引っ張り、母・杏霞シンシアのいる方向へと急いだ。廊下を駆け抜ける中、窓の外には黒い影が揺らめき、不吉な気配が増していくのが見て取れた。外からは星家シンジアの修士たちの声が響き、戦闘が激しさを増しているのがわかる。


廊下の終わり、書斎の前で杏霞シンシアが待っていた。彼女はその顔に険しい表情を浮かべながらも、娘の姿を見てわずかに安堵の色を見せた。


蔡華ツァイホア、来たのね。すぐに霊符を持って、私と一緒に隠れ里に向かいましょう」


その言葉に蔡華ツァイホアは驚きと戸惑いを隠せなかった。隠れ里――それは非常事態の際、一族の血筋を守るために用意された安全な避難場所だ。


「でも、父上と皆は……」


「彼らは私たちを守るために戦っているの。だから、私たちも無駄にしてはならないわ」


陽昇ヤンシェンは彼女の背中を押し、再び前へと進ませた。その時、屋敷全体に大きな衝撃が走り、壁が揺れた。


外で何かが爆発したかのような音が響き、闇影教えいどうきょうの影が次々と屋敷内へと迫ってきたのだ。

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転生巫女 蔡華 ―影に咲く天命の花― 小鳥遊ちよび @Sakiri

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