第五話 桜の風に舞う想い


夕暮れの山道を抜けて、蔡華ツァイホア陽昇ヤンシェンの二人は広場にたどり着いた。


山の中腹にあるその場所は、二人が幼い頃からよく訪れていた思い出の地だ。頭上には、大きな枝垂桜しだれざくらが見守るようにそびえ立っている。夕暮れの柔らかな光が桜の枝に降り注ぎ、その枝が風に優雅に揺れている。


蔡華ツァイホアは広場にある石のベンチに腰を下ろし、少し疲れたようにため息をついた。


「ふぅ……ここに来ると、少し落ち着くわね」


陽昇ヤンシェンは彼女の隣に静かに座り、同じように目を細めて桜の木を見上げた。


「そうだな。ここは昔から変わらないな。――お前も、変わらない」


蔡華ツァイホア陽昇ヤンシェンの言葉に微笑んだが、どこか複雑な気持ちが混じっていた。


彼の「変わらない」という言葉に、彼女自身が本当に成長していないのではないかという不安をよぎらせたからだ。


「変わらない……そうね、私はずっと変わってないのかも」


彩花ツァイホアはつぶやくように言い、桜の枝を見上げた。前世の記憶、そして今世での自分の立場が重くのしかかる。彼女は自分が今でも何かに縛られているような、そんな息苦しさを感じていた。


陽昇ヤンシェンはその僅かなな変化に気づき、じっと彼女の顔を見つめた。


小華シャオホア......本当に、大丈夫か?最近、何か悩んでるように見える。俺に話せないことがあるなら、無理に聞かない......けど、少しでも力になりたい」


陽昇ヤンシェンの真剣な声に、蔡華ツァイホアは一瞬驚き、そして微笑んで首を振った。


「大丈夫よ。ただ……少し、自分が頼りないんじゃないかって思っただけ」


その言葉に、陽昇ヤンシェンは少し眉をひそめ、しばらく考え込むような表情を見せた。


「頼りない?そんなことないだろう。お前は強いし、ちゃんと自分の道を進んでる。俺はずっとそれを見てきた」


彼の言葉は彩花ツァイホアの胸に深く響き、同時に心の中に隠れていた感情を揺り動かした。安心感を覚える反面、無意識のうちに彼に頼りすぎている自分が気にかかっていた。


「ありがとう。でも、時々思うのよ。あなたの方がずっと、大人になってるんじゃないかって」


蔡華ツァイホアは軽く笑ってそう言ったが、その笑みはどこか寂しげだった。


陽昇ヤンシェンは一瞬考え込んだ後、静かに答えた。


「俺が大人になってるかどうかはわからない。でも、だからこそお前を守りたいんだ。頼ってくれ。――お前は特別だから。それに、これでも俺はお前より二つも年上のお兄さんなんだぞ?忘れてないか?」


「特別」という言葉が蔡華ツァイホアは息を呑んだが、その後に濁すように早口で冗談を言ってのける彼に微笑む。


「……特別、か」


小さくつぶやく蔡華ツァイホア。彼女の心はまだ揺れていた。陽昇ヤンシェンの「特別」「守る」という言葉が頭の中で何度も反響する。


(守護者として?それとも、私を一人の女性として?)


彼は本当に守護者としての責務だけで自分を見ているのだろうか?それとも、彼の中にもっと特別な感情があるのだろうか。


彼の「守る」という言葉が、どういう意味を持つのか。それがただ両親に誓った星家シンジア鳳家フェンジアの、巫女の守護者としての責任なのか、それとも――彼が自分に対して特別な感情を抱いているからなのか。


蔡華ツァイホアの心は、陽翔が自分をどう見ているのか知りたくて仕方がなかった。しかし、それを尋ねる勇気がなかなか湧いてこない。


「……陽昇ヤンシェン、あなたが……私を守りたいと思ってくれているのは嬉しい。でも、それって……」


最後まで言い切る前に、声がしぼみ二人の周りに漂う花弁はなびらさらっていく


陽昇ヤンシェンが私をどう思っているのか、知りたい……でも、怖い)


蔡華ツァイホアはふと、彼の横顔を見つめた。


彼の凛々しい姿は、幼い頃の彼とはまるで別人のように見える。彼はもう、ただの幼馴染ではない。


蔡華ツァイホアは彼に対して芽生え始めている感情が何なのか、まだはっきりとはわからなかったが、それが単なる友情ではないことだけは確かだった。


「……本当に私を守りたいって思ってる?」


蔡華ツァイホアは、その言葉を発した瞬間、胸の中で自分が何を期待しているのか、一瞬戸惑い、彼が答える前に、何を聞きたいのか自分でもわからなくなった。


陽昇ヤンシェンは一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに真剣な表情で彼女を見つめ返した。その視線は、まっすぐで真剣だった。蔡華ツァイホアはその視線に、どこか落ち着かない気持ちを覚えた。


「もちろんだ。君の両親に誓ったこともあるけど、それ以上に――俺自身が君を守りたいと思っている。――それは、ずっと変わらない気持ちだよ」


彼の言葉に嘘はない。だが、それでもどこか釈然としないものが蔡華ツァイホアの中に残った。彼が言う「守りたい」という気持ちは、一体どのようなものなのだろう。


――一時的なもの?期間限定?義務感?兄妹愛?それとも彼の心の奥底には――


(私に対して特別な感情があるの?それとも、私はただ「守るべき存在」でしかないの?)


蔡華ツァイホアは自分の心の中で、その答えを探そうとしたが、彼の真っ直ぐな視線に逆に混乱してしまう。彼の答えは誠実だが、彼女の求める「何か」がそこには足りないと感じた。


彼女の心の中で揺れ動く思いを感じ取ったかのように、陽昇ヤンシェンはベンチから立ち上がり、蔡華ツァイホアの前にしゃがみこんだ。


彼女がいつの間にか太ももの上で握りしめていた両手を、それより大きな両手で優しく包みこむ。


彼の温かい手のぬくもりが、彩花ツァイホアの心の奥の不安を溶かしていくようだった。


シン 蔡華ツァイホア。どんなことがあっても、俺が君を守る」


陽昇ヤンシェンの声は、少し震えながらも力強い。彼の眼差しには、まるで全てを見透かされているかのような深さがある。


幼い頃からずっと、彼は彩花あやかであり蔡華ツァイホアとしての自分を知っている人。


けれどもその瞳の奥には、ただの「幼馴染」という言葉で片づけられない何かが宿っているのかもしれない。


蔡華ツァイホアの胸がじわりと痛み、喉が熱くなる。


伏せた目線を再度、目の前でしゃがみ、自分のこたえを待ってくれている青年に合わせる。


透き通った淡い茶色が不安げに揺れていた。彼もまた、彼女の中にあるものに応えられるのか、心の奥でわずかな自信を探している。


だけど、まっすぐと、その美しい瞳に自分が映りこんでいる。


陽昇ヤンシェンの眼差しには、過去も今も未来も含まれているかのように、彩花あやかである自分も、蔡華ツァイホアとしての自分もまるで見通されているようだった。


彼の瞳の奥にあるのは、自分が自覚すらしていなかった本心をも、静かに見つめてくれる眼差し。


その眼差しに触れた時、蔡華ツァイホアの心はまるで一枚ずつ花びらがほどけていくように、ゆっくりとほどけていく。


「でも……自信がないの。私、本当に母上の後を、星家シンジアの巫女としてやっていけるのかしら......」


蔡華ツァイホアは正直に自分の気持ちを吐き出した。


陽昇ヤンシェンの温かい手のぬくもりを感じながらも、どこかで自分の弱さをさらけ出していることに気づいていた。


目の前の彼に、弱さを見せるのが怖かったが、同時に安心感もあった。


蔡華ツァイホア……焦らなくてもいいんだ。お前が何を感じていても、俺がそばにいる。一緒に、強くなろう。だから、今はそのことを心配しないで。父上も母上も待ってくれる」


陽昇ヤンシェンは優しく言いながら、彼女の両手をさらに包み込み、少し力を入れた。彼の言葉は温かく、そして真っ直ぐだった。蔡華ツァイホアはふと、心の中で張り詰めていた何かが少し緩むのを感じた。


「……私、昔からあなたには頼ってばかりだったのね」


蔡華ツァイホアは少し寂しげに笑いながら、そう言った。


「そんなことはない。......でも、それでいいんだ。――お前は昔から一人で全てを抱え込もうとする奴だから、俺にも少し分けてくれれば、もっと役に立てる。だからこそ、俺は強くなったんだ」


陽昇ヤンシェンの言葉は、いつもと同じように優しさに満ちていたが、その中には彩花への深い思いやりがあった。彼の成長ぶりが、彩花ツァイホアの心に響いていた。彼は幼馴染でありながら、今では立派な男性として自分の前に立っている。その姿に、彼女は改めて彼の存在の大きさを感じた。


「……ありがとう、陽昇ヤンシェン


蔡華ツァイホアは小さく微笑んで感謝の言葉を口にした。彼が自分を信じてくれることが、今の自分にとって唯一の救いかもしれない、と感じていた。


その瞬間、桜の花びらが風に乗って二人の間を舞い降りた。風が再び吹き抜け、蔡華ツァイホアの髪が軽く揺れる。二人はしばらくそのまま、枝垂桜の下で静かに時を過ごした。

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