第3話 あり得ない
『あり得ない』。
そう思うことは、もしかするとその事象があり得ることだと想像できるからこそ出る、否定の言葉なのかもしれない。
弥子は『あり得ない』をそのままにしておくことが苦手であった。
とはいえ、全ての事象を
だからこそ、ああだろう、こうだろう、と勝手気ままな仮説を立てて、それを真と思い込もうとする悪癖があった。
しかし今、そんな適当な仮説をこじつけることすらもできない、そんな『あり得ない』状況が、目の前で起きている。
「あり得ない……! どうして……!」
「んー? おいひーよー? トンボくんも食べなよー」
どうして大量のハンバーガーを食べて、お腹がまったく膨らまないんだ!
弥子は、質量保存の法則を乱す、目の前の女の『あり得ない』を見て、こじつけすらできず頭を抱えていた。
そんな彼女は今、数えて三十個目となるビックなバーガーを頬張っているところ。
トレーには同じサイズのバーガーが後十個ほどと、別のトレーにLサイズのポテトが後三箱控えている。
「どうしてそんなに食べてるのに、お腹がちっとも膨らまないんですか……!」
「いやんえっち。トンボくんのセクハラリーマン」
「セクハっ!?」
慌てる弥子を見て、何が面白いのか彼女はケタケタ笑う。
「まー、別にいーけどさぁ。人によってはホントにセクハラになるから気をつけよーね、トンボくん」
ハンバーガーをもう一個平らげ、今度はポテトを豪快に掴んで口に運ぶ彼女は、口をモゴモゴさせながら、ちなみに。と補足する。
「わたし、消化が早いんだよね」
「消化、ですか」
「そー。食べた先から消化してくの。だから、お腹膨らまないんじゃない?」
「そういう人体構造もあるんですね」
「知らんけど」
おちょくられてる気がする。
弥子は肩を落とし、脱力した。
ケラケラ笑う六ツ美をほんの少し恨めしく思う彼に、彼女は、分かっているのかいないのか、一口も食が進んでいないことを指摘する。
「どしたん、トンボくん? 早く食べないと冷めちゃうよー?」
「誰のせいだと……」
「わたしかなー?」
またしてもケラケラ笑う。
笑い上戸なのか、これが素なのか。
彼女と出会ってから、笑っている顔しか見ていない気がする。
……否。
『トンボくん。君は……』
今日、路地裏で対峙したあの時を思い出す。
『これが本当に、人間によるものだったと考えているのかな?』
真面目くさったとも違う、どこか大切なところが凍てついたような、浮世離れした顔。
彼女の顔をまともに見たのは、そういえばあれが初めてだった気がする。
(……似てないな)
それを思うと、あの時の彼女と今の彼女は、もしかすると別人なのではないだろうか。
弥子は、そんなことを考え、なにも結論が出ないから、ため息をついた。
「あっ! もしかして怒ってた? せっかく京都に来たのに全国チェーンのバーガー店とかって思ってた?」
「違いますよ……。別に、怒ってないです。ここのポテト好きですし」
「わたしはモッスのポテトが好きー」
「戦争ですか?」
腰を浮かしかけて、座り直す。
今なら例え、目の前の彼女がきのこ派だろうがたけのこ派だろうが、戦争を起こさずに済むと思える程度には、まあ、いいか、なんて思える。
そう思えるのも、一日で立て続けに『あり得ない』ことが起こって、それが弥子の感覚を麻痺させたからに違いない。
(多分彼女は二重人格。それか、使い分ける性格。きっとそうだ)
だから彼は、そう決めつけた。
もそ、と冷めかけたポテトを口に運ぶ。
……塩がかかりすぎてる所を食べてしまった。
「まぁまぁ。初心者ならよくあるミスだってー。終わったって勘違いしちゃって、うっかり報告するのってー」
「ちがう、そこじゃない……」
もそもそ食べている姿に悲哀を浮かべていたのか、六ツ美から的はずれな励ましの言葉をもらった弥子は、ふとした疑問を口にする。
「なんで鎧は消えたんでしょうか」
「んー? 足生えて歩いてっちゃったとかー?」
彼なりに『あり得ない』を解明しようとした、誰に言うでもない問いかけ。
その疑問に、適当な答えをテキトーに返した彼女は、既にポテトを一箱空にしていた。
「そんなこと、あり得ないでしょう?」
「んーと、トンボくん。君、そう言えば旅行者のお仕事は初めてだっけ?」
流し込むようにして二箱目のポテトも空にした彼女は、バーガーの包みを開けている。
口をモゴモゴ動かしながら、彼女はじっ、と弥子を見る。
「このお仕事ってねぇ。トンボくんの言う、『あり得ない』ことって、割とよく頻繁に起こるんだよねぇ」
「えっ……」
思わず漏れた言葉は、驚きに少し似た響き。
「あ、もしかして怖いの苦手だったー? だいじょーぶ、慣れだからねぇ、こういうのって」
のほほんと、そんなことを
彼女は、その目をすっと細めた。
「まあ、このお仕事を受けた以上、トンボくんには降りるって選択肢は与えられていないわけだけどー」
彼女は身を乗り出す。
ずい、と近くにやって来た彼女の唇から、間延びのしてない声が出る。
「どうして鎧の声が聞こえたの?」
「……え?」
不意を突かれた突然の問。
弥子は答えに戸惑う。
「え、っと、僕は、耳が良くて」
「うん。それは路地裏でも聞いた言葉だねぇ。ちがうよ。わたしは本当に聞こえなかったのに、君はどうして聞こえたの?」
「それは、六ツ美さんの耳が悪かっただけでは?」
「お? やんのかこら?」
座ったままファイティングポーズをとる彼女は、顔を離して深く座り直す。
「よしんば、わたしの耳が本当に悪かったとして。それでも小さなうめき声だけを拾った、君はそう言うんだね?」
六ツ美のコーラが飲み干される。
ズゴッ、と氷と底を吸った音がして、彼女は紙コップをトレーに置いた。
「それはありえないんだよ。だって、不思議に思わなかった? 鎧を外した時、あの男の子。結構大声で泣きじゃくってたじゃん」
(たしかに、あれだけの泣き声が、漏れてこないのはおかしい。鎧を着ていても、聞こえてくるかもしれない)
仮説を立てようとする。
どう考えても、非現実的な現象を打ち消すには足りない。
「うめき声は上げるかもしれないけど、もしかしたらやめて、とかも言っていたんじゃないかな? それは、聞こえた?」
弥子は首を振るしかできない。
聞こえてきたのは本当に、ただのうめき声。
よくよく思い出してみれば、それさえ中の人の声と違っていたようにも思えてならない。
六ツ美と目が合う。
彼女は静かに、弥子を射抜く。
「トンボくん。君。一体何の声を聞いたのかな?」
わたし、旅行者(トラベラー)。 宇波 @hjcc
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