第16話 調薬する火曜日 3
ふ、と目を開けて、蛍光灯は光る天井が目に入ったところで、俺は飛び起きた。
俺は台所の奥の部屋でタオルケットをかけられて寝ていたらしい。起きたと同時にタオルケットが落ちた。
「何時!?」
ナヨはすぐ傍のテーブルに座って、呑気にお茶を飲んでいた。
「ナヨ、今何時!?」
呆れた顔で時計を指差される。壁にかけられた受付時計の時間を見ると、8時半ごろだった。
あれから3時間半くらい寝ていたのか。そう思って周りを見ると、朝日が入っていないのに気づいた。
まさか。
「旧式言語で念じること自体、力を使う作業だ。道具も呼ぶことも、そうだ。お前が倒れている間に材料補充は出来ている。やれるか」
「今、夜?」
ナヨは黙って、否定しなかった。つまり、夜なのだ。
慌てて立ち上がる。
「やる。すぐやる。次は大丈夫」
俺が言ってみせると、ナヨは台所を顎で指した。
「材料は出ている。鍋の中身は使い魔を呼び出して空にしてから使え」
小走りで俺は再び台所へと立つのだった。
マルーを呼んで、鍋を空にする。中身がまるっと消えたのを確認して、拝んで送り返す。明らかに害がありそうな液体なのに、嬉しそうに飲み込んだマルーは凄いかもしれない。
感心はそこそこに、はやく作業だ。俺は腕まくりをした。
先ほどと同じように指導を受けながら、やり直しをはじめた。今度は間違えない。
最初に俺の実をすぐ手元において、枯れ草で鍋をかき回す段階の前に口に入れた。
回復したのかわからないけど、腹は膨れた。甘酸っぱい、見た目通りの李みたいな味。
もう一度ジョウロを握り、念じながらひたすら混ぜる。混ぜる。
カチコチと時計の音と鍋のコトコト音を聞きながら、混ぜる。
どろりとした液体は、やがて水のようにサラサラになっていく。後ろでそれを見たナヨは口を開いた。
「手を止めて枯れ草束は捨てろ。お玉に持ち替えて、黄色の粉末を1掴み。幸福、と念じながら鍋の中に星ができるまで混ぜろ。右でも左でもいい」
幸福、幸せ。頭の中でミミズ文字を引っ張り出して念じる。
黒い透き通った水は、夜空のようで、俺はこれに既視感を覚えた。よく、見ていたものだ。
暗いのに、不思議な安心感のある、夜闇。やがてちかりと見え出した光にはっと気づいた。
これは、ナヨが、初めて俺にくれた薬だ。あの時、餞別にくれた薬だ。
後ろからナヨの声が被さる。
「星が広がるまで、念じろ。ゆっくり、混ぜる。ゆっくり」
はっとして片手のジョウロを下げる。下げた拍子にまた、ふらりとしたので、すぐ近くに置いた俺のみをまた口に含んで飲み込む。
「自分が幸福だったこと、正の感情、楽しい思い出、なんでもいいから考えろ。それを薬に移すように、思い浮かべて、ゆっくり混ぜろ」
そんなのはもう思い浮かんでいる。
ナヨが俺にくれた薬、その場面を思い浮かべる。ナヨの調子っぱずれた歌を思い出した。
「……とんとん、からから。お鍋が、とろり」
口ずさんだ俺の言葉に、ナヨが目を丸くして、小さく笑った。
とんとん からから お鍋がとろり。
とんとん からり お鍋がとろりん。
俺の口ずさむ歌とちがって、調子外れの声が混じる。相変わらず、へたくそだ。
こみ上げる笑いを抑えて、俺は口ずさみながら鍋を回し続けた。
そうこうして、どれくらい回したのだろう。
腕は痺れが走るくらい疲れている。
鍋の中は、眩いくらいの星空が広がっていた。ふうふう息をついて口を止めれば、ナヨはそっと離れて、戻ってきた。
手には、手のひらサイズの小瓶。
「手を止めていい。よくやった」
渡される小瓶を受け取る。
「ゆっくり、掬ってみな」
いつか聞いた言葉とそっくり同じ言葉を言うナヨに頷いて、そっと掬う。
ああ、あの時と、同じだ。
液体を掬い上げようとすると、変化が起きた。星空が、桜の花びらが舞う様へと変わる。
「こぼさないで、そっと入れるように」
言われるままに、小瓶へそっと注ぐ。
小瓶の中で、夜空が浮かぶ。夜空には花びらがひらひらと舞っていた。
一緒に渡された黒い蓋を嵌めて、俺は息をついた。
「ナヨ」
ナヨは答える代わりに、ぐしゃぐしゃと頭をなでてくれた。それで、俺は十分よくやったのだと分かった。
「コヨリ。アキナイへ出来たと報告を。これで終わりだ」
ナヨは上へ浮かんだ、使い魔へ声をかける。コヨリはふわりとその身を揺らした後、しゅるしゅると音を立てて巻物を閉じていった。
《直ちに、報告を行います。記録を転送いたします》
すうっと溶けて消えていくコヨリを見送って、俺は小瓶をそっと調理台に置いて座り込んだ。
腕が盛大にしびれたのだ。
「ねえナヨ」
座ったままナヨに問いかける。
ナヨは台所の後ろの壁にもたれ掛かって俺を見た。
「ナヨが鍋を回しているときに歌うのはなんで?」
聞くと、ナヨは顔をしかめた。
「……癖だよ、単なる。俺の師匠が歌っていたのを見て育ったからな」
ぶっきらぼうに答えたナヨは、目を逸らす。決まり悪そうだ。珍しい。
「ふうん。いいんじゃない、やりやすかったよ、俺も」
じーっと見ていたら、睨まれた。仕方ないので話題を変える。
「ナヨ、これであのおっさんを撃退できる?」
「一旦はな。代わりにお前に擦り寄ってくるかもしれんが。まあ、この間みたいなことは恐らくないだろう」
「この間……襲われたときの?」
顔がただれた犬と蝙蝠らしき大群を思い出してしまった。
「ああ、あれはあの男の身内が仕掛けたものだろうとは見当がついている。大体魔女の一族はろくでもないもんだ。あれは富士野がお前についてると知っていたから、やったことでもあったんだろうな」
「富士野さん?」
「契約主が死ねば使い魔は自由になると、前にも言ったろう。あの男の場合は、まあ、単なる私怨みたいなもんだ。富士野に巻き込まれたな」
ということは、あの時俺は命の危機だったのか。今更ながらにひやりとした。
「あの後釘は刺しておいたから、その件もまあ、心配しなくていい」
朝、ナヨがくたびれた様子で押入れから出てきたのを思い返す。つまり、あれは釘を刺してきた後なのだ。
こうして考えると、俺は非常にナヨに大事にされているように思えてそわそわした。嬉しい。漠然とそう思った。
「あのさ、ナヨはどうして」
どうしてここまで気にかけてくれるのか。
言いかけたところで、カチリと音がした。
換気扇が、回る。
はっと換気扇を見上げると、換気扇の近くにすうっと黒尽くめの男が現れた。
能面のようにつるりとした顔に、笑っているのかそうでないのか分からない表情を浮かべてこっちを見た。
「はい、確かに。記録、品物、拝見いたしました。時刻も数時間を残しての完成。またとない人材のようで」
淡々と述べる言葉は機械のようだ。
「魔術、
調理台に置かれた小瓶を手にとって、アキナイさんはゆっくりと頭を下げた。
「呪い師様、ヤクサ様。またの機会にお会いできることを心待ちにしております」
そう言って、アキナイさんは現れたときと同じく静かに消えていった。消えたと同時に換気扇も止まる。
「ヤクサ、さっきの続きは何だ?」
ナヨが俺を見てくる。男性的ではない、なよっとした顔立ち。
さっき言いかけたことは、アキナイさんが来たおかげで飲み込んでしまった。今思うと、冷静になれてよかったかもしれない。自惚れよくない。ナヨは優しいほうだ。扱いがぞんざいでも、それでも優しい。
俺は首を振って、腕に力を入れて立ち上がった。
「ん、なんで鍋師っていうのかなって。ナヨ、終わったらのど渇いた。おなか空いた」
「通称だよ。仕事しているうちに付けられた。茶なら出してやる」
部屋へと抜けて、テーブルにナヨが座る。テーブルの上にあるヤカンを手に取った。
俺も近くに場所をとって胡坐をかく。時計を見ると2時だった。そんなにあの鍋混ぜていたのか。いつも鍋を掻き回しているナヨの腕は結構凄いのかもしれない。
「仕事……ナヨの職業って何?」
そう聞くとナヨはヤカンからお茶を注ぐ手を止めて、湯飲みを置いた。
「……今は呪い師だな」
視線を空へあげて、それから俺へと視線が帰ってくる。
「今? 前は薬屋とか言ってなかった?」
「そうだっけか。まあ、似たようなものだろう。弟子を取った呪い師。ほら、お茶」
「ありがとう。お腹も減ったんだけど」
湯飲みを受け取って、更なる要求をしてみれば、軽くお玉ではたかれた。
「茶だけしかない。そう言っただろう」
「言ってないよ」
「言った……ほら、これでも喰っとけ」
ナヨは面倒くさそうに、いつものエプロンのポケットから干した芋みたいなのを取り出して投げた。
「芋かー。ナヨって相変わらず食べ物のセンスは年寄り臭いよね」
「お前より年だからな」
自分もポケットから芋を取り出してかじっている。
「ナヨ、これで俺は弟子だよね? また来ていいよね」
「お前が弟子じゃなかったら、また面倒になるから、そうしてくれ」
ナヨの返事に俺は笑って頷いた。
「しょうがない師匠」
言ったとたん、またぱこんとお玉の音が鳴った。
だけど、悪くない。いい気分だ。
時刻は深夜2時過ぎ。
遅いお茶会をしながら、俺は呪い師の弟子候補から弟子になった。
≪了≫
お隣さんは呪い師らしい。 わやこな @konakko
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