人でなしの七夕

@ninomaehajime

人でなしの七夕


 七夕の商店街は、色彩豊かな飾り物で彩られていた。

 いつものすすけた八百屋や豆腐屋が華やかに映る。店の軒先には葉鞘ようしょうを残した笹が立てられ、連なる紙の飾りとともに長方形をした短冊が紐で吊るされている。商売繁盛、健康長寿。庶民にとっては、神社の絵馬と大差ないのかもしれない。

 奇抜な衣装に身を包んだチンドン屋が当たりがねと太鼓を叩きながら、商店街の通りを練り歩く。その賑やかな音楽に釣られて子供たちがその後ろをついていく。国内向けに翻訳された童話のハーメルンの笛吹き男を思い出した。

 空は薄暮に染まり、いずれ商店街も店仕舞いを始めるだろう。夕餉ゆうげに使うジャガイモや玉葱たまねぎを覗かせた買い物籠をぶら下げて、エプロン姿の主婦が七夕に浮かれる我が子を叱っている。どこかよそよそしい日常の風景だった。

 私はどうだ。セーラー服のまま黒い学生鞄を片手に提げて、リボンを施した包みを胸に抱いている。もう無用の長物だというのに、未練がましいにも程がある。

 暗くなる前に帰宅しなければ、厳格な父に叱られるだろう。女たるもの淑女であるべし。事あるごとにそう言い聞かせられた。門限を破って遊び歩くなど言語道断だろう。なのに、どうしても足が家に向かなかった。沈んだ気持ちとは対照的に、黄昏が迫りつつある商店街の雰囲気は明るい。チンドン太鼓が打ち鳴らされ、一団の朗々とした口上が響く。

「今夜は一年に一度、彦星さまと織姫さまが逢瀬おうせをする日だ。皆々様方、不景気なんて忘れて祝いましょうや」

 バブル景気が崩壊し、国民の生活は様変わりした。多くの大企業が倒産し、金銭苦を理由とした自殺が相次いだ。この夕暮れの空にも似た、暗い世情の時代だった。

 私の家は中流家庭と言っていいだろう。中卒で就職を強いられることもなく、地元の女学校に通わせてもらっている。まだ社会にも出ていない世間知らずの娘は世相に疎く、親の庇護下で恵まれた環境に身を置いていた。

 気持ちは重苦しいままだった。足元が心許なくて、商店街の喧噪が耳に遠い。胸に抱いた贈り物は居場所を失い、寄る辺なく心が彷徨さまよっている。

 この日を心待ちにして、編み棒でマフラーを編んだ。まだ季節外れだろうけど、冬になれば首に巻いてくれるだろう。彼はとても律儀な性格だから。

 まさか別れを告げられるとは夢にも思わなかった。

「僕たち、今日で最後にしよう」

 老舗の珈琲コーヒー店で、向かいの席に座った彼がそう言った。天井では静かにシーリングファンが回っており、カップから立ち昇った湯気が黒縁眼鏡を曇らせていた。

 彼には学者になるという夢があった。大学院に進むために学費が必要で、その折に名家の子女と親しくなった。結婚を前提としたお付き合いを始めて、もうこの町には戻るつもりはないという。だから、私とはこれでおしまい。

「さようなら」

 陳腐なメロドラマの一幕を思わせて、どこか現実離れしていた。しかし主人公は私なのだ。彼は席を立ち、二人分の勘定を済ませて店を出る。取り残された私の耳に、軽やかなドアベルが余韻を残して遠ざかる。

 この七夕の日に渡すはずだったマフラーの包みを抱えたままだった。冷めた珈琲の容器が二つ、飴色のテーブルの上に置かれていた。

 傷心を胸に、町を彷徨った。彼が帰ったであろう赤煉瓦の駅舎を遠くから眺め、戻ってこないかと期待した。勿論もちろん儚い望みでしかなく、失意のうちにその場から離れた。戦後に建て直されたという映画館の前を通ると、洋画が興隆こうりゅうする中、セピア色の古い邦画をリバイバル上映していた。

 彼との出会いは図書館だった。目当ての本を探して書架の迷路を彷徨っていた。その背表紙を発見し、指先を伸ばそうとして別の手が現われた。黒縁眼鏡をかけた高校生ほどの男性が手に取って、間の抜けた顔をしたお下げ髪の娘に気づいたのだろう。彼は本を差し出した。

「君もこの本を探していたのかい。気が合うね」

 何年か前に話題になった小説だった。喪失と恋愛をテーマにした物語だ。彼は本を手渡すと、そのまま立ち去っていった。胸に小説を抱え、後ろ姿を見送った。

 それから図書館で勉強に勤しむ彼の姿を見かけ、意識するようになった。最初は声をかけるのを躊躇ちゅうちょした。例の小説を読み終わって、本を返却する前にお礼を兼ねて話しかけた。彼とは同じ作者の話で盛り上がり、勉強の息抜きに世間話を交わす中になった。

 向上心に溢れる彼の姿に惹かれ、恋情を募らせた。告白したのは私の方からだった。想いを受け入れられ、初めて唇を重ねた日のことは今も忘れられない。

 一緒にいられる期間はそう長くなかった。彼は都会の大学を受験し、合格した。お互い卒業したら結婚しよう。そう言い残して、彼は上京した。お互いの近況や募る想いを手紙でやり取りした。郵便箱に手紙が届くのが待ち遠しかった。

 もう一つ大事な約束を交わした。一年に一回、七夕の日に会おうというものだった。自分たちを彦星と織姫になぞらえたのだ。今にして思えば気恥ずかしく、甘酸っぱい時間だった。

 甘い夢から覚めてしまえば、残ったのは冷たい現実だけだった。

 賑やかな雰囲気に引かれて、七夕に浮かれる商店街に入りこんだ。目的などなく、傷心を抱えたまま雑踏をすり抜けていった。アーケードの天井から飾り物が吊るされる商店街の一角には、大きな笹が葉のあいだに色とりどりの願い事をぶら下げて、下から照明に照らされていた。

 どうやら催し物の一環らしく、その前には机が置かれていた。色紙を切り抜かれた短冊とマジックペンが用意されており、どうやら自由に願い事を書いて良いらしい。

 マジックペンを手に取った。紫色の短冊を手に取り、今の気持ちをつづる。無記名の短冊を紐で吊るし、少しのあいだ見上げた。少し気が収まって、商店街を出て家路に就いた。少し門限を過ぎており、父に叱られた。

 晩御飯はライスカレーだった。



 翌朝、カーテンの隙間から漏れる光がまぶたを透かして目覚めた。勉強机の上にはリボンをあしらった包みが置かれており、遠のいていた胸の痛みを思い出させた。

 襟元のリボンを結び、階下へ下りた。味噌汁の匂いが鼻腔びこうをくすぐる。食卓には既に父が座っており、朝刊を広げていた。その前にはベーコンエッグと味噌汁が湯気を立てている。エプロンの肩紐を吊るした母の背中が忙しく立ち働いていた。

 朝の挨拶を交わし、席に着いた。ご飯がよそわれ、目の前に置かれた。

「今日は七夕ね、八千代やちよ

 母の言葉に眉をひそめた。

「もう七夕は過ぎたよ、お母さん」

「あら、まだ寝ぼけているの。あんなに楽しみにしてたじゃない」

 画鋲がびょうで留められた壁のカレンダーに目をやった。日付は七月七日を示していた。母は毎朝カレンダーをめくる習慣があり、今まで破られた覚えがない。たまさかそういうこともあるだろうと、そのときは気にしなかった。

 女学校へ登校すると、既視感を覚えた。正面玄関には生徒たちの願い事をぶら下げた笹が飾られている。先生が片づけ忘れたのだろうか。昇降口を上がると、笹の葉が擦れる音が耳朶じだに触れた。

 教室はささやかな飾りで七夕を祝っていた。一限目の教科が昨日と同じで、授業の範囲も同じだ。テレビの再放送を見せられている気分になった。休み時間、同級生たちは一昨日に放送されたメロドラマの内容を話題にしていた。友達に何日か尋ねると、呆れた顔をされた。今日は七夕でしょう。

 大いに混乱した。誰もが今日が七月七日であることを疑っていなかった。皆して口裏を合わせているとは到底考えられない。大体、私一人を大がかりに騙して何の得があるのだ。放課後になると、学生鞄を手に学校を飛び出した。この奇天烈な状況を裏づける方法が一つだけあった。

 お下げを揺らして、古い映画館の前を通る。昨日と全く同じ白黒のポスターが大きく張り出されていた。肩で息をしながら、赤煉瓦の駅舎の前まで来た。

 淡い期待と疼痛とうつうを同時に抱きながら、遠い異国を思わせる中央口で待った。果たして、見慣れた背格好の男性が小さな旅行鞄を提げて姿を現した。

「久しぶり、八千代ちゃん」

 昨日別れたはずの彼が、黒縁眼鏡の下で硬い表情をしていた。

 お互いに口数少なく、例の珈琲店まで連れ立って歩いた。気持ちは浮き足立っている。これから別れ話を切り出されるというのに、我ながらどうかしている。シーリングファンの下で、皮張りの椅子に腰かけた。年月が刻まれたテーブルの傷に目を落とし、注文した珈琲が来るのを待った。

「ここに来るのも一年ぶりだね」

 初日は浮ついて気づかなかった。それとなく様子を観察すると、笑みがぎこちない。彼もまた緊張していたのだろう。

 本当に律儀な性格だと思う。手紙のやり取りを断てば、おそらくこの淡い関係は自然消滅しただろう。わざわざ別れを突きつけるために、約束通り七夕に会いに来たのだ。

 何て残酷なのだろう。

「八千代ちゃん、大事な話があるんだ」

「私と別れる、ですか」

 彼が切り出すより先に、口が動いた。重苦しい沈黙が漂う。

「どうして」

「名家の女の人と付き合っているのでしょう。そんなにお金が必要ですか。家柄もない田舎娘では、あなたの夢を叶える助けにはなりませんか」

 物静かな珈琲店の雰囲気を壊してしまった。私のただならぬ剣幕に、店内にいた常連の客やカウンターの主人の視線が注がれる。彼は喉を鳴らし、薄気味が悪そうに言った。

「君は、どこからか僕を監視していたのか」

 そう呻くと、運ばれてきた珈琲に口をつけずに席を立った。

「わかっているなら話が早い。君とは今日までだ。さようなら」

 早口で告げると、勘定を済ませてドアベルを鳴らして出ていった。取り残された私は、七夕に渡すはずだったマフラーの包みを持ってきていないことを今さら思い出した。

 黒い液体をたたえた珈琲は、すっかり冷め切っていた。

 二度目の失恋を経験しながら、寄り道せずに家へ帰った。今日は門限通りだったから、父親に叱られることはなかった。今晩も夕餉はライスカレーで、食後に歯磨きをして部屋に戻った。勉強机にリボンが巻かれた包みが取り残されており、ち鋏で中身ごと切り裂いた。毛糸の残りかすをごみ箱に捨て、ベッドに潜りこんだ。

 翌朝、雀の鳴き声とともに目を覚ました。寝ぼけ眼で陽光が淡く照らす室内を見回すと、勉強机には切り刻んだはずのマフラーの包みが置かれていた。

 着替えを終わらせ、予感とともに階下へ下りた。朝食の支度をしていた母は言った。

「おはよう、今日は七夕ね」



 ほとほと困り果てた。

 幾度も同じ七夕が訪れた。両親や周囲の人々は何ら疑問を抱いておらず、ほとんど変わらない言動を繰り返す。こちらの行動で多少変化しても、見慣れた展開に帰結した。

 この七月七日を抜け出そうと努力を試みた。学校を仮病で休んだり、カフェインをって日を跨いだ。日付は変わっても、抗えない眠りに落ちてしまえばまた同じ日に連れ戻された。

 思い切って、この不思議な現象を地元に帰ってきた彼に相談してみた。別れることがわかっていても、私にとっては心の拠り所だったのだろう。

「君はSF小説にでもかぶれているのか」

 鼻で笑われた。

「やはり、君のような夢見がちな娘を選ばなくて正解だった」

 さようなら。三度ドアベルが鳴り響いた。

 両親には相談しなかった。大なり小なり彼と同じ反応が返ってくるのはわかっていたからだ。仮に理解を得られても、眠ってしまえば全てがなかったことになる。

 一つの解決方法に死が頭をよぎった。いっそ彼の目の前で命を絶ってやろうか。実際には実行する勇気が出なかった。苦痛を伴なった終わりを迎え、また朝日とともに目を覚ましたらと思うと、恐怖に震えた。

 この七夕を終わらせるにはどうしたら良いだろう。

 放課後、駅の前で待っているであろう彼の存在など忘れて、下校しながら頭を悩ませていた。何をしても七夕が繰り返される。どうして七月七日なのか考え、ふと鼓膜にチンドン太鼓の音色が届いた。

 気づけば、飾り物で彩られた商店街の入り口を通りかかっていた。私は足を止めた。そうだ、逆にあの日に起きた特別な出来事を思い返してみよう。思い焦がれた彼からの別れ話。七夕で着飾った商店街。大きな笹に吊るされた短冊。

 またあの商店街に足を踏み入れた。笹が飾られた八百屋や豆腐屋、コロッケを揚げる匂いが鼻をくすぐる。ハーメルンの笛吹き男が子供を引き連れていく横をすり抜けて、例の場所へ向かう。下から照明で照らされた笹の輪郭が仄かに輝き、多彩な短冊が揺れている。親子連れが机に用意された色紙の短冊に願い事を書き記していた。

 私の頭では、他に思いつかなかった。傷心を癒すために、現実味のない願い事を短冊に掲げた。もしかしたらあの行動が、今の状況に陥った元凶かもしれない。

 ざざめく笹の葉を見上げ、私は途方に暮れた。具体的には何をすれば良いだろう。この繰り返しが終わることを願えば七夕から抜け出せるのだろうか。

 風が吹き、葉擦れの音が一斉に鳴った。数多くの短冊が風に棚引き、一点の黒い染みが目を引いた。どうやら黒い色紙で作った短冊で、わざわざ赤色のペンで文字が綴られている。興味を引かれて手に取り、目を見開いた。

 その短冊にはこう書かれていた。

『いつまでそうしているつもりだ。綾機あやはた八千代』

 指先がかすかに震えた。この短冊の主は、どうして自分のことを知っているのだろう。同時に直感した。ここに至り、初めて事態が進展した。

 疑問と期待が膨らみ、返事を書いた。

『貴方は誰ですか。どうして私の事を知っているのですか』

 質問を綴り、黒い短冊の隣に紫色の短冊を吊るした。

 翌日、正確には数えるのを止めた七夕の放課後に商店街に直行した。息が急いて、はやし立てるチンドン屋とすれ違った。照明で強調された笹には私の短冊はなくなり、あの黒い短冊だけがあった。

 その端を両手で掴み、書き記されている内容に食い入った。

『誰でもない。あんたは同じ七夕を繰り返しているだろう。協力してやる』

 書いた相手の口調が何となくわかる、素っ気ない文面だった。それでも歓喜に胸が躍った。明らかに私が書いた短冊の返答であり、しかも自分の状況を正確に把握している。

 ここから先のやり取りは日を跨ぐため、簡潔にまとめるとこうだ。

『私が陥っている状況を知っているのですね。どうすればいいのですか』

紙幅しふくがないから簡単に説明する。まずあんたはもう死んでいる』

 その一文に大きな衝撃を受けた。

『私が死んでいるとはどういう事ですか。説明して下さい』

『そのままだ。あんたはとっくに生を全うしている』

『もっと詳しくお願いします』

『この短冊は未来から送っている。今繰り返されているのは、あんたの学生時代だよ』

『本気で言っているのですか。訳が分かりません』

『黙って読め。あんたは女学校を卒業して資産家の男と結婚した』

『続けて下さい』

『あんたは何人か子供を育てた。重い病気にかかり、子と孫に看取られて亡くなった』

 字が震えた。

『とても信じられません』

『今よりもか。多少短命だったかもしれないが、恵まれた一生だったはずだ』

 何と書けば良いかわからなかった。わかりません、とだけ送った。

 次の日、黒い短冊には赤い文字でこう書かれていた。

『なのに、どうしてあんたはそこで死にぞこなっている?』

 その短冊を手に取り、私は立ち尽くした。要約すれば、本来の自分は死んでおり、ここにいる私は学生時代を繰り返している。言葉を借りれば死にぞこないらしい。

 短冊でのやり取りを続けた。

『頭が追いつきません。自分がもう死んでいるなんて』

『受け入れろ。死に切れずに魂だけがその日を繰り返している。よく思い出せ』

『何を思い出せと言うのですか』

『きっかけだ。その時代の七夕に執着する理由があるのだろう』

『執着ですか』

『そうだ、死に損なう人間は現世に執着する何かがある』

『よく分かりません』

『つまりあんたには死んでも忘れられない思いがある。それが分かれば終わる』

 私は短冊に手を添え、変わらない商店街の喧噪に身を委ねた。七夕で起きた出来事と言えば、あのことしかないだろう。ただそのことを明け透けに打ち明けるのは勇気が必要だった。

『上京した彼氏と会って、別れ話をされました』

 私の告白は無下に切り捨てられた。

『下らん。何十年も前の男のことが忘れられないと言うのか』

 あまりに酷い言い草だった。私はむきになって短冊に書き殴った。

『貴方に何が分かるのですか』

『分からんよ。だから聞いている。本当に、そんな単純な事なのか』

 救いの手とは言え、この黒い短冊の主は性格が悪いと思った。少なくとも女心をまるでわかっていない。

『単純な事なんかじゃありません』

『それだけなら話は早いがね。もっとやり残したことがあるんじゃないのか』

 何もかもをつまびらかにするには、頭を冷やす必要があった。何も急ぐことはない。それこそ時間はいくらでもあるのだから。紫色の短冊に短い文章を綴った。

『三日ほど時間をください。よく考えてみます』

 次の日、『いいだろう』という意思表示を確認し、家へ帰った。もう食べ飽きたライスカレーを口に運び、朝に献立の変更を母にお願いしてみようかと今さら思いついた。

 笠の下で輪を描く蛍光灯は闇に仄かな光跡を残し、ベッドに仰向けになった私の視界の端で、勉強机の上で丸みを帯びた包みの輪郭が浮かび上がっている。

 あの黒い短冊の送り主の言うことが全て本当なら、自分がこの七夕を繰り返す理由は何となくわかっていた。包み隠さず打ち明けるのは、己の醜い恥部をさらけ出す行為に等しい。ただ、こうやって悶々と悩んでいても事態は変わらないことも知っていた。

 約束の期日、重い足取りで商店街へ赴いた。乾いた風が吹き、チンドン太鼓の音色が鳴り響く。賑やかな通りを歩いた。この見慣れた光景も、終わりにすることができるだろうか。

 目の中で笹の葉が揺れている。人々の願い事には切実な思いが綴られていれば、子供の拙い文字が眩しい将来をうたってもいた。私は喉を鳴らし、いつもの短冊に自分の願望を書き記した。

『私は、彼とまた恋人に戻りたいのだと思います』

 翌日、返事があった。

『嘘はやめろ。ならば最初に願ったことは何だ』



 血の気が引いた。短冊の端を握った指に力が入り、白くなっている。

『最初に私が書いた短冊を知っているのですか』

『知っているよ。随分と物騒な願い事だな』

『なのに、私を騙していたのですか』

『人聞きが悪いな。俺に人の心は分からん。どこまで本当か知りたかっただけだ』

 初めて返事を書かなかった。にも関わらず、次の日には続きが綴られていた。

『ひた隠しにするということは、あの願い事が本心なのだろう?』

 乾いた笑いが出た。開き直り、やや自棄やけになって短冊に返信する。少々、文字が乱れた。

『だったら何なんですか。願いが叶えば、この七夕が終わるのですか』

『それは困るな。あんたが警察に捕まれば歴史が変わる。その時代は地続きなんだ』

 マジックペンを握る手に力が入った。

『だったら、どうしようもないじゃないですか』

 黒い短冊が告げた。

『俺がその願い事を叶えてやろう』

 読んだ途端に黒い短冊の輪郭がうごめき、驚いて手を放した。長方形の短冊は黒く大きな羽根へと変化し、そのまま笹の足元にゆっくりと落ちた。濡れた鴉の羽根に似ており、鋭い羽軸うじくが突き出ていた。

 目を落とした先で、艶やかな黒翼の一枚に赤い色が滲んだ。血を連想させる文字が次々と浮かび上がり、消えていく。

『この羽根には、あんたのような死に損ないの未練と怨念が染み込んでいる。一刺しもすれば尋常の人間はもがき苦しんで死ぬだろうよ。毒物として検出されることもない』

 漆黒の羽根を見下ろし、私は立ち尽くした。

「あなたは、何者なんですか」

 かすれた声で呟く。血文字が浮かび上がった。

『彦星とでも思えばいい。願い事も呪いも同じだ。あんたが死に切れないでいるなら、俺が代わりに手を下してやろう』

 黒い羽根が訊いた。

『あんたは生前、編み物が得意だったな』

 その一言が意図するところを察し、胸の前で拳を握り締めた。

「あなたは人でなしですね」

『ああ、そうだ。この羽根を手に取れば、あんたもそうなる。さて、どうするね』

 七夕の笹の前で逡巡した。同じ口上を繰り返すチンドン屋、人いきれで溢れ返る商店街。この時代には、そろそろ別れを告げても良いだろう。

 震える指先で、足元の黒い羽根に触れた。その瞬間、意識が暗転した。さまざまな人間の死にざまが頭になだれこんでくる。飛び降り自殺をした人間の肉片が地面に散らばり、入水自殺して心中した男女が醜く膨れ上がっている。高くそびえる杉の木で首をくくった娘の亡骸を、何者かが凝視している。これは一体、誰の執着だろう。

 ベッドから飛び起きた。カーテンを透かして陽光が室内を柔らかく照らしている。窓の外では雀のさえずりが聞こえた。全身から脂汗をかき、荒い息遣いで手のひらを見下ろした。

 そこには黒々とした鳥の羽根が握られていた。



 別れを告げる彼に手編みのマフラーを手渡した。

 彼は固辞したが、私からの最後の願いだと訴えた。結局根負けする形であの人は贈り物を受け取り、ドアベルを鳴らして珈琲店を出ていった。その背中を見送った。

 さようなら、初恋の人。心の中で別れを告げた。

 私も家路に就いた。もうあの商店街に赴く必要もないだろう。

 彼の律儀な性格はよく知っている。前の恋人の贈り物とは言え、マフラーを捨てることはなく、冬には首に巻いてくれるだろう。急ごしらえで毛糸の中に仕込んだ羽軸の鋭い先端が、あの人の首筋を突き刺すだろう。私にはその確信があった。

 夕空を仰いだ。まるで血の色だ。

 家に帰り、散々食べたライスカレーを最後に味わうとしよう。両親におやすみを言って、ベッドに入って眠りに就こう。

 きっと明日は、もう来ない。

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