第3話 炎結び

 火麒さんが私の正面に立つ。そして、一言も喋らぬまま、無表情で私の事を見つめてくる。小さく唾を呑む。上手く言葉に出来ないが、火麟さんには迫力があるのだ。怒っている時のお母さんとは違う、おばあちゃんや火乃さんとも異なる迫力。まるで、冷気を全身に浴びせられたような冷たさを感じて、全身に鳥肌が立った。


(な、何……?)


 身を縮こませながら、火麟さんの様子を窺う。ないかもしれないが、一応暴力を振るわれることを考慮して身構えて置く。だが、火麟さんが突然、私から視線を外したのだ。ゆっくりと滑らすように。そして、私の後ろを見つめる。


「……ん?」


 頭に浮かぶ疑問。何故、火麟さんは後ろを見ているのか……。そこには何もないはずだ。火麟さんに釣られるように、私も振り向いて後ろを見た。案の定、そこには何もない。私はさらに頭を悩ませる。ただ、このままでは埒が明かない。意を決し、彼女に視線を戻して声をかけようとした。が――、


「火麟、止めなさい」


 咎めるような硬い口調が、玄関に響き渡る。私が声をかけるよりも前に、花火さんが沈黙を破ったのだ。視線を向けると、常に穏やかな笑みを絶やさない花火さんが、口を一文字に結び、真剣な面持ちになっていた。


「…………」


 ただ、そんな花火さんの様相に火麟さんは動じることなく、彼女と視線を交わす。


「花火さん、この子に伝えてないの?」

「必要ないわ」


 僅かな逡巡もすることなく、火麟さんの言葉を一蹴する花火さん。その声音には、明確な拒絶の意志が込められていた。その声、その姿を見て、お母さんの姿が頭に浮ぶ。似ているのだ。帰省を拒むお母さんの姿と。


「火夜さんの子なんでしょ? なら――」

「いい加減にしてッ、あの子はただ神経質なだけ。それだけよ!」


 花火さんが顔を強張らせながら、声を張り上げて火麟さんの言葉を否定する。ただ、火麟さんも引き下がらない。


 つい先ほどまで穏やかな再会を果たしていた筈が、今では緊迫した空気に包まれていた。



 ――そんな時だった。



「朝から、みっともない。御止し、二人とも」


 声を張り上げている二人よりも、遥かに小さい声。にもかかわらず、力強く、よく通る声がした。私を含めて皆が声のした方へ顔を向けると、そこにはおばあちゃんが立っていた。


「お母さん……」

「おばあちゃん……」


 おばあちゃんが現れた途端、張り詰めていた空気が瞬く間に解ける。気を挫かれた二人は、気まずそうな顔をして目を落とす。


(――……気まずい)


 重苦しい沈黙が流れ、且つ、家族のいざこざの真っ只中に立つほぼ部外者の私。気まずいことこの上ない。さらに、こういう息が詰まる雰囲気が苦手だった。そのため、どうにかこの場の空気を変える方法を考える。そして思いついたのが――、


「花火さん、お腹減りました」


 私が元気よく声を上げると、三人が一斉に顔を向けてきた。あのおばあちゃんですら僅かに驚いた顔をしてるのに、私は内心で“してやったり”と思いつつ言葉を続ける。


「今日が本番なので、しっかりご飯を食べないと」


 こぶしを握り、わざとらしく意気込みを口にする。これは、半分本当だった。食事の量は日を追うごとに減り続けていて、本当にお腹が減っているのだ。それに加え、花火さんから祭りを行う三日間は、一日一食だけだと告げられていた。一日一回しかない食事。せめて、時間通り食べたいと切に思う。


「あっはっはっは――、螢火ちゃんって、火夜さんには似てないのね」


 口元を手で隠し、快闊かいかつに笑う火麟さん。ただ、決して品を損なわない彼女の仕草に目を奪われる。


「そうね、朝ごはんにしましょう」


 花火さんも気持ちを切り替えたのか、「ちょっと待っててね」と普段の笑みを浮かべながら台所へ向かう。火麟さんも「後でね」と私に声をかけた後、荷物を部屋へ置きに行く。そうして、私とおばあちゃんだけが残った。私は誇らしげな気持ちを抱き、おばあちゃんと顔を合わす。


(どう? おばあちゃん、私だってやるでしょ。もしかして、褒められる?)


 強引ではあるが、仲裁したのだ。褒められてもいい筈。私は期待に胸を膨らませながら、おばあちゃんが口を開くのを待つ。そして、おばあちゃんは私の方へ向き直ると、重い口を開いた。


「……はしたない。人前で女性がそのようなことを口に――」


(えぇ――……)


 二人ともこの場から離れてしまったため、助けてくれる人は誰もいない。結果、朝ごはんの支度を終えた花火さんが呼びに来るまで、私はおばあちゃんの有難いお言葉を頂戴することになったのだった。






◇◇◇◇◇






 周囲を田んぼに囲まれた道路を車で移動する。花火さんが運転し、助手席におばあちゃん、後部座席に火麟さんと私の計四人が乗っている。ただ、誰も口を開かず車内は静まり返っていた。しかもだ。三人ともただ黙っているのではなく、どことなく緊張感を高めているようだった。


(本番前だからかな?)


 正直、私は緊張していなかった。しょせん代役だからだ。祭りに対しての思い入れもない。それでも分別をわきまえ、大人しくしておく。何より、久しぶりのクーラーの利いた空間を存分に楽しみたい。心の中で「もっとゆっくり走って!」と願いながら、窓の外の景色を眺める。


 人は歩いておらず、街灯もほとんどないこの道は、夜になれば暗闇に包まれるだろう。そんな同じ形が一つもない自然の中に建つ電柱。等間隔、且つ、規則的に並び立つ電柱の不自然さ。私は生まれて初めて電柱に興味を惹かれ、暫くの間夢中になって眺めていた。


(遊ぶとこ無さそ……買い物ってどうするんだろう? ネット? でも、ここ圏外だし……。ここには住めないなぁ……)


 早々に電柱への関心が失せ、ぼんやりと景色を眺めながら物思いに耽っていた。すると、周囲を畑に囲まれた、青々とした木々が生い茂る山が見えてきた。


「着いたわよ」


 花火さんが顔を前に向けたまま、声をかけてくる。あらかじめ聞いていた話によると、祭りを行う神社は山頂に立てられているとのことだった。私は、バックに入れていた虫よけスプレーを握りしめる。そして花火さんが車を駐車すると、素早く車から降り、迷惑が掛からないよう三人から離れた後、虫よけスプレーを全身に噴射した。


 現在の時刻は、正午を少し過ぎたくらい。祭りは二十時からだが、段取りや準備などがあるため、この時間に山へやって来た。まず、麓にある瓦屋根の小屋へ向かう。この小屋も渡司家の物らしく、ここで着替えや道具の準備を行うという。


「螢火ちゃん、ちょっと待っててね」


 ただ、準備と言ってもほとんど済んでいるらしい。残っている準備も、それほど多くはないとのこと。着替えるにも時間が早く、勝手が分からない私は、呼ばれるまで外で待機するよう花火さんに言われた。


(う~ん、こんな所で待ってて言われてもな……そうだ!)


 どう時間を潰そうか悩んだ末、祭りを行う神社を見てみることにした。神社の入口は、目と鼻の先。ただ、一人で勝手に入るのはマズいだろうと思い、近くで覗くだけにしておくことにした。



 ――私は、息を呑んだ。



 寶嶽山ほうだけざん。標高は二百メートルほどと、山としてはそれほど高くはない。山肌が見えないほど生い茂る木々が、風に揺れて止むことのない葉音と鳴らし、セミとひぐらしの鳴き声が木霊している。その麓に鎮座する鳥居。


 石造りの鳥居は、雨風に晒されたせいか風化していて、さらに半分ほどが苔に覆われていた。鳥居に掛けられたしめ縄は、完全に色が抜け落ちていて、悠久の時を感じさせ、それでいてどこか風格が漂っている。


 空は雲一つない晴天だが、木々に覆われているせいで鳥居の奥は見えず、まるで闇への入口が開いているようだった。ただ、不思議と怖いという感情は抱かない。寧ろ、この先が違う世界――神聖な場所であるということを告げているように思えた。


 どうしてだろう……。心に訴えかけてくるような尊さと共に、胸を締め付けられるような寂しさを感じるのは……。


「上行ってみる?」


 呆然としながら鳥居の前で立ち尽くしていると、後ろから優しい声をかけられた。我に返って振り返ると、火麟さんが立っていた。


「火麟さん……」

「螢火ちゃん、朝はごめんね。それに、ちゃんと自己紹介してなかったよね。改めて、火麟です。よろしくね、螢火ちゃん」

「あ、螢火です。よろしくお願いします……?」


 優しく微笑む火麟さん。目鼻立ちがはっきりとした美人だが、決して近寄りがたい雰囲気はなく、とても接しやすい印象を抱く。ほのかに香るシトラスの香りが夏らしく、火麟さんとも良く合っている。だが、そんなことよりも私の頭は疑問で一杯だった。お母さんから聞いた話では、渡司家は慣例として婿入りするのだと言われていたからだ。


「家のお母さんだけは訳あってね、婿入りじゃなくて、結婚して姓が変わったの。火夜さんから聞かなかった?」


 私が引っ掛かっていることを察してか、火麟さんが疑問の答えを教えてくれた。


「そう、なんですね……。えっと……お母さんは、その、あんまり話してくれなくて……」

「ん? ああ、そっか、そうだよね……」


 親戚とは言え、お母さんのことを話していいのかが分からず、私は言葉を濁しながら喋った。だが、火麟さんはまた話を察し、納得したような表情を浮かべる。その顔を見た瞬間、私の中にある感情が芽生え、衝動的に言葉を口にした。


「あの、火麟さん? お母さんの――」

「話す気はないよ」


 優しい声が一変、鋭い声音が私を切りつけた。予想外の声音に、私の心臓が萎縮する。恐る恐る火麟さんの顔を覗くと、彼女は私の事を真っ直ぐに見つめていた。思わず、視線を外してしまう。


「……でも、さっきは……」


 だが、簡単に引き下がれない。お母さんのこともそうだが、渡司家の人たちは何かを隠してる。それが正直、気に喰わない。祭りの代役として呼んだのに、重要なことは言わず、「何も聞くな」と言うのだ。それに対して、「はい、わかりました」と従うほど、私は従順でもなければ子どもでもない。胸の高鳴りと共に体が熱くなっていくのを感じながら、問い質すように再び火麟さんの顔を見た。だが――、


の螢火ちゃんは、聞く必要ない」


 強い眼差し、凛とした佇まい、有無を言わさぬ迫力。火麟さんに、おばあちゃんの面影が重なった。そして、悟る。たとえ私が声を荒げようとも絶対に教えて貰えないということを。上がっていた体温が、急速に下がっていく。


「…………」


 私は口を閉ざし、ゆっくりと顔を伏せた。


「……上に行くのは止め――」

「行きます」

「…………えッ?」


 数秒の沈黙が流れた後、火麟さんが気の抜けた声を漏らす。私は小さく口角を上げる。その後、表情を戻しながら顔を上げ、火麟さんを見つめながら口を開く。


「行きたいです、連れてってください」 


 渡司家には、私の知らない秘密がある。だが、今の私では教えてはもらえない。一人だけ蚊帳の外のようで釈然としないが、しょうがない。何故なら、私はまだ日が――関係値が浅いのだから。ならどうするか。簡単だ。深めればいいのだ。渡司家の人たちとの仲を。


「…………」


 私の願いを受け、火麟さんは口を閉ざして固まってしまう。


 二人の間に、沈黙が流れる。


渡司家ここの人たちって、表情で読めないんだよね。これでも、バイトで鍛えてるんだけどなぁ……まだまだ、修行が足りないな)


 不意に、鳥居の奥から風が吹いた。暑さを忘れさせるような濃い緑の匂いがする涼しい風が。私が髪を押さえる中、風で髪を揺らす火麟さんがおもむろに声を漏らした。


「……ふふ、あっはっはっは――、螢火ちゃんってほんっとに……好きよ、アナタのそういうところ」


 火麟さんの雰囲気が和らぐ。それと同時に、厳しい表情を破顔させ、楽しそうに笑う。人はギャップに心惹かれるというが、年上の美人な女性火麟さんの飾らない笑顔を見て、女の私も思わずドキッとしてしまう。 


「なら行こっか」


 手早く髪を直した火麟さんがそう言うと、鳥居に向かって歩き出す。何とか気に入られたようで安堵する。もっと信頼されれば、きっと話してくれるはず。私は火麟さんの後を追って鳥居へ向かった。






◇◇◇◇◇






 真っ直ぐ伸びる参道。平らに削っただけの石畳は湿っていて、参道の端はコケの地面が広がっていた。参道沿いには等間隔に苔に覆われた石灯籠が並んでおり、葉っぱには水滴が溜まっている。木々も鳥居の入口とは種類が変わり、針葉樹が並び立つ。


 鳥居の前はあれほどうるさかったのに、参道の奥へ進んでいくほど静かになっていく。さらに、空気が澄んでいて冷たい。渡司家で感じた静けさとは違う神聖さで満たされた空気に、私は自然と背筋を伸ばす。


 暫くして、二の鳥居が見えた。


 二の鳥居は、麓の鳥居よりも苔むしていて、しめ縄の退色も凄く、湿気のせいで痛んでいる。そのしめ縄に取り付けられた真新しい純白の紙垂しで。その紙垂しでだけが、風が吹いていないのに大きく揺れている。


 二の鳥居を越えた先は、より深いコケの世界。その中を静かに歩み続けると、山頂へ伸びる手すりのない石の階段が現れた。


 神社が建っているであろう場所だけ木々が生えてないのか、日が当たっていて明るい。階段の半ばまで上ると、陽光に照らされ、まるで天へ昇っているようだった。


 そして、私は山頂に辿り着いた。


 湿気を吸って変色した透塀すきべいに囲われた神社。思わず目を見張る。小さいのだ。体育館の半分ほどの広さしかない。そして、不敬かもしれないが渡司家よりも質素な造りだと思ってしまった。境内一面に玉砂利が敷かれていて、塀を沿うように無数の篝火かがりび台が並び、中央には太い木材が井桁いげた型に積まれ、その奥に小さな社祠しゃしが鎮座している。


 ここが、今日から三日間祭りが行われる抱貴ほうき神社――。






◇◇◇◇◇ 

 


 

 


 日が暮れると、山の麓は完全な暗闇に包まれた。


 壁に掛けられた時計は、七時を指し示しめそうとしている。既に着替えも終え、いつでも出られる状態だった。初めて着る巫女服。祭りが始まる前までは、密かに楽しみにしていた。今後、二度と着る機会など訪れないからだ。できれば、隙を見て自撮りしようなどと呑気に考えていた。が、浅はかだった。一緒に待機しているおばあちゃん、火乃子さん、花火さんの纏う空気が、開始の時刻が近づくにつれて重々しいものになっていくのだ。小屋に唯一ある個室には、火麟さんが一人で籠っている。どこにも逃げ場はない。部屋の中央に並ぶ三人の後ろ、且つ、壁際に張り付いているが、物音一つ立てる事すら憚れような緊張感に包まれたこの中で浮かれた行動など取れるはずがない。それどころか、三人の空気に当てられ、ずっと身体がそわつき、喉の渇きに襲われていた。


 息が詰まる思いにじっと耐えていると、カチッという小さな音と共に時計が七時を示す。すると、正座していた花火さんがおもむろに立ち上がった。そして、振り返って「螢火ちゃん、時間よ」と、私の方を見ながら重い口を開く。


 怒っているのではないかと勘違いしてしまうほど真剣な花火さんの面持ちに圧倒され、私は頷き返す事しかできなかった。


 おばあちゃん、花火さん、火乃さん、私の順に列をなして参道を進む。火麟さんは、後から訪れるためこの場にはいない。灯りとして、各々が手に提灯を持つ。ライトとは違う、自分の周囲を淡く照らす提灯の明かりを頼りに一歩ずつ踏み締めるように歩く。


 ゆっくり進むこと四十分、抱貴ほうき神社に辿り着く。


 私は指定されていた篝火台へ向かうと、そこから細木を取り出し、提灯の火を用いて細木に火を灯す。そして、順々に篝火台に火を灯して回る。おばあちゃんたちも同じように火を灯して回り、やがて全ての篝火台に火が灯った。


 パチパチと、薪の燃える音が物静かな境内に響く。暗闇に覆われていた境内の幕が明け、周囲から火の熱に当てられる。そして最後に、境内の中央に置かれた薪にも火を灯す。鼻腔を刺激する煙の匂いが境内に充満していく。


 祭りの準備は整った。


 一言も喋らずに、境内の左側に置かれた台へ向かう。白い布が敷かれた上には、太鼓が並んでいる。右側にも白い布を敷いた台があり、そこには果物やお餅などといった多種多様な食べ物が山の様に積まれている。私は一番右端の太鼓に移動すると、静かに正座をした。花火さんだけは、台のすぐ横に置かれた大太鼓の前に立つ。そして、花火さんがこちらの様子を一瞥した後、腕を振りかぶって太鼓を叩く。お腹に響く様な低い音が、境内――いや、山全体に響き渡る。間隔を空け、もう一度花火さんは太鼓を叩く。


 そうして、花火さんが大太鼓を叩き出して十分が経過した頃、火麟さんが姿を現した。


 私は、思わず見惚れてしまった。私たちと同じように火麟さんも巫女服を着ていて、手には篝火に照らされて光り輝く金色の稲穂のような祭具を持っている。何より目を引くのが、腰まで届く絹のように艶のある美しい。大和撫子という言葉が頭に浮かんだ。


 火麟さんが、轟々と燃え上がる大火の前で一度完全に立ち止まった後、深々と首を垂れた。


 祭りの開始の合図である。


 花火さん、火乃子さん、私が太鼓を叩き始める。すると、一番左端にいるおばあちゃんも太鼓の音色に合わせて篠笛しのぶえを吹き始めた。和太鼓と和笛の旋律が赤々とした火に照らされた境内に響き合う中、火麟さんが静かに舞い始める。


 私は太鼓を叩きながら、火麟さんの一挙手一投足に釘付けとなっていた。舞のことなど何も分からない。にもかかわらず、火麟さんの動き一つ一つに意味があり、そして完璧に舞っているのだと思えてしまうほどに流麗で美しかった。大火の前は熱いのだろう。舞い始めて数分も立たぬうちに、火麟さんの額に汗が滲む。それでも、彼女は舞い続けた。時には小さく金色の稲穂を振り、時には大胆に飛び上がる。


(綺麗……)


 ここは、色々と不便に思うことが少なくはない。のけ者にされて釈然としないとも思う。だが、一生に一度、この火麟さんの舞を見れただけでここに来てよかったと思えてしまっていた。それほどまでに、胸に迫るものがあった。



 ――そう思った矢先、火の近くにが現れた。



 それは、丸い小さな影。最初は何の気にも留めていなかった。篝火に照らされた影だと思っていた。しかし、その影はまるで水面に広がる波紋のように幽かに揺れながら、少しずつ形を変化させていっているのに気付く。


(……なに、あれ……?)


 一瞬たりとも同じ形を留めない影。私は何故か、その影から目を離せなかった。いや、魅入られていた。私自身、火の熱に当てられて高揚していたのかもしれない。火麟さんの舞に合わせて、影も舞っているかと思った。だが、ある瞬間、背中に悪寒が走る。その直後、全身に鳥肌が立った。


(…………え)


 ここで、ようやく違和感に気付く。体がいう事を効かないのだ。咄嗟に隣にいる火乃さんに助けを求めようとしたが、声は出ず、腕は意志に反して太鼓を叩き続ける。突然のことに意味が分からず、うるさいくらいに動悸がする。だが、何も出来にない。そればかりか、視線が固定されているせいで嫌でも影の変化を見てしまう。


 うねうねと動く小さい影から、一本の角が飛び出る。その角は、確かめるように何度も地面を叩く。そうして確認を終えると同時に、さらにもう一本角が生えてきた。


(止めて……)


 嫌な予感がする。その思いを拒絶するあまり、呼吸が荒くなっていく。夏の熱帯夜、そして周囲を火に囲まれているのに、体の震えが止まらない。


(嘘……嘘、嘘……)


 角は一本、また一本と生えていき、最終的に四本になった。すると、影は二本の角を使って器用に立ち上がると、よたよたと頼りない足取りで歩き出す。


「…………」


 心の中で強く否定する。「違う、そんなわけはない」と自分に言い聞かせる。しかし、その大きさ、その動き方を見て、どうしてもそう思ってしまうのだ。


 やがて、影に頭が生えた。


 ――子ども。影は子どもの姿をしているのだ。そう思った途端、境内に無数の子どもの影が現れた。一人二人ではない。数十人の子どもの影が境内を徘徊している。


 目の前の光景に戦慄としていると、ふと足に冷たい感触が当たった。


 あれだけ動かなかった体が動く。視線を足元へ向けると、そこには私の足に触れている小さな子どもがいた。そして、私の視線に気付いたのか、影がゆっくりと顔を上げる。


 その子どもと目が合った瞬間、私は意識を失った。

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火振るる  羽田トモ @meme1114

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