第2話 “謎”
トントントンっと、まな板から軽快な音が鳴る。周囲を見渡すと、視界がおかしい。困惑しながら体を動かしてみると、なぜか体全体がバタバタと跳ねる。呆然としていると、割烹着を着た和式便座に体を持ち上げられた。そして、まな板の上に寝かし付けられ、元気の良いかけ声が飛ぶ――。
「……誰が
目が覚めたら網の真ん中――布団の上で、下着姿で大の字になっていた。窓へ顔を向けると、すでに空は明るい。ただ、枕元のスマホを確認すると、五時十三分と表示された。
「早、ってか、暑……」
全身が汗ばんでおり、髪が首筋に張り付いて気持ちが悪い。寝不足で機嫌が悪い中、上体を起こして網を睨み付ける。
「コイツめ……」
網の印象が強過ぎるあまり、夢にまで出てきた。それに加え、暑さ。日本家屋だからか、部屋にクーラーはおろか、扇風機も置かれていないのだ。昨晩はいっこうに寝付けず、布団の上で何度も寝返りを打ち、朝方になってようやく眠れたのだった。
「もしかして、お母さんこれが嫌だった? 熱がりだからな、ありえる……」
もう眠れそうにない。というよりも、限界だ。お風呂に入ってさっぱりしたいが、我儘を言える立場ではない。仕方ないので網から抜け出ると、荷物の中からボディシート取り出して全身を拭く。幾分かさっぱりした後、これからどうするかを考える。
「朝ごはんは七時から……スマホは圏外だし……もう、前もって言ってくれれば、色々ダウンロードしておいたのに……よしッ」
家の中を散策することにした。そうと決まれば、バックの中からTシャツとショートパンツを取り出し、髪をポニーテールにして部屋を出た。
「ホント、ひっろいなぁ」
昨日とは打って変わって、日本家屋の整然とした綺麗さに目を奪われる。年季は入っているが、一目見ただけで手入れが行き届いているのが分かる。
「掃除大変そう……」
朝日が射し込む縁側をゆったりと歩く。中庭に目をやれば、剪定された木々や大きな池に朝日が降り注いでおり、鳥のさえずりが心地よく、爽やかな朝の匂いと濡れた土の匂いが優しく香る。
「綺麗。インスタ……圏外か。けど、写真だけ撮って後で……」
普段見ることのない景色に、時間を忘れて見入る。
「ん? あれ、なんだろう?」
中庭を眺めていると、木々の隙間から瓦屋根が見えた。距離的に、敷地内の建物のようである。興味をそそられ、全貌が見える場所を探して縁側を歩く。
「こっちだ」
昨晩とは違い、静寂に包まれた朝に溶け込む廊下の軋む音が心地良い。綺麗な景色を見たからか、気分も上がっていた。そうして軽快に歩いていると、通路の先に着物を着た年配の女性が歩いているのに気付いた。
(誰だろ?)
小柄ではあるが、それを感じさせないほど背筋が伸びた八十過ぎの女性。何より目を引くのが、意志の強さを感じさせる眼差し。とても高齢者だと思えない。長い白髪を綺麗に結い、薄緑色の着物を完璧に着こなしている。まさに、着物美人だ。
ただ、誰であろうと挨拶はするべきだ。ちょうど、その女性は私の方へ近づいて来ている。私はその女性が目の前に来たタイミングで、頭を下げて挨拶をした。
「おはようご――」
「はしたない」
「…………ぇ」
極々小さく声を漏らす。その直後、声を押し殺した自分をすかさず褒める。これは、バイトの際に気分を下げないために身に付けた術だった。
挨拶を遮るように、ぴしゃりと一蹴した高齢の女性。その言葉には、慈悲も遠慮もなかった。予想外の冷たい言葉を浴びせられ、頭を下げたまま固まる。
「一体何なんですか、その格好は。妙齢の女性がそのように肌を出す――」
(えー、何? 何なの、この人……)
せっかくの気分が台無しである。だが、瞬時に気持ちを切り替える。
(いるよねー、こういう人……)
有難い小言は止まらない。そのすべてを聞き流し、どうやってこの場をやり過ごそうか悩んでいると、後ろから足音が聞こえた。
「お母さん、螢火ちゃん」
現れたのは、花火さんだった。
「花火……」
(あぁ、おばあちゃんなんだ……)
花火さんのお母さん。つまり、お母さんのお母さん。イコール、私のおばあちゃんの式が出来た。二人が話し出したので、ゆっくりと頭を上げる。そして、
(確かに言われてみれば、お母さんに似てる……かな? え~、じゃあもしかして、お母さんもこうなるのかなぁ、嫌だな)
「螢火ちゃん、おはよう。おなか減ったでしょ? ごはんにしましょう」
花火さんが振り返ると、笑顔を浮かべながら声をかけてきた。
「おはようございます、花火さん。はい、ペコペコです」
さっと笑顔を浮かべながら挨拶を返し、腹具合を伝える。それに対して、おばあちゃんがまた眉尻を上げた。が、見て見ぬ振りを決め、頭を下げてから花火さんの後を追う。
「ごめんなさいね、螢火ちゃん。気を悪くしちゃったでしょ……」
廊下の角まで進むと、花火さんが歩きながら申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にした。ただ――、
「いえ、全然平気です」
(だって、
あっけらかんとした態度でそう答えたからか、花火さんは一瞬黙った。ただ、すぐに肩を震わせながら品よく笑う。
「螢火ちゃんは、
「ん?」
その言葉を受け、ここへ来る前に覚えた渡司家の家系図を思い浮かべる。
「そうなんですか……。そういえば、灯火さんと火乃子さんはいつ来るんですか?」
「……あとは、火乃子が来るだけなの……」
そう呟いた花火さんは、とても寂しそうだった。
◇◇◇◇◇
朝食後、おばあちゃんと改めて挨拶をした。おばあちゃんとの会話は、終始、緊張感に包まれたものだった。一切笑わず、硬い口調のおばあちゃん。そのあまりによそよそしい挨拶に、途中から業務連絡のように思えてしまい、家族の会話とは思えなかった。「苦手だなぁ……」これが、おばあちゃんに対する私の感想だった。
「こっちよ」
その後、花火さんの運転で廃校にやってきた。木造の校舎。長い年月雨風に晒されて変色した壁、所々朽ちたトタン屋根と雨どい。子どもが通わなくなってから時が止まってしまった学校は、何か足りないという思いを抱かせるような物寂しい雰囲気に包まれていた。
そんな学校の校庭を歩きながら、花火さんは昔話を語ってくれた。
――四姉妹の母校であるということ、
――
――その代役として私が呼ばれたことなどだ。
そうして教員入口から校舎の中へ入ろうとした時、ふと大きな石碑が目に付いた。
「ん? 記念……碑……よ、よい?」
石碑の文字を何の気兼ねなしに読もうとしたが、達筆過ぎて読めない。それが無性に悔しく、意地になって読もうと足を止めてしまう。だが、目を細めたり、頭を倒して角度を変えたり、俯瞰して見たりしたが一向に読み進められなかった。
「螢火ちゃん、何して――ああ、それ。それはね、多稔町の童謡よ」
「童謡?」
私が小首を傾げると、花火さんは遠い目をしながら教えてくれる。
「そう。とは言ってもね、私も詳しくは知らないの。けど、昔から伝わってる歌らしいわ。この学校の校歌としても使われてたのよ。懐かしいわねぇ、私も通ってた頃に歌ったわぁ」
「へぇ~」
花火さんに「さ、行くわよ」と促され、私は校舎の中へと入る。静まり返った校舎。やたらと足音が響く廃校は、カビ臭さや悪臭はせず、さらに定期的に掃除されているのか思いの他綺麗で驚いた。花火さんの後について行きながら視線を右往左往させていると、彼女が立ち止まって声をかけてきた。
「螢火ちゃんには、木造の校舎は珍しい?」
「はい。校舎の中も全部木なんですね。……ジュースとか零したらシミになるのかな?」
「……変なとこ、気にするのね」
「そういうところは、火夜にそっくりね」と嬉しそうに微笑む花火さんが、ガラガラと教室の引き戸を開けた。ガラス窓のような壁から中を覗くと、三つの太鼓が並べられている。そのうちの一つ、左端の太鼓の前には女性が正座していた。
「火乃子、待たせたわね。螢火ちゃん、紹介するわね。四女の火乃子。火乃子、この子は火夜の娘で螢火ちゃん」
四女の火乃子さん。歳は五十代前半、色白で小柄な体格。水色の着物からはお香のような匂いが香り、袖から伸びる血管が浮き出た細い手を綺麗に伸ばして太腿の上に置いている。そして姿勢。渡司家の人たちは皆、高齢にもかかわらず背筋が伸びていて、まるで芯が通っているかのようだった。
「はじめまして、螢火です。短い間ですが、よろしくお願いします」
渡司家の人たちを見習い、出来る限り綺麗なお辞儀を心掛けて頭を下げた。
「…………」
溌溂とした私の声が、木造校舎に空しく響き渡る。
(寝ちゃった?)
微動だにしない火乃さん。待たせ過ぎたせいで寝落ちしてしまったのかと思った時、ゆっくりと私のことを一瞥した。
(あ、おばあちゃんと同じ目だ)
火乃子さんの目を見た瞬間、おばあちゃんの眼差しと重なった。咄嗟に仕事モードに切り替えようとしていると、彼女が重々しい口を開く。
「……しっかり自分を持ちなさい」
「ちょっと、火乃子……」
花火さんが窘めるように口を挟むが、火乃子さんはさらに言葉を継ぐ。
「そうしないと、ここから逃げ出すことになるわよ」
火乃子さんの言葉を聞いて、目を見開いてしまう。頭の中に木霊する『逃げ出す』という言葉。思わず火乃子さんと目を合わすが、彼女は動じるどころかじっと私の目を見つめ返して来る。さすがは年の功、表情からは何も読めない。ならば、直接聞くしかないと口を開こうとした。が――、
「はぁ、アンタって子は……、螢火ちゃんが心配ならもっと分かり易く言いなさい」
花火さんが先に口を開いた。
「ちょッ!? 花火姉さんッ」
「さッ、時間もあんまりないんだし、さっさと練習を始めるわよ」
そう言いながら手を叩き、深く追求することもできずに練習が始まってしまった。
◇◇◇◇◇
練習は滞りなく終わった。言われていた通り、やること自体はそれほど難しくはなく、これなら本番も問題ないだろう。晩御飯を済ませ、そして念願だったお風呂へと向かう。
「スン……なんだろう? スッとする匂いがする……というか、お風呂をリフォームしたんだったら部屋にもクーラー付ければいいのに……」
最新のスイッチパネルが付いたモダンな浴室。ただ、
「……逃げ出す、か」
頭から離れない火乃子さんの言葉。悩んだ時は、お風呂に入るのが私の癖だった。頭や体を洗いながら考え、湯船に浸かりながら答えを出す。いつもそうだ。「答えは、お風呂にある」が、私の格言だった。
「花火さんも、何か話したくなさそうな雰囲気だったし……」
帰りの車の中で、花火さんに尋ねようとしてみた。しかし、その話題になりそうになると、強引に話題を変えてしまうのだ。何度か遠回しに尋ねようたしたが、結果は全て同じだった。結局、何も聞けなかった。
ただ、ぼんやりと自分の中に答えは出ていた。誰が逃げ出したのか。それはおそらく、お母さんの事だろう。お母さんは、実家に帰省することを拒絶する。その事と、火乃子さんが言った事が関係しているのだろう。だが、肝心要――逃げ出す“原因”が分からない。
「う~ん、ダメだ。わかんない。……もう出よ。あ~、お風呂上がりのアイス食べたい……。せめて、扇風機……はぁ~……」
お風呂から出た私を待っていたのは、記憶的猛暑、史上最高気温、最高気温更新と、まるでバーゲンセールのような謳い文句の熱帯夜だった。
◇◇◇◇◇
二日目も結局、早起きをする羽目になった。
「ダメ~溶ける~」
今朝は、縁側で風に当たって涼んでいた。外の風に当たれば、多少は涼しいだろうという苦肉の策だ。一応は風に揺れて鳴る風鈴の音色が気持ち的に涼しさ感じさせるが、其処ら中から聞こえるセミの鳴き声が暑さを助長している。結果は、暑さに軍配が上がった。
「なんで、花火さんとおばあちゃんは平気な顔してるの……?」
この暑さの中、完璧に着物を着込んでいる二人。自分には到底真似できる気がしない。慣れか、はたまた精神力の差か。暑さに参りながら思考を巡らせていたせいか、二人が特別な訓練を受けた超人なのではないのかと本気で疑ってしまう。
「ん?」
そんな中、玄関の方で何やら気配がするのに気付いた。一瞬、宅配やご近所さんかとも思ったが、自分が渡司家に厄介になってから一度も来客が訪れたことはない。ならば身内や親戚かとも考えたが、火乃子さんは来ないと花火さんが言っていた。
「何だろ? この音?」
玄関の方から聞こえてくる、何か重い物を移動させているようなゴトゴトという物音。あまりに気になるのと、どうせやることもないので、玄関の方へ行ってみることにした。
廊下を歩いていると、「ギリギリに来て……」と、花火さんの声が聞こえた。それに対し、「いいでしょ」と、聞いたことのない声が返事を返す。声の主は女性。しかも、若い女性の声だ。その若い女性が、親しそうに花火さんと話し込んでいる。
(だ~れだ?)
ひょこっと頭を出して玄関の方を覗くと、花火さんと女性が立っていた。その女性を見て、私は思わず固まってしまう。
女性は二十代前半で、引き締まった身体付きに長い手足、腰まで届く金髪ストレートと透き通った色白い肌、フェイスラインはモデルのようにシャープで、おまけに小顔。黒のベアトップにワイドパンツと、白のシアーシャツを羽織ったシンプルなファッション。高校生である私にはない、大人の魅力を兼ね備えた美人。
(綺麗な人……)
つい夢中で女性の事を眺めていると、不意に女性と目が合った。
「あれ? なんでここに、あんな若い子がいるの?」
女性の方も私を見て、驚いた表情を浮かべる。そして、目の前にいる花火さんに声をかけた。女性に指摘されて、花火さんが振り返る。
「あら? 螢火ちゃんいたのね、全然気が付かなかった。でも、ちょうどいいわ。紹介するわね、
花火さんがそう言い終えた途端、微笑んでいた
そして、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます