四 -八月-
「い、家に遊びに来ませんかっ……!?」
水鏡を見ていた御付きは、驚愕のあまり叫んでいた。傍で一緒に水鏡を見ていた神様は、突然鼓膜に響いた声に顔をしかめる。
「君、いきなり大声を出すのはやめてくれないかい?」
御付きは慌てて口を押えるが、その目は神様と水鏡を行ったり来たりだ。
御付きには、
「他の人間、それも自分の家族に会わせて万が一さちさんが危害を加えることなんてことが起きたら……ああ、大変です、どうしましょう……!」
御付きの顔が次第に青ざめていく。遂に危惧していた悪い事態になってしまったんだ、これが他の神様に知られたらと不安に不安が重なっていく。
そんな御付きの肩を二度手が叩いた。彼が顔を上げれば、いつものように愉快そうに笑う神様がいた。
「まあまあ、落ち着きなさい。君が思っているような悪いことは起きないから」
「何が悪いことは起きないですか! 今まさに起きようとしてるじゃないですか!」
「だって、あのさちだよ。あんなに優しくて、気が弱い鬼がだよ。いったい何ができるって言うんだい」
「それでも彼女は鬼ですよ! 予想外のことが起きる可能性だって」
「一誠だっているんだから、君が心配するような大きなことなんて起きないさ。それに、今君が心配するのは
意見を全く取り合ってもらえないまま、御付きは神様に背中を押されていく。抵抗に御付きが踏んばってみようとするが、いとも簡単に机の前に着いてしまった。
「君が今相手するのはあの二人じゃなく、この仕事だろう?」
にこりと笑う神様に、御付きは不貞腐れた顔で机の上を見る。今あの二人より優先すべきものなんてないでしょう――そう言おうとして、御付きの顔が固まった。
机の上にあったのは、お盆に向けての仕事書類である。
お盆前の今、多くの神と付き従う者たちが繁忙期を送っている。高天原にいる霊たちが里帰りを行うからだ。それも何百万もの霊が一斉に里帰りをするので、それが無事行われるように神や付き従う者たちが多くの仕事に追われている。
「お盆前の繁忙期、一緒に頑張りましょう! そう言った君の言葉も、今は昔なのかな?」
「いいえっ!」
御付きは勢いよく頭をふった。
休憩に見に行った水鏡で不安をいっぱいにして大事な仕事を忘れてしまったことが、御付きは恥ずかしい。しかし、二人への心配が彼から消えないのも事実だ。
そんな御付きを察するように、椅子に座った神様が言う。
「万が一なんてことがあれば、私がなんとかするさ。だから、君は心配しないで目の前の仕事をしなさい」
そう微笑をたたえられても、御付きはいまいち信用できない。しかし、目の前の仕事を放りだすこともできない。里帰りを心待ちにしている霊たちをの声を何度も聞いているからだ。
御付きは渋々はいと返事をすると、筆を手に取る。神様は、頬杖をつきながら満足そうに彼を見た。
「さちさん、今度俺の家に来ませんか?」
さりげなく、いつものようにと努めて言った言葉。しかし、一誠の心臓の動きは早まっていた。
家族がいないと言ったさちが、少しでも楽しんでもらえるように。それに、自分以外の人間と交流できたら良いでではないか。そう思っての提案だった。
じんわりと湧いてきた汗が、ゆっくりと一誠の首筋をつたっていく。
「私は行けません」
うるさい蝉の中にさちの声が通る。
「私は、鬼なので」
確かにはっきりと告げた言葉、しかし彼女の目は寂しそうに地面へ伏せた。一誠はそれ以上、何も言えなかった。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
心配そうな
「ちょっと……考えごとしてた」
曖昧に笑いながら図鑑を閉じると、座卓の向かい側に座る心結と
「宿題どう? わからないところない?」
そう訊ねた二人の前には、夏休みの宿題が広げられていた。
一誠たちが夏休みに入ってもうすぐ二週間が経とうとしている。両親が共働きのため、長期休みに入ると年の離れた妹弟の面倒を見ることが一誠の日課だ。
「私大丈夫だよ」
そう言いつつも、心結の顔は曇ったままだ。何が気になるのか見当つかない一誠は、次にじっと見つめてくる真純に気づいた。
「真純、わからないところでもあった?」
兄からの問いかけに真純は大きくうなずくと、無邪気に言った。
「お兄ちゃん、なんで毎日ずかん見てんの?」
「え?」
「それに、毎日それ見てため息ばっかついてる」
首を傾げる真純に追随ずるように心結も大きくうなずいた。
「お兄ちゃん、最近何かあった? なやみごと?」
じっと見つめてくる妹弟に、一誠は固まってしまった。
心結と真純に勉強を教える合間に花の勉強をしようと、一誠はいつも図鑑を持ってきていた。二人が宿題を解いている間に読もうとするが、そのときについさちのことが思い浮かぶ。そしてそのまま、先月のことを思い返してしまうのだ。
ため息は無意識だった。今心結に指摘されてようやく一誠が気づいたくらいだ。
「お兄ちゃん?」
再度心結に問われ、一誠は口ごもる。
さちは家に遊びに行くことを断った理由に、自分が鬼だからと言った。それもあんな寂しそうな目で。
「友達が……遊びに来てくれたら嬉しんだろうなと思って」
本当のことは隠すようにした結果、一誠の返答は感想のようになってしまった。心結は怪訝そうに首を傾げるも、真純は笑顔で繰り返しうなずく。
「友だち来たら楽しいよ!」
真純は、数日前に三人の友達をよんで自宅で遊んでいた。
「つまり、お兄ちゃんのなやみは、友達が来てくれないこと?」
鉛筆の頭を頬にくっつけながら言う心結に、一誠はうなずいた。
「もしかして、お花が好きな友達?」
続いて心結から出てきた質問に、一誠は少しびっくりする。
「そうだよ」
「なやむくらい来てほしいのに、さそってないの?」
「一度誘ってみたけど、本人に断られたから」
「そうなんだ」
再び首をひねる心結の隣で、真純は身を乗り出してきた。
「じゃあ、もう一回聞いてみたら?」
「もう一回かあ」
真純の素直な提案に、一誠は苦笑を浮かべるしかない。一度断られているのに、もう一度聞くのは一誠には気が引ける。
「もう一回だけ聞いてみて、それでもだめだったらあきらめたらいんじゃない?」
心結からの付け加えられた提案に、一誠は少し考える。
このまま無意識に悩む姿を二人に見せ続けてしまうのも申し訳ない。それに、やっぱりあのときのさちも引っかかったままだ。
「それじゃあ、もう一度だけ聞いてみるよ」
一誠の出した答えに、心結と真純が嬉しそうな顔をした。
その週の土曜日の午後、一誠とさちはいつもの場所で石の上に座っていた。天気が曇りのため、普段より涼しい。
「あの、さちさん」
やや緊張感を持ってしまった一誠の声に、さちの身体も少し強張る。
「前に一度言ったんですけど、家に遊びに来ませんか?」
赤い目がわずかに見開き、小さく息をのむ。しかし、さちはすぐに首を振った。
「いえ、私は行けません。私は、鬼なので」
「その、でも、なんであのとき寂しそうな目をしたんですか」
さちの目が今度は大きく見開く。
「寂しそうな目をして、本当は行きたいんじゃないかって。だけど、鬼だから諦めてるんじゃないかと思って」
生温い風が、二人の髪を揺らしてく。
さちの顔がうつむいてしまって、一誠は慌てて顔の前で両手を振った。
「いや、本当に行きたくないだけならすみません! 無理にとは言わないんで」
時間が進むごとに、一誠の中の不安が徐々に大きくなっていく。話題を変えようと鞄の中の図鑑を取ろうとしたとき、さちの顔が上がった。
「本当に、鬼である私が、行っても大丈夫なのですか……?」
震えた声でじっと見つめるさちに、一誠はうなずく。
「はい! 俺も協力しますし」
「鬼なのに、本当に……?」
「はい、大丈夫です」
しかしさちの顔は曇ったままで、一誠は眉を下げた。まるで、破ってはいけないルールを真面目に守っているようだ。
「鬼だから、行ってはいけないと言われたことがるんですか?」
「……家族だった人が、山を下りて人里に行ってはいけないって」
以前さちが少し話した家族。まだ幼かっただろう彼女を一人置いていった。その人が言ったことを、彼女は未だに守っている。
「……でも、今は俺がいますよ」
「……傍にいてくれますか」
「はい、ずっと傍にいます」
今度は力強くうなずいた一誠を見て、さちは繰り返し深呼吸をする。そして、改めて一誠を見つめた。
「私、あなたの家に行ってみたいです」
さちが佐原家に来ることになったのは、三日後の火曜日だった。
「あの、私おかしくないですか?」
いつもの場所でさちは着物姿ではなく洋服を着ていた。一誠が急いで準備した服だ。お店で一人女性服を買うのは気まずく、女子が来ても無難そうな男ものの薄手の長袖シャツとデニムのパンツ、それとサンダルとキャップを購入した。
「大丈夫です、似合ってます」
相槌をうつ一誠に、さちは恥ずかしそうにうつむく。
鬼であるさちは、自身の容姿を気にした。額の角と赤い目だ。その点に関しては、一誠が帽子で角を隠すこととカラーコンタクトを付けているていにする案を出した。
「今日は平日ですし、午後だと外に出る人もいくらか少ないと思うのでゆっくり行きましょう」
うつむいたままのさちが、ゆっくりうなずいた。
いつもだと、二人はこの場所でそのまま別れる。それが今日は一緒に山を下っている。いつも待ち合わせしている場所までたどり着き、一誠が先に山から道路へ出た。
そのまま振り返った彼の前では、キャップのつばの向こうに潜む赤い目が真っ直ぐにコンクリートの道を見つめている。
彼女の肩が繰り返し上下する。
雲の切れ間から、太陽の光が射しこんだ。
「さちさん」
サンダルがゆっくり道路を踏み込む。
暑い暑い熱が彼女を包み込んだ。
「さちさん、不安だったらつかまっていてもいいですよ」
一誠の提案に、さちは一誠のティーシャツの裾をつかむ。
それからは幸いにも人と会うことはなかった。さちの不安そうな顔を思い返せば、このときばかりは一誠も異常な暑さに感謝した。
十五分とそれほどかからず、佐原家に到着した。
「あ、マリーゴールド……」
ぼそっとつぶやいたさちの声に、一誠も玄関側に置いてあるプランターを見る。
「その花、祖母から分けてもらったものを母が育ててるんです」
「そうなんですね」
興味深そうに見つめていたさちが、慌てて首を振った。
「すみません、入るときに引き留めてしまって」
「いえ、せっかくならまた後で見ましょう」
にっこり笑いながら一誠は玄関の扉を開け、その向こうにただいまと声をかけた。すると、奥の扉から真純が慌ただしく駆け出してきた。
「お兄ちゃん、友だち来た!?」
きらきらな弟の目に一誠は苦笑を浮かべる。今日さちが遊びに来ることは、心結と真純には報告済みだ。
「真純、家の中で走らないってお母さん言ってたでしょ」
わざとらしくため息をつきながら心結もやってきた。ちらりと一誠の背後を見ると、小さく会釈する。それに気づいたさちは、そっと一誠の背に隠れた。
「さちさん大丈夫ですか」
やや引っ張られた服の裾に一誠はさちを見るも、彼女の目は右往左往している。
「ねえ、お兄ちゃんの友だちなの?」
そんなこと気にもせず無邪気に話しかける真純に、さちの身身体が縮まった。一旦止めなければと一誠が口を開くと、心結が真純の肩を引っ張った。
「真純、せっかくお客様が来たんだから、おもてなしの準備しよ」
「おもてなし?」
「そう、手伝って」
そして、心結はリビングへと戻っていく。真純も首を傾げながら、その後ろをついっていった。去っていった台風に、一誠は思わず安堵の息をつく。
「さちさん、すみません。弟が突然藪から棒に」
後ろを振り返ると、さちも息をついていた。一誠に気づくと、手が離され気まずそうに視線がそれる。
「すみません、私失礼でしたよね。何も言えなくて」
肩を落とすさちに、一誠は慌てて首を振る。
「そんなことないですよ、初対面なのにあんなに来られたら誰だってびっくりしてしまいますよ」
それでも落ち込んだままのさちに、一誠はじゃあと言葉を続けた。
「心結、妹の考えたおもてなし受けてもらえませんか?」
「おもてなしですか……?」
「はい。俺も少し相談を受けたんですけど、具体的には知らされてなくて。一生懸命準備してるみたいだったんで」
さちの顔が上がり、数度瞬きする。そんな彼女に笑みを見せると、一誠は玄関にあがるよう促した。
リビングの扉を開けると、座卓の傍で真純が待っていた。一誠とさちに気づくと、にかっと笑う。
「お姉さんは、こっちすわって!」
そう言って真純は、ソファに手を向けた。うろたえるさちに一誠は再び服の裾を指さす。ためらわず握ったのを確認すると、二人並んでソファに座った。
そのタイミングで、おぼんを運ぶ心結がやってきた。
「お待たせしました」
まるで飲食店の店員のように、座卓の上に麦茶の入ったコップ四つとクッキーを盛りつけた四皿を並べていく。それをまるで珍しいもののようにさちは見つめた。
「あの、ぜひめし上がってください」
一誠たちの向かい側に座った心結が、恐る恐る言う。ちらりと一誠を見たさちに彼は優しくうなずく。それからさちはクッキーをじっと見て、ゆっくり手を伸ばした。一枚つかむと、またゆっくり口元に持っていく。
さくっと音がして、さちの目が大きく見開いた。
「美味しい……です」
それまで強張っていた心結の顔が、一気に明るくなっていく。
「本当!?」
珍しく身を乗り出してきた心結に一誠の肩が跳ねたが、さちの肩は更に上がっていた。数秒固まった後に、慌てて繰り返しうなずく。
「うれしい! 昨日、お母さんと一緒に作ったんです」
「手作り?」
「はい! 味見もしたけど、美味しいって思ってもらえるか不安だったからうれしい!」
にこにこ笑う心結を見て、さちは改めてクッキーを見つめる。そして、今度は優しくうなずいた。
そんなさちに、一誠も笑みがこぼれる。
「ねえ、お姉ちゃん。お姉さん食べたから、おれもクッキー食べていい?」
それまで心結の隣で大人しくしていた真純が、待ちきれないとばかりに心結を見る。真っ先に食べそうな真純が食べないことを一誠は不思議に思っていたが、心結の言いつけだとわかり納得する。
「いいよ。おぎょうぎよく食べなね」
「やった、いただきまーす!」
姉からの許可が出るや否や、真純はすぐにクッキーを食べた。ぼろぼろこぼす食べかすは一切気にしない。
「うん、おいしーね!」
にかっと笑いかけた真純にさちは身体をすくめるも、さっきと同じように優しくうなずいた。
「あの、お姉さん」
四人の皿からクッキーが消えた頃、おずおずと心結がさちに言い出した。
「お姉さんのお名前、教えてくれませんか? 私も、教えるので」
窺うような心結の上目遣いに、さちは一瞬一誠を見てすぐにうなずいた。心結の目が弓なりになる。
「私、心結って言います。小学四年生です」
「おれ、真純! 小学二年生!」
すぐに真似してきた真純を、心結が軽く睨む。しかし、気を取り直すようにさちを見た。
「私は、さち……と言います」
囁くように告げられた名前に、妹弟そろって感嘆の声が上がる。その様子に、一誠は思わず苦笑した。
「それじゃあ、さちちゃんって呼んでいいですか?」
更なる心結からの質問に、さちはうなずく。心結が今度はガッツポーズをした。
「じゃあ、じゃあ、今度は」
次々質問をする心結に、一誠は待ったをかけた。
「心結、さすがに繰り返し聞き続けるのはさちさんも疲れちゃうんじゃないかな」
心結は、はっとした顔をすると少しうなだれた。
不意に服の裾を引っ張られているのに気づき、一誠はさちを見る。目が合うと、さちは首を横に振った。
「私、大丈夫です。お話しするの、楽しいです」
それからさちは心結を見る。彼女の心配そうな目に、心結は慌てて首を振った。
「お兄ちゃんの言う通りです。ずっと質問続けられると困っちゃうのわかるから」
それから腕を組んで、うーんとうなった。その隣で、真純が手を上げる。
「真純、どうかした?」
不思議そうにする一誠に、真純は元気よくあのねと言う。
「お兄ちゃんから、さちちゃんが花すきだって聞いて、おれね、三陽山のさくらがすきなんだ!」
さちが花好きであることも、一誠が遊びに来ることを報告したときに二人に話していたことだ。
「私も好きです、三陽山の桜」
「じゃあ、おそろいだ!」
上機嫌に鼻を鳴らす真純を見て、心結も急いで手を上げる。
「私も好きだよ、三陽山の桜」
「じゃあ、お姉ちゃんもおそろいだね」
ますます嬉しそうになる真純に、心結は少し不服そうになる。しかし、すぐに思い出したように口を開けた。
「桜も好きだけど、この前蓮の花もきれいだなって思いました」
「蓮の花、池に咲く花ですか?」
「うん、夏休み前に学校の池で見たんです」
少し首を傾げるさちに、一誠は手早くスマートフォンを操作し画面を見せた。
「さちさん、この花ですよ」
画面に映した蓮の花に、赤い瞳がきらりと光る。
「綺麗な赤紫色の花ですね」
「そうですよね!」
にこにこ笑う心結は、また思い出したように言った。
「お兄ちゃんに聞いたんですけど、花のこと詳しいんですよね? 私も、さちちゃんから花のこと習いたい」
「そんな、私も教えてもらってばかりで」
自信なさそうな表情のまま、さちは一誠を見る。
「あなたがたくさん本を持ってきてくれたから、私も花のことを知れています」
遠慮がちな彼女に、一誠は首を振る。
「知り合ったときから花に関して知ってましたけど、その後も一生懸命に勉強したから更に知識が増えて。詳しくなったのは、さちさんの努力の結果です」
「いえ、私は」
うつむいて照れるさちに、真純が唐突に言った。
「お兄ちゃんのこと、名前でよばないの?」
「えっ?」
「そう言えばさちちゃん、お兄ちゃんのこと名前でよんでないね。今もあなただったし」
疑問符を浮かべる心結と真純に、さちがあらかさまに戸惑う。
さちが名前を呼ばないことに、もちろん一誠は気づいている。名前を告げてからも改めて自己紹介したあとも一向にさちは一誠のことを名前で呼ばなかった。一誠と話すときは、決まってあなたと呼んでいた。何か理由があるのかと特に触れてこなかったが、遂に妹弟たちによって指摘された。
「もしかして、お兄ちゃんの名前わかんないんだ!」
名案とばかりに手を上げる真純に、さちは慌てて首を振る。
「いえ、名前はわかります」
そして再度顔をうつむかせた。迷うような表情に、一誠は苦笑を浮かべた。
「さちさん、気にしなくていいですよ? 必ずしも名前で呼ばなきゃいけないことないんですから」
「私も、さちちゃんが無理する必要ないと思う。今まで大丈夫だったんなら、変えなくても大丈夫ですよ」
安心させようとする言葉たちに、しかしさちの顔は晴れない。一誠と心結が顔を見合わせたとき、さちがぐっと顔を上げた。
「私が、名前で呼んでもいいのですか……?」
真剣で緊張した面持ちのさちに、一誠と心結にもそれがうつってしまう。真純だけが、にかっと笑った。
「さちちゃんが名前よんでくれたら、お兄ちゃんうれしいと思うよ!」
そっと、さちが一誠を見た。勝手に代弁された一誠は、うなずくことしかできない。じっと見つめる赤い目に、穴を開けられそうだった。
「いっせい、さん」
少し躓いた声の主は、すぐに顔を伏せた。
「さ、さちちゃん! 私のことも名前で呼んで! 私、心結だよ!」
数秒遅れて心結が宣言するかのように立ち上がる。それに便乗するように、真純も立ち上がり両手を上げた。
わずかに熱くなる耳を、一誠は少しかいた。
スマートフォンで時間を確認すると、一誠は改めて前方の背中たちを見る。そこでは真純、さち、心結がしゃがみ並んでマリーゴールドを鑑賞していた。
「さちさん、そろそろ行きましょうか」
一誠の声かけに、さちは返事とともに立ち上がる。その両隣でえーと声が上がった。
「さちちゃん、もう行っちゃうの?」
残念そうな顔をしながら、心結が渋々と立ち上がる。さちが眉を下げると、真純がでもと立ち上がった。
「さちちゃん、また来てくれるよね!」
さちがこっそり一誠を見ると、彼は笑顔でうなずいた。
「ぜひ、またさちさんが大丈夫なときに」
「はい、ありがとうございます。心結ちゃんと真純くんも」
さちが頭を下げると、心結と真純は照れくさそうに笑った。
手を振る心結と真純を背に、一誠とさちは山までの道を行く。一七時前なのでまだ明るい。
「さちさん、今日は家に遊びに来てくれてありがとうございました」
住宅街を抜けたところで、一誠は言った。
「さちさんが遊びにきてくれて、心結と真純も本当嬉しかったと思います」
「いえ、そんな。私こそありがとうございます」
緩やかな坂道は、やがてやや急な坂道となった。
「次会えるのは、来週の後半あたりになりそうです。そのときには、また図鑑持っていきますね」
そして、さちとのいつもの待ち合わせの場所に着いた。
「来週、土曜日とか大丈夫ですか」
「はい、大丈夫です」
一誠の隣を歩いていたさちが、森林の方へと足を踏み入れる。
「それじゃあ、さちさん。また、来週の土曜日に」
「はい、また」
しかし、さちは斜面を登ろうとしなかった。一誠が首を傾げると、さちが一誠の方を振り返る。
「私、鬼で、この先ずっと一人で生きていくと思っていました。だけど、あなたと出会って、日々会って話すようになって。すごいことが起きているんだって思ってました。だけど、今日はあなたの妹さんと弟さんにも会えて、お話をして。私にとって、またすごいことが起きました」
一誠の目が大きく見開いていく。
「だから、ありがとうございました。一誠さん」
さちは頭を下げると、山の斜面をかけていった。
遠くで烏の鳴く声がする。
一誠は、小さく深呼吸すると坂道を下りだした。
「俺にとってもすごいことかも」
その日、一誠は初めてさちの笑みを見た。
拝啓、神様へ。 空本 薫 @sorair06
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