三 -七月-
「七月といえば、君だったらどんな花が思い浮かぶ?」
唐突な神様からの問いかけに、御付きは見ていた書類から顔を上げた。
「七月の花……ですか?」
神様の住まいの一室にて、今日も御付きは神様とともに仕事を行っていた。神様と御付きそれぞれの机の上には、仕訳けられた書類の束が置かれている。
「朝顔ですね。この時期は伸ばした
頭に思い浮かぶ紫や青、薄桃色と色とりどりの花に笑みがこぼれそうになりかけて、御付きは慌てて首を横に振った。
「いや、突然なんですか。七月の花って。今やっていただいている仕事とは、全く関係ないじゃないですか」
「ここのところ
眉間に皺を寄せる御付きにくつくつ笑いながら、神様は筆の先を水鏡に向けた。
さちが花を好きだと言った頃から、水鏡に映し出されるのは植物の本を片手に花の話をしている二人だ。雨がよく降る時期に入っても構わず約束しては会って話をする様子を、御付きは微笑ましく見守っていた。
「そういえば、今あちらは七月でしたね。しばらくこちらにばかりいたせいか、すっかり忘れていました」
「こっちに季節は存在しないからね。無理もないさ」
くるくる筆を回しながら仕事を再開した神様を見て、御付きも書類に視線を戻した。
最近の神様は、真面目に仕事を取り組んでいるので御付きも心中穏やかだ。そうなり始めた頃は、まるで嵐の前の静けさだと訝しんだが、多少の愚痴はあれど順調に仕事を行っている。そんな神様に、御付きも胸をなでおろしていた。
「ところで、貴方様はどんな花が思い浮かぶのですか」
「私かい? 私はね……蓮かな」
「蓮ですか。確かに、このくらいの時期に花が咲きましたよね」
書類の文をたどりながら、御付きは蓮の姿を思い出す。浮かぶ葉の合間から咲く桃色の花は、池に彩りを添えていた。
「君も意外と花に詳しいんだね」
顔の横に垂れる白髪を、神様がそっと耳にかける。
「たまたま知っていただけですよ。なんとなく頭の片隅にあっただけです」
御付きは次の書類をめくった。記入箇所が目に入り、傍の筆を取って墨をつける。
「でも、君が仕事中に話を振るなんて珍しいね。いつも仕事仕事、とうるさいのに」
「いいじゃないですか、たまに話を振るくらい」
長時間の机仕事は、目に疲れがやってくる。御付きは顔をあげて何度か瞬きをしてから、ちらりと水鏡の方を見た。
「一誠くんとさちさんも、七月の花の話をしていたりするんでしょうか」
「気になるんだったら、見に行ってきていいんだよ」
今度は御付きの視線が神様に向く。にやにやした顔とかちあって、御付きの眉が遠慮なく寄った。
「いえ、こちらの仕事が終わってからにします」
再び書類に記入を始めた御付きを、それから水鏡を神様は愉快そうな笑みで眺めた。
一学期の期末試験が終わると共に梅雨も明け、暑さが酷くなってくる時期がきた。
「今日、学校に植えてある向日葵が花を咲かせていたんです」
じわりと湧いてくる汗をタオルで拭いながら、一誠は横に座っているさちに言った。
テスト期間中はやはりテスト勉強をしなければならないので、一誠はさちに会うことを控えていた。そのテストが終わって終業式まで短縮授業になり、二人が週に会う頻度は増えていた。
「向日葵……この前話してもらった黄色い花のことですか?」
自信なさげにさちは首を傾げた。会い始めた頃はぎこちなかったさちだったが、ひと月の間で緊張感が抜けたのではないかと一誠は思っている。
「そうそう。黄色い花びらと、中央の茶色の部分が特徴的な花で。ちょっと待っててください」
一誠はスラックスからスマートフォンを取り出し少し操作すると、画面をさちに見せた。
「これ、その向日葵を撮ったときのなんですけど」
校舎沿いにある花壇に植えられた五輪の向日葵。そのどれもが立派に咲いていた。
「わあ、元気がもらえそうな花ですね」
「確かに、元気がもらそうですよね」
くいいるように向日葵を見るさちが好きなアニメを見る幼子のようで、一誠はにこにこ笑う。そんな彼に気づかないまま、さちは向日葵の中央の部分を指さした。
「この茶色の部分が種になるんですよね」
「そうです。本には花が枯れたら種が取れるって書いてありましたよね」
一誠は少し考えてから、そうだとさちを見た。
「学校に頼んで、花が咲き終わったら種をわけてもらいましょう! そうすれば、来年は山でも向日葵が見れますよ」
さちの目が大きく開いた。赤い瞳が一瞬きらりと光る。
「それは……ご迷惑にはならないでしょうか」
「きっと大丈夫だと思います。たくさん採れるでしょうし。さっそく明日、学校に訊いてみますね」
さちの目が瞬いて、恥ずかしそうに顔を反らした。嬉しさを隠すように口を一文字にするのは彼女の癖なんだと一誠が気づいたのは、最近のことだ。
「もしいただけるのなら、また向日葵のことを勉強しないといけませんね」
「それなら、次来るときまでに植物図鑑借りてきますね。俺も復習しておきます」
スマートフォンをスラックスに戻すと、一誠は天に向かって腕を伸ばした。真っ青な空には入道雲が浮かんでいて、すっかり夏の様相だ。
「それにしても、この一か月でお互いたくさんの花を学びましたよね。まさか自分がこんなに花を知ることになるとは、思っていませんでした」
腕を下ろしながら一誠がさちを見ると、彼女もうなずいた。
「私も、こんなにたくさんの花を知れるなんて思っていませんでした。その、たくさん本を見せてくれてありがとうございます」
そう言い頭を下げるさちに、一誠はいやいやと首を横に振りながらも最後はそっとお辞儀を返した。
束の間の沈黙を遮るように、一誠は話を振る。
「そういえば、さちさんの家の側では今何が咲いているんですか」
「私の家ですか?」
思い出すように視線をそらしたさちは、ぽつぽつと言葉を続ける。
「今は、朝顔が見頃です。それに、
聞き慣れない後ろ二つの花を思い出そうとしていたところをさちに気づかれ、一誠はあとで調べますと肩をすくめた。
「黄色い花は家の側にないので、向日葵が無事咲いてくれたら嬉しいです」
「きっと咲いてくれますよ。花に詳しいさちさんが育てるんですから」
「いえ……元気に育ってくれるように勉強頑張ります」
恥ずかしそうに目を伏せたさちに、一誠も必ず種をもらってこようと強く思った。
職員室に失礼しますと挨拶をすると、一誠はそっと扉を閉めた。
「どうだった、向日葵の種」
職員室の外で待っていた
「大丈夫だって」
一誠は、床に置いた自身のリュックを取り背負った。
翌日の朝、担任に向日葵の種のことを相談すると環境委員の顧問の先生に訊くといいとアドバイスをくれた。放課後にさっそくその先生のもとに行くと、即答で了承の返事をくれた。
「種の取れる時期になったら、環境委員通じて種くれることになった」
今日は水曜日のため、一誠は図書当番の日だ。そのまま図書室に向かって歩き出す一誠の横に倉田が並ぶ。
「でも、向日葵の種なんて急にどうしたわけ? 家で育てるとか?」
「友達にあげるんだよ」
「へえー、植物好きな友達なんていたんだ」
職員室からそれほど離れていない図書室にはすぐに着いた。扉を開けると、クーラーの涼しい空気が一誠を包む。
「あれ、今日は倉田くんも一緒なんだね」
入ってすぐのカウンターには、既に来ていた
「珍しいね、二人で図書室に来るの」
「部活始まるまで時間あるから、暇つぶししてんの」
倉田がカウンターの中をのぞきこみ、木下に何を読んでるか訊ねる。そのまま雑談が始まったので、一誠は本棚の方へ向かった。
目当てはもちろん、先日借りた向日葵のことが載っている植物図鑑だ。一誠が前回見つけた棚を見ると、同じ場所にその図鑑があった。すぐに手にすると、他にも参考になる本がないか背表紙を追っていく。
何冊か中身を確認し、その内の一冊を選ぶと図鑑に重ねてカウンターの中に入った。
「あ、佐原くん今日も植物図鑑借りていくんだ」
「そう、木下さん貸し出しお願いしていい?」
椅子に座った一誠が本を差し出すと、受け取った木下は貸し出しを行っていく。
「今日もって、一誠そんな頻繁に植物図鑑なんて借りてたんだ」
「ここひと月くらいな」
不思議そうな顔をする倉田を目にしつつ、一誠は貸し出しが済んだ本をリュックにしまった。
「その図鑑って、もしかして向日葵の種に関係してんの?」
「向日葵の種?」
今度は木下が首を傾げる。
「友達にあげるんだ。前会ったときに、学校の向日葵の写真を見せて。とても興味を持ったみたいだから」
「ああ、いつも話してるお友達さんにあげるんだね」
納得したように相槌をうつ木下とは対照的に、倉田は更に不思議そうにする。
「一誠がそんなに熱心になるほどの友達がいたんだな……」
怪訝そうな倉田の視線を一誠が右手で追い払う。しかし、倉田は食い下がった。
「その友達ってこの学校の子、それとも別の学校?」
「あー、別の学校だよ」
正確には学校には通っていないがそう言ってしまうとややこしくなるので、他校の生徒ということにしておく。
「へえ、何処に住んでる人なんだ?」
山、だろうが、そういえばさちの住んでいる場所が山の何処なのか一誠は聞いたことがない。
「それは知らないな」
二人がいつも会うのは決まって同じ場所、山の中を通る道路沿いだし、話す場所はかつて蓮華草の花畑があった所だ。時期が過ぎたので、今は花の姿はない。
「それじゃあ、何人家族とかは?」
「知らない……というか、倉田が知ってどうすんだ」
それもそっかと、にししと倉田が笑う。肩をすくめる一誠の横で、木下がくすくす笑った。
「でも、そういう話もしようとしなければ、ずっと知らないままだよね。私も佐原くんや倉田くんの家族のこととか知らないし」
助け舟のような木下の言葉に、一誠は心の中で手を合わせる。倉田も納得したようにうなずいた。
「確かに、家族の話もする人としない人がいるよな。俺はよく兄ちゃんの話するけど」
「私は妹が二人いるけど、そんなに話さないかも」
「俺も妹と弟がいるけど、たまに話すくらいかな」
ふと、一誠の頭にそれじゃあさちは? と考えがよぎる。優しい彼女の家族なのだから、きっと優しい鬼たちなんだろうなとぼんやり思った。
次の日はいつもより気温が高く、いつもの石に座るのはやめてなるべく日陰になる所を選んで話すことになった。
持っている水筒のお茶を飲んでひと息ついてから、一誠は向日葵のことを話し出した。
「この前話していた向日葵の種のことですが、種もらえることになりました」
その言葉に、さちの瞳が大きくきらきら光る。唇もほころびかけるが、すぐにきゅっと結ばれた。
「ありがとうございます。とても嬉しいです」
そして勢いよく頭を下げた。彼女らしいお礼の仕方だが謝罪にも見えてしまうので、一誠は顔を上げるよう促した。
「種がもらえるのはまだ先になりますし、それまでにいろいろ準備しておきましょう。前持ってきていた図鑑と、他に役立ちそうな本も持ってきました」
地面に置いたリュックから、一誠は昨日借りた本を取り出した。先に出した図鑑をさちに渡すと、さっそく向日葵のページを探そうとめくる。
「向日葵のページありました」
さちが差し出したページを一誠ものぞき込む。広大な土地にたくさんの花たちが咲き誇る向日葵畑の写真のページだった。
「これだけ咲いていると壮観ですよね。小さい頃に一回向日葵畑に連れていってもらったことあります」
「え、こんなにたくさんの花たちを見たことがるんですか」
さちの目が数度瞬く。驚いたような、羨むような目に一誠は少したじろいだ。
「さちさんは、山にある花を見ることが多いんでしたよね。山に向日葵畑は聞いたことないですし」
「はい、これだけたくさんの花を一度に見たことはないですね」
少し寂しそうにページを眺めるさちを見ると、彼女こそ行ってもらいたいと一誠は思う。
「家族に連れて行ってもらうとかできたらいいんですけどね……」
解決策と思って、一誠がなんとなしにつぶやいた言葉だった。さちの目がそっと一誠を見て、そのまま伏せられる。彼が訊ねるよりも先にさちが言った。
「私、家族いないんです」
淡々と言われた言葉に、一誠は固まった。
自分に家族がいるように彼女にも家族がいる。一誠はそう思い込んでしまっていた。彼がさちの家族のことを聞いたことなんて今まで一度もなかったのに。
「いたときもありましたけど、今は一人です」
「……そうなんですね」
それ以上はなんと言えばいいかわからなくて、一誠はうつむいた。視線の先は、満開の向日葵。
「例え実際に見ることができなくても、こうして本で見ることができているので私は嬉しいです」
さちの指先が優しく向日葵を撫でる。
「お花畑は難しくても、来年には側で咲いている向日葵を見ることができるかもしないのも嬉しいです」
穏やかな声音が、一誠には気を遣ってるようにしか聞こえない。
「なので、また素敵な花があったら教えてください」
「……わかりました。また見つけたら紹介しますね」
顔を上げた一誠に、さちは優しくうなずいた。
「あの、向日葵の育て方の勉強ですよね」
そう言いつつ、さちは次のページをめくる。一生懸命に文字を追うさちを見ていると、一誠も何かできないかと思ってくる。一人なら余計にだ。
「種をまく時期は、四月から六月だそうです」
図鑑から顔を上げたさちが、少し戸惑った顔をした。一誠も迷いが顔に出ている自覚はあった。提案が思いついても、今度は言っても大丈夫か不安になる。
さちは黙って図鑑に視線を戻す。ただ真っ直ぐにページを見つめていて、一誠も自分を待っていてくれてることに気づいた。再度気を遣ってくれていることが申し訳ない。
「その、さちさんの家の周りが広かったら、花畑作れるのではないかと思って」
そっと一誠を見たさちの瞳が赤く光る。
「私の家の側にですか?」
「はい。さっきのページほどは難しくても、小さいのはできるんじゃないかなって。一人じゃ大変だろうし、もちろん俺も手伝います」
行くことはできなくても、作ればさちに花畑を見てもらうことができる。良い提案になればと一誠は思ったが、さちは横に首を振った。
「私の家、山の奥深い所にあるんです。行くのは危ないのでやめておきましょう」
「そうですか……」
思わず肩が落ちる一誠に、さちはでもと続ける。
「向日葵を育てるのに私じゃ準備できないものがあるかもしれないので、その準備をお願いしてもいいですか」
「それはもちろん、準備しますよ!」
力強くうなずく一誠に、さちは安堵の表情を見せた。
直接花畑を見せることはできないが、他にもできることはある。そう思いつつ、一誠は栽培の本の目次を開いた。
その日の晩、夕飯を食べ終えた一誠がリビングのソファでゆっくりしているときだった。
「お兄ちゃん、鬼伝説知ってる?」
右隣りに座ってきた弟の
「お兄ちゃん?」
不思議そうにする真純に一誠はごめんごめんと笑うと、画面を消してスマートフォンを膝の上に置いた。
「鬼伝説聞いたことあるよ。でも突然どうしたの」
兄の返答に、真純の目が好奇心に大きくなる。
「あのさ、今日の読み聞かせで
興奮に今にも跳んでしまいそうな姿は年相応で、一誠には微笑ましい。跳びはしないが膝立ちにはなってたので、一誠は真純を座り直させた。
「鬼なんているわけないじゃん。そんなの、非現実的だし」
そう言うのは、小四の妹の
「私も前に鬼伝説聞いたけど、昔の話だって読み聞かせのおばあちゃん言ってたよ。それに、本当にいたらもうニュースになってるし」
「でも、いるかもじゃん! お姉ちゃんが見たことないだけで、ぜったいいないって言えないじゃん」
「絶対いるとも言えないじゃん。ねえ、お兄ちゃんは鬼がいるなんて思わないよね」
「お兄ちゃん、鬼いるよね!」
両隣から迫られ腕を引っ張られている一誠は、苦笑を浮かべるしかない。ここで正直にいると言うわけにもいかず、さてどうしたものかと一誠が思案していると、後ろから援護がきた。
「二人とも言い争うのはやめなさい」
台所で食器洗いをしていた母が手を拭きながらやって来た。
「三陽山の鬼伝説は、人も鬼も優しかったでしょう? なのにあなたたち二人して、お兄ちゃん困らせてどうするの」
母からの軽い注意に、妹弟はそろってうなだれる。そんな二人の頭を一誠は優しく撫でた。
「母さんも知ってたんだね、三陽山の鬼伝説」
「そりゃあこの町出身だし。それにおばあちゃん、あなたたちのひいおばあちゃんに子どものとき教えてもらったのよ」
ソファの側の座卓横に座ると、母は懐かしそうに目を細めた。
「昔三陽山には、優しくて可哀想な鬼がいたんだよ。だから、もし会ったら優しくするのよって。だから、一時期山に鬼探しに行こうとしてたときがあった」
思い出す過去に楽しそうに笑う母を見たせいか。一誠は、無意識に訊いていた。
「母さんがもしも、今鬼に会えたらどうする?」
一誠はすぐにはっとするも、母は特に茶化すことなくのんびり答えた。
「美味しいご飯でもご馳走しようかな」
「なんでご飯なの?」
首を傾げる心結に、母はだってと付け加える。
「一緒にご飯食べたら、仲良くなれそうじゃない」
名案とばかりに得意げな母を、心結は怪訝そうに、真純は楽しそうに見る。
そんな三人を横目に、一誠は少し考え込んだ。
次に一誠とさちがあったのは、一学期の終業式後だった。
いつもの場所で、いつも話をふっているように一誠は言う。
「さちさん、今度俺の家に来ませんか?」
数秒固まったさちが赤い瞳を大きくさせていく。
相変わらずの暑さの中、蝉の声がけたたましく鳴っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます