二 -六月-

 御付きは、深く息をついた。

 長い間、岩の清水しみず――水鏡みずかがみから一誠いっせいとさちの様子を見守っていた御付きは、二人の一挙一動に随分とはらはらしていた。ひとまず穏やかな結果となってくれたことに、心底安堵する。


「良かった……」


 力の抜けた御付きの声に、椅子に座る神様は顔を上げた。


「やっとひと段落ついたみたいだね。で、どうなったんだい?」


 そう訊く神様の手には、折り紙にされた書類があった。神様の前の机には、すでに作品にされた書類が四つ乗っている。

 御付きはじとりとした視線を向けると、今度はわざとらしくため息をつきながら神様のもとへと行った。


「こちらが真剣に二人を見ている間に、あなた様は何をしているのですか」

「見ての通り、折り紙だが」


 意図が伝わってない返答に、御付きは黙って神様の手元から書類を奪う。向けられる不満を気にすることなく、彼は書類を丁寧に開いた。


「大体、貴方様が始めたことではないですか。始めたからには、御自身で最後まで見守りください」

「退屈でなければ、私だってずっと見ていたさ」


 大きく欠伸をする神様に、御付きは肩を落とすしかない。


「それで、さちが一誠から逃げ出した後どうなったんだい」

「……それ以降は、次の様になりました」


 御付きは、出来事の要旨をまとめて簡潔に話す。初めつまらなそうに頬杖ついていた神様は、話の最後の方になると愉快そうな笑みを浮かべていた。


「彼はとっても優しいんだねえ。お友達になろう、だなんて」


 ぽんっと膝を打つと、神さまは立ち上がり水鏡の方へと向かう。御付きは小さく肩をすくませ後ろをついていった。


「本当、ここまで悪い事態がなかったから良かったものの……。見守っている間ずっと胃が痛くて、十年は寿命が縮んだ気がします」

「寿命が縮んだ?」


 ふわり、一つにまとめられた白い髪が躍る。振り返った神様が今度は可笑しそうに口を歪ませ、首を傾げた。


「変なことを言うね。お前には寿命なんてもうないのに」


 くすくす笑う神様に、そーですねと御付きは雑に返す。なんでも真正面から受け取ると自分が痛い目を見ることを、御付きはもう心得ている。


「さてさて、それから二人はどうなったんだろうね」


 水鏡のもとに着いた神様は、ぼそぼそとつぶやく。再度映し出された場所には、一誠とさちがいた。


「今は良くても、やはり人間と鬼……。相いれるものなのでしょうか」

「さあ、それはこの二人次第だ。始まり始まりのこの先を、しばし観賞するとしよう」






 帰りのショートホームルームが終わった教室は、いつもにぎやかな声に包まれている。掃除をしながら談笑をする生徒が多いためだ。今日の授業でのことや掃除後にある部活動のこと、昨日のテレビ番組のことや数日前に出た漫画雑誌のこととバラエティに富んでいる。


「それで、そのとき先輩がさあ」


 今週の掃除当番が教室になった一誠の傍でも、友人の倉田くらたが部活動での出来事をしゃべっていた。しかし、その声は一誠の耳を通り過ぎていく。この後あることが、彼の頭を占めていたからだ。


「一誠、なんか上の空じゃね?」


 下げた机を並び終え、一誠が机の横に掛かるリュックを取ろうとしたとき、倉田が訊いてきた。さすがに、掃除の時の一誠に違和感を覚えていたらしい。


「そうだった?」

「そうだよ、いつもだったらあんな生半可な返事しないし」


 一誠の前の席である倉田は、自身の机に腰掛ける。口角が上がっている表情が、一誠には面白がっているように見えた。


「で、何かあんの? 彼女できたとか」

「そんなんじゃないよ。この後、会う約束しているだけで」

「へえ、誰と?」

「……おばあちゃん」


 平然と答えたように見えているだろうか。一誠は少し心配したものの、倉田はそうなんだと答えただけで加えて追及してくることはなかった。

 目の前の友人に謝罪の気持ちを持ちつつ別れを告げると、一誠は逃げる様に教室を出た。

 今日の一誠は、母親から祖父母の家へのおつかいを頼まれていない。だから、これから祖母に会うことはない。彼が会うのは、鬼の少女であるさち《・・》だ。

 あの日、彼女に出会った山中の道に向かって歩いて行く。中間テストがあったため、さちに会うのは二週間ぶりだ。そのテストも明けると、梅雨の時期が始まる。幸いまだ梅雨入りしておらず、真っ青な空には薄雲が浮かんでいた。

 久しぶりの再会に緊張しつつ、一誠はどうするか考えていた。あの後再度会うことを約束したものの、特に何をするかは話していない。

 そもそも一誠はあの日、祖父母の家へおつかいに行く途中だった。次会う約束をする頃には橙色の夕焼けが見えており、急いで祖父母の家に向かわなければならなかった。涙が止まらないさちが気がかりではあったが、彼女の大丈夫だという言葉に甘えてそのまま別れた。

さちも友達になるとうなずいてくれたのだ。せっかくなら、お互い楽しめることができたらいいと思っている。ただ、一誠はさちのことを優しい鬼であること以外何も知らない。

 あれこれ考えているうちに、待ち合わせ場所に着いた。辺りを見回すが、さちはまだ着いていないようだった。

 一誠は、スラックスのポケットからスマートフォンを取り出す。画面をつけると、十六時五十分と表記されていた。明確な時間は特に決めていないが、同じような時間帯には行くとさちに伝えている。彼女が着くまでに何するか案を出しておこうと、一誠がブラウザを開いたときだった。


「あの」


 耳元に届いた高い声に、一誠は顔を上げる。何処だろうと森の方を見ると、近くの木の後ろから顔をのぞかせたさちがいた。

 一誠と目が合うと、赤い瞳がそろりと横にずれる。無事会えたのは良かったものの、お互いの間を流れる気まずさは拭えない。

 とりあえずと、一誠が森の方へと足を踏み入れると、さちはわずか後ろへ下がった。気のせいかと一誠は更に近づこうとするが、その分さちも後ろへ下がっていく。


「……えっと、もしかして、俺のこと怖いですか?」


 苦笑を浮かべる一誠に、さちは罰が悪そうな顔をしながら首を縦に振った。

 もともとさちは、初めて会ったときから一誠のことを怖がっていた。たった一回手助けしたところで、その恐怖が薄らぐことはなかなかないだろう。

 どうしたらいいかと一誠が思っていると、ふとさちが口を開けたことに気づいた。話を聞こうと彼女を見るも、何も言わずに閉じられる。それが何度か繰り返された後、伏された目が決心したようにゆっくり上げられた。


「その、あなたのことはまだ……怖いです。ごめんなさい」


 丁寧で一生懸命な声音は、彼女の本心であると思うには十分だった。だからこそ、正直な言葉は一誠の心を確実にさした。仕方がないと思っても、存外痛い。しかし、肩を落としかけた一誠にさちの言葉は続いた。


「でも、優しい人だとも思っています……だから、友達になりたいと言ってくれて嬉しかったし、私もなりたいです」


 言い終わると、さちはそっと顔をそらす。一誠は数秒呆けるも、次第に彼の心に安堵が広がっていった。


「そう思ってもらえていて良かったです。今は怖くても、少しずつ怖くなってもらえたら嬉しいです」


 笑んだ一誠に、さちは小さくうなずいた。






 どこか場所を移動しようという一誠の言葉に、さちは兎を弔った花畑に連れてきた。ピンク色をした花は、未だ綺麗に咲いている。花畑の傍には、腰掛けるのに丁度良さそうな石が二つあり、とりあえずそこに座ることになった。


「改めて、自己紹介とかどうですか」


知り合ってばかりのときにお互いを知る第一歩になることだ。しかし、さちは首を傾げた。


「自己紹介とはなんですか?」

「え、したことないですか?」

「は、はい」


 さちの顔が、申し訳なさそうに曇っていく。慌てて一誠は立ち上がった。


「俺初めにしますので、お手本にしてください!」


 頭の中で箇条書きに話題を思い浮かべ、一誠はゆっくり自己紹介を始める。


「改めて、俺は佐原一誠と言います。高校二年生で一七歳です。読書が趣味で、最近ではミステリものをよく読んでいます。好きな食べ物は、揚げ豆腐です……こんな感じですかね?」


 軽く息をついて、一誠は腰を下ろした。お手本としては十分だろうと彼は思ったが、さちの顔からは自信のなさが消えていない。初めてすることに不安になる気持ちは、一誠もわかる。少し考えてから、それじゃあとさちに言った。


「俺が一つずつ質問するんで、それに答えてもらっていいですか。わからないものは、わからないと言ってもらっていいので」


 一誠の提案に、やっとさちの顔から不安が抜けた。


「それでお願いします」


 一誠は安心すると、質問を始めた。


「さちさんは、今何歳ですか」

「生まれてからは、七十五年になります」

「七十五年!?」


 一誠の声が、思わず上ずる。見た目から同世代だと思っていた彼はびっくりだ。


「でも、人間と鬼は寿命が違うので。人間の五年が鬼にとって一年なんだと聞いています」

「そしたら、さちさんは……人間で言うと一五歳になりますね」


 なら、同世代と言えるのだろうか、と疑問に思ったまま一誠は次の質問をした。


「鬼にも学校があったりしますか」

「学校はないです。作るほど数もいないので」

「そうなんですね」


 数度とうなずくと、一誠はあとは、と質問を続けた。


「趣味や好きなことはなんですか」


 この質問には、すぐに返答がこなかった。宙を見ながら、さちは好きなこと、と小さくつぶやく。しばらくして、彼女から答えがきた。


「花を見ること、です」


 自信なさげな返答に、一誠は疑問符を浮かべる。好きなことに対して自信がなく答えることを不思議に思ったからだ。一誠はあいまいに相槌をうちつつ口を開けた。


「花って綺麗ですし、見てたら癒されますよね。さちさんは、特にどの花が良いと思いますか?」


 この問いに、再び沈黙が訪れた。地面に視線を落としたさちを一誠が見ていると、やがてぽつりとつぶやきがきた。


「……桜」

「桜ですか?」


 さちが顔を上げ、うなずいた。


「淡い桃色の花が、とても綺麗で好きで……春になると見れることがとても嬉しいと、思い出しました」


 赤い瞳が穏やかそうに揺れる。まるで今のさちの目に桜が見えているようだった。


「花がとても好きなんですね」


 自然と頬が緩んだ一誠に、さちは恥ずかしそうに目を伏せた。


「それじゃあ、この花も知っていたりしますか」


 そう言いながら、一誠は目の前の小さな花畑を指さす。小ぶりなピンクの花たちは、柔らかな風にゆらゆらと踊っていた。


「これは、蓮華草です」

「れんげそう……あ、蓮華草か」


 聞き覚えのある名前がこの花のものであることを、一誠は初めて知った。


「可愛い花ですね、蓮華草」

「……はい」


 一誠の言葉に、さちは再び穏やかな目で蓮華草を見つめる。そんな彼女を見て、一誠はあることを思いついた。


「あの、さちさんが良かったら、他の花のことも教えてくれませんか?」

「他の花のことですか」

「はい、さちさんが他に好きな花教えてください」


 さちは少しの逡巡の後、私で良ければとうなずいた。






 日中は青が広がっていた空に、重い雲が覆い始める。夕方から雨が降ることは、今朝テレビが言っていた。徒歩通学の一誠は酷くならないことを願いながら、返却作業を終えた本を棚に戻していく。

 図書委員である一誠は、毎週水曜日に図書当番が当たっている。昼休みの図書室が控えめながらににぎやかなのに対して、放課後の図書室はひたすら静かだ。

 順番にしまっていた本が最後の一冊になったとき、一誠の手が止まった。まじまじとその本を見つめる。


「佐原くん、どうかした?」


 同じクラスの図書委員である木下きのしたが、一誠のもとに来た。カウンターで返却作業をしていた彼女の手には、六冊の本が収まっている。


「それ、植物図鑑だね」


 単行本サイズの図鑑の表紙には、野にたたずむ赤いチューリップが飾っていた。


「佐原くんが図鑑なんて珍しい。何か育ててるの?」

「いや、友達に花が好きな子がいて」


 そう言いながら、一誠は先日のさちとのことを思い出す。たどたどしくながらも、彼女は自分の好きな花について教えてくれた。花に詳しくない一誠が想像できるようにどんな形をしているのか、どんな色なのか丁寧に。


「好きな花のこと、一生懸命に教えてくれたなってこの図鑑見て思い出して」


 そうなんだと感心した声を上げた木下は、少し考える素振りを見せた後、じゃあさ、と切り出した。


「佐原くんも、花のこと勉強してみたらいいんじゃない?」

「花のことを?」


 予想していなかった言葉に、一誠は首を傾げる。木下は、うんうんとうなずいた。


「少しでも知識があったら話を聞くの楽しくなるだろうし、お友達さんも話すの楽しくなるんじゃないかな。それに、好きを共有できるのって結構嬉しかったりするし」


 すみませーん、とカウンターの方から声がかかった。貸し出し希望者らしき声に、木下が返事をしながら戻って行く。

 一誠は、改めて植物図鑑を見る。普段図書室で借りる本は小説ばかりなため、彼にとって植物図鑑は新鮮だ。


「……よし」


 一誠は、図鑑の棚のもとに行くことなくカウンターに行く。丁度貸し出しを終えた女子生徒と入れ替わるようにカウンターに本を出した。


「貸し出しお願いします」


 出された本を見るや否や、木下は笑みを見せた。


「たくさん知れるといいね」


 バーコードの音を耳にしながら、一誠は照れくさく感じた。






「さちさん、あの」


 次会う約束をしていたその週の金曜日。前回同様、蓮華草の花畑があるその場所、同じ石の上に一誠とさちは座っていた。


「俺あれから、花のこと少し勉強して。これ、その時使った本なんですけど」


 そう言い、一誠はさちに植物図鑑を差し出した。


「よかったら、また花の話をしませんか? 前回聞けなかったこととか俺が勉強したこととか、いろいろできたらなって」


 さちの目がぱちぱちと瞬く。それからおずおずと植物図鑑を受け取った。じっと表紙を見つめる目が一誠には輝いている様に見える。


「とっても綺麗なチューリップですね」

「赤い色が映えてますよね」

「これ、読んでみてもいいですか」

「はい、どうぞ読んでみてください」


 さちは軽く頭を下げると、表紙をめくった。中表紙、目次を過ぎるとメインのページが始まる。

 色とりどりの花たちが鮮やかに紙面を彩っている。ゆっくり花たちを眺めていくさちの顔は、優しさがにじんでいた。そんな彼女に、一誠も借りて良かったという気持ちになる。

 半分ほどページが進んだ頃、さちの顔が勢いよく上がった。穏やかな顔から一変、焦った表情になっている。


「すみません、私ばかりじっくり見てしまって」

「いえ、夢中で読んでもらえて俺も嬉しいです。気にせず続きを読んでください」


 笑みを見せる一誠に、さちは眉を下げたまま、はいと返事をした。再び紙面に視線を戻したさちは、そのまま一誠に言う。


「ありがとうございます、こんな素敵な本を見せてくれて。どれも初めて見る花ばかりで、とても楽しいです」

「……初めて?」


 今度は、一誠の目が瞬く。不思議そうな声音に、さちの顔が再度上がった。


「その、見たことある花もあるのですが、知らない花の方が多くて。私が普段見ている花は、山に咲く花なので……」

「山に咲く花」


 一誠は、昨日読んだ植物図鑑の内容を思い出す。ライトで読みやすいその図鑑で紹介されている花は、平地で咲く花がメインだった。花に詳しくないからこそ生じてしまった失態だった。


「すみません、俺気づかなくて。よくよく考えたら山にいるんだから、山の花の方が見ること多いですよね」


 頭を抱えたい衝動を抑えつつも、一誠はなんとも言えない表情をするしかなかった。そんな彼に、さちは首を振る。


「いえ、私嬉しいです。こんなにもたくさん初めての花を見ることができて。だから、今日はこの本を持ってきて見せてくれて、ありがとうございます」


 さちは本を閉じると、立ち上がって頭を下げた。慌てて一誠も立ち上がってこちらこそと頭を下げる。

 お互いそのまま固まったままだったが、一誠が恐る恐る顔を上げると丁度さちも顔を上げたところで目があった。決まずそうに、二人とも石に座り直す。


「あの、よかったら、その、一緒に読みませんか?」


 さちからの提案に、一誠は返事にどもる。


「一緒にですか?」

「はい。せっかくなら、一緒に読みながら花の話ができたらと思ったのですが……」

「いいですね。俺そっちに寄ります」


 好意的な一誠の返答にさちは安堵の顔をし、一番初めに出てくる花のページをめくった。


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