一 -五月-

 いつも通りの日常。佐原さはら一誠いっせいにとって、今日も確かにそうだったはずなのだ。朝は六時半に起きて、七時四十五分には家を出て高校に向かった。日中は授業を受けて、ショートホームルーム後に清掃を行う。それが終わると、部活動に入っていない彼は、リュックを背に早々に学校を出た。時刻は、十六時半過ぎ。

 桜の時期から一ヵ月が経ち、通学路に植えられている街路樹は薄紅色の花から青々とした葉になっていた。家が近所であり、二年生になった一誠にとっては見慣れた景色だ。

 街路樹が途切れた先の交差点を直進すると、緩やかな坂道となる。その坂道を上り続けた途中にある住宅街に一誠の家がある。このまま家に帰っていれば、いつもとなんら変わらなかった。しかし今日はその住宅街の脇を通り過ぎ、山中へと続いている道を行く。今朝、母親から山中の祖父母の家に行くよう頼まれたためだ。

 山中に入ると斜面はやや急になり、道の両側に広がる森林で光が一気に減る。しかし、道路の上は開けておりまだ日も高いため、それほど暗いというわけでもない。

 この先を歩き続けて十五分ほどで祖父母の家に着く。この道をただひたすらに歩いていれば良かったのだ。

 ――かさっと、音が鳴った。

 枯れ葉を踏んだような音。微かなものだった。気にしなければそれで終わりだった。だけど、一誠は気にしてしまった。


「……なんだろう」


 舗装されたコンクリートの道から、緑が広がる地面へ足が移る。一誠は音が聞こえた方へ歩を進めた。木々が立ち並ぶ斜面をひたすらと。

 そもそも一誠は、好奇心に任せて行動するタイプではない。それなりに思慮を巡らせてから行動する方だ。だから、今の行動は本来の一誠の考えとは反している。それなのに、そのことに対する疑問を一切持たなかった。


「あ……」


 小さく声が漏れると同時に、彼は今までの行動の可笑しさを一気に自覚する。しかし時はすでに遅し、彼は出会ってしまった。

 真っ先に赤い瞳が彼の目に入った。薄暗い中でもきらきら光って見える唐紅。そして次に、額から出ている二対の角―ああ、この人は。


「えっ」


 微かに聞えた高い声。困惑をにじませた声の主は、次第に顔を青ざめさせていく。一誠も、突然の邂逅にどうしたらいいのかわからずにいた。

 先に動き出したのは、彼女の方だった。後ろを向いたかと思えば、着物姿にも関わらず斜面を走り出す。どんどん先を行く少女の姿は、あっという間に消えてしまった。


「なんだったんだ」


 呆然となった一誠は、しばらくその場で立っていることしかできなかった。

 これが一誠と鬼の少女との初めての出会いだった。






「いいかい、一誠」

 まだ一誠が保育園に通っていた頃のことだ。両親共に働いている一誠の迎えは、毎日祖母がしており、両親どちらかが迎えに来るまで祖父母の家で過ごしていた。当時一誠の遊び相手は、曾祖母であることが多かった。

 曾祖母は、時々一誠に昔話をする。絵本を読むことが好きな一誠は、曾祖母の話す昔話も好きだった。その日も曾祖母の昔話が始まると、わくわくしていた。しかし、始まったのは昔話ではなかった。

「この山にはね、鬼がいるんだよ」

「おに……?」

 一誠は、自分の知っている鬼を想像する。身体は赤くて虎柄のパンツを履いている。もじゃもじゃ頭には尖った二対の角。手には棍棒を持っており、人間に悪さをする。

 一誠は、目の前に座る曾祖母に抱きついた。絵本に出てきた鬼は、みんな怖かった。恐ろしい存在がすぐそこにいるなんて、幼い一誠には耐えられなかった。そんな彼の頭を曾祖母は優しく撫でる。大丈夫、大丈夫と繰り返した後、曾祖母は続けた。

「この山に住む鬼は、優しい鬼なんだよ。とても心優しい鬼。でもね、怖がりでもあるんだよ」

「なんで? おになのに?」

「鬼にもね、怖いものがあるんだよ。だからね一誠」

 顔を上げた一誠は、にっこり笑う曾祖母の顔を見た。

「鬼に会ったときは、優しくしてあげてね」






 祖父母の家の一室。六畳のこの洋室には、背の高い扉付きの本棚があった。一番下の段には、一誠が幼い頃読み聞かせてもらった絵本がたくさん並べてある。その一番右端に、絵本とは全く装丁の異なる本があった。大きく分厚いその本の背表紙には『三陽みはる伝承話集』と書かれてある。三陽は、この辺一帯の地区の名前だ。

 鬼の話をしたとき、曾祖母は一誠をこの部屋に連れてきて『三陽伝承話集』を見せた。文字ばかりが並び合間に申し訳程度に描かれた鬼の挿絵は、絵本の可愛らしさのある絵とは違い怖さを感じさせるものだった。だから当時の一誠は鬼が優しいとは全く思えず、母親が迎えに来るまでずっと曾祖母の手を握っていた。その曾祖母も、彼が小学三年生の時に亡くなった。

 一誠が取り出したその本は、ずっと触られてなかったようでほこりを被っていた。簡単に払うと表紙、ページとめくり目次を見る。章構成の真ん中あたり、そこに「三陽山鬼伝説」のタイトルを見つけた。その下に書いてある数字まで再びページを進める。


「懐かしいな……」


 曾祖母から話を聞いて以来だから、一誠がこの話に触れるのは十二年ぶりだ。二段になって書かれてある伝承をゆっくりと読み込んでいく。

 昔、この山には人がたくさん住んでいて、にぎやかだった。そんな人たちの姿を見て、隠れて住む鬼は自分もまざりたくなった。しかし臆病だった鬼は、人のふりをすることで人のもとに行くことにする。少しずつ人と触れ合うようになった鬼は、人の温かさを知る。だけど一緒にいすぎてしまった鬼は、うっかりして人に額の角を見られてしまった。もう一緒にいれないと思ってしまった鬼は、それから二度と人の前に現れなくなった。鬼だと知った人々は、それでも鬼の優しさを信じて再び会えることを願う。


「人も鬼も、この中の登場人物はみんな優しかったんだな……」


 あの日一誠が聞いた時は、怖い鬼しか想像できなくてこの伝承を上手く飲み込むことができなかった。分からないを怖いで思い込んでいたことが、今はとてももったいなく感じた。


「一誠、探してた本あった?」


 扉のノック音の後、部屋に祖母が入ってきた。手には、玉ねぎの入ったビニール袋が握られている。母が祖父母の家に寄るよう言った理由だ。


「うん、あったよ」


 一誠は本を元の場所に戻すと、祖母から袋を受け取る。


「懐かしいでしょう、一誠が昔読んでた絵本全てそこにしまってあるのよ」

「まだあったことに驚いたよ。今度来た時に読もうかな」


 玄関に向かい靴を履いている途中、一誠は祖母を見上げて訊ねた。


「おばあちゃんはさ、この山に鬼がいるって思う?」


 突拍子ない一誠の質問に、初めは怪訝な顔をした祖母がすぐにああと言い苦笑を浮かべた。


「三陽山の鬼伝説のことよね? いるわけないじゃない、伝説でしょう。三陽山の鬼なんて」

「そう……だよね」


 一誠は、微笑んで玉ねぎの礼を言った。






 それから一週間経った日、再度祖父母の家へ行くことになった。今度は、じゃがいもをもらいに行ってほしいとのことだ。

 あの日と同じように、クラスメートより早く学校を出て祖父母の家へと向かう。

 あれからふとしたときに、一誠は鬼の少女の顔が思い浮かぶ。冷静に考えれば、現代において鬼なんて非現実的な存在だ。見間違いか、白昼夢でも見たんだと思う方が自然なのかもしれない。でも確かに彼の脳裏には、彼女の赤い瞳と二対の角の姿が強く残っていた。

 誰にも相談できないこの出来事に、一誠はもやもやした感情を抱えながら過ごしていた。そこへ、母からの頼まれごとだ。同じ場所へ行くことになるのだから、要件を聞いた直後はためらいがあった。しかし、すぐに思い直して了承した。再度行き何もなかったのなら、記憶の上塗りができると思ったからだ。

 だから、まさか山中の道でうずくまる彼女を見たときには、その事実に一誠は固まるしかなかった。見間違いでも白昼夢でもなかった。やはり、彼女は存在したのだ。

 小さくなっていたもやもやが胸に強く出てきて、頭の中がぐるぐると回る。何も考えられなくなっていた一誠は、そこでようやく鬼の少女が泣いていることに気づいた。彼女の前には、目を閉じて微動だしない兎がいる。


「……死んでる?」


 不意に口をついて出てしまった声。一誠は急いで口元に手を当てるも、すぐに鬼の少女は顔をあげた。大粒の雫をこぼしたまま顔を青ざめさせていく。

 お互いの時間が止まる。一誠も鬼の少女も全く動けない。無情にも風が頬を撫で、木々の葉を鳴らしていく。

 ―どうすればいい。何とか頭を動かして、一誠は考える。目の前には泣いている女の子と動かない兎。自分が今取るべき最善の行動。

 一誠は、スラックスのポケットに手を突っ込む。取り出されたのは、青いタオルハンカチだった。


「あのっ」


 少し強く出てしまった一誠の声に、彼女の身体が縮みあがった。怖がらせてしまったと、一誠は努めて穏やかな声音で話そうとする。


「これで、涙拭いてください」


 一誠はしゃがみこんで、鬼の少女にタオルハンカチを差し出した。怯えたままの鬼の少女は、彼とタオルハンカチを何度も交互に見ると、そっとタオルハンカチを受け取った。そのことに一誠は安堵する。

 優しく目元を拭う彼女は、次第に落ち着きを取り戻していく。嗚咽が鳴りを潜めた頃、一誠は質問した。


「その兎、どうしたんですか」

「……わからないです、来たときにはこうなってました」


 ささやくような声音が、鬼の少女の不安を伝えてくる。どうしてまた人がいる所まで下りてきたのか、一誠にはわからなかったが、この兎が理由だと推測できた。


「兎の様子、俺も見させてもらっていいですか」


 鬼の少女がそっとうなずくのを確認すると、一誠は兎の傍まで移動した。恐る恐る手を伸ばした兎は想像以上に冷たく、彼の身体が少し震えた。

「……亡くなってますね」

 鬼の少女は、目元に強くタオルハンカチを押し付けた。口からは、わずかに嗚咽が漏れている。一誠は、黙って地面を見つめることしかできなかった。


「この子を安らぐ場所に連れていきませんか」


 一誠が少女にそう声をかけたのは、五分ほど経った頃だった。彼女はうつむいていた顔を勢いよく上げると、じっと一誠を見た。強く懇願するような赤い瞳が、とても辛い。一誠はそっと視線を外した。


「この子を治すことは、もうできないのですか」

「一度死んでしまった命は、誰だって治すことはできないです」

 一誠は、兎を抱き上げ立ち上がる。冷たい身体が、ずしっと腕にのしかかった。

「何処かいいところ知っていますか」


 一誠をしばらく見つめていた少女は、やがてゆらりと立つと、森林の中に足を踏み入れ歩き始めた。一誠も彼女の後ろをついていく。舗装されていない山の斜面は、彼にとってとても歩きづらい。スニーカーであることがせめてもの救いだ。

 距離が開き始め、彼女の背は次第に小さくなっていく。それでも見失うまいと、一誠は必死についていった。

 少女の背がだいぶ小さくなった頃、動きが止まった。やっと追いつくことができた一誠の視線の先には、小さな花畑があった。中心部から徐々に濃いピンクになる花だ。一誠は見たことがあったが、名前はわからなかった。


「ここならきっと、この子も安らかでいられると思います」


 か細い鬼の少女の声が一誠の耳に入る。彼は彼女に礼を言うと、歩いてきた場所とは反対側の位置へ回った。しゃがんで兎を花の上へ、リュックを草の上へ置くとその場の草を抜き、土が見えると掘り始めた。その様子を鬼の少女がまじまじと見つめる。彼女の顔には、困惑が浮かんでいた。土を掘り終え兎を持ち上げた一誠を見て、ようやく鬼の少女は一誠の近くに行った。


「何をしているんですか」

「この子を埋めるための穴を作ったんです」

「埋める?」


 不安そうに穴を見た鬼の少女は、目を大きく見開かせると慌てて一誠から兎を奪い抱き上げた。ぎゅっと胸に押しつけ、取られるまいと身を反らす。


「やすらかな場所に連れていくのではないのですか。穴の中に閉じ込められたら、この子はずっと独りぼっちのままじゃないですか」


 突然の少女の行動に、一誠は一瞬戸惑うも急いで首を振った。


「違います、俺が作ってるのは、お墓なんです!」

「お墓?」

「死んだ者を弔うために、お墓作ったりするじゃないですか」

「そうなんですか……?」


 怪訝な鬼の少女の顔が、本当に知らないことを物語っていた。

 習慣の違いがこのようなところで出てきたことに、一誠は頭を抱えた。しかしそれも一瞬のことで、鬼の少女は穴の近くに行きしゃがむと兎を優しく置いた。小さく安堵すると、一誠は掘った土を丁寧に被せていく。


「俺たちは、なんですけど。家族が亡くなったら、その……無事天で幸せになれるようにお墓に埋葬するんです」

「天で、幸せに」


 はい、と返事をすると、一誠は花畑から三輪摘んでお墓に供え手を合わせた。


「俺たちがこうして弔えば死んだ命は天に行けて、先に死んでしまった命と再会できます。それに、神様だってきっと迎え入れてくれます」

「神様……」

「もしかして、神様も知らないですか?」


 またもや習慣の違いが出たのかと思った一誠に、鬼の少女はそっと首を振る。悲しそうで、寂しそうな顔をして。


「私は……神様に嫌われる存在だから」


 どういうことだろうと、一誠が訊くよりも先に鬼の少女が立ち上がった。彼に向き合うと、頭を下げる。


「たくさん失礼なことをしてごめんなさい。この子のためにありがとうございました」


 そのまま行ってしまおうとする鬼の少女をぼんやりと見送りそうになって、一誠は慌てて立ち上がった。

 このまま別れてしまうのが普通だ。だけどこのまま別れたら、きっともう会うことはないだろう。会えなくなることで何か困るのか? いや、こんなこと考えてること自体。


『この山に住む鬼は、優しい鬼なんだよ。とても心優しい鬼。でもね、怖がりでもあるんだよ』

『だからね一誠。鬼に会った時は、優しくしてあげてね』


 記憶の奥にあった曾祖母の言葉が、完全に引き金になった。


「あのっ!」


 叫ぶような一誠の声に、鬼の少女の肩が大きくすくみ振り返った。どうかしたのかと、彼女の表情が問いかけている。

 彼女の傍まで行ったものの、一誠は一誠で頭の中で混乱していた。引き留めてしまったけれど、この後どうするのが適切なのか。そもそもどうしたいのか。優しくするってなんだ。――そこで頭に出てきた、三陽山の鬼伝説。


「友達になってくれませんか」


 赤い瞳が瞬いた。

 果たして、この言葉が正解だったのか。一誠はいたたまれなくなって、顔をうつむかせた。次第に湿ってきた掌を誤魔化すように強く握る。


「どうしてですか」


 ぼそっとつぶやいた鬼の少女の声に、一誠は恐る恐る顔を上げた。少女の顔もまた、うつむいていた。


「どうして、私と友達になりたいのですか」


 今度ははっきりとした声で、少女が投げかける。困惑と疑問が声からにじんでいた。一誠は、再度考える。曾祖母や鬼伝説のことを抜きにして、彼女とのことを思い出した。


「あなたは……怖かっただろうに、兎のために人間がいるかもしれないとこまで来て。人間の俺がいても、逃げずに最後まで一緒にいて。優しい子だなって思ったから」

「思い違いです。私は、ただの臆病者です」


 鬼の少女の声が震える。


「私と友達なんて後悔するし、がっかりするだけです。第一私は」


 その声はやがて、嗚咽交じりの声となった。


「私は人じゃない。私は、鬼です。化け物です」

「化け物なんかじゃないっ」


 一誠の強い否定の声に、彼女の顔がはっと上げられた。


「あなたは、ただただ優しい鬼なんだって、俺はそう思ったんです。それに、そもそも後悔するほど俺はあなたのことを知らない」


 一誠は、真っ直ぐに彼女を見た。思いが届くように願いながら。


「俺は、佐原一誠って言います。あなたの名前を教えてください」


 それから、しばらくの沈黙の後だった。


「さち、です」


 そっと告げられた名前を、一誠は心の中で復唱する。そして、改めて彼女に言う。


「さちさん、俺と友達になってくれませんか?」


 鬼の少女――さちは、今度は小さくうなずいた。




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