拝啓、神様へ。

序章

「ただいま戻りました」

　とある和室、開いた障子戸の前。純白の着物と袴姿に、そこそこの書類を抱えた青年が一人、恭しく頭を下げた。その相手は、青年が御付きとして仕える主である。

　その主は、上機嫌に鼻歌を歌っていた。主からの許可を待たず頭を上げる御付きの顔には、怪訝な表情が浮かんでいる。

「何かあったのですか？　ずいぶん楽しそうで」

　少し嫌味めいた口調になったが、幸い主が気に留めることはなかった。藍の着流し姿の主は、腰掛ける椅子の上で盛大に足を組む。

「このところ暇続きだったろう？　何か暇をつぶせることがないかと思案していたのだがね」

「暇……」

　御付きは、主の真正面にある机の上を見た。積み重ねられた書類は、五日前から徐々に上へと伸びている。その山に主が他から託された新たな書類を積み重ねると、御付きはわざとらしくため息をついた。

「ならばとても良い暇つぶしが目の前にあるではないですか。ぜひとも、そちらに手を伸ばしてみては」

　紙でもこれだけ集まれば壮観だなと、御付きはじとりと山を睨んだ。そのてっぺんに、白く長い指が伸びる。主は一枚つまみ上げると、ひらひらと紙を振った。

「こんなものじゃ、暇をつぶせるどころか退屈になる一方じゃないか」

「たとえ退屈に感じても、仕事なのでしてくださらないと困ります」

　すんっと言い放つ御付きに、主は唇をとがらせる。

「君はもう少し、面白いことが考えられないのかい？　例えば」

　主の切れ長の目が弓なりになる。悪戯っぽく、無邪気な顔。

「――この私が目を付けた人間に、人間ではない者を会わせる、とかどうだろう」

　得意げに話した彼に、御付きは眉間に皺を寄せ盛大に肩をすくめた。

「御冗談を。大体、貴方様から人間に干渉などあってはならないことです。雑談もそこそこに、今日こそ仕事をしてもらいますからね」

　御付きは仕事をしやすくするために、書類の山を分けようと考える。最優先にしなければならないであろう五日前の書類は、山の土台になっている。

　小さくため息をつきながら書類に手を伸ばそうとして、御付きの動きがぴたりと止まった。

　彼の纏（まと）う空気が、変わった。それまでの楽しげで愉快な空気から一変、緊張感ある空気へ。

「冗談？　まさか。やるよ、私は」

　主に踊らされていた書類が、指から離れていく。そのまま静かに机の上を滑った。

「私が面白いことが好きなのは、君だって知っているだろう」

　主は椅子から立ち上がると、部屋の奥にある岩のもとへ行く。高さのある岩の上部は大きな窪みになっており、そこには清水（しみず）が貯められていた。

「……ええ知っています。知っていますとも。ですが、だからと言って貴方様が何をやってもいいということにはなりません」

　彼の纏（まと）う空気に身を強張らせつつも、御付きは何とか身体を動かす。

　この空気を彼が纏（まと）うとき、御付きは嫌でも思い知らされる。自分と目の前の主が違う者であることを。それでも主の御付きである以上、御付きは主のことを見ていなければならない。主が万能の存在である限り、自分が主に願い申し出なければならないないのだと。

「再度申し上げます。人間への干渉は御止めください」

　真剣な御付きの声音に、主は微笑を返す。

「断る」

　端正な顔を映し出した清水に、主はぼそぼそとつぶやいた。すると、清水（しみず）はとある町の少年を映し出した。

「どれだけ君に言われても、私は止めないよ。私はこの彼に、人間ではない者を会わせるんだ」

　主の隣に並んだ御付きは、悲痛な面持ちで青年を見る。主を止めることが出来なかった御付きは、青少年の無事をただ祈ることしかできない。

「さて、どんな面白いことが起きるのか――この神（・）を楽しませてくれよ」