津軽海峡、空景色

海猫

津軽海峡、空景色

──日本海での制海権を得た赤軍は北海道本島への上陸を開始した。1945年11月のことであった。ポツダム宣言を黙殺し、二発もの新型爆弾を投下され、アメリカ人が九州に上陸してもなお、大日本帝国は取り押さえられた稚児のような足掻きをみせていた。


──東部戦線でのドイツ軍と同様、日本軍も我が愛機によって屠られることとなった。敵戦車に向かって急降下しつつ機関砲を撃つとき、仲間たちと編隊を組んで多数の成形炸薬弾を投下するとき、歴史を作りつつある実感があった。蠅のように飛び回る敵戦闘機を華麗に撃ち落とすことはできずとも、敵の土地を爆風で耕しながら友軍の進撃を助けることで、私は祖国に貢献していたのである。


(ニーナ・テレシコワ著『シュトゥルモヴィーク』より抜粋)  





 カタンカタンと、列車が線路の繋ぎ目を踏む度に、心臓も同じ律動で波打つように感じられた。相変わらず船を漕いでいる母の体温を肩に感じながら、なつはすっかり曇ってしまった車窓に手を伸ばして、指先でそっと結露を拭き取った。雪化粧をした見知らぬ街が垣間見えて、もっとよく見たいとさらに拭き取る。指先を濡らして描いた正方形の向こうに、北国の街並みが見えて、どこまでも白く染められた風景になつはただただ見入っていた。


「駅は、見えたの?」


 欠伸を噛み殺しながら、母がおもむろに口を開いて、


「ちゃんと毛布かけなさいって言ったでしょ」

「平気だってば……駅、見えたよ」


 雪景色の彼方に朧げながら見えた駅舎は、今度こそ弘前駅のようだった。向かい側の席に座っていた老夫婦が、網棚から荷物を下ろして降車の支度を始めたからだ。


「お嬢ちゃん、これ飲むかい」


 鳥打帽を被った男が鼻先を赤くしながらなつにカップ酒を勧めようとして、ぴしゃりと妻に手を叩かれる。子供に飲ませるんじゃないわよ。いいじゃねぇか、生まれて初めて東京を出て、みちのくまでやってきたって言うんだ、体冷やさねぇようにあったけぇもん飲ませてやるんだ。無茶苦茶なこと言うんじゃないわよ、さっさとトランクを持って頂戴——


「なつ、支度しましょ」


 母は何事もなかったかのように荷物を下ろして、自らはトランクを持つとなつに背嚢を背負わせた。戦地土産だ、と父から送られた背嚢だった。

 懐かしいもん持ってんなあと、男が再び話しかけてきて、


「俺は満州で玉音を聞いた。あんたの夫は?」

「……主人は、内地におりました。青森戦の生き残りです」

「本土決戦か。それはさぞ、苦労されたことだろう」


 背嚢を背負って帰ってきた父は、見る影もなくやつれていたという。その父も、今は津軽海峡と戦っている。父が青函トンネル建設の技術者としての職を得たために、なつたちも青森に越してきたのだった。ソビエトとの返還協定で北海道が日本に復帰してから、連絡船に乗って函館へ向かう人々は増える一方だった。


 機関車が吐き出す黒煙は墨汁のように白い空へと広がり、駅のホームも無数の学生帽で溢れていた。これから上野へと向かうであろう彼らがなつには少しばかり羨ましかった。


 客車の中を飛び交う異邦の言葉が津軽弁であると気づくまでいくらか時間がかかった。向かい席の夫婦もなつたちと同じ「下り者」であったことはちょっとした幸運だったのだろう。


「行きましょ」


 老夫婦に会釈してから、母が腰を上げる。

 緋色のコートを纏った立ち姿はなつの目にも美しく映った。


「からだ壊さんでな」


 その言葉に首だけ曲げてお辞儀してから、なつは弘前駅に降り立った。





 母が八人兄妹の三女であることも、結婚前までずっと津軽にいたことも、なつには初耳だった。先祖は弘前藩の家臣だったとか、この街が空襲されなかったのは不幸中の幸いだったとか、夕餉の席で語られる昔話になつは思わず聞き入っていた。津軽弁を通訳する母の姿も新鮮に映ったけれど、その背中がいつもより一回り大きくなっているようになつには感じられた。


 夕餉の間、母は一度もこちらを振り返らなかったし、酌を何度受けても目線が揺らぐ気配はなかった。


 なつの肩を叩いてきた中年の男はもっとも遠い親戚であると名乗ったけれど、隣で一升瓶をラッパ飲みしていた祖父よりも親近感を抱かせた。この場で唯一のスーツ姿であることもなつの心を動かした。


「今日は大事な取引があってね」


 と男は口を開いて、


「私も普段はネクタイを締めないんだ」


 なつが赤べこのようにコクリと頭を下げると、肩の力を抜きなさいと男は言ってきて、


「弘前に来たのは初めてかい?」

「はいっ、母はこちらの生まれで」

「知ってるよ」


 お猪口を口につけながら、彼は頷いた。


「よく、知っている」


 祖父が大声を出しながらこちらに向かって手招きしている。なつではなく、男を呼んでいるようだった。やれやれと立ち上がりかけて、そうだ、と胸ポケットに手を入れると、


「時間があったら、うちに遊びにおいで」


 佐々木、という苗字が記された名刺。裏返してみれば赤い林檎の水彩画。

 林檎農家なんだ、と佐々木は言う。


「岩木山の麓でやっているんだ」


 飲んだくれらしい祖父の声がますます大きくなる。腰を持ち上げた佐々木は盛大なため息をついたけれど、周囲の喧騒にかき消されて誰も気がつかない。

 渡された名刺をまじまじと見つめていると、不意に母が、振り向きもせずに話しかけてきた。


「何かされた?」

「いや、別に……」

「そう」


 なつもようやく食欲が湧いてきたけれど、一口啜ったお味噌汁はすっかり冷えてしまっていた。





 がさつな大人たちもある程度までは気を遣ってくれたけれど、子供は正直に反応してしまう生き物だ。言葉の壁は、なつを同級生たちから遠ざけた。狸寝入りをしても異物を見るような視線が度々感じられたし、彼らが笑い声を立てる度に自分が嘲笑されているのではと身構えた。


 東京ではそれなりの学校に通っていたから、学業では常に優秀な成績を収めていた。それもまたなつの孤立を深める要因となったけれど、転校して一月が経つ頃にはなつもすっかり慣れていた。あからさまな苛めを受けているわけでもない。教師たちの覚えさえ良ければ十分だった。


 そういうわけだから、初めて彼女が話しかけてきた時も、物好きな誰かが周囲の風景からポンと抜け出た程度にしか思わなかったのだ。


「見せて」

「はい?」


 見れば分かるでしょ、と、彼女は数学の教科書を突き出してきて、


「三角関数の問題、宿題だったでしょ。分からないから見せて」

「ああ……はい」


 顔も上げずになつは左手でノートを差し出す。右手だけで本をめくるのも慣れれば造作ないことだ。


「え、いや、ちょっと」


 戸惑いの声。流石になつも訝しんで顔を上げた。

 瞳が大きく見開かれる。

 舶来品の人形。

 美術室の白い彫像。

 そうとでも形容しなければ、彼女の眩しさに耐えられなくて。


「ねぇ、ちょっと、聞いてる?」


 両肩に手を置かれて揺すられる。彼女の掌の感覚に、全身が反応するのが感じられた。


 形容し難い高揚感の湧き上がり。

 白く溶けていく周囲の景色。

 誰?


「あなたは、誰?」

「え?」


 あー、うん、そうだねと、彼女が頷く。透き通るような声。自己紹介くらい、しとかなきゃね。


「ゆき。来栖ゆき」


 肩までかかる黒髪をかきあげて、


「よろしくね、財前なつさん」





 桜のトンネルだよ、とゆきは言う。


「隠沼のほとりに万朶の花が咲いて」


 生まれたての子鹿のような足取りで雪路を行くなつの先を、ゆきは兎のように駆けていく。


「そうして白壁の天守閣が無言で立っているとしたら、その城は必ず天下の名城に違いない」

「太宰治?」

「お、よく分かったね」


 内堀沿いにずらりと並ぶ枯桜に降り積もった雪も、彼女には白い花弁のように見えるのだろうか。その内堀にもすっかり氷が張っていて、鯉の一匹すら見かけることができない。


 本丸へと続く橋の、紅の欄干が目を引いた。緩やかに湾曲した橋を渡って、弘前城の天守に行き着く。


「あれが、岩木山だよ」


 マフラーを巻き直しながらゆきが遠くを指差す。一目見ればあの山が津軽富士と呼ばれるのも納得だった。


 ゆきはそのまま、少しだけ腕を持ち上げて、


「あれが、あの人――あの人の居場所」


 つかみどころがない子だった。ゆきは時折、空を指差して誰かを求めるのだった。教室のど真ん中で、突然立ち上がってそうしたこともある。不思議なことに、同級生たちは一人も彼女の奇行を気に留めないのだ。彼らの視線は、むしろ隣のなつに集中した。その度になつは居た堪れない気持ちになって、ゆきの腕を引っ掴みながら外に出ていく。


 あいつらが見ていないところでやって。

 なつの再三の懇願に、流石のゆきも折れた。それ以来、ゆきが偉人の銅像のように天を指し示すのは、なつと二人きりの時だけだ。


「あの人って、誰」

「知りたい?」


 雪原に立って妖しげに微笑む彼女を見ていると、重力が消えていく感覚に襲われた。今、彼女に手を握り返されて、そのまま黄泉の国にまで連れていかれたとしたら。多分、それでも彼女を手放すという選択肢はないだろう。


 東京から引っ越してきて初めての快晴だった。肌を刺す冷気もいっそ心地よく感じられる。


「教えてほしい?」

「それは、もちろん」

「じゃあ、交換条件」


 待ってましたとばかりにゆきが手を叩いた。


「なっちゃんのことを教えてほしい……ううん、なっちゃんのことはもうよく知ってる。なっちゃんの、大事な人のこと、教えてほしいな」

「それは……ゆきだよ」


 ちょっとした仕返しのつもりでそう答えてみるけれど、ゆきは相変わらず嬉しそうに笑うだけで。なつが頬を膨らませても気づく気配はなさそうだ。


「私のことは、今聞かなくたっていい。それよりも、なっちゃんにとって大切な人のことが知りたいな」

「ゆき以外に友達はいない」

「家族のことでもいいんだよ。お父さんとか、お母さんとか」

「それなら……」


 父のことを先に話すことにした。というより、そうせざるをえなかった。父のことはなんでも話せる。ちょっと堅物だけれど、正義感が強くて、仕事熱心で。軍にいたころも、きっとあんな感じだったのだろう。


 母は?


 母は、不思議な人だった。ゆきとはまた別の意味で、つかみどころがなかった。十六年間、同じ屋根の下にいるというのに。娘から見ても、母は寡黙な人間だった。


「お母さんに、色々聞いたりしないの?」

「聞いても……ね」


 ゆきに言われるまでもなく、母の人生を知りたいと思ったことは何度もある。幼い頃は無邪気に、物心ついた頃には多少の遠慮を覚えつつ。年月を経るにつれ、なつに己の半生を尋ねられる時の母の表情は険しくなる一方だった。

 最後に尋ねたのは、東京を発つ前夜だったか。





 あなたの好きにしなさい、と母は言う。


「でも、決して気を許してはなりません。あなたは財前の家の娘。あなたのお父さんと、お父さんに連なる方々は皆、誇り高き帝国軍人でした」


 唐突に母がそんな話を始めたわけも、拳を握りしめたわけも、なつには分からなかった。好きにしろって、一体どういうこと?  お父さんと何の関係があるの?

 目の前の母は、母の表情をしていなかった。


「あの人と結ばれて私は救われた。それをひっくり返したいのなら、あなた一人でそうしなさい」


 わけがわからないとなつが訴えても、母が閉じた殻を破ることはできそうになかった。


「私は今でも」


 そこで初めて、母が一息つく。再び開いた口は、やはりかすかに震えていて、


「来栖家の人間たちを許したわけではありません」


 茶碗が勢いよくちゃぶ台に叩きつけられた。小皿たちが卓上で震える。

 無数の硝子の破片が突き刺さる。そんな心地がして。

 来栖、という苗字をなつが最初に耳にしたのもあの夜だ。


「あの人たちに辱められるようなことがあったら言いなさい。すぐに——」


 それが母の旧姓であることに思い至ったとき、怒気に燃えるその目になつは震えた。


「そうはならないよ、お母さん」


 親族は親族でしょう。そう言いかけて言葉を飲み込んだのも、今思えば賢明な判断だったのだろう。

 油断してはなりません、と首を振る母の顔には鬼気迫るものがあった。


「私は、あの人たちに、折檻されたのよ」


 だからあなたも覚悟しなさい。虎穴に飛び込もうというのであれば、あなたも虎になるべきなのよ。


「じゃあ、私は虎の獲物かな」


 人差し指を顎に当てて、ゆきがそう言う。


「そんなことするわけないよ」


 そう返せばよかったのだろうか。咄嗟に言えなかったのは、母への後ろめたさ故か。

 財前なつには分からない。

 なっちゃんになら食べられてもいいかも、なんてゆきが言い出す。身も心も、なっちゃんに捧げちゃうかもね。


「変なこと言わないで」「じゃあ、誰に捧げればいいの?」


 本当につかみどころがない、ふわふわした子だ。

 飛び込んでやろうか、となつは思う。虎穴だろうと雹のねぐらだろうと、爪を研いで飛び込んでやる。

 意地でもあるし、母という人間がどんな欠片を落としていったのか、好奇心がくすぐられる。

 視線に気づいて、なつは顔を上げた。ゆきがこちらの顔を覗き込んでいる。


「誰に捧げれば、いいと思う?」

「じゃあ、教えてあげる」


 久しぶりの笑顔を、なつは浮かべて、


「私が探して、教えてあげる」





 とはいえ、兎が爪を研いだところで虎にはなれないことはよく分かっていた。己の華奢な体に刺さるいくつもの下卑た視線を、なつは敏感に感じ取った。

 親が親たる所以を改めて思い知らされる。東京から越してきたあの日の宴会でも、母がいなければ自分はどう扱われていただろうか。


 まだ陽も落ちきっていない時間から大勢で集まって酒盛りをする理由はよく分からなかったけれど、なつには都合が良かった。ギラついた目の大人たちに尋ねて回るのも、この一回きりで済ませられるかもしれない。


 不意に、背後から光が差し込んでくるように感じられて、


「なっちゃん」


 彼女がいた。

 水を得た魚のように彼女が話し出す。こんなところで会うなんてね。一人で来たの?  大丈夫?


「心配してくれているの?」

「こんなところに女の子が一人で来ていたら、ね」

「今は二人でしょ」


 なつがゆきの手を取ると、にへへっとゆきが笑って、少しだけ俯く。


「じゃあ、行こっか」

「うん」


 皆さんのことをよく知りたいんです、と、大人たちには表向きの理由を話す。いまだに津軽弁が話せないなつのために、ゆきが間に入って通訳してくれた。

 案の定、男たちは鼻の下を伸ばしていた。なつの祖父に至っては酒を勧めてきた。努めてにこやかに応じながら、それとなく母の名前を口にする。


 ああ、あいつか。誰かが陽気な声で言う。あいつは、いい女だったよ。

 だろうなあ。お袋は女狐なんて言っていやがったが、あんな女は二度と抱けねぇ。  躾って言いな。俺たちはあいつを躾けてやったんだ。


「なっちゃん」


 ぐらりと傾いた体を、ゆきが支えてくれる。

 中年の女二人が眉を顰めているのが見えたけれど、彼女らもなつに視線を向ける気配はない。

 兄妹とは思えない。思いたくない。母の家族であるとは、とても。


「たまんねぇだよ」


 また男の声。血の繋がった妹じゃ、あんな感覚は味わえねぇ。あいつは俺たちが食わせてやっていたんだ、だから俺たちもあいつを食う——


「それって、それじゃあ母は……」

「あれれ、聞かされていないのかい」


 別の男が目を丸くして言う。


「あいつは、養子だよ。だから俺たちが世話してやったのさ」


 寄りかかったゆきの腕は、本当に温かった。

 大丈夫だよ、とゆきが囁く。あなたのお母さんは、化け物と血を分けたりしていない。


「ゆきも知っていたんだね」

「ごめん……」


 そういや、と、男の一人がなつに尋ねる。君の親父さんは軍人さんだったそうじゃないか。どんな人なんだい。あいつからは聞かされていないんだ。勝手に結婚して飛び出していきやがったから。


「……父は、陸軍にいました」


 僅かに知っている父の軍歴をなつは口にする。


「弘前連隊の下士官だったとか……」


 その途端、男たちの表情が変わった。

 眠れる獅子を起こしてしまったような顔。

 一斉に口を噤む様はどこか滑稽でもあった。ただ一言、「帰れ」とだけ告げられる。


「頼むから、今すぐ帰ってくれ」


 獅子の前では張り子の虎でしかない。

 虎にすらなれないだろうと、男たちを見下ろしながらなつは立ち上がった。





 雪が溶け、桜が散り、梅雨が開ければ、津軽にも肌を焼くような暑さがやってくる。


 入道雲が夕陽に照らされる頃、山車灯籠がいくつも街を練り歩き始めた。細長いバチを握り大太鼓に跨る男たち。法被姿で笛を吹く子供の一団。打ち鳴らされるジャガラギの音。


「ねぷた祭りだよ」


 ゆきがまた得意げな様子で教えてくれる。


「あれが、ねぷた」


 そう言って、通りを行く山車灯籠の一つを指差す。三国志の関羽を描いた扇形のねぷた。魏の曹操に命じられ顔良に斬りかかる勇姿――ねぷたに描かれた武者絵が夜の通りにいくつも浮かび上がっていた。水滸伝の花和尚が怪力をふるい、湊川で楠木正成が突撃し、日本武尊が熊襲くまそを征伐する。


「やぁぁ、やぁどぉ」


 通りの掛け声に合わせて、ゆきがいきなり大声で叫んだ。驚かされてばかりだ、と、なつは改めて思う。もし彼女と出会っていなければ、東京にいた頃とさして変わらない生活を送っていただろうことは容易に想像できた。地味で代わり映えのない日々に戻ることなど、今更できそうにない。


 ゆっくりと過ぎていくねぷたの裏側には美人画が描かれていた。唐美人が誘うように手を伸ばし、九天玄女が下界を見下ろし、祝融夫人が短刀を手にする。


「見惚れているね」


 低い声。聞き覚えのある声だ。

 振り返った先には、法被姿の長身が立っていて、


「君とは特別な日にばかり出会うね」


 佐々木だった。

 一人で来たのかい、と尋ねられて、


「いえ、友人と一緒に」

「仲が良いのかい?」

「それは、とっても」


 とっても可愛い子なんです。そう言ってゆきを紹介しようとしたなつは、彼女の姿が消えていることに気がつく。


「恥ずかしがり屋さんかな」

「どうでしょう……ひょっこり戻ってくるかもしれません。奔放な子ですから」

「母親みたいな台詞だね」


 揶揄うように佐々木が言う。

 いえ、私はただの箱入り娘です。あの子に引っ張られてどこかへ連れて行かれるのが私の役目です。いつも、どこまでも。


 また一台、ねぷたが通り過ぎていく。その美人画がなつの目を引いた。白い顔立ちの天女。己の翼を両手で持ち上げて、妖しく微笑む佳人。


「信じてもらえるかな」

「何をです?」

「彼女は、私が描いたんだ」


 天女を指差しながら、佐々木がそう言った。最初に筆をとったのは十年以上前のことだ。絵描きの農家ってわけさ。

 どうしても、あの人を描きたくてね。今年だけの例外として、特別に許しを貰ったんだ。


「あの人って、誰です?」

「知りたいかい?」


 まさかね、となつは思う。

 でも仮に、佐々木がゆきと同じ「あの人」を見つめているとしたら。

 佐々木はおもむろに胸ポケットを探ると、一枚の紙片をなつに差し出す。


「最近、あの人の本が出たらしい。正確には、あの人が戦死した後に公開された、彼女の手記ってことになるが」


 市立図書館でなら借りられるだろうと、佐々木は市内地図も渡してくれた。なつの家からさほど遠くない距離にある。明日にでも行けるだろうか。


「そういえば」と佐々木。

「随分前に、君は来栖の家に行ったそうだね。大丈夫だったのかい?」

「まぁ、はい」


 苦笑いして頭を掻きながら、


「どうしてご存知なんですか?」

「私はあのケダモノたちの末の弟だ」


 佐々木の歪んだ顔をなつは初めて見た。


「妻の姓を名乗るようになってから、彼らとは縁を切った。二度と関わりたくないと思っていたんだがね。だが、君と、君のお母さんがこちらに越してくると知って、それで……」


 最後はよく聞き取れなかった。聞き返そうとして、なぜ躊躇ってしまったのかは、なつにも分からない。

 天女の姿が小さくなっていく。彼女を追うように、佐々木が歩き出す。彼女もまた、佐々木に向かって翼を広げているようで。

 また会おう。

 広い背中が小さくなってゆくのを見送っていると、不意に肩を叩かれた。


「ただいま ~」

「……どこ行ってたの」

 悪かったよ ~と特大のかき氷を差し出してきたゆきの頭を、なつはくしゃくしゃに撫でてやった。





 朝一番で市立図書館に足を運ぶと、目当ての本はすぐに見つかった。佐々木の言う通り、最近刊行されたばかりの真新しい本だった。


 表紙に描かれた無骨なプロペラ機のイラストを、なつはまじまじと見つめる。 シュトゥルモヴィークと呼ばれるソ連の対地攻撃機らしい。


「ソ連のイリューシン設計局によって開発されたIL-2シュトゥルモヴィークは二人乗りであり、パイロットと機銃手が搭乗する。上空から敵戦車を撃破するための機関砲やロケット弾、爆弾を搭載し、独ソ戦ではドイツ軍を蹂躙。大戦末期には日本への上陸作戦に投入された」


 まえがきを読み終えると、彼女自身が綴る物語が始まった。赤色空軍の誇りとされた、一人の魔女の物語。


「翼に赤い星を描いた鳥たちが、一斉に大気を震わせる。殺意を信管にこめて解き放てば、爆風が兵士の一団ごと大地を削り取る。敵機が襲ってくるたびに、曳光弾の航跡が空を走る。次々と飛んでくる敵戦闘機は、護衛機か後部銃手の的となって壮烈な最期を遂げていった。そうしている間に、巨人の手は確実に前線を押し上げていくのだ。我々の航空連隊はひたすら進撃を続けていく――」


 彼女と共に操縦桿を握り、照準器の先の空を見つめているうちに、正午の日差しが天窓から差し込んできた。何度か百科事典を開きながら、彼女の手記を読み進める。彼女は一介のパイロットにあらず、傑出した著述家でもあった。なつの意識を天空へいざない、共に凍てついた世界を焼き払うほどの。


 彼女?


「ニーナ・テレシコワ中尉。大戦末期に彗星のごとく現れた女性エースパイロット。 シュトゥルモヴィークの操縦士として東部戦線で初陣を果たし、ドイツ軍戦車を二百輌以上も破壊した『魔女』」


 軍隊にも飛行機にも明るいわけではないなつも、彼女の勇猛さには圧倒される思いだった。ページをめくる度に、彼女は次々と戦果を上げていく。やがてベルリンが陥落し、ヒトラーが死ぬと、ソ連は対日戦を開始する。彼女と、彼女を慕う大勢の同志たちも、満州からサハリンへ、サハリンから北海道へと飛んできた。札幌が陥落し、津軽海峡を越えて本州へ上陸――


「日本軍の戦闘機は決して軽んじてはならない脅威だった。護衛機は大勢飛んでいたが、いつもそのうちの数機が彼らの犠牲となる運命であった。高射砲に出迎えられ、翼をもがれて墜ちていった仲間も多い。落下傘で脱出した後、市民たちに竹槍で殺された者もいた」


 それでも彼女は「魔女」にふさわしい活躍を続けていた。何百両もの戦車をスクラップにし、何千人もの将兵を肉塊に変えていく。地を血で染めて歴史を作るのがシュトゥルモヴィークのパイロットである、と。


 そう記した翌日、彼女の航跡は途絶えた。

 撃墜の瞬間をソ連側では確認できていない、唯一の手掛かりは、地上にいた日本側の兵士の目撃談であると、あとがきには、そう、付け加えられていた。


「捜索は、ルソン島から内地へ転進した第八師団・歩兵第三十一連隊(弘前連隊)が実施。同連隊の二等兵数名が、哨戒中に、燃えながら落下していくソ連機を目撃」


 記述はそれだけだった。

 それだけで、なつの意欲をかきたてるには十分だった。

 佐々木が何を伝えようとしているのか、朧気ながらなつは理解し始めた。





 滅多に帰ってこない父の書斎に、なつは久しぶりに足を踏み入れた。

 父の手記はすぐに見つかった。昭和二十年という文字列を見つけて、パラパラとめくる。


「ソ連機墜落の報から三日後、ロシア人乗員の遺体が佐々木上等兵により発見された。発見時、落下傘は大木に引っかかっている状態であり、中空に吊るされたまま絶命したものと思われる」


「七日後、再び佐々木によって新たな乗員が発見された。岩木山山中で発見された遺体の周囲には地元住民が集まっていたが、甚だ異様な雰囲気であった。竹槍を持った一人が乗員の遺体を突くと、佐々木は九十九式短小銃を構えて住民らを追い払った」

 

 佐々木とは、おそらく、あの佐々木なのだろう。驚きではあったが、さほど衝撃的なものではなかった。過去へ過去へと導かれている、なつはそう感じていた。


「墜落時に機内で発火したのであろうか、黒炭のような遺体であった。普段は冷静な佐々木の顔が青ざめており、私が声をかけるまで案山子のように茫然と立っていた。遺体を引き摺ったような跡が周辺にみとめられ──」


「なつっ!」


 書斎の空気が震えた。

 仁王立ちした母ほど、恐ろしいものもない。


「お母さん」


 どこから勇気が湧き出てきたのか、我ながら不思議だった。父の手記と共に、なつは彼女の本を母に差し出す。


 母は泣いていただろうか。


 ニーナの写真を、母は食い入るように見つめていた。見たことのない表情だった。けれどその瞳には、既視感があった。私は知っている、この瞳を、私はすでに、見たことがある。


 欠けた硝子の、いくつもの破片が、互いに繋がり始めていた。

 窓の外へと、なつは目をそらす。ぽつりぽつりと、街灯が灯り始めた。





 竹籠一杯に詰め込んだ林檎の一つに、ゆきが横から手を伸ばそうとする。

 皮むきしたいんでしょ、となつが言うと、肩をすくめながら手を引っ込めた。何か言いたげにもじもじして、それから、


「なっちゃんはさ」

「うん」

「この街のこと、好き?」


 林檎の木々の間から木漏れ日が差して、水面のように揺れている。農園の端まで歩くと、観光客用の東屋があった。


「急にどうしたの」

「いいから答えてよ〜」


 佐々木が取り皿を並べてくれていた。思っていたより随分取ってきたなあと、竹籠の中を一瞥して小さく笑う。

 ぐいっと袖を引っ張られて振り向くと、


「ねぇ〜」

「分かったってば」


 竹籠を置いて、軽く肩を揉みながら、


「好きだよ、この街。東京よりいいかも」

「ほんとに?」


 この子はどうして、となつは思う。どうしてこうも、愛らしい喜び方ができるのか。

 ゆきは本当に安心した様子で。嫌いって言われなくて良かったよ〜と、どさっと椅子に腰を下ろしながら、


「……もう、会いに行かなくていいんだからね、あいつらに」

「ありがと」


 母と似ている。母ほどではないけれど、ゆきも時々、回りくどい言い方をしてくる。

 佐々木はといえば、果物ナイフを持って器用に皮むきを始めていた。やるかい?  と、一本渡されて、なつも慣れない手つきで取り掛かる。


「ナイフじゃなくて、林檎の方を回すんだよ」


 なつの手の中で、くるくると林檎が自転する。赤い皮が帯となって、テーブルの上に伸びていく。初めてにしちゃ上手い方だよと、佐々木が目を細めた。


「聞きたいことがあるんだろう」


 佐々木には全てお見通しのようだった。

 父の手記を差し出す。皮むきの手をとめて、佐々木はページをめくった。写真が一葉、挟み込まれていることにも気づいて、それも手に取った。


 懐かしさと、哀愁と、去来する思いはいかばりか。

 なつが一つ目の林檎の皮を剥き終わると同時に、佐々木も顔を上げた。


「何から聞きたい?」

「あなたは」


 なつは問う。


「あなたは、母を……財前ゆきを今でも愛していますか?」


 笑って誤魔化そうとも、虚空を見つめようともせず、佐々木はじっとなつを見つめていた。手記を閉じて、そっとなつに返す。


「なんて、答えてほしい?」

「もう、隠さなくていいんです」


 懇願するような思いで、なつは言う。


「私がこの街に来た理由を、ちゃんと知りたいんです」


 それで彼が、彼女が、救われるのならば。

 以前より度胸がついた。自分でも、そう感じる。


「あの人は……ニーナは、君のお母さんに保護された」


 佐々木が切り出す。その声が微かに震えていることに、なつは気づいていた。


「日本側の捜索部隊を振り切ろうと逃げ続けて、辿り着いたのがこの街だったらしい。君のお母さんは本当に優しい人だ。あのケダモノ家族を説得してまで、匿った。だが、その優しさが仇になった。そもそも、あの家族が本気でお母さんの願いを聞き入れたとは思えない。飢えた獣のような、あいつらが」


 夏風が東屋を吹きぬけて、なつたちの頬を撫でた。


「あいつらは文字通り飢えていた。あの時代じゃ、決して珍しいことではなかったが。それでも、大抵の人間は、極限状況においても可能な限り、尊厳というやつを保とうと努力するものだ……」


 あいつらには、それすらなかった。

 だから、ニーナは殺されたのさ。


「あいつらは狡猾だった。あの日だけ、あいつらは君のお母さんにも『食事』を分け与えた。いや……お母さんと、まだ赤ん坊だった君に、だ」


 それで耐えきれなくなったんだろうと、佐々木は言葉を継ぐ。君のお母さんは家を飛び出した。狂ったように呪いの言葉を吐きながら飛び出していった。なぜ知っているかって?  私は見ていたんだ、あの日、あの山の中でな。


「本土決戦が始まって以来、青森に落ちた操縦士はニーナだけではなかった。あいつらは、あいつらにとっては運よく、手頃な一体を見つけたんだろう。唾棄すべき連中だと、心の底から思った。連隊に報告することも考えた。だが、どうやら私も弱い人間だったらしい」


――君のお母さんは、私の初恋相手さ。


「だが、その恋もあの日で敗れた。たった七日間の恋でも、君のお母さんには一生に値した。あんなに慈悲深い人は初めてだったと、そう言っていたよ。君のお母さんにとって、ニーナは魔女ではなかった」


 君が生まれたのも奇跡のようなものだ、と、佐々木は続ける。元部下として、お父上にお母さんを紹介した時も、内心ハラハラしたものさ。

 じゃあ、私は残酷な人間ですね。なつはそう返す。母の初恋を、無理矢理終わらせたんですから。

 いいや、と佐々木が返す。どんな思い出も、いずれは区切りをつけねばならないものさ。


「それにしても」  


 竹籠を持ち上げながら、佐々木が呆れたような表情になる。


「これだけの林檎を、本当に君一人で収穫したのかい?」

「後悔したくなかったんです」


 なつはそう言って、剥き終えたばかりの林檎に、齧り付く。甘くて、瑞々しい、夏の味だった。

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津軽海峡、空景色 海猫 @umineko_283

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