イルミネイション・イミテイション

@qwegat

イルミネイション・イミテイション

 ミマイク氏の信じているものはあまり多くなかった。

 彼の人生は裏切りと――本人が裏切りだと思い込んでいるだけの、単なる期待外れの連続だった。例えば少年のころ、未発達な小指を触れ合わせては幼馴染の少女と交わした約束たちは、彼女の肉体とともに小さな馬車に押し込まれ、国土のどこかへと去って行った。それとほとんど同じ時期に、世界の中心と信じていた故郷の景色が、ある日唐突にヴェールを脱ぎ、小さく寂れた農村へと早変わりした。他にも母の寿命であるとか、愛用の鍬の耐久性であるとか、仮想の自分の才能であるとか、天気占いであるとか、全財産の数割を貸し与えられるくらいの大親友であるとか、愛用の鋏の耐久性であるとか、大事な家畜を閉じ込めてあった牧場を囲む柵であるとか――すべてが。ほとんどすべてが踵を返し、最初は導灯にあふれていたはずの彼の人生から光を奪って、将来を見通す視界を蝕み、前後不覚の迷宮を生んだ。

 しかし幸運にも……というほどでもなく、むしろ当然の少し下を行く程度の話なのだが。彼の三十余年にわたる人生が完全な迷宮かと言えば、それも違った。

 輝きを呑む闇の中でも、消えずに残っている灯りはある。たいていの場合そういう灯りは、ただまだ消えていないというだけで、今後も輝き続けると保証されてはいない。しかしミマイク氏の貧相な主観は、むしろそれらを常夜灯ととった。絶対に裏切らない安全地帯と捉えた。信じられないものが多いからこそ、数少ない信じられるものたちは、必要以上の――もはや信仰と言って差し支えないほどの、心理的荷重を背負うこととなったのだ。

 ここではそんな常夜灯、それとも祭壇上の偶像を、三つほど先に紹介しよう。


【犬】


 ミマイク氏は犬という種族を信頼していた。特定の犬ではなく、犬という種族だ。

 家業じょう経済動物たちの世話をすることは多かったし、だいたい彼の故郷は農村で、野生の生き物もたくさんいた。そしてもはや書くまでもないが、例外なく彼に歯向かった。逃げ、刺し、盗み、死して食肉と化してなお、食あたりという形で苦しみを与えた。

 だからミマイク氏はどんな動物も、馬も羊も鶏も蛙も鯰も猪も嫌いだった。いちばん嫌いなのは――少し意外かもしれないが、これらの飽きるほど触れた獣たちではなく、幼少期に一度だけ見た猿だった。商人のケージから逃げ出したというそいつは小柄で黒く、そのくせ鋭い爪を広げて、夕暮れの道に細長い影を何本か描きながら、甲高い声で獰猛に鳴いた。その印象はあまりに強く、それこそ尖った爪で刻まれたみたいに、彼の魂の表層を抉った。それからミマイク氏は猿が嫌いだ。

 いっぽう唯一、例外となる動物もいた。もちろん、犬だ。

 先祖代々飼い育ててきた、作業犬たちの一族があった。世代交代を続けながら、常に八頭から十五頭ほどの犬が、よく統率の取れた部隊を組んでいた。白くふわふわの毛並みの彼らは、逃げようとする動物を取りかこみ、刺そうとする動物を追いはらい、盗もうとする動物を噛みころした。そして腐った食肉があれば、匂いを嗅ぎつけ警告の咆哮を上げた。

 幼ミマイク氏を睨みつけたあの猿に直後、横から飛び掛かったのも犬だった。というより――決定的な瞬間はそこだったのかもしれない。猿という種族に向くはずだった彼の心中の信頼が――すべて、犬という種族に振り替えられたあの瞬間。あの瞬間がなければ、ミマイク氏の想いも、もっと穏やかだったという可能性はある。

 しかし事実、ミマイク氏は猿が嫌いなのだ。


【金】


 先に断っておくべきこととして、ミマイク氏は金銭を信頼していただけで、それにまつわる裏切りを一切経験したことがないというわけではもちろんなかった。彼は金を奪われたし、失くされたし、契約書の穴をついて本来よりずっと少なく渡された。だがそれは金を扱う人間たちの問題であって、金そのものが彼を裏切ったことは一度もなかったのだ。

 物体として実際にそこに存在している低額紙幣は、皴の入りこそ一枚一枚違えど、いつも同じ偉人の、いつも同じ微笑みを印刷されていた。微笑みを取り囲むなめらかな楕円の外側には、金額を示す印刷数字、四角い縁を取り囲む装飾枠、それが銀行によって保証された紙幣である旨を記す斜体の文面――。そういうものたちが列挙できて、やはりすべて、いつも同じだった。角のあたりに手書きで記された通し番号だけが、唯一、紙幣と紙幣を区別していた。

 通貨なるものはいうなれば――裏切りにおける、単位だった。最低額の紙幣のように、それ以上分割することが叶わず、他の全紙幣を定義する役についた単位。どれだけ大きな規模で誰かが自分を裏切ろうと、金という名の最小単位だけは、常に不変に金で居続けた。

 様々な変容を目にしてきた彼にとって、不変とは何よりの価値であった。莫大の借金にまみれ、苦境を強いられる生活の中でこそ、その輝きは余計に強調されるように思われた。

 そういうわけで、ミマイク氏は金が好きなのだ。


【父】


これについては残念ながら、今しがた、そうでもなくなった。



「それでは、こちらの欄に――」

 商人の男は、細くすぼめられた両眉の裏側にある何かを、糸のような双眸ごしに少し光らせながら。テーブルの反対側に座るミマイク氏へと、汚れた羽根ペンを一本手渡した。その佇まいは客観的に言って隙が無く、交渉の際に秘するべきすべてを、明かす気がないと語るようだった。しかし――内心に触れるなら。商人は少々怖気づいてもいた。先ほどから丸形のテーブルの下に潜んでいる中型犬が、疑いや敵意をむき出しにした視線で、時折、こちらをぎろりと見るのだ。天板が落とした影の中でも、のぞかせた牙は確かに光っている。今回の交渉は誠実にいこう、と男は肝に銘じていた。

「――署名をお願いいたします」

 卓上には一枚の紙が置かれていて――より詳しく言えば、その木綿紙は契約書だった。ミマイク氏の金銭と引き換えに、特定の商品を販売するという契約書だ。

 羽先が立つ。

 かりかりとかすかに上がった音からも分かる、ミマイク氏の少し強い筆圧。褐色の染みの辺々に沈みゆくインクの軌跡の内側には、裏切りへの悲しみが確かにこもっていた。今まで丹念に育て上げてくれた実の父のすべては、遺産に変わってしまった晩から、千数百枚の紙幣だ。そしてそのうち数百枚を――生前の父で例えるなら、おそらく右腕一本くらいを。ミマイク氏は今、別のものへと変えようとしている。

 無念を形にしたように力強く、鋭く小さなピリオドが今、ペン先と紙面の接触によって打たれた。

「ありがとうございます」

 内心で鋭い眼光を恐れ続けながら、商人の男はあくまで隙を見せず、少しかがんで、ぼろ布をかけられた一抱えの物体を足元の床から持ち上げた。そして卓上に慎重に置くと、少し位置を調整して、布に手をかけ、剥ぎ取った。布に付着していた綿埃がいくらかはらはらと落ちて――その中にあるものが、明らかになる。檻籠、その内部。

 きぃ――と、甲高い鳴き声。

 それは一匹の小猿であった。

 テーブルのかげから躍り出た犬が、敵意を剥き出しにぼう、ぼうと吠える。空気もろとも震えている心を必死に隠しながら、商人は笑顔をはりつけて、窓枠から差す日差しに声を溶かす。

「お支払いは後日、ということですので……私はこちらで失礼しようかと思います。何かご質問などは――」

「餌について聞きたい。とりあえず果物をいくらか用意したんだが、ほかに必要なものは?」

「餌ですか」商人は逡巡した。普段ならここで小動物飼育におけるタンパク質の重要性を誇張とともに語ったうえで割高のジャーキーを売りつけるところだが、白犬の、自分は絶対的な正義を象徴しているのだとでも言いたげな威嚇が恐ろしかった。今回はやめよう、彼は思った。「猿というものは雑食ですから、果物の種類にもよりますがたいていの場合それのみで問題ないかと、たまに肉を与えるとなお良いかもしれませんね。……犬をお飼いなのでしたら」と口に出すことで、彼は説明できない安心を覚えようとしていた。「どのみち彼らは果実が嫌いだ。肉は絶対に必要でしょう」

「ありがとう、他に質問はないよ。帰ってくれて構わない」

 その言葉をどれだけ待ちわびたことか! 商人は胸を躍らせながら、また踊るようにして床を歩み、恐怖の根城から去っていった。そして馬車へと乗り込んで、信頼にあふれた都会へと戻るのだ。

 彼の軽薄な後ろ姿をひとしきり眺めたあと、ミマイク氏は猿に目を向けた。

 嫌悪に溢れた視線であった。

 彼の視界に映る小猿は――先ほどまで父の右腕だったそれは。鉄か何かの檻越しに、黒い毛並みを無駄に逆立て、環境光で手首に醜いしわくちゃの皴を彫り込みながら、愚鈍極まる表情で立っていた。その爪も眼球も耳も尻尾も、すべてが固形化された造反という概念そのものだった。最高の仲間である作業犬が、あのうさん臭い商人が立ち去ってなお、ぼう、ぼうと叫び続けているのがその証左だ。

 猿は裏切りの塊である。

 つまり、自分が何かを裏切るにはもってこいだということだ。

「これで、全部か」

 とミマイク氏本人が呟いた通り、これで、全部だった。父の遺産が変わった先は、何もどす黒い猿だけではなかった。部位のたとえを継続するなら、猿に費やされた右腕の他にも、左腕と頭部すべてくらいの額が、ほかの用意に使われていた。それは例えば大量の紙で、それを四角く切るための断裁道具で、そこに模様を書き込むための大量のインクで、インクをつけるための筆記具で、筆記具を使うものに与えるための、餌だった。

 鳴き続ける犬を片手で制しつつ、ミマイク氏はもう片方の手で、作業着のポケットに手を突っ込んだ。

 低額紙幣が取り出される。

 この間からことさら希少になってしまったミマイク氏の信頼の、ひとかけら。同時に悩みの種でもある。父の遺産は小さいとは言えない額だったが、負債の完済にはやはり足りなかった。そうだというのに印刷された小窓の中で平面的な偉人は微笑んでいて、大量の紙を四角く切って筆記具とインクで書き込んだ模様の分際で、すごく傲慢に感じられた。

 だから彼は、金への信頼まで捨ててしまった。

 いや――捨てた、というのは違うかもしれない。信頼は依然寄せていたものの、いつその思いが裏切られ、踏み躙られるかはわからない、と考え始めた。だから裏切られるより先に、自分で裏切ってやろうと企んだのだ。

 くぅ、と犬が――今や唯一の偶像が、鼻を鳴らす。

 始まりつつある偽札づくりが、濃くも短い人影の形をとって、ミマイク氏の足元に張り付いた。



 ミマイク氏は猿を一切信じていなかったが、猿の信じられなさについては完璧なほどに信じていた。

 現在小猿が入れられている、商人が用意した檻籠とはまた別に。より小さく、また隙間もない空の檻箱があった。ミマイク氏は持ち上げていたその箱をいったん横に置いて、空いた手で十枚ほどの紙幣を取り出すと、狡猾極まる哺乳類の、不安げに振る舞う瞳に見せた。次に、紙幣と同じサイズにカットされた紙を。さらに、インク瓶と筆記具を。そしてこれらの三つを合わせ――紙幣の模様を確認しながら筆記具で紙に模写をする、その一連の動作を演じてみせた。彼の手先は器用でもなく、寝不足からかわなわなと震えてもいた。玉葱のひげのように曲がりくねった線が、まっさらな紙を汚していく。

 線を一通り描いた後は、別の筆記具で一部の輪郭を塗りつぶす。そして敢えて崩した筆跡で、適当な数字の通し番号を書き込む。一連の工程を経て、とても精巧とはいえないが、ひとまず偽札ではあるものが完成した。

「やってみろ」

 と口で発する必要は特になかったのだが、ともあれミマイク氏は言った。そして紙幣と紙と筆記具を、鉄格子越しに小猿に渡した。

 彼自身は、小猿が一発で自分の意図を理解できるはずもないから、何度か同じ動作を繰り返し見せたり、報酬で釣ったりする必要があるだろうと考えていた。しかし商人によってある程度調教されている小猿にしてみれば、人間の命令には即座に従わねばならない。言語が分からずとも意を汲み取れなければ、その先には恐ろしい罰が待っている。だから小猿はすぐさま筆記具を摘まみ取ると、紙に向かい、一心不乱に描き始めた。

 つまり、ミマイク氏の予想はまたしても裏切られたのである。

 だから何だ、という話ではあった。

 かりかりとしばらく音が響いたあと、小猿がきぃと鳴いた。その甲高い声にミマイク氏は片眉をぴくりと動かしたあと、すぐ下にある片目をぎろりと回して、小猿の手元を見た。そこには確かに――偽札ということもできるものがあった。

 先ほどのミマイク氏によるものより、さらに出来栄えがひどかっただけだ。

 小猿は当たり前ながら数字や文字を認識できず、ただの模様と捉えていたから、記号というより線であるそれらは、やたらめったらぐちゃぐちゃに拡散していた。紙幣を囲む装飾枠も、その細部に宿った精巧な美を断じて再現されておらず、そもそもそれらの要素の配置自体が、とてもきちんと整列されたものとは言えなかった。ただ――小さな偉人の微笑みだけは、ミマイク氏の想定より、多少高い再現度で描かれていた。でもそれだけで、全体の出来栄えの拙さを塗り替えることができるはずもなかった。

「――よし」

 ところで。

 ミマイク氏が落としたその呟きを耳に入れたのは、彼本人と、小猿だけではなかった。ミマイク氏のズボンのほつれた裾が、だらしなく垂れる足元に――声を発することもせず、一対の耳を構えては、音波を拾う生物がいたのだ。

 それは一匹の小犬であった。

 小犬である以上当たり前だが、群れの中でも最高級に幼く、またものを知らない個体であった。その顎の下には未熟の象徴かのような赤い首輪が嵌められていて、そこからゆるりと伸びたリードが、小犬の行動を制限していた。さらに言うなら頭部には、薄くも黒い目隠しが巻き付く。

 小猿が偽札を描いている間、小犬は両目を使えなかった、ということだ。

 ミマイク氏は本物の紙幣の山から三枚をとりあげると、小猿の描いた偽札を、その束の中に紛れ込ませた。あまり意味のないシャッフルをたわむれに二、三回繰り返したあと、片膝をついて屈みこみ、目隠しに手を伸ばして外す。凛々しい眼球があらわになって、映りこんだミマイク氏の輪郭を球面上に歪めた。

「始めるぞ」

 ミマイク氏は言うと、手元でかさかさと弄んでいた紙束から、改めて一枚を取り出す。耳の横に掲げるようにして幼く無垢な瞳に見せつけ、問いを一つ。

「この紙幣は本物か?」

 肯定と否定の表し方については、あらかじめ訓練を受けている。小犬はか細い首を縦に振り、肯定の意思をミマイク氏に伝えた。

 正解だった。

「それじゃあ次に――」とミマイク氏は続けて、そのまま四枚ぜんぶの紙を、立て続けに小犬に見せた。三枚の本物と一枚の偽物――しかし小さな被験者は、すべての紙に首肯した。犬自身には四枚のうち何枚が偽物か知らされていなかったし、教えられていたのは大まかな使命と意思表示のやり方だけだったから、本物と偽物の区別がつかぬまま、ひとまずすべてに首肯するのも――そうおかしくはなかった。

 しかし単純に結果だけ見れば、今回の小犬の解答は、正解率にすると七割五分だ。一定の基準は超えているものの、最高評価に値するとは言えない。だから――報酬も、減じられる。ミマイク氏は机から麻袋をとると、細切れにされた干し肉を五かけら、取り出した。――もしも小犬が全偽札を見分けられていれば、これが十かけらになっていたはずなのだ。その欠落を印象付けるように注意した仕草で食事を与え、小犬の残念げな表情を確認したうえで――ミマイク氏は、振り向いた。

 格子を隔て、小猿を見る。

 今回の小猿がした働きは、小犬と違って、明確に満点を与えられるものだった。一枚の偽札を作成し――そのすべてで相手を騙すことに成功した。もちろんより多くの枚数で全成功したほうが報酬は高くあるべきだが、一枚という枠に限れば、確実に最高の働きと言える。……たとえ相手が未熟な犬で、作った偽札がぐちゃぐちゃの線の集合であっても。

 だから小猿は、十かけらの果実を得ることができる。

 皿に乗せられて差し出された希望が、みずみずしく吸い上げた太陽の光。それを目にした一方の歓喜と、もう一方の羨望は――二匹の視線が新しい檻箱の、固い壁面によって阻まれた後も、記憶に焼き付き、決して離れない。

 それから競争は始まった。



 最初の数十日は散々だった。

 二匹の動物は檻と首輪に縛られながら、なるべく多くの果実と肉のため、相手を騙し、それを看破した。ミマイク氏は犬に見分けさせる紙幣の全体数を徐々に増やしていくことで、この争いを複雑化させた。しかし何せ紙幣というのは人類の文明の賜物だし、猿はミマイク氏が勝手に信仰しているだけで、別に狡猾の象徴ではない。大量生産された紙幣に走る無駄のない直線と、偽札に無様にへばりついているぐちゃぐちゃの線の差はあまりに歴然としていて、騙し合いの均衡はすぐに犬に傾いた。犬からすれば偽の紙幣を見分けるなんて不要で、ただ引かれた線がまっすぐか、曲がっているかを見るだけで良かったのだ。最初も最初のほんの数回を除いて、干し肉がいつも十かけらずつ減っていく一方、果実は最低供与数である二かけらの消費にとどまる――そんな偏った日々が続いた。

 ミマイク氏はこの結果にある面で満足していた。悪意の象徴である猿であっても、正義の権化たる犬の前には為す術もないということが、改めて証明されたからだ。しかし、偽札制作の面では不満だった。両者に差がありすぎては競争にならず、ミマイク氏自身の悪意が発揮できなくなってしまうからだ。彼はしばらく考えた結果、小猿の使える道具をいくらか増やすことにした。例えば線をまっすぐ引くための定規、円を正確に引くためのコンパス。紙や鋏や粘土など、猿自身が道具を自作できるようにするための素材も用意した。

 小猿はさらに数十日をかけ、これらの要素に順応し出した。

 ぐちゃぐちゃの装飾枠は秩序を獲得し始めたし、偉人を取り囲む楕円もそれに倣った。……そして何より目覚ましいのは、記号すなわち数や字であった。小猿は与えられた紙を、本物の紙幣の額面表示数字、あるいは文章を連ねる書体をなぞるように、鋏で切り抜き穴を開けた。そうしてできた穴あきの紙を、偽札の表面に覆い被せ、上から筆でインクを塗りたくり始めたのである。これにより穴を開けられた箇所に限定して黒を着色することが可能となり、小猿の偽札は精巧さと、大量生産の可能性を同時に手にした。

 こうなってくると、今度は小犬が窮地に立たされる。安易に線を見分けているだけで肉を得られる状況に胡坐をかいていた身としては、進化していく悪意と、それに比例して減少していく配給食はまったく脅威だった。まるで満ちていない胃袋と向かい合って考えた小犬は、いくつか小猿の手法における問題点を発見した、たとえば、例の「穴を開けた紙」手法では全てのインクがべったりと均質だが、本物の紙幣のインクはかすれている場合が多い。

 そういう基準で選別を始めた小犬はある程度の肉を獲得したが、十かけらとはいかなかった。今度は逆に、本物の紙幣を偽物の紙幣と勘違いするような事例が生まれ始めたのだ。確かに本物の紙幣のインクは往々にしてかすれているが、すべてそうだというわけではない。製造時の環境に大きく左右されるし、年月の違いも考慮せねばならない。また小猿の方も小犬の手法に薄々ながら勘づいて、敢えて少し掠れた質感で描画を行うやり方を身につけだした。

 かくして競争は、激化と――そして、高度化の一途を辿った。



 それから、数年が経過した。

 ミマイク氏の負債は年月とともにいっそう膨らんでおり、債権者たちはなおさらに、彼への疑いの視線を強めていった。その色合いは奇しくも、ミマイク氏自身が世界のすべてに向けているまなざしと全く同じであり――またその朝、猿を収めた檻箱にあけられた小さな覗き穴をうかがった彼の、瞳のありさまともやはり同じだった。

 彼の狭い視界の中央で、猿(もはや、小猿と呼ぶには大きすぎたのだ)は――まったく本当に疑わしい、獣に憑依した狡猾は。黒い毛におおわれた、よく動く手で紙切れをつかみ、ぐしゃぐしゃと揉みまわしている最中だった。

 もちろん、犬による看破率を下げるためだ。

 偽札づくりにおける原本――すなわち猿にとってのサンプルとして、あるいは犬が偽物と区別すべき本物として使用される低額紙幣には、最初にミマイク氏が遺産から得たうち、数百枚が流用されている。これらの紙幣の状態変化は、二匹の争いにおける数少ない外部的影響の一つだった。単純な話――銀行からおろしたてだったころの整然という概念を体現するような姿から、低額紙幣たちは日に日に、少しずつ、しかし着実に歪んでいったのだ。皴や折り目をどんどん増やし、日光を受けて黄ばみ始めるものもあった。

 進みつつある劣化のかたわら――猿の偽札の方はと言うと、一貫してまっすぐな紙から作られる。そのため犬の視点では、目の前の紙幣に皴があるかないかを判断するだけで、ある程度高い正解率を叩き出すことができる、そういう時期があったわけだ。……もちろんものの数日で、今ちょうどミマイク氏が目の当たりにしているような、手動で皴をつける方法が編み出され、均衡は再び押し戻されたのだが。

 この事象がミマイク氏に暗に語るのは、そろそろ潮時だ、ということだった。

 紙幣に入った皴というのは、偽札づくりの環境が生み出した特殊な条件でしかない。例えば――皴が入っていないが、それ以外は完璧に本物を再現できている偽札があったとして。それを適当な酒場にでも持って行って、カウンター越しに差し出したとして。果たして――誰が、その滑らかな表面を疑うということがあるのだろう? そう、そんなことはありえないのだ。むしろまっすぐと伸びた紙幣を、小綺麗だからと歓迎する向きすらあるかもしれない。

 紙幣というのは皴のない状態で生産されるもので、わざわざそれを揉みしだいてみせるのは、純粋な偽札作りの過程としては無駄なこだわりと言わざるを得ない。どうしてそんな無駄なこだわりが生み出されるのかと言うなら、猿と犬が学びすぎたことが原因だ。二匹の目的は徐々に、偽の紙幣を作ることから、ミマイク氏の用意した紙幣を複製することに変わりつつある。この流れがあまりに加速しすぎると、むしろ本質から遠ざかることになりかねないのだ。

 上のような論理をそのまま踏まえたわけではないものの、ミマイク氏自身、そろそろ潮時だという感覚は抱きつつあった。単に……猿が作る偽札の品質が、ある一定のレベルを超えつつあったのだ。ちょうど今、猿の偽札を揉む指が止まった。――作業が完了した合図だ。檻箱の下部にそなわった回収用の細い孔から、ミマイク氏が紙切れを取り出す。それを犬のもとに届ける前に――すこし、手を止めた。

 ミマイク氏の視線が手元の偽札を刺す。

 そこには彼の紙幣への信頼をなしていた、すべての要素が含まれている。小さく刷られた偉人の微笑み。微笑みを取り囲むなめらかな楕円。金額を示す印刷数字、四角い縁を取り囲む装飾枠、それが銀行によって保証された紙幣である旨を記す斜体の文面。何もかも完璧だった。隙が無かった。角のあたりに手書きで記された通し番号すら、絶妙な――隙だらけなありさまを、隙一つなく保っていた。意図的に少しかすれさせたインクや、個体ごとに異なる筆跡の癖は、それが造幣機関の人間による筆跡で、断じて猿のものであるわけがないと、そう受領者に確信させるに違いなかった。

 簡単な話――当のミマイク氏ですら、それを偽札と見分けられなかったのだ。

 くぅ、と犬が鳴いている。もはや体躯と比較して、長いとも言えなくなったリードを引きずって鳴いている。そして飼い主が用意した、三十枚の紙束を見分ける。首を縦に振り、正解。首を横に振り、正解。もう一度横に振り、正解。縦に振るが、これは不正解。横に振り、正解。しかしミマイク氏にしてみれば、どのしわくちゃになった札たちも、すべて本物――いや。すべて、偽物にしか見えなくなってしまったのだ。ただ二匹の獣たちだけにことごとく独占された本物という概念に、歯ぎしりをする以外にできなくなってしまったのだ。

 常夜灯がまた一つ消える。

 しかし――もはや灯りなど不要だというのも、彼の考えるところではあった。

「すばらしい」

 ミマイク氏はそうつぶやいて、年月を経てぼろぼろになった麻袋を、今一度机から持ち上げた。そして中から果実と干し肉を取り出すと、二割しか騙せなかった猿にも、八割しか見抜けなかった犬にも、十かけらずつ与えてしまった。実際のところ――猿はこれ以上偽札を改善する必要が無いのだから、報酬をフルに与えなければ、ここから変に手を加えてしまう危険性があった。犬については単に、正義に対する報酬という向きが強かった。

 筆記具を再び持ち上げた毛むくじゃらの手。かりかりと音を上げ始めるそれに背を向け、ミマイク氏は玄関から出た。飲みにでも行こう、そう考えた。彼は酒のことももちろん信用していなかったが、回ってさえしまえば酔いは真実だ。獣くさい柵を通り抜け、彼は田舎道を歩いていった。



 そして、戦争がいつの間にか始まっていたことと、戦争がいつの間にか終わっていたことと、紙くずから生み出した紙幣が、もう一度紙くずになってしまう事実を知るのだ。



 とっくに空腹は限界だった。

 小犬というには成熟しすぎた白犬は、無意味に口を開き、そして閉じた。その動作は本当に無意味だったので、例えば空中にぶら下げられた干し肉を、そのぴかぴかの牙が噛み貫き、ぐちゃぐちゃと咀嚼を始めるような、何か喜ばしい事態が起こりもしなかった。埃だらけの作業場の床を撫で上げる獣の影が、わずかに変形し、すぐ元に戻っただけだった。

 主人はもう何日も戻らない。

 久しぶりに十かけらの干し肉を得られたあの日から――そのあとやっぱり久しぶりに、扉のきしむ音が聞こえたあの日から。忽然と姿を消したまま、戻ってこなくなってしまった。これからさに数日経っても、戻ってこないのかはわからない。しかしどちらにせよ、この空腹の調子では、犬がその姿を拝むことはないだろう。

 鋭い眼が――猿を、商人を、そして偽札を貫いたのと同じかたちの視線が。作業犬を縛り付けるリードに向く。

 彼の意識は幼いころから、よりたくさんの干し肉があるほうへ、流されゆくよう教えられていた。そして――そのための最短経路こそが、偽札を見分けることだった。自分は粛々と座っているだけで、勝手に主人が紙切れを運んできて、それを目で見て答えるだけで良かった。もちろん不正解時に与えられる肉ではまるで足りなかったから、より多くの肉を得るために、研鑽を積む必要はあった。だが例えば、自分で荒野を駆けまわり、獲物を追うよりよっぽどよかった。

 しかし、主人はもういない。

 黄金時代は終わってしまった。

 白犬はゆっくりと、震える前足を延ばしてたちあがった。そして今一度顎を大きく開くと、首輪から伸びるリードに、思い切り、噛みついた。ぐしゃ、という鈍い音がかすかに上がるのを聞きながら、もう一度牙を晒し、また噛む。噛む。噛む。十数回繰り返した後には、彼の動きを制限するものは、とっくに何もなくなっていた。

 ミマイク氏はすべてに裏切られた。

 犬は力を振り絞って四肢を動かし、そのあたりの台の上に適当に置かれていた、食糧入りの麻袋にたどり着く。その入れ口に首ごと突っ込むと、内部の干し肉に触れたかと思えば、その報酬を無造作にむさぼり始めた。本物に気づいたわけでも偽物を見抜いたわけでもなく、ただ純粋に肉としてそこにある目標地点。ゲームのルールはもう崩壊した。犬の目の前にあるものは、本物よりもずっと本物だった。

 満腹になって――。

 すこし、辺りを見渡した。

 床には紙切れが散乱していた。小窓の中の偉人たちが、重力を無視して方々を向いていた。白犬はそれを無意識のうちに偽札かどうか見分け始めたが、すぐに無意味さに理性で気づき、やめた。窓からさした日光が、いかに紙幣の上に境界を描こうと、彼には全く関係なかった。それより意識に張りつくものがあった。

 きぃ、という弱々しいうめき声。

 それは一匹の小猿であった。

 と、犬は幼いころに知っていた。

 飼い主に示す否定を意味するわけではなく、単に首を横向きに振り、視線を移して部屋の一角を見た。そこには一つの檻箱があって、小猿が封じられているに違いなかった。麻袋の中に残されたぐちゃぐちゃの肉片の例外としての果物たちを、報酬として待ちわびているに違いなかったのだ。何せ、犬は果実が嫌いだ。

 犬は檻箱に歩み寄った。掠れが薄まってきた視界によれば、内部からの脱出に対し堅牢なだけで、外から封印を解くのは、そう難しくもない構造らしかった。だから犬は、そうした。それは正義というより悪というより、本物というより贋物というより、信用というより嫌悪というより、一言でいえば友情によるものだったと、説明できるものはこの世のどこにもいなかった。檻の扉が開け放たれ、ほんの少しの風が吹き、床の紙幣たちがわずかに舞った。だれも、それを気にしなかった。

 実際は小猿でもない小猿が、実際は小犬でもない小犬を見る。

 二匹の間だけの真実が、小屋のくたびれた扉から、外の世界へ持ち出されるまで、そう長い時間はかからなかった。

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