第3話

 学校指定のバッグを手に下げ、瑞歌は高校への道を歩いていた。住宅に囲まれた狭い路地は昔住んでいた街の道のように静かだった。彼女はワイヤレスイヤホンをして、ランダムに流れる知らない音楽に耳を傾けていた。


 建物の隙間から、朝特有の輝きが瑞歌の白い肌を照らした。彼女は滅多に外に出ることはなかったが、小学生の時よりも伸びやかな四肢は透明な血の通った色をしていた。艶やかな黒い髪は昔より短く切られ、中性的でアンニュイな横顔を引き立てている。しかし、最も目を引くのは昔から変わらない切れ長の目だった。その青にはもう繊細さはなく、瑞歌自身は自覚していないが、見る者を恐怖させる冷たさが宿っていた。


 小さな路地から車通りの激しい大通りに出た。車は思い思いの色で光を反射し、信号に従いながらも無秩序に動いていた。


 その様子を横目に瑞歌は歩き続けた。歩道に等間隔で植えられた街路樹はそのざらついた肌からは想像できない新緑らしい鮮やかさを太陽のもとに示している。


 瑞歌の視界に同じ高校の制服を着た人が見え始めた。全員同じ方角に歩き、緊張したかのような面持ちだった。


 高校は大通りから一本それた道に面している。瑞歌がその道に辿り着いたとき、人の集団が大河のように校門に流れ込んでいた。建て替えられたばかりの真っ白な校舎の下でしゃべり声や叫び声が飛び交い、そのたびに教師らしい人間の叱る声がそれを押さえつけようとした。住宅街の朝に相応しくない煩さだった。瑞歌はイヤホンをポケットに入れ、無気力に黒い川の流れに身を任せた。


 狭苦しい校門を過ぎると生徒たちはゆっくりと流れていき、滝つぼに落ちるように昇降口に入って行った。すでに自身のクラスを知らされている彼らは教師の誘導に従い、自分のクラスを目指した。


 瑞歌は校舎に入ると歩きながらも辺りを見渡していた。押し合いへし合いの中、浮いたり沈んだりする黒い頭ばかりが目に映り、求めていた金色の髪は影も形も現さなかった。そのせいか、廊下いっぱいに広がりながら揺蕩う人だかりは輝きを失い、黒ばかりの木炭画に見えた。彼女は歩く速度を遅くしてより多くの人を見ようと努めたが、景色に変化はなかった。どこまでも続く砂嵐のような周囲を見る瑞歌は、彼女の横を通り過ぎていく人々とは種類の異なる緊張をした表情だった。人生の岐路にて霧のかかった道の先をじっと見る人間の顔だった。


 しかし時間が経つにつれ、視界の人間は減り続けた。だんだんとベージュ色の廊下の床が広がり、話し声もまばらになっていく。冷酷な目は前だけを見つめた。景色は虚無に近かった。


 結局、瑞歌は何の成果も得られずに自分のクラスである一年四組の教室についてしまった。窓から差す光により温かく照らされた廊下にはもう人の波はなかった。おそらく彼女が最後に到着したのだろう、閉ざされた扉の向こうからは楽しそうに談笑する声が幾つも聞こえる。


 瑞歌は悲しげな目をしていて、それに呼応するかのように彼女の影は冷たい扉にへばりついた。彼女はもう諦めていたが、『分かっていただろう』と、叶わない夢を見た自分を笑う気は失せていた。


 ゴミ箱に打ち捨てられた栞を想像しても、瑞歌の心は揺れなかった。たとえそれを行動に移したとして、彼女の唯一無二の光である夏華を忘れることができる確証も覚悟も一切なかったからである。


 彼女は自分を思い出に縛り付けていたのは物質ではなく、精神的な、五年間変わることのなかった夏華への想いと悟ったのだ。「秘密の証」以上に、手を繋ぎ、笑顔を見せてくれて、自分たちだけの関係が生まれた、忘れがたい一つ一つの時間が瑞歌の心に楔のように突き刺さり、消せない痕を残していた。


 いつからか蓋をしていた気持ちがあふれ出し、それに感化された灯は激しく燃え盛った。だが、どうしようもなかった。


『夏華はいない。その結果は変わらない』


 瑞歌は気持ちを抑えようと深呼吸をし、扉に手を伸ばした。


 瞬間、大きな音を立てて勝手に扉が開いた。


「びっくりした!君で最後だよ」


 教室から飛び出した、瑞歌より一回り小柄な少女は笑顔で言った。長い金色の髪が特徴的な可愛らしい、真紅の瞳の少女だった。雷に打たれたような衝撃が瑞歌を襲った。心臓が耳のそばにあるかのように激しく音を立てて鼓動を刻む。


 震える瑞歌の目はこの生徒を成長した夏華と認識した。温かみのある髪が、大人っぽい丸い赤い眼が、熟れた桃の色を呈する唇が、太陽のような笑みが、来なかったあの日の続きに見えた。


 あっけにとられて呼吸まで止まった瑞歌とは反対に、太陽を反射する流水のようなブロンドの髪をなびかせて少女は教室に戻っていく。


「待って!」


 感情が暴れている、自分が暴走していると自覚しながらも、瑞歌は駆けだすとその生徒の手を両手で掴んだ。「入学おめでとう」と書かれた黒板を前に、運命の人を見つけたかのような恰好だった。その生徒は驚いた表情で振り返った。大声により静まり返った教室にて全ての視線が二人に集中したが、瑞歌には周りにヴェールが掛けられたように目の前の少女しか見えていなかった。願うような気持ちで瑞歌は聞いた。


「名前、教えてほしい」


「わ、私?私は東風夏華。東西南北の東に……」


「豊枝小学校に四年生の時まで通ってた?」


「え、うん」


 急に手を掴まれた驚きで止まっていた思考が動き出すと、夏華は怪訝そうに生徒を見た。真っ先にストーカーだろうか、と考えたが中学校ではなく転校した小学校を聞いてくるのは不可解だった。短めの黒い髪に冷たい雰囲気のこの生徒に似た友人は夏華の記憶の中に存在しなかったし、そもそも、思い出そうにも周囲の視線が痛く突き刺さりそれどころではなかった。


 教師がやってくるまで暇だった人々には眼前の光景は興味深い余興だった。


「あ、あの君の名前は?」恥ずかしさで自分の顔が熱くなるのを感じながら夏華が尋ねると、生徒は少し寂しそうな眼をして答えた。


「私は桜井瑞歌。覚えてない……?」


 その名前を聞いて夏華が必死になって思い出しだのは、教室の隅でずっと本を読んでいた日陰のような少女だった。他のクラスメイトとは異なる、孤独が形を得たような……。しかしそれに確信が湧かなかった夏華は自信なさげに言った。


「よく本読んでた……あの?」


「うん。久しぶりだね、東風さん」


 嬉しさから零れた言葉は滑らかに瑞歌から発せられた。不器用な微笑で彼女の顔が緩み、瞳は氷が融解したかのように少し潤んでいた。


「夏華でいいよ。でも本当に久しぶりだね、瑞歌ちゃん。……手、もういい?先生来るかもだから」


 夏華が言い終わらないうちに瑞歌は手を引っ込めた。夏華の言葉は彼女を正気に戻し、暴走は頬の紅潮へと徐々に変化した。幻のヴェールは消え失せ、周囲からの視線が瑞歌に刺さる。生暖かいそれは瑞歌の中から苦い、罪悪感に似た感情を引き出した。


「あの、ごめん、いきなり手握って……」


「いいよ別に、気にしてない」夏華はうつむいてしまった瑞歌を覗き込んだ。


「それよりも自分の席に行きな、立ちっぱなしは可笑しいでしょ」


 そう言われた瑞歌は自然な風を装って夏華の優しい眼の奥を一瞥すると自分の席へ歩いて行った。


 彼女は鞄を机の横に掛け、析出した頬の赤みを隠すためにすぐ机に突っ伏した。机の間を縫うように移動していた時も、教室の中心で寝たふりをしている今も、絶えず好奇の目で見られている感覚が瑞歌には存在した。腕で作られた暗闇だけが彼女の心を癒した。


 静かだった教室にはもう活気が戻っていて、いたるところから話し声が聞こえた。


『夏華と同じクラスなんだ……』


 暗幕の内側で静かに深呼吸をすると、真夏に雪が降るような出来事が自分に舞い降りたと彼女は思った。夢物語のあらすじをなぞる奇跡は冷静になろうとする彼女を妨害した。瑞歌の顔に浮かぶ、消せない幸せの微笑は彼女以外知る由もなかったが、それでも誰かに見られているようで彼女は少し恐怖した。


『手、温かかったな』


 両手で包んだ夏華の手は、瑞歌には昔より小さく感じられたが、それでもあの時と全く同じ熱を持っていた。


『目も綺麗だったし……』


 底の見えない赤い瞳は夏華の体温の原点に見えて、焚火のような優しさも有していた。


 瑞歌の席は夏華の席の右斜め前の方向に位置していたため彼女が夏華を観察する機会は無かったが、声は満足に聞こえた。


「劇はもう終わった?」


「劇じゃないよ」


 夏華は隣に座る今日できた友人のからかいを聞き流して席に着いた。


「本当に偶然小学校の時のクラスメイトに再会したの」


「運命じゃん。確率どのくらいだと思う?」


 飴谷楓あめたにかえでは楽しそうにサイドテールを揺らしながら夏華に聞いた。


「地球が誕生するくらい?」


 投げやりな会話の返事に二人が笑っているときに教師がやってきた。


 長い髪の女性は「静かに」と言い喧噪を鎮めると、生徒たちを廊下に並ばせ、体育館まで誘導した。


『夏華、もう友達できてたな』


 人であふれた窮屈な体育館の片隅のパイプ椅子に座り、瑞歌は彼女の事を考えていた。壇上では白いひげを蓄えた老人が小難しい話をしていた。必死な身振り手振りは無意味に空を切っている。


『あの子は今も変わらず太陽なんだ。どんな人にも光を振りまいて……二、三日あれば多分夏華の周りには太陽系みたいに人が集まって……』


 まとまりのない思索が中断したタイミングで聞き流していた話が終わり、別の老人がメモを読み始めた。退屈が続く体育館には溜息と欠伸の混ざったぼんやりした空気が、ボールの挟まった天井まで蔓延していた。誰もが自分の世界に入っているようだった。


『私はその太陽系で水星になれるのかな』


 『なりたい』と思うと同時に、それに水を差す『なれないだろう』という予想が彼女を貫く。外からの冷たい風が当たる彼女の背中は若干猫背気味だった。上から降ってくる太陽光から目をそらすためだったが、その姿勢は不真面目な生徒のようだった。


『恒星に近づいても身の程知らずは焼かれるだけだ。そもそも夏華、私の事覚えてなかったみたいだったし、なれるとしてもきっと太陽の影響が少ない辺境の冥王星……』


 式はつつがなく進行していく。もうやるべき事象も残っていないのだろう、体育館の端に並ぶ黒いスーツに身を包んだ教師たちの雰囲気も緩んでいた。波に揺られる海藻のような背中を氷の目はいくつも見た。生徒の何人かは寝ているようだった。


 瑞歌は今までで一番夏華に近づいたはずなのに、彼女はもう遠くにいるような気がして、深海のような暗さを味わった。


 孤独な少女は人だかりから一歩引いた場所にいる手持ち無沙汰な自分が容易に想像できた。その自分は本を読むふりをしながら眩しそうに喧噪の中心を眺めている……。


『いっそ告白出来たら』


『……夏華から見たら所詮私はそこら辺の石ころと変わらないのに?』


 それは愚にもつかない妄想だと自分でも気づいていた。独りぼっちの時に散々告白の想像はしたが、いざ本人と再会すると、瑞歌は夏華のあの笑顔に別の意味――告白を振ることへの申し訳なさ――が宿ってしまう可能性を恐れた。光に縛り付けられた彼女は光の熱に苦しんだ。


『約束……』恋愛的苦痛の中、ふと瑞歌は思った。


 机に置いてきた「秘密の証」が脳裏に浮かんだ。夏華が忘れてしまったであろう「今度会ったとき」は一体いつなのか、まだ瑞歌には分からなかった。しかし、それが彼女には救いだった。


『秘密は私が忘れるまで生き続ける。そしたら私と夏華のつながりも存在し続ける』


 瑞歌は、自分と夏華の関係が物質化していることに感謝した。栞を挟んだ二度と読まない本のように、人間関係が形を保ったまま変化しないことに感謝した。


 入学式は何事もなく終わり、教室に戻った後解散となった。


 自由になった生徒たちは連絡先を交換する、友人のいるクラスへ行く、帰宅するなど、思い思いに動いた。


 騒がしいクラスの中、夏華は一年四組のグループラインを構築するために駆け回っていた。春の陽気のような明るい印象のおかげか、大体の人は快くグループに入ってくれた。


「瑞歌ちゃんもどう?グループライン」


 スマホを片手に、夏華は静かに帰ろうとする瑞歌に声をかけた。瑞歌は夏華の額に真珠のような汗の粒を見ると、持っていた鞄を机に置いてポケットからスマホを取り出した。


「入りたいけど、どうしたらいいの?」


「じゃあスマホ貸して」


 分かった、と言い瑞歌は夏華にスマホを渡した。慣れた手つきでスマホを操作する彼女の横顔に瑞歌は見惚れた。


 決して崩れない夏華の微笑は蠱惑的な絵画のようだった。だが彼女には血が流れていて、肌は静かに波打っているのである。セーラー服に似合う健康的で引き締まった身体は記憶の書に記されている夏華とそっくりだった。当たり前のことだが、改めて見ると瑞歌は不思議な気分になった。


「はい、できた」


 夏華は瑞歌にスマホを返した。画面上では既に何人かが会話していた。瑞歌は無機質に「よろしくお願いします」とだけ送信してポケットに仕舞った。


「ありがと」


「どういたしまして。あと私を勝手に友だちにしといたから邪魔だったら消してね。それじゃまた明日」


 夏華は手を振って別れを告げると、駆けだして知らない人に臆せず話しかけに行った。


 瑞歌はその行動力に驚きながら鞄を手に取ると教室を後にした。彼女が夏華と連絡先を交換していたことに気づいたのは家に帰った後だった。

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月に叢雲、華に歌 春景梢 @Kaerume

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