【短編】彼のお母さん

ぐらたんのすけ

彼のお母さん

「ただいま〜」


 玄関の方から彼の声が聞こえた。


「ケンジ。おかえり、楽しかった?」

「うん、ありがと」

 

 ケンジはカバンを棚において、椅子に座る。

 その表情は疲れているようで、でもどこか楽しそうだった。

 

「これ、可愛くない?」


 彼がポケットの中から手渡してきたのは、小さくて可愛らしい、紫の髪飾り。


「いいね、どこで見つけたの?これ」

「うん、実家に帰ったらお母さんがくれたんだ。メグミに似合うかもと思って」


 それは窓から入り込む光をキラキラと乱反射していた。

 春初めの陽気な光は、私の心の内まで暖かくしてくれるようだった。

 

「またお母さん?いつもごめんね、なんだか貰ってばっかりで」

「いや、いいんだ。お母さんも俺に彼女ができた事、俺より喜んでるみたいだしさ」


 頬杖を付きながら私のことをじっと見つめてくる。

 その口角は普段よりも少し上がっていて、楽しそうだった。

 彼は母親のことを語る時はいつも笑顔だ。その上口を開けば母の話題ばかりでもあった。


「あ、そうそう。これ、お母さんの肉じゃがのレシピ」

「あ……うん。ありがとう」

 

 手渡された紙には、肉じゃがの詳細なレシピが書かれていた。

 

 彼は私の作った料理は食べてくれない。作っても、申し訳無さそうにしながら捨てるのだ。

 初めのうちは、何度も試行錯誤を重ねて、どうにか食べてもらおうとしていた。

 その一環で、彼の母から貰ったレシピで作ったカレーライス。

 目を輝かせながら食べる彼の姿に、嫌悪感は覚えなかった。

 

 彼は、俗に言う”マザコン”である。

 幼い頃に父親を亡くしてから、ずっと母親と二人暮らしだったらしい。

 あてにできる親族もおらず、苦しい暮らしを長年続けてきていた。

 だから少しぐらい母親に依存するのもおかしくはないのだろうと思っていた。

 ただ、それでも私自身が認められないのは嫌だった。

 

「あ。お前さ、その服着るなっていっただろ」


 肉じゃがのレシピを熱心に読み込む私を一瞥して彼は言った。

 

「あぁ、ごめん。忘れてた」

「チッ……うざ」


 舌打ちしながら彼は自室へ行ってしまった。

 また、機嫌を損ねてしまっただろうか。

 

 彼はよく、眉間にシワを寄せながら私に威圧してくることがある。

 その内容はいつも見た目に関することで、彼にとってなにか強いこだわりがあるようだった。

 冷たく接される度に悲しくなる。自分が認められていないのを認識するから。

 付き合い始めはそうじゃなかった。むしろ文句を言われるようになったのは同居を始めてからだった。

 言い返したくなるときもあったけど、でもそれ以上に彼のことが好きだった。

 

「ねぇ、ケンジはさ。私にどうしてほしいの?」


 そう聞いたことがある。

 

「別に、今のままでも十分だよ」


 決まって彼はそう言うのだ。でも、彼は言うことを聞かなければ愛してくれなかった。

 その事実を毎晩肌で感じるあまり、私はどうかしてしまいそうで。

 女として、認められたかった。愛されたかった。

 

 そう思ったときに、カレーライスの一件を思い出したのだ。

 彼はいつも「レシピ通りに作ってくれ」と言いながら彼の母の料理メモを私に見せていた。

 その通りに作ったから、彼は認めてくれた、食べてくれたのだ。

 素直に彼の言うことに全て従えば、彼は認めてくれるのだ。

 その事実に気づくまでに大して時間は要さなかった。


 だから、その日から反抗するのをやめた。


「服はこれ、髪の色は……そのままでもいいよ。ピアスは開けないでね」


 何でも指図する彼の言葉に従った。

 そうすれば彼は私のことを愛してくれた。

 たまに私がミスをすると、先程のように怒ってしまうのだが。

 それでも私の中では、ミスをすると怒られる理不尽さよりも、ミスをしなければ愛してくれる事実のほうが大きかった。

 

「ねぇケンジ。私のこと好き?」

「うん。愛してるよ」


 何度聞いても返ってくる返事は、何度聞いても真実そのものだった。

 それが嬉しかった。


 ある日、彼は言ったのだ。


「お母さんにさ、挨拶しにいかない?」

「えっ!いいの?」

「うん。メグミならお母さんも喜ぶと思うよ」


 どこか含みを持った笑顔だった。

 彼はずっと、私が彼の母親に会いたいと言っても拒み続けていたのだ。

 彼の気が変わったのか、それとも私が彼のパートナーとしてふさわしい存在として認められたのかは分からなかった。


 それから数日してから私達は彼の実家へと赴いた。

 田舎の、小さな一軒家。見るからにオンボロではあったが、彼がここで幼少期を過ごしてきたのだと思うと感慨深いものがあった。


「おじゃましま〜す……」


 靴を脱いで家の中に入ると、得も言えぬ匂いがした。

 鼻ではなく、喉の奥に直接雑巾を詰め込んだような感覚になる。


「……この臭いは?」

「ごめん、ちょっと臭いよね。苦手だった?」


 彼が少し困った顔をするものだから、失礼なことを言ってしまったなとハッとする。


「いや、全然。少しびっくりしただけ」

「そう、よかった」


 そう言うと彼は再び笑顔になって家を案内してくれた。

 廊下を進みリビングに近づくに連れその臭いは強くなる。

 嫌な予感がした。

 彼が今のふすまを開けたとき、思わず私は顔をしかめてしまった。

 部屋は暗くて、何も見えなかった。


「ねぇ、本当にお母さんはいるの?」


 そう聞くと彼は黙って指を指すのだ。

 

「これだよ、お母さん」


 彼の指す先には、何かが蠢いていた。

 それが蛆の集合体だと分かるまでは余り時間を要さなかった。


「お母さん……?」

「そう、半年前に死んじゃったんだ」


 何事もないように彼が言うものだから、その言葉を聞き逃してしまいそうだった。

 ハッとしてその塊を凝視する。

 頭、体。大体のパーツが大まかにしか原型をとどめていない。

 溶けて爛れたような皮膚の下にも、モゾモゾと何かが潜んでいる。

 ソレは眼球の内側にまでトンネルを掘り、死んだ水晶体越しにこちらを見つめているのだった。

 ぐるぐると頭が回る。突然の出来事過ぎて、処理が追いつかない。

 ただ、眼の前の物体が死体であることを認識した時、 私は思わずその場に吐瀉してしまった。

 

「うっ……あぇっ…………」


 目眩がする。次々と考えは浮かんでくるにも関わらず、思考が働かない。

 脳みそが、眼の前の物体を拒絶し、痺れている。


「大丈夫?びっくりさせたね。腐らないように綺麗にしてたんだけど、もう駄目っぽくてさ」


 優しく微笑みながら肩を抱いてくる彼の手が、心の底から気持ち悪かった。

 その手はとても優しい手だったのだ。愛が感じられて、暖かかった。

 絶対に私のことを離さない。死んでも守り切るという意志がひしひしと伝わってきたから。


「これ、見せたことなかったよね」


 そう言いながら彼は私に一枚の写真を見せた。

 確かに私の写真だった。ただ、撮られた覚えはない。

 その写真はかなり古ぼけていて、笑顔で写る私の隣には一人の少年が立っていた。


「お母さんの写真。可愛いでしょ」


 思わず彼の顔を見た。涙でぼやけていたからか、その顔は写真に映る少年の顔と重なった。


「……えっ?」

「お母さん。あぁ、サヤカって言うんだ。可愛いでしょ?肌が白くてさ、背も小さくて。顔のパーツも整ってるし、手も温かいんだ。それでいてちゃんと叱ってくれるし、ご飯も美味しいし……」


 何を言っているのかよく分からなかった。ただその顔は恍惚としていて、彼の掌にもじんわりと汗が染みているのだけは感じた。


「何を、言ってるの……?」


 震える声で彼に問う。そしてすぐに、何も聞かなければよかったと思い直すのだ。


「お母さん、可愛いんだよ。恋しちゃうくらいにはね」


 その充血した瞳には、私しか映っていなかった。

 

「苦労したんだよ。お母さんと似た人を探すのは。ねぇっ」

「いっ……」


 彼は私の手首を強く握り床に押し倒す。

 逃げられなかった。逃げることは許されなかった。


「……ねぇ、メグミ。僕のお母さんになってよ」

「……は?」

「僕のお母さんはさ、死んじゃった。だから、君がお母さんになってよ」


 唾液が私の頬に滴る。生暖かった。


 私は今、理解した。

 

 彼は私を私として愛してはいなかったのだろう。

 着る服を縛るのも、見た目に文句を言うのも、私が作ったご飯を食べてくれないのも。

 全部私が彼の母親となる為だった事を。

 私など微塵も認められていなかった事を。


 私は静かに目を閉じた。もうそれ以上は身体が痺れてしまって何も出来なかった。

 彼は私が抵抗しないのを見て、服を脱がせ始めた。

 露わになった胸にしゃぶりつく彼の感覚は、まるで稚児を抱いているようであった。

 私を母親にするために何度も何度も打ち付ける腰は、まるで彼自身ごと胎内に戻ってしまいそうで。

 

 きっと横たわっていた死体も、私と同じくらいの背丈だったのだろう。

 同じくらいの背丈で、似た顔で、同じくらいのスタイルで。

 私と同じ、紫色の髪飾りが似合う女性だったのだろう。

 

 きっとこれからは私も、彼女と同じように彼に愛されて生きていくのだろう。

 

「お母さんの事も、私みたいに犯したの?」


 彼は少し驚いた表情を見せたが、返事はしなかった。

 私は、彼女も眺めていたであろう天井をじっと見ながら言った。

 

「……気持ち悪い」

「…………お母さんも、そう言ってたよ」


 彼はどこか嬉しそうだった。

 その彼の表情だけを頭の中で反芻していた。

 

 彼はそれ以降私に対して何も言わなくなった。

 むしろ、私が言ったことに対して素直に従うようになったのだ。

 彼が私のことを「お母さん」と呼ぶようになった時、お腹の中では新たな生命が蠢いていた。

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