心の在処

有馬 礼

 戦死した夫が帰ってきた。

 小さな箱に入って、とか、1枚の紙切れになって、とかいうことではない。文字どおり二本の脚で歩いて。


「びっくりした?」


 しかも若くなっている。45歳のおじさんだったはずの夫は、私たちが出会った大学生の頃くらいの見た目になっている。


「ご主人は『人格再現プロジェクト』に参加していらっしゃいました。その中で、死後、人格を復元し、義体に移し替えることを希望されていたのです」


 夫(?)の付き添いでやってきた、軍の研究室に所属する主任研究員という男性は1枚の書類を私に差し出す。今時珍しい紙の書類。そこに書かれているのは、慣れていない者には判読が難しい夫の悪筆に違いなかった。みみずが断末魔の苦しみにのたうち回っているような字で、「死後は義体への人格移殖を希望する」「義体の年齢は20歳とする」とはっきりしっかり書いてある。


「なんでよ」


 思わず声が出る。


「だって、若い方が嬉しくない?」


 夫(?)が答える。


「なんでそうなるのよ」


 夫はちょっとズレた人だった。何というか、人間社会に溶け込もうと苦労している地球外生命体みたいな。そこが面白いと思って友だちになり、恋人になり、夫婦になった。人間の心はわからないけれど人間のことを真摯に理解したいと思っている夫は、優しい人だった。全てを理性の判断によって決定し、理解できないことは理解しようと努め、トライアンドエラーを繰り返して社会に溶け込む努力をしていた。時々良かれと思って変なことをして私を呆れさせることもあるけれど。例えば今みたいに。

 私はずっと夫と歳を重ねてきたし、中年と言って何の差し支えもない年齢になった今の夫も好きだった。それが、どうしてこうなってしまうのだろう。人格復元プログラム? それはまあ、いい。いかにも夫が好きそうなやつだ。心や、ましてや魂などというものはない、全ては脳という臓器に流れる微弱な電流が見せる幻影に過ぎない、というのが夫の主張だった。


「なんで帰ってきたの」


 私はイライラして、死んだ人間に向かってあまりにもひどい言葉を投げつける。


「なぜって僕らには子どもがいないし、きみは他に頼れる身内もないから……」


「僕ら⁉︎」


 私は夫(?)の言葉に頭に来て声を荒げる。


「何勝手に夫のツラして私の身内になろうとしてるのよ!」


「でも僕は元人格を3年に渡ってモニターし、人格の復元率は99.99%と判定されてて、記憶も共有してる。今後新たな出来事に直面してもその反応は元人格の反応と同じとみなせる程度の同一性を保持してるんだ。つまりは僕は、『僕』なんだよ」


 ああもう。その口の利き方。夫にそっくりでますますイライラする。夫が帰ってきたら全く同じことを言いそうだ。


「あ、あの、奥様。ご主人はいわゆる人格復元特措法により、『みなし生存』という取り扱いを受けることもできます。つまり……」


 会った途端に揉めている私たちの間に気の毒な主任研究員が割って入る。確かこのおじさんは夫の上司に当たる立場のはずだ。大変だな、管理職も。意味不明な夫婦(?)喧嘩の仲裁まで仕事としてやらなきゃいけなくて。


「死んでないことにできるってこと?」


「おっしゃるとおりです。その場合ご主人は軍での勤務を継続でき……」


「給料が入る?」


「そ、そうです」


 私のあんまりな物言いに気の毒な主任研究員は半歩後退りながら頷く。


「死亡を選択した場合は、死亡退職となり、退職金と遺族年金が支給されます」


「どっちが有利かはゆっくり考えます。いつまでに返事すればいいんですか?」


「熟慮期間は3か月です」


「わかりました」


「死亡を選択する合理性はなくないかい? 僕は、確かに書類上は45歳だから定年退職まではあと20年だけど、働いていれば給料だって入るし、受け取る年金も遺族年金よりは多くなる。そもそも身体はずっと20歳だから定年延長もし放題だ」


「あなたは黙ってて!」


 私は夫(?)に怒鳴りつける。

 ああもう、ほんとにこの、デリカシーのなさ。夫そのままでイライラする。


「夫はどこで、どういうふうに死んだんですか?」


 私は夫(?)ではなく気の毒な主任研究員の方に訊く。


「申し訳ありません、それは機密事項でして……」


 もとより具体的な答えを求めていたわけではなかった。夫の職業のことは理解していたつもりだ。夫がどこで何をしているのか私は知らないし、夫は言わなかった。ただ、戦況が厳しさを増す中、テレビのニュースを無言で見ている夫の疲れ方を見れば、彼の仕事が相当の困難に直面しているということはわかった。「僕に万一のことが起こった時も、きみの生活のことは大丈夫だから安心して」と言っていたのを思い出す。その時は積立をしているからとか、遺族年金が割増しで入るからとか、そういうことなんだと思っていた。でも、こんなことって、ある? 死んでないことになって給料を貰い続けるって。もう笑うしかない。確かに私の生活は大丈夫だけど。だけど。そういうことじゃない。


「……っ」


 私が好きだった夫は確かに死んでしまったのだと思うと急に涙が出た。

 突然泣き出した私に夫(?)は狼狽える。


「僕は何か間違ったんだろうか」


「……そりゃそうでしょうよ。間違ってるわよ、何から何まで」


「そうなのか」


 そうなのよ。でも今は何がどう間違っているのかを説明するだけの元気はなかった。


「あの……、では私はこれで……」


 気の毒な主任研究員はそそくさとこの修羅場から逃げ出そうとする。


「待ってください、この人?ちゃんと連れて帰ってください」


 私は慌てて言う。


「いやしかし、彼はあなたのご主人であって……」


「いやいやいや、おかしいでしょ、いつの間に私はこんな若いツバメを囲うことに決まったんですか」


「若いツバメ……」


 私の口の悪さに気の毒な主任研究員は言葉を失う。


「僕はきみの夫であって愛人じゃないんだけど」


「あなたは黙ってて!」


 私は再び夫(?)を怒鳴りつけて黙らせる。だから何なんだ、この、世紀末ディストピア夫婦(?)漫才は。


「しかし我々も、ご主人の帰還を喜んでいただけると思っていましたので、官舎の準備などがなく……」


 気の毒な主任研究員はモゴモゴと言い訳をする。

 だったら野宿でもなんでもすればいいだろう慣れてんでしょ、と思わなくもないが、若い頃の夫の顔をした存在を家から追い出すことに妙な罪悪感がある。私の情につけ込んでるのだこいつらは、立場が逆だったら夫は私(?)を家に入れてそれまでと同じように楽しく幸せに暮らしたのだろうか。……暮らしそうだ。実質それは私だからということで。まったく不条理だ。私はこの、人の心がわからない地球外生命体たちに振り回されて傷つけられ、夫の死も悼めずにいるというのに。


「この人ごはん食べるんですか」


 私は夫(?)を指さして気の毒な主任研究員に訊く。


「僕は電気エネルギーで駆動しているから、これまでのような食事や睡眠は必要ないよ。80%の充電で1週間休まずに活動を続けられることは実証済みだ」


「それはまた、合理的だわね」


 私は通じないとわかっている皮肉を言う。


「実際の生活ではきみが眠っている間は待機モードになっているから、もっと長く活動できるだろう」


 夫(?)は上機嫌で答えた。呼吸はしていないのだろうけど、「鼻息荒く」という表現がぴったりだった。


「ふうん。じゃあ、汚れた時は水で薄めた中性洗剤をしみこませた柔らかい布で拭いた後、乾拭きすれば良さそうね」


「皮膚は人工皮膚だけど人間のそれに近いので、通常のボディソープやシャンプーで構わないよ。新陳代謝をしないので毎日の入浴は必要ないけど、きみが気になるならもちろんそうする」


「あっそう」


 やはり嫌味は通じない。まあ、夫にもこの手の嫌味は通じなかったのでその模倣である夫(?)も同じなのだろう。


「わかったわよ。庭で野宿しろって言ったら本当にそうしそうで嫌だから、入って。官舎で周りも知り合いだらけなのに、わけわかんない若い男に庭先で野宿されたらたまったもんじゃないわ」


 その言葉を聞いて明らかにほっとしたのは気の毒な主任研究員の方だった。


「では……」


 また敵前逃亡を図ろうとしている気の毒な主任研究員に私は言う。


「そうか、死亡したことにしたら、この官舎も出て行かなきゃいけないんですよね」


「残念ながらそうなります」


 それを先に言っとけよ気の利かないおっさんだな、と思わなくもないが、まあ、彼も初めての任務で説明しなきゃいけないことが山ほどあって、肝心の対象者は揉め散らかし始めるし、仕方なかったのだろう。かと言って許さないが。


「ふうん、まあ、わかりました。その辺も含めて考えます」


「では……」


 気の毒な主任研究員は尻尾を巻いて逃げ帰った。弱虫め。


「ちょっと!」


 私は夫(?)に目を吊り上げる。


「そのスリッパ、履かないで。こっちを使って」


 私は当然のように夫のスリッパを履こうとしている夫(?)を制止し、来客用の黒いスリッパを出した。


 ダイニングテーブルに、今までそうしていたように夫(?)と向かい合って座っているのは奇妙な気分だった。軍の制服を着ているけれど、かつて、確かにこの年齢だった彼とこうして向かい合って座ったことが何度もあった。でももうそれも四半世紀も前の話で、今の私は45歳で、目の前の男くらいの息子がいたって全くおかしくない。どうすればいいんだろう、という思いと同時に、夫が今の年齢の見た目で夫(?)として帰ってこなくて良かったのかもしれないとも思う。そうしたら私は夫の死をなかったことにして、夫(?)と楽しく暮らしたんじゃないだろうか。神などなく、自我と呼ばれる、人の意識すらも微弱な電流による幻想だと言い切っていた夫ですら、死の瞬間は、痛くて怖くて孤独だっただろうに。それをなかったことにして。グロテスクで吐き気がする。


「死んだ瞬間のことって、覚えてるの」


 私は自分にだけコーヒーを淹れて堂々と自分だけ飲む。


「記憶や感覚の再現は可能だけど、繰り返すと移殖人格といえど崩壊の危険があるのと、その時のことを人に語ることは破滅的なメンタル危機を引き起こす可能性があるから禁止されてる」


「ふうん。でも、元の人格が死んだことは確かだし、あなたは自分が移殖された人格だということは自覚しているわけね」


 私は熱いコーヒーをすする。


「そのとおり」


 夫(?)はあっさり肯定する。


「なんで帰ってきたの」


 私は心ないひと言を再び投げつける。


「きみが『もし死んじゃったら、おばけになって会いにきて』って言ったのを聞いて、これは死ねないなって思ったから」


「……」


 夫(?)の意外な言葉に、胸をぎゅっと掴まれたような感覚がして、私は両手で顔を覆った。

 声をあげて子どもみたいに泣きじゃくる私に夫(?)は何も言わなかった。


「言った、確かに言ったわよ……。でも、わかるでしょうよ、それが言葉のあやだってことくらい。どこの世界に文字どおりおばけになって帰ってくる奴がいるのよ……」


 言葉にするとあまりの滑稽さに笑いが込み上げてくる。私は忙しく泣いたり笑ったりした。夫(?)はこういう時は黙っているに限ると学習した後の人格だった。

 もしかしたら若返って帰ってきたことは、彼なりの気遣いだったのかもしれない。私が夫の死を受け入れることができるように。あるいは、オリジナルの自分を忘れてほしくなかったのかもしれない。自分でありながら自分ではないものを、自分として愛してはほしくなかったのかもしれない。いや、それは単なる私の想像で願望だ。夫は多分、これが最善と信じたからそうしたのだろう。


「きみが『心』と呼んでるものは概ね人格と同一視することができると思う。今の僕は『僕』と同一性を保持しているとみなして差し支えない。だから僕を変わらず愛してほしい。愛している――、これが『僕』からのメッセージだ」


 そんなわけないでしょ、ばかばか、本当にばか。私が愛しているあなたの心は、人格に宿っているだけじゃない。ささくれた指先とかしょっちゅうこむら返りを起こすふくらはぎとか治らない十円ハゲの跡とか、そんなものにだって宿っていたのに。それらを全て清潔に完璧にメンテナンスしてはい元通り、なんて、笑わせる。


「……あなたが若返って帰ってきたことは私にとってはいいことだった。あなたが思ってることは違う意味でね。残念ながら私はあなたとは違うタイプの人間だから、あなたを夫だと思うことはできない。だけど、私が彼を懐かしむために時々話し相手になってくれるんなら、この家にいてもいいわ」


 夫のお葬式をしよう。私一人で。45歳で頭頂の砂漠化がだいぶ進行している夫の写真を遺影にしよう。そしてこの、夫の人格をコピーした別個独立の存在は、この家の中でだけは夫とは別個の存在でいてもらおう。

 でももしかしたら、地球外生命体みたいなあの人も、頭頂の砂漠化は気にしてたのかもしれない。だから若返ったのだとしたら、あの人にも人間らしい一面があったことになる。死んでから気づくことになるなんて。早く言ってよね。多分あなたの心は、死んじゃった毛根にも宿ってたのよ。

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