第5話     一条戻り橋から……

 

            一  


 日にちだけが陶次の目の前を駆け抜け、七月も二十三日になっていた。

「ご苦労やったな。交代しよか」

 陶次は勘助に声を掛けた。

 勘助は夕刻から佛光寺高倉にある八幡屋の店表が見える路地で、店の者の出入りを窺っていた。

 今は夜八つ(午前二時)過ぎで、まだ夜明けにはほど遠かった。通りの店は皆、夜戸を鎖して深い眠りの中にある。

「これ持って帰れ」

 陶次は勘助に、五合の酒が入った貸陶の徳利を手渡した。

「こりゃまた、ええもんをおおきに」

 栗の皮の色をした丹波焼きの徳利を勘助は嬉しげに押し頂いた。  

 戸辺の垣外番小屋に掲げられた提灯の明かりに、八幡屋の店構えが浮かび上がって見える。

 間口が十五間、奥行きは二十間はあろうかという大店の、人を威圧するような風格は、相変わらずこれ見よがしで嫌味だった。

「悔しおすなあ。あれから八幡屋は警戒を強めよったんか、探ってみてもさっぱりどすさかいな」

 喜助が卯兵衛に『町方が動いてます』とでも告げたのだろう。八幡屋が尊攘派の浪人どもなり雄藩なりに接触する動きは一切なくなっていた。用心棒たちも屋敷内に張り付いていて出歩かない。

「気長に泳がせといたら、そのうち痺れを切らして尻尾を出しよるはずや」

 八幡屋卯兵衛が上手い儲けを止めるはずはなかった。陶次はスッポンのように食らいついて断固として離さぬつもりである。

 八幡屋内部の様子は窺えない。京の町屋に特徴的な格子の中は蔀戸が下ろされ、上げ縁も上げられて厳重に戸締まりされていた。

「さっきぃ喜助が出て行きよりましたさかいな。こないな夜中に怪しい思てちょっと尾けてみたんどすけど。母親に買うたった薬を届けに行きよっただけどした。一足先にうちはこちらへ戻りましてんけど」

「ほうか。喜助も感心なこっちゃがな」

 お蔦を失って以来、喜助は親孝行に磨きを掛けているふうだった。

 精のつくものを届けてやるなど、母親を見舞う回数も増えている。喜助は昼間は忙しい身なので、東山にある実家に出かけるのは、夜間になることもたびたびだった。

「ほな、まあ。うちは帰らしてもらいますえ」

 勘助は徳利を大事そうに抱え、そそくさと夜の闇に消えていった。

 勘助の姿が見えなくなると、入れ替わりに当の喜助が帰ってきた。

 陶次は喜助の姿を目で追った。

 八幡屋の両隣は仏具商いと瀬戸物商いが店を構えていた。八幡屋と比べると随分と見劣りする二軒の店と八幡屋とは、棟続きのようにぴたりと密接していた。間に路地などの隙間は一切なかった。

 広い敷地であっても、八幡屋の出入り口は仏光寺通に面した表側だけだった。

 八幡屋の表には、表大戸のほか客門があった。客門は〝客ろじ〟と呼ばれ、玄関に通じる小庭に誘う門だった。

 当然のことながら草木も眠る現在(いま)は、表大戸も客門もどちらもぴたりと閉じられていた。

 喜助は表大戸の前で、中にいる者に声を掛けた。

 店の者が大戸の長枢(くろろ)を上げて、僅かに開いた潜戸の隙間から喜助の顔を確認した。ついで潜り戸が静かに開いた。店の者が短枢を上げたのだろう。

 喜助は店と小店との間にある店庭の土間に掻き消すように姿を消した。

 用心が徹底されており、声だけでは潜り戸を開けてくれないらしかった。

 声色を真似ても駄目ということかと、陶次は苦笑した。

 遠くで夜回りの声がする。通りに軒を連ねたどの店もひっそりと静まり返っていた。

 提灯の灯りが、道を薄ぼんやりと照らす。

 垣外番小屋の中には番人がいるはずだが、真夜中とあって居眠りでもしているのか、こそりとも音がしなかった。

 毎日、八幡屋と根比べだったが、陶次らのほうが音を上げそうだった。

 陶次は朝から晩まで、勘助と交代で八幡屋に張り付いている。

 勘助以外の二人の子分どもは、当てにならなかった。

 近頃は『目明かしの手伝いなどしていても旨味がない』とでも思うのか、陶次が指図しても『家業が忙しい』などと断りがちだった。

 張り番は、昼間はやめて晩だけにしよう。

 最初の意気込みは、積み重なった疲労のため次第に萎もうとしていた。


             二


 勘助が帰ってから四半刻も経たぬというのに、陶次はしだいに集中できなくなり、瞼も重くなった。陶次が大きな欠伸をした。そのとき。

 地を這うような忍びやかな足音がひたひたと近付いて来た。一人や二人ではなさそうである。

 大掛かりな盗人働きに違いない。

 陶次は路地の陰にぴたりと身を寄せた。緊張の糸がぴんと張った。

 仏光寺通を、十人ほどの男が徒党を組んで東の方角から向かって来る。思い思いの恰好だが、皆、覆面をして顔を隠していた。

 動きは明らかに武家のものだった。近付くにつれ、大小を手挟(たばさ)んでいるのも見えた。

 盗人ではなく不逞(ふてい)浪士の一団だった。

 身なりは粗末で浪士風である。身軽な身のこなしから推察するに若者ばかりの一団だろう。

「な、なんやて」

 通り過ぎると思った一団は、吸い込まれるように次々と八幡屋の潜り戸の中に姿を消していく。

 店の内部に手引きする輩がいて、潜り戸を開けたのか。

 天誅という言葉が、陶次の頭の中をぐるぐると回った。

 拙い。世の中、ここまで来たか。

 今まで純然たる商人が天誅に遭った例(ためし)はなかった。

 予告はあったもの、大店に金子を出させるための単なる脅しだと、市中の誰もが高をくくっていた。

 市井の商人(あきんど)でしかない八幡屋卯兵衛を、本当に血祭りにあげるつもりか。

 陶次の掌が汗ばんだ。

 七月十五日に誓願寺に、天誅を予告した貼り紙が張り出された。

 扇の塚が有名で芸事に縁が深い誓願寺は、長州藩士の定宿である三条小橋の池田屋や三条大橋にもほど近かった。京雀は『長州はんの息の掛かった不逞浪士の仕業に違いおへん』と噂していた。

 貼り紙には『洛中に三十一軒、洛外に八軒余』を襲うと書かれていたが、貼り紙から八日しか経っていなかった。

 八幡屋もまさか名指しされた四十軒余りの大店うち、自分の店が真っ先に襲われるとは夢想だにしなかったろう。 

 目の前で急転直下の惨劇が今まさに起ころうとしていた。 

 八幡屋には住み込みの使用人が大勢いるが、右往左往するのが関の山だろう。人数では賊に勝っていても、町民ばかりで全くものの役には立たない。

 用心棒もいるにはいるが、たった二人である。十人もの浪士に突然、寝込みを襲われれば、いかに腕が立とうともひとたまりもないだろう。

 呼子笛を口に咥えた陶次は、腰を低くかがめながら素早く八幡屋の門口に近づいた。表戸の外から中の様子に聞き耳を立てた。

 店のうちで少し動きがあり、一瞬だけ騒がしくなった。が、すぐにまた静かになった。静けさが却って不気味だった。

 中は今、どうなっているか、陶次は判断に迷った。

 賊は狂犬のような不逞浪士どもである。

 一人で踏み込む馬鹿はいない。

 そもそも陶次は目明かし稼業をしているものの、これといった確固たる信念があって世のため人のため奮進しているわけではない。余得を当てにできる旨味のある〝商い〟と考えてきた。

 いずれにせよ、このような火急の事態に遭遇したなら、呼子笛を鳴らしながらすぐさま町番屋に走るのが常道だった。捕り方とともに戻れば、お役目として事足りる。

だが時機を逸してしまう。

 町方が駆けつける頃には、凶漢どもは事を成し遂げてまんまと逃げおおせているだろう。

 忍び込んで中の様子を探り、事の顛末だけでもお上に報告すべきだと、陶次は咄嗟に判断を下した。

 賊の顔を見てやろう。たとえ顔を見られなくとも、お国訛りで賊の手懸かりくらいは掴めるかもしれない。

 危険は百も承知だったが、陶次は単身で乗り込む決心を固めた。

 正面切って賊と戦うことはできずとも、できる範囲で頑張ればよい。

「おい、爺さん。早ぅ町番屋に知らせに行かんかい。八幡屋に賊が入った。天誅や」

 陶次は垣外番小屋に詰めていた初老の番人に声を掛けた。

「わいはこれから中に入ってみるさかいな。わいが店のうちに入ってしばらく経ってからこの笛を鳴らすんや。いますぐやないで」

 おろおろする番人に、念押ししながら呼子笛を手渡した。

 この場で急を告げる呼子笛を吹いても、すぐに捕り方が駆けつけられるわけではない。笛の音を聞いた程度で、泡を食って逃げ出すような連中でもないだろう。

「出入り口は一つしかないさかいな」

 今はまだ笛を吹かず、密かに侵入せねばならないが、陶次が店のうちに入り込んだあとは賊が混乱するほうが都合がよい。

「へ、へい。しょ、承知どす。だ、旦那も、お、お気をつけやして、お、おくれやす」

 番人は腰を抜かす寸前のぎこちない足取りで、仏光寺通を西によたよた駈けだした。


               三


 陶次は戸口に人の気配がないのを確認した。

 戸締まりがされていないままの潜り戸を、ほんの少しだけ開けてみた。隙間から慎重に中の様子を窺った。

 店庭の土間に人影は見当たらなかった。

 天誅なら八幡屋の主の卯兵衛を狙っている。

 賊の主力は店を通り抜け、主の住まう奥の離れ座敷に真っ直ぐ向かったらしかった。

 とはいえ、何処に見張りを配置していないとも知れない。

 慎重に気配りしながら、陶次は潜り戸からするりと中に身を滑り込ませた。

戸締まりに抜かりのない堅固な店で用心棒まで飼っているのだから、卯兵衛は安心して枕を高くして寝ているのだろうが、内から〝引き込み〟する輩がおれば、ひとたまりもない。

 陶次は店庭の壁伝いに、そろそろと移動した。

喜助が手引きしたのではないか、と陶次の頭に突然、疑問が去来し、それなら面白いのにと、口元が緩むのを感じた。

 陶次は賊に気取られぬように中の様子を子細に窺った。

 土間になった店庭を挟んで、左右に大店と小店があった。  

 大店の障子が一枚だけ開けられていた。帳場の奥の神棚に、大黒天が黒光りして鎮座しているのが見えた。

 二つの人影が動いた。陶次は慌てて頭を引っ込めた。

 店の奥、開かれた襖の奥に箱段が見えた。奉公人の寝泊まりする二階の使用人部屋へと通じる階段だろう。

 踏み板の下には抽斗や棚がしつらえられ、階段の空間が無駄なく使われていた。

 箱段の上は滑り戸天井になっており、いつでも塞いで一階の天井のように見える仕掛けになっているはずだった。

 京の町屋では、二階があるのに階段が見つからない家が多い。八幡屋のように襖の奥に隠されていたり、吊り梯子しかなく用のないときは折り畳まれていたりする。

奥ゆかしさの表れのつもりかも知れないが、大坂者の陶次からすれば、こういうところにも京に住む人の『イケズ』さが出ている気がした。

 八幡屋には、大番頭と中番頭と小番頭の計三名に、手代が五人いた。通いの奉公人まで合わせれば数十人も奉公しており、住み込みだけでも二十人はいるだろう。

住み込んでいる奉公人を、二階の使用人部屋から出られぬようにしているらしく、奉公人の姿は全く見えなかった。滑り戸天井はぴたりと閉じられているのだろう。

 陶次はそろそろと、もう一度、顔を覗かせた。

 抜刀した二人の浪士が箱段の下で『階段を下りる者は容赦なく斬る』とばかりに肩を怒らせながら見張っていた。

 暗がりに、覆面から覗く目だけが、持ち場を死守せんと油断なく光っている。

 陶次は一瞬、目が合った気がしてどきりとした。汗が背中全体にどっと噴き出した。

 幸い、闇の中に潜む陶次には気付かないふうで、浪士はついと背中を向けた。

 浪士の気迫に、陶次は圧倒される思いがした。

 若い浪士たちは単純で、自他の命を鴻毛の軽きにおいている。志のためと思えば何でもするだろう。喜助が一味ではないとすれば、喜助が気掛かりだった。

 喜助は、向こう意気の強い男であるだけに、賊が押し入ったとなれば、主人を守るために、後先も考えず向かっていくだろう。

 いやいや、喜助もそこまで忠義立てはするまい。武家でもあるまいしと、思い直しかけて「そや。喜助は武家の出やちゅうことを誇りにしとったな。主人の大事とあれば、命を擲(なげう)つくらいはしよるかも知れん」という気になった。

 そのとき。呼子笛が響いた。何度も甲高い音が響く。

 たちまち目の前にいた浪士の一人が狼狽え始めた。もう一人が落ち着くよう身振りで制した。たちまち二人の間で些細な諍いが起きた。

 隙ができた。

 陶次は大柄な体をできる限り小さく丸め、浪士二人の目を盗んで店庭を一気に突っ切った。


                 四


 陶次は八幡屋卯兵衛が住まいとしている離れ座敷に向かった。

 奥座敷まで行き着くまでには、思いの外、刻を要した。いちいち身の安全を確かめながら進むとなると、奥にやたら長い屋敷内が、なおさら広く感じられた。

 中戸を開けて井戸と雪隠のある中庭に出た。幸い人の気配はなかった。

 中庭には一間半ほどの坪庭があった。寂びた石灯籠に点った僅かな灯に、棕櫚の木が浮かび上がっていた。

 店側の玄関あたりにも浪士の姿はなかった。残りの浪士七人は奥に集中しているらしかった。

 笛の音に浪士たちを動揺させる効果はなく、任務の遂行を急かせただったらしい。 

 陶次は用心深く上がり框を上がった。広い板の間に大暖簾が落ちて、人に踏まれるがままになっていた。

 使用人を閉じ込めた手際の良さからいって、奥ではもう浪士の企てが完遂していそうに思えた。

 呼子笛があちことで呼応する。暗い夜空に木霊のように波及してゆく。

 笛の音は頼もしい仲間の呼び声だが、心を掻き乱し不安にさせる色を持っていた。

 京の町屋は家のうちを風が通るように建て方が工夫されている。風に乗った血の臭いが、坪庭を通して何処からか漂ってきた。

 陶次は思わず息を詰めた。

 台所を抜けて前栽に下りた。前栽の端にも雪隠がしつらえられていた。強い血の臭いが鼻を突く。

 雪隠の中で息絶えていたのは、卯兵衛が飼っていた用心棒の一人だった。

 京坂で俗に〝せんち〟と呼ばれる雪隠の扉は半開きのままだった。

 用を足してるときに、いきなりめった刺しとは、あまり良い死に方とは言えなかった。

 権三とお蔦の仇と思えば、陶次は小気味よかった。

 前栽には、かなり大きな池がしつらえられていた。鯉か何かが飼われているのだろう。闇の中で、魚の撥ねる派手な水音がして、陶次は思わず飛び上がりかけた。

 八人もの敵では、勝負は早かったろう。

 陶次はさらに先を急いだ。とはいえ浪士と鉢合わせしては陶次自身の命がない。慎重に進まねばならなかった。

 逸る心を落ち着かせようと「卯兵衛がどうなっていようが、わいは構わんわけやしな」と、心の内で呟きながら深呼吸した。  

 庭を挟んで大きな蔵が黒く聳え、冨を誇示していた。

 奥座敷に近づくにつれて咽せるような生臭い血の匂いが、またもやむっと濃さを増した。陶次は慎重に慎重を重ね、そろそろと近付いた。

 奥は三つの部屋からなっていた。庭に面して控えの間と座敷があり、最奥に夫婦の寝所があるらしかった。

 陶次はよく手入れされた植え込みの茂みに身を隠した。

 殺気立った浪士が数人、座敷のうちと渡り廊下を出たり入ったりしていた。

 刀を鞘に納めたかと思えば、またも抜き放つ浪士がいる。

 皆が皆、興奮した素振りで無闇に動き回っている。『斬奸を成し遂げた』という高揚感が、若い体から迸っていた。

 間もなく捕り方が来るという焦りから、浮き足立っているのかも知れない。いや、却って危機を感じ、悲壮感に酔っていそうでもあった。

 やはり遅かった。

 陶次は気取られぬようできるだけ首を伸ばして、座敷と控えの間に目を凝らした。

 朧気な行灯の光に照らされたお次ぎの部屋は血の海だった。四方に散乱した布団も、血をたっぷりと吸って暗い色に変わっている。 

「用心棒二人は、寝酒でもしとったわけか」

 この部屋で用心棒が常時、寝泊まりして卯兵衛を警護していたらしかった。

 徳利や盃、盆も散らばっている。酒の肴の残りらしきアタリメ(スルメ)の匂いが血の臭いと混じり合って、離れた場所に潜む陶次の鼻を刺した。

 陶次の場所からだとはっきりとは見えないが、浪人者一名が控えの間で息絶え、首のない骸が一つ、座敷との間の敷居の上に転がっていた。

 首のない死体が、八幡屋卯兵衛らしかった。

 小ぶりな床の間の七福神の掛け軸が引きちぎられてぶら下がり、鎮座していたはずの刀掛け台が倒れていた。

 卯兵衛が用心棒に助けを求めようと、座敷を通って控えの間に駆け込むと、用心棒が既に斬られていたという経緯だろう。

 陶次はもう少し中の様子が見えるよう、庭木伝いに恐る恐る移動した。闇が陶次の味方してくれる。

 座敷は客をもてなす部屋だったのだろうか。控えの間と違って豪華なしつらえだった。

 分厚い緞通の上に置かれていた屏風が倒れ、壺であったと思しき豪華な焼き物が壊れて畳に散らばっていた。

  陶次は灯籠の陰へと、じりじりと位置を変えた。

 座敷と奥の間との間の襖は開け放たれ、座敷越しに最奥の部屋が見通せた。

 部屋の中央には、卯兵衛夫婦のものと思しき、額仕立ての緞子の布団が二組並べて敷かれ、豪華で成金趣味な調度類は、静かに元の位置にあるように見えた。

 とはいえ、卯兵衛夫婦は慌てて飛び起きたのだろう。上に着る大布団が撥ねのけられたまま刻が止まっていた。

 内儀は上手く逃げ果せたものか、死骸らしきものはなかった。

 そのとき。

 控えの間の障子が僅かに開き、柱の陰から喜助らしき男が転がり出た。

 廊下に倒れ込んだ喜助は立ち上がると、よろよろと壁伝いに店の方向に向かった。

 喜助の動きに気付いたらしい浪士が一人、喜助の跡を追った。喜助が弱っていると知ってだろう。走るでもない余裕の動きでゆっくりとついていく。

 喜助が手引きしたわけではなかった。賊と戦っていたのだ。

 陶次が当初に感じた胸騒ぎは当たっていた。

 浪士たちはそろそろ引き上げるはずだが、まだ何か用があるのかやたら動き回っている。

 喜助を見殺しにするしかなかった。陶次が姿を現せば、喜助を助けるどころか、我が身が危ない。

 すまない。喜助。助けてやれん。

 喜助が無事に逃げ果せるなど、万に一つも考えられなかった。店に辿り着くまでに一刀両断に斬られてお仕舞いだろう。

 あとで陶次が死骸を検めにいくことになるだろう。

 陶次は動きが取れず、歯がゆい思いで喜助と浪士の後ろ姿を見送った。

「首尾よう参った。これにて引き上げようぞ」

 頭らしきがっしりした体躯の浪士が渡り廊下に姿を現した。

 反っくり返りそうなほど胸を張り、首級を入れたと思しき包みを高々と掲げた。

 白い包みは朱に染まっていた。どうやら首を包むのに手間取っていたらしかった。

 頭目は大きく息を吸い込もうとするのか、覆面をした口元に手をやり、少しずり下げた。

 雲の切れ間から差した月の光で、頭目の顔がはっきりと見えた。

 吉村虎太郎だった。

 角張った顔に胡座を掻いた鼻と、意志の強そうな口元には、見覚えがあった。

 寺田屋の一件で、一度、京を追い払われたがまた舞い戻って暴れている若造だった。

 土佐勤皇党とは別に、土佐脱藩浪士の吉村虎太郎を筆頭に藤本鉄石や松本圭堂らが徒党を組んで、京の町でたびたび天誅事件を起こしていた。

 虎太郎は、土佐藩と久留米藩の出身者が中心となった過激攘夷派の集まりの首班格だった。

 血気盛んな若い者が長州によいように操られてるが、当人らは、世の中のために正しい行いと信じ込んでいる。誇らしげな虎太郎の顔には会心の笑みが浮かんでいた。

 呼子笛がすぐ近くで鳴った。木霊のように京の町に広がった笛の音は、こちらに向かって集束しつつあった。

 さきほど喜助を追っていった浪士が渡り廊下を駆けながら戻って来た。

喜助を殺めて戻ってきたな。

 陶次の握った拳が、別の生き物のように、わなわなと震えた。

 浪士の一人が動揺した素振りで「早く引き上げんと拙いぞ」とでもいう風に、虎太郎に声を掛けた。

 虎太郎が「わかっておる」とばかりに鷹揚に頷く。

 町方が大挙して現れるにはまだ間があると、髙を括っているのだろう。

 虎太郎は動じなかった。首魁だけに肝が据わっているらしい。

「では参るぞ」

 虎太郎は低い声で下知を下した。慌てることなく落ち着いた歩みで、堂々と立ち去っていく。

 残る七人の浪士も、虎太郎の態度を見て落ち着きを取り戻した。まるで戦場から凱旋する武将気取りで、意気揚々と虎太郎のあとに続いた。


             五


 とにかく一味を尾けるしかない。

 陶次が一呼吸を置いて殿(しんがり)の浪士の跡を追おうとしたとき。

「陶次親分やおへんか。た、助けとくれやす」

 卯兵衛の内儀が、いずこからか倒(こ)けつ転(まろ)びつ走り出てきた。陶次の体にしっかとしがみつく。

「もう、怖ぉて。怖ぉて。賊は、ほ、ほんまに、もう、おらしまへんやろか」

 色をなくした唇の隙間から鉄漿(おはぐろ)の歯が小刻みに上下する。

「うちは湯殿に逃げ込んでましてん。ずうっと湯船に隠れとったもんどすさかい、難を逃れたんどす」

 派手な柄の小袖を羽織ったまだ年若い内儀は、庭の緋鯉のように口をぱくぱくさせた。

「賊は戻ってきまへんやろか」

 内儀は大きく震える手で陶次の腕を掴んで放さない。

「お内儀。その手ぇを放してくれまへんか。賊を追うんや」

 振り解こうとするが、恐怖に駆られた力は、常人とは違う。

「もうちょっとしたら、町方が大勢、来まんがな。賊がわざわざ戻ることはあらしまへんで」

 陶次がいくら言っても納得いかぬらしい。内儀は顔を醜く強張らせ、しっかとしがみつく。

 女房は旦那が死んだことより、我が命のほうが第一なのだろう。

 陶次は困惑しながら、玄人上がりふうの内儀の、色っぽい目元を見詰めた。

 そのとき。どやどやと、こちらにやってくる足音がした。

「え。まさか。ほんまに戻って来よったんかい」

 陶次は一瞬ぎょっと、息が止まりそうになった。

 龕灯(がんどう)提灯を先頭に、早々と捕り方の第一陣が到着したらしかった。

 予想よりよほど早かった。これから続々、大挙して駆けつけるに違いなかった。

「そこにおるのは、陶次か」

 先頭には、小者を引き連れた市原の、苦虫を噛み潰したような顔があった。

よほど市原さまとは因縁があるらしい。

 奉行所の同心は東西で合わせて百人もいる。確率からいえばなかなか希少な出会いのはずだった。

「天誅の一味は、吉村虎太郎ら不逞浪士でっせ。早ぅ追わんと……」

 陶次は市原に早口で訴えた。

「既に手下に追わせておる。安心せい」

 市原は寝ているところを起こされたらしい。いかにも眠そうな腫れぼったい目を瞬かせた。

「おっつけ松来殿も駆けつけられるが、それまでわしの差配でこの場の検分をせぇ」

 糞真面目という言葉に絽の羽織を着せたような市原は、神経質そうに頬をひくつかせ、骨張った指で顎を撫でた。

「賊は判明してるんでっさかいな」

 あとはお上に任せればいい。

 陶次はようやく落ち着きを取り戻した。

「もう少し早く駆けつけておればのぉ」

 市原はいかにも残念至極という様子で、顔を顰めた。

 相変わらずだと、陶次はつい苦笑してしまう口元を、慌ててへの字に結んだ。

 陶次は一気に緊張がほぐれるのを感じた。

 緊張の箍が外れると、今度は手足の蝶番が外れて五体がばらばらになるほどの疲労感が一気に襲いかかった。

 気を抜くのは、まだ早いとわかっている。

「ほな。市原の旦那。早々に検分と行きまひょか」

 陶次は市原とともに座敷に上がった。

 検分したところ、卯兵衛は一太刀で絶命していた。

「卯兵衛が慌てて逃げかけたところを、後ろからばっさりでんな」

 卯兵衛の首のない体は、座敷と控えの間との敷居辺りで座敷のほうに向けて横たわっていた。

 ガニ股に広げた足が捲れ上がった単衣からはみ出している。蛙が無様に拉(ひしゃ)げた姿を連想させた。

 卯兵衛の内儀は表情を失い、能面のような白い顔で棒立ちに固まっていた。目の前の光景が夢の中の出来事のようで、現と思えないのだろう。

 陶次は、お蔦の亡骸を見たときも同じだったと、あの朝の惨劇を思い起こした。

 今も夢現の狭間のできごとに思えてくる。


                   六


見上げれば、凝った彫り物の欄間まで血飛沫で汚れていた。

「派手にやりおったのぉ。用心棒と賊どもの大立ち回りは壮絶じゃったろう」

 市原が感心したように、辺りを眺め回した。

 障子や襖絵で飾られた襖が無残に破れて裂け、建具から外れていた。子細に見れば、柱などに多数の刀傷が残っているだろう。

「卯兵衛を斬った賊と浪人を斬った賊と、えらい腕に差ぁがおますんやろか」

 陶次は市原に疑問を投げ掛けた。

 浪人が受けた傷は多過ぎ、どの傷が致命傷であったかも判然としなかった。

「浪人は腕が立つゆえ手こずったのではないか。寄って集(たか)っての乱刃を受けて絶命したのであろう」

 市原は自分で言って自分で頷きながら、即断した。

 控えの間の畳の上には読本の『椿説弓張月』が数巻、散らばっていた。陶次が拾い上げて裏を返すと、どれも勘助の店の屋号が印されていた。

 喜助が借り出して、用心棒に愛想のつもりで又貸ししていたのか。

 陶次はもやもやした心持ちで、読み本の頁をぱらぱらと捲ってみた。

 ふと目を転じると、部屋の隅に血に塗れた道中差が落ちている。

「市原の旦那。これは、卯兵衛はんのもんでっしゃろか」

「ふむ。手の込んだ豪華な作りじゃから、そうじゃろう。卯兵衛はこれで応戦しおったのかの」

 市原が道中差を、子細に観察した。

「わいの見立てでは、大番頭の喜助が卯兵衛を守るために、これを使(つこ)て賊と戦うたんやと思いますねん」

 陶次は市原の考えに疑義を差し挟んだ。

「では、その大番頭はいかがいたした」

 市原は、ぎょろりと目を動かした。

「手傷を負うたまま店のほうに逃げたのを見たきりだす。生死のほどは……」

「商人(あきんど)のくせにかようまでの忠義とは、天晴れなものよの。喜助とやらが無事であればよいが……」

 市原は感慨深げに頷いた。侍であるだけに、忠義という言葉にことのほか思い入れがあるようだった。 

 卯兵衛の内儀は今頃になって、金縛りから解けたように号泣し始めた。卯兵衛の首のない遺骸に身も世もなく取りすがる。

 検分は終わっているので『死体に触れるな』と止める者はなかった。市原は内儀の取り乱しようを、辟易したような顔つきで見下ろしている。

「市原の旦那。雪隠で死んでた浪人は、脇差で何度も突かれてましたどすえ」

 金伍が市原に検分の報告をするため現れた。

「狭い場所やさかい、大刀では殺れんかったちゅうわけどすな」

 金伍はしたり顔で付け加えた。

「他に、台所庭の竃口の前で下働きの爺さんが死んどりましたどす。運悪ぅ賊と鉢合わせしたんか、袈裟懸けにばっさりどしたな」

 金伍は言い忘れたように付け加えた。

「金伍はん。大番頭の喜助は死んでなかったんか」

 陶次は早口で問い質した。

「店のうちを隈のぉ探したけど、死人は他におりまへんえ」

 金伍にきっぱりと言い切られ、陶次は狐に抓まれた心地がした。

 喜助はどうにか修羅場を逃げ切り、今頃はどこかで手当を受けているのか。

 どうにも腑に落ちなかった。

「武家屋敷ほど堅固な固めも、ひとたび賊の侵入を許せば脆いものよのぉ」

 市原は朱房のついた十手で自分の肩の辺りを叩いた。

 陶次は縁側にしゃがみ、池の暗い水面を見詰めた。

 池の水面が波立った。暗いうねりは鯉が泳いでできたのだろう。鯉の姿が見えぬ現在は、得体の知れぬ化け物が水の中で蠢いているように思えた。

 氷のような寒気が、陶次の背中を駆け上った。


               七


 町方の姿も増えた。市原も金伍を伴って店のほうに向かった。

 雑色たちの手で浪人者の遺体が戸板に乗せられた。何かの拍子に遺体の頭がぐらりと横を向き、見開かれた目が無念そうにこちらを睨んだ。

 浪人の遺体と卯兵衛の体が渡り廊下を運ばれ、表の店へ消えていった。

 ひとしきり表が騒がしくなったが、役人たちもさっさと片付けて引き上げたかったのだろう。町方の声は潮が引くように遠ざかった。

 代わりに使用人部屋に留め置かれていた奉公人たちが三々五々、二階から下りて来る気配が感じられた。

 店は次第に喧しくなり、ついには蜂の巣を突っついたような騒ぎになった。奉公人同士が言い争う声も耳に入ってくる。

「後片付けより、今後の算段が先やろな」

 離れ座敷には、恐れて誰も来る気配はなかった。喧噪の坩堝と化した表と静まり返った奥とは全く別の世界だった。 

 陶次は粟田焼の壺の破片を一つ拾い上げて提灯の灯りに透かせた。色も鮮やかな図柄は、今となっては何の意匠だったかも判別できなかった。

 庭にしつらえられた鹿威(ししおど)しの湿った音が、初めて耳に入った。

 中番頭の田助が店のほうから姿を現して、陶次の傍らに歩み寄ってきた。

「陶次親分はん。よう駆けつけてくれはりましたどすなあ」

 木綿の縞物を着た田助は、しがみつかんばかりに、しっかりと陶次の腕を掴んだ。

お内儀の次は中番頭か。自分は、よほど頼られ易くできているらしいと、陶次は苦笑いした。

「もう、あきまへんわ。うちのお店もお仕舞いどすわ。八幡屋が商いを続けるのは危のて、もう無理どす」

 田助は大番頭の喜助より明らかに年長の、四十過ぎの男だった。痩せぎすだったが、最近になって少しふっくらし、貫禄も出始めたところだった。

「ここまで来るのに、うちがどれだけ辛い思いしたと、お思いやすか。何度、辞めたろて思たことか。大番頭はんが暖簾分けしてもらはったら、晴れてうちは大番頭になれたはずどしたのに。全部、夢と消え去ってしまいましたどす」

 田助は真面目そうだが、いかにも要領の悪そうな顔を思い切り歪めて、陶次の足許に泣き崩れた。

「わかった。わかったがな。気の毒になあ」

 陶次もしゃがみ込んだ。落ち着かせようと田助の背に手を回し、子供をあやすように軽く叩いてやった。

「まあ、辛抱したら、そのうちまたええ日和も巡ってくるで」

 無責任な慰めで誤魔化しながら、陶次は田助を立たせて店のほうへと向かった。

 天井が吹き抜けになった広い台所にも、桶、盥、笊など、さまざまな物が散乱して騒ぎの大きさを物語っていた。

「おっと危ない」

 つるっと足が滑りそうになり、手にした提灯で床を照らせば、血溜まりだとわかった。

 斬られた爺さんの血だろうか。それとも喜助の流した血なのか。血の色だけでは〝落とし主〟は分からなかった。

 稼業がら血など見慣れているはずだったが、権三やお蔦に続いての惨劇に気が滅入った。と同時に、訳もなく心が奮い立った。

 店側の玄関にも血が点々と続いている。

「喜助を見んかったか」

 店の誰彼なく捕まえて聞くが、誰も喜助の行方を知らなかった。

 外に逃げ出し、どこかで行き倒れているのではないか。

 どうしても想像は悲観的な方向に向いた。

 喜助は『志がどうの』と大口を叩いていたが、何もできぬうちに死んでしまったのかと思えば不憫だった。

 同じ勤王でも、考え方が違えば天誅の的になる。

 喜助がいかなる考えを抱いていたか、わからぬままになった。

 習い覚えた剣術で応戦したのか。刃向かわなければ無事だったろうに。

 まだ生死が不明であるのも拘わらず、陶次の心は底なしの淵にずぶずぶと足を取られていく。

 喜助を心配し哀れむ陶次の心の裏には、喜助の不幸や悲惨さを愉快に感じる人間の本性があった。悲しい結末は人の心を打つ。

 諸行無常だ。誰もが死ぬ。少しばかり早いか遅いかだけだなどと、縁起でもない想像が、どんどん確信に近づいていった。

「いやいや。明るなったら、きっと喜助は無事な姿で見つかるやろ。今の心配が笑える結末になるに違いあらへん」

 陶次は心にもない気休めを口に出してみた。


                 八


 浪士たちの後を尾けた手下から、八幡屋卯兵衛の首級が三条大橋の西詰めに晒されたという一報がもたらされた。

 陶次はようやく駆けつけた勘助とともに、三条大橋の袂に走った。勘助は家に帰って陶次に貰った酒を飲んでいたらしく、息がひどく酒臭かった。

 陶次を手下として抱える同心の松来は、まだ姿を見せていない。 

 何処から湧いたか、三条大橋には既に人だかりが形成され、同心が御用提灯を手にした手下どもを指図して辺りを調べさせていた。

 篝火が赤々と燃え盛っている。

「今回は天誅以外の何ものでもなかったの。この通り、捨て札もある」

 陶次と前後して駆けつけた市原が、顎でしゃくって指し示した。

 陶次は台に載せられた首級に近づき、脇に掲示された捨て札を読んだ。

 次なる天誅の的として、丁字屋吟次郎、布屋市治郎、彦太郎親子、大和屋庄兵衛の四名の名が挙げられていた。

「八幡屋はん殺しで、大店の主どもに『脅しだけやないぞ』と知らしめたのどすな。これで不逞浪士どもの資金稼ぎは、易しいなったわけどすわ」

  勘助が陶次の気持ちを代弁してくれた。

「卯兵衛殺しの表向きの理由は『民を苦しめた』ということやけどな。市井の人のための天誅やて誰も思てまへんわな」

 陶次は河原の小石を蹴った。

 勘助は生意気で腹の立つ若造だが、陶次とは凸と凹で良い組み合わせといえた。

 あとの二人の子分は、こんなときも家にいて惰眠を貪っており、いちいち指図がないと重い腰を上げない。

 市原さまは、この天誅をどう思っておられるのか。

 陶次は苛立ちながら、手下に指示を出す市原の横顔を眺めた。

 天誅の矛先が役人ではなく大店に向いたので、自分たちの身が少しは安心と思っているのか。

 川のせせらぎの音が、何事もないかのように喧しく耳を掠める。

 川面を涼しい風が吹き抜ける。篝火の紅い炎が揺れて火の粉が鮮やかに宙を流れた。

「丁字屋ら四名は、今頃さぞかし震え上がってるやろな」

 我が世を誇っていた大店の慌てぶりを思えば、正直なところ溜飲が下がった。

「命乞いしよと、大慌てで財産を差し出しよるんどすやろなあ」

 平生は財力で武家に勝る商人(あきんど)も、剥き出しの暴力を見せつけられれば平伏(ひれふ)すしかない。

 屈したと見せかけて後の捲土重来を計るにしても、その場は嵐の過ぎ去るまで凌がねばならない。

「なあ、親分。これて……」

 勘助は捨て札の後半辺りの文字を指し示した。

『絹糸、蝋、油などを買い占め、私利を貪る悪人ゆえ天誅を加える』との予告の後に『四名から借りた金子は返さずともよい』旨が付け加えられていた。

 目の前では、血にまみれ散け髪(ばらけがみ)を頬に張り付かせた卯兵衛の血の気の失せた首級が、こちらを睨んでいる。

「うちらも、丁字屋はんやら大和屋さんやらから仰山の借金してたら、踏み倒せたとこどしたなあ。あーあ。残念なことどすな。惜しいことしましたどすなあ」

 勘助は意に介さぬように、詰まらぬ軽口を叩いた。

 晒し首をいくら眺めていても何も言ってくれない。陶次は意味もなく腕組みした。

「ねえ、陶次親分はん。親分はんは『喜助は卯兵衛はんを助けるため戦うた』て思てはるみたいでっけどなあぁ」

 勘助は妙に語尾を伸ばした。目を細めて口を尖らせる。生意気に異を唱えるときのお決まりの表情だった。

「喜助は卯兵衛はんの片腕どしたさかいな。喜助も卯兵衛はんと一緒に天誅に遭うたんどすえ。間違いおへんな」

 勘助の見立てでは、喜助は我が身を守るため道中差を振り回していた、ということらしかった。

「喜助は、賊がわざわざ首を河原に晒すほど有名でもあらしまへんどすさかいなあ。ここに首はおへんけどな。明るなったら、八幡屋はんの近所の路地か川の中ででも、死骸が見つかるんやおへんか」

 勘助も喜助が死んでいるほうが、物語の筋書きとしては面白いと思っているらしかった。

「皮肉なもんやな。喜助は尊攘かぶれやったのにな。志士を名乗る輩に殺されたちゅうわけやな」

 陶次の口調も湿った。

「卯兵衛はんは、長州と敵対しとる薩摩に物を流しとった。そやから長州の息の掛かった吉村虎太郎らに殺られたちゅうわけどすやろな」

 勘助はまたも陶次の考えを代弁してくれた。

 誰も彼も……。

 加害者と被害者は簡単に反転し、同時に加害者と被害者のどちらでもあり得る。

 高いはずの志とて、結局は誰かに植え付けられ、影響を受けて、己の中に掲げられたものだ。純粋だった理想は、いつしかどっぷりと欲に染まる。

「何かを信じて突き進める単純な奴は、ある意味では幸せかもしれへん」

 陶次は夜空を焦がす篝火の火の粉に見入った。

「今回は天誅と決まってるし、これ以上は詮索もせんのやろけど」

 いまさら虎太郎らの命運に興味はなかった。

「与力の旦那あたりで、どう判断しはるか微妙どすな。ほんま、天誅と名がつくとお上は、大きな兵乱に繋がるのが怖(こお)て野放しどすから」

「今回は殺害相手が町人や。志士同士の私怨による犯行とはいえんから、お上はいったいどないに采配されるもんやら」

 陶次は端折っていた裾を元に戻して埃を払った。


                九


もう半刻ほどで夜が明ける。提灯をふらふら揺らしながら、陶次は勘助を伴って帰路に就いた。

 陶次にも奉行所の引き合いがつくかもしれないが、とりあえず一杯でも引っ掛けて眠りたかった。

二条通を西にぷらぷら歩いていく。彼方に二条城の偉容が霞んで見えた。 

勘助は気を高ぶらせていて、陶次とあれこれ論じたいらしい。

 陶次も勘助と話しながら、自分の考えを纏めるのに余念がなかった。

 八幡屋で見聞きした光景を反芻しているうちに(ちょっと違うん違(ちゃ)うか)と陶次の天の邪鬼さが鎌首を擡げた。

 今までの推測した〝事件に巻き込まれた、哀れな大番頭の物語〟と事実とは、大いに異なっているのではないかと気付いた。

「喜助はお蔦の仇を討とうとしよったんや」

 陶次は閃いた結論を口にした。

「そんな阿呆な」と即座に否定しながらも、勘助の目が好奇心に輝いた。

「陶次親分はん。喜助は、お蔦に見事に裏切られたんどっしゃろ。性悪女のために、果たして命懸けで仇を討ちまっしゃろか。それに……。喜助は〝志〟がどうのて大風呂敷を広げて、先の話もしとったのに、些細な私怨に拘るのは解せまへんどすな」

 勘助は陶次も気になっている疑問を口にした。

「そこやがな。ま、わいの勝手な推測や。当たってるかどうかわからんけど……」

 陶次は整理するように、自分の考えをぼつぼつと言葉に出してみた。

「喜助はこの前、勘助がいうてた通り、久坂に心酔して長州に肩入れしとったんやろ。長州は薩摩を目の敵にしてる。そやから卯兵衛が薩摩と密かに通じてることが内心は我慢ならんかった。そこへ持ってきてお蔦が殺された」

「なるほど。うちらには喜助の気持ちはよう分かりまへんけど……」

 勘助はしんみりした口調になった。

「喜助は陶次親分はんに、お蔦のことを悪ういうてましたけど、ほんまは後追いしたいほど好きで堪らんかったんどすやろかなあ」

 騙した女をそこまで思う喜助の気持ちは、正直なところ陶次にもよく分からなかった。女郎や辻君専門で女と惚れ合った経験の一切ない勘助なら、なおさらだろう。

「喜助は前々から卯兵衛を襲う企てに加わっていたもんか、お蔦の一件があって手引きを買って出たもんか」

 陶次は腕組みして自問自答した。

 こぬか八幡の杜が見える釜座通の辻辺りで、足取りが鈍った。

「わざわざ警戒が厳重な屋敷内より、卯兵衛はんが出かけた先で襲うほうが簡単どすからな。喜助が手引きを申し入れて、この家に乱入しよったのどすかいなあ」

 勘助のいう通りだろう。

「天誅の的は大店なら何処でもええわけやさかいな。ひょっとしたら最初は、八幡屋が標的ではなかったかも知れんで」

 陶次の返答に勘助は、自説に賛同を得たとばかりに団子っ鼻を得意げに蠢かせた。

「なら、親分はん。喜助は天誅を企てる輩に『うちの店の旦那を襲うのはどないどす。うちが手引きしますえ』と唆したとも考えられるいうことどすな」

 勘助は額に皺を寄せ、首を突き出した。

「喜助を追うてるみたいに見えた賊は、店におる仲間に首尾を知らせに行ってただけやったんや」

「そんで、喜助の手傷ちゅうのは用心棒に負わされたのどすな」

「喜助になら、用心棒どもも気を許してる。腕に差があってもできんことはあらへん。喜助は手引きだけしとったら済んだのに、欲を出して自分の手で決着をつけたかったんやろ」

「二人を相手は無理どすから、一人は雪隠に入ってたとこを道中差でずぶりどすか」

「図に乗った喜助は『も一人も自分の手でいてこましたろ』て思(おも)たんやろな」

「ほんなら、親分はん。喜助は浪士が襲撃する時刻直前を見計ろうて、残る一人の殺害に及んだちゅうわけどすな」

 陶次と勘助の歩みは、牛歩からいつの間にやらぴたりと止まっていた。

「で『雪隠のほうで物音が……』とか、も一人の用心棒に注進しよった。そんで用心棒が刀を取ろうと刀掛けに向かったとせんかい。そこを背後から隠し持ってた道中差で襲ぅた。けど、そないそない上手いこといくわけはなかったというわけや」

「用心棒は腕が立ちますよってにな。返り討ちに遭いそうになった喜助が必死に応戦してたとこへ、仲間の浪士どもが駆けつけてくれた。浪士どもは寄って集(たか)って用心棒を鱠(なます)に斬り刻んだ。ていうわけどすな」

「ついで、物音に気付き顔を出した卯兵衛を、誰か腕の立つ者が一太刀で仕留めたというところか」

「結局は『天晴れな、主人への忠義』から一転『惚れた女の敵討ち』ちゅう結末に落ち着いたわけどすな。なんや和漢混淆文の読本の物語かと思うたら、女が喜ぶ平仮名ばっかしの合巻どすかいな」勘助が茶化した。

「喜助が無事で見つかったらわいら二人、ない知恵を絞ったろで。喜助が罪にならんよう上手い口実をでっち上げて助けたろやないけ」

 陶次は月が見えぬ夜空に向かって大きく伸びをした。

 勘助の喋りが急に五月蠅く感じられるようになった。

「おんどれも自分の家に帰らんかい」と勘助を追い払うと、陶次はもやもやした心持ちのまま家路に就いた。

 下腹部に何か澱が溜まっているようで落ち着かなかった。

 夜明けにはまだほんの少しだけ間がありそうだった。陶次は黒々と静まり返った因幡池田屋敷と筑前黒田屋敷を横目に、東堀川通を一条戻り橋の手前まで戻って来た。

 堀川に架かる一条戻り橋は、木でできた橋がほぼ直角に二つ架けられていた。ここから堀川が二手に分かれ、北へ上がる。

 二つの橋の繋ぎ手の部分の石組みの上には、簡素な番小屋があった。

 昼間なら、川に張り出した棚の上に、番人が趣味で育てている盆栽が三鉢、大事そうに置かれているのが見える。今は暗くて見えないが、三つある鉢は小屋のうちに仕舞われているだろう。

 日のあるうちは頻繁に人通りのある橋の付近も、まだ静まり返っていた。

 闇を流れる川の瀬音だけが、妙に大きく感じられた。

 晩に独りで通ると、この辺りはどうにも気味が悪かった。

 以前に勘助から聞かされた一条戻り橋に残る古い言い伝えが、ふと陶次の頭をよぎった。

 陰陽師の安倍晴明が、奥方に『あなたさまが使役しておられる十二式神の顔が、どれもこれも怖ぅてたまりはへんどす。あなたさまが妾(わらわ)のことを大事に思うてくださるのなら、そのような化け物を屋敷うちに飼わんとっておくれやす』と叱られて、一条戻り橋の下に十二神将を隠していた、という伝説だった。

 葵のご紋の御世になってから台風で傷んだこの橋を直そうとしたところ、橋の下から石の箱が出てきた。『安倍晴明が亡くなる前に十二神将を封印しはった箱や』といって慌てて埋め直したらしい。

 恐ろしげな式神が今も眠る橋にまつわる逸話は、いくつも残されていて、どれもこれも気味の悪い話ばかりだった。陶次はなんとはなしに足を速めた。

 一条戻り橋は、都の内と外を分けている。昔の都人にとって、この世とあの世との境にある橋だった。  

 大内裏から見れば、鬼が出入りする方角――鬼門――にあたり、冥界への入口であった。

 鬼が出たり、式神がいたり、なんとも言い伝えが多く、ややこしい橋である。

 摂津源氏の源頼光に仕えた頼光四天王の筆頭に挙げられる渡辺綱が鬼と出会った橋であり、『撰集抄』巻七の逸話では、死者が蘇る橋でもあるらしい。

 橋占が盛んでもあったともいい、十二人の童子が歌を歌いながら橋を渡って安徳天皇の悲しい行く末を予言した逸話が『源平盛衰記』の巻十に残されている。

 言い伝えはともかく、誰々が橋の近くで鋸引きにされたとか、千利休の首が晒されたとか、長崎に送られて処刑される耶蘇の教徒二十六人が、この場所で耳朶を切り落とされたとか、色々と血生臭い出来事にまつわる橋には違いなかった。

 陶次は、背筋をすっと撫でられるような悪寒を覚えた。

「なんや、わいらしいもない」

 いいながら陶次は蝙蝠のように首を竦めた。

 もうすぐ我が家である。誰が待っているでもない寒々とした寝床が待っている。

ついこの前までは、心はともかく体だけは温めてくれるお蔦という女がいた。

 今もなお、あの新道に並ぶ黒塀の家でお蔦が笑顔で待っているという錯覚が、陶次を虚しくさせた。

 お蔦が喜助に惚れていようが、権三親分に心移りしようが、結局陶次は蚊帳の外に終わってしまった。どのみち陶次は破落戸(ごろつき)に毛の生えた詰まらぬ男でしかない。お蔦の心の隅にも置いてもらえぬと端からわかっていたはずだった。

 あれきりお蔦が住んでいた一軒家に足を運ぶこともなかった。家は荒れるがままなのだろう。荒れたさまを見たくなかった。

 世話する者がいなくなった金魚たちは、蘭虫の後を追って冥土に旅立ったに違いなかった。今頃はあの世とやらで、またお蔦に飼われているのだろうか。

 京を去る良い潮時かも知れなかった。京には何もなかった。余生というにはまだまだ早いが、いっそ近江八幡辺りに引っ込んで、お光の成長ぶりを垣間見るだけの生活をしてみるか。

 鏡に顔を映して、まじまじ見たわけではなかったが、七夕の日の朝以来、陶次は急に何十年も老け込んだ気がしていた。


               十一


「と、う、じ……はん」

 いよいよ一条戻り橋の橋の袂に差し掛かったときだった。

 弱々しい声が陶次の名を呼んだ。

「げ。とうとう出よった。鬼か、死人か、式神か、それとも……」

 普段は幽霊や物の怪など全く信じていない陶次だったが、暗闇でしかも曰く因縁がある橋の袂である。怪談にお決まりの柳まで恨めしげに黒々とした枝をだらりと垂れ下げている。

 ときおりの風に、手招きする触手のように長い枝が蠢く。

「だ、誰や」

 微かな声だったので、聞き間違いだったかも知れないと気を取り直した。

今の声が、もしお蔦だったら……。

「お蔦。足がのうて体が煙みたいに透けとるんと違(ちゃ)うか。抱かれへん体なんやったら、せっかく化けて出てくれたかてわいは要らんで」

 陶次は寒気を覚えながらも、埒もない軽口を呟いてみた。

 密やかな瀬音しか聞こえぬ静けさの中、小さいはずの陶次の声は、異様なほど大きく耳に戻って来た。

「けど、お蔦がわいのとこへ化けて出るわけあらへんで。はは。今時分は権三親分と二人して冥土の道行きの最中や。お蔦。せいぜい親分に捨てられんように頑張りや」

 袖口のなかに両手を引っ込め、陶次はさっさと橋を渡ろうとした。

「とう、じ、親分」

 今度ははっきり聞こえた。

 声の主が亡霊のごとく柳の木の陰から、ゆらりと姿を現した。

「き、喜助やないかい」

 陶次は駆け寄り、その場に崩れかける喜助の身体をしっかと抱き留めた。

「ゆ、幽霊と違うやろな」

 掌越しに喜助の体の温もりが伝わって来た。だが、温もりは弱々しかった。

 喜助は四条よりまだ南の仏光寺通からこの一条通まで、瀕死の体で歩いてきたらしい。

「ちょっと、親分に言わないかんことが、あったもんどすからなあ」

 喜助は紫に変わった唇に、皮肉な笑みを浮かべた。

 髷の元結いは解けていないものの、いつも嫌味なほど綺麗に整えられた鬢は乱れに乱れ、頬に凄愴な陰影をつけていた。

「ま、わいの家に来んかい。医者を呼んだる」

 陶次は血に汚れた喜助の蒼い顔を見詰めながら、気休めを言った。

「うちは、もう、あきまへん。ここでよろしおす。親分はんが戻らはるのを、今か今かと待ちくたびれて、ほんまに眠となってしもたどすさかいなあ」

 喜助は恨めしげに横目で睨んだ。色っぽい流し目に見えてしまうところが、いかにも色男らしかった。

「わかった。わかった。ここで、ちょっと休んでからにしよか」

 陶次は喜助の体を支えながらそっと地面に横たえ、力のなくなった首を支えてやった。

「実は、うちは嘘をついてましてん」

 喜助は猫のように目を細めた。

「親分のこと、妬(ねた)んでましたさかいなあ」

 喜助の切れ長な目に底意地の悪さが透けて見えた。

「お蔦は死に際に、うちにほんまのことを打ち明けてくれましたどす。『なんで今さらそないなことを、うちに告げるのか』とあのときは、ほんまに恨みに思いましたどすけど。今は分かるような気がしますえ」

 死にかけの人間の譫言(うわごと)のようでもあるが、目は虚ろではなかった。

「なんもかんも、親分のせいどすえ」

 喜助から恨みに燃える目を向けられ、陶次はたじろいだ。

「なあ。た、頼むから、ようわかるように言うてんか。な」

 陶次は自分でも呆れるほど、懇願口調になった。

「お蔦はうちの憧れの〝おひいさま〟どした。『島原に売られそうになってる』て相談を持ち掛けられたときは、いろんな意味で心が震えましたどす」

 喜助は唇を歪めた。苦しさのためか苦笑したのか、判断できなかった。

「正直、うちの心の中には『上手く助けられたら、お蔦はうちのものにならへんやろか』という助平根性がありましたどす。ほんで『お蔦と夫婦になろて思うてる』て打ち明けて、お蔦に承知してもろたときは、地上に落ちた龍が念願叶(かの)うてようやく天に駆け上るような、何にも換えられへん有頂天な心持ちどした。けど……」

 喜助は一瞬だけ遠い目をした。小刻みに唇が震える。

「お蔦の心は、ほんまは陶次親分はんにあったんどす」

「え。今、なんて……」

 陶次は反射的に問い返した。

 喜助は陶次の反応を楽しむかのように、イケズな目で陶次を見上げるばかりである。

「わいは二度も女房に逃げられた男や。歳も食うてる。詰まらんヤクザな目明かし稼業で、先かて知れてる。見場かてこの通りや。色男とは程遠いやないけ」

 陶次は躍起になって反証を並べ立て、喜助の世迷い言を打ち消しに懸かった。

「親分はんは、ほんまに鈍感どすな」

 喜助は目元に、哀れみ呆れるような表情を浮かべた。

「お蔦はなあ『陶次はんは、まだ前のおかみさんに未練がありはる。娘を大事に思うたはる。そやから密かに思うだけしかあらへん』と思てたのどす。ほんでも、どないしても親分はんのことを思い切れんかったんどす」

 喜助は悠長な話ぶりではんなりと、だが、陶次を突き刺す言葉を続けた。

「うちと夫婦になってもええて言うてくれたのは、恩を受けたうちの熱意に負けて、つい言うてしもただけやったそうどす」

 喜助は悲しげに、いや、悔しげに目を伏せた。

「お蔦は『喜助はんのこと、どないしても、兄(あに)さんのようにしか思えまへんどした。そやから、抱かれてても辛いばっかりどした』て泣きよりました」

「幼馴染みゆえの悩みちゅうわけか」

「お蔦は『冥土にまで嘘を持って行きとありまへんどしたさかい。堪忍どすえ』て、うちに謝ってました。……それから『陶次はんにうちの気持ちを伝えておくれやす』て言伝を託したんどす。ほんで……」

 何も言えなくなった陶次に向かって、喜助は追い打ちを懸けた。

「親分はんの大事な娘はんが病で金子が必要やと聞いたお蔦は、親分はんを助けたい一心で、権三親分はんに八幡屋への脅しを持ち掛けたのどす。うちから色々と八幡屋の内情を聞いてましたさかいな。ふと脅しを思いついたのどすやろな」

「ぜんぶわいのせいか。わいの、ちんけな嘘のせいやったんか」陶次は呻いた。

「うちは旦那はんの遣り方が気に入らんかったもんどすさかいな。嫌がらせのつもりで、お蔦に色々と大事な秘密を漏らしてやってましたんえ。どのみち『近々、八幡屋はお仕舞いや』と知ってましたどすさかいな」

 喜助は何処にそんな力が残っているのかと思うほど、はっきりした口ぶりで話し続けた。

「旦那はんにしたら、大した金子やあらしまへんどしたさかいな。『些細な金子くらい、くれてやったらええがな』て太っ腹に構えておいでどした」

 喜助は息苦しくなったのか、何度か大きく息を吸い込んだ。

「そのうち、だんだん権三親分はんの脅しの髙が増えてきたもんで、旦那はんは用心棒に脅させようて思わはったみたいどす。旦那はんはあくまで、ちょっと脅しを懸けて蝿を追い払うだけのつもりどしたけど……」

 喜助の眉根がきつく寄った。

 苦しげに何度も息をつくさまを見て、陶次は(お蔦の大事にしとった蘭虫の断末魔も、こないな具合やったのと違うか)と思った。

「あの用心棒どもは、薩摩の息の掛かった勤皇の志士もどきの狂犬どしたさかいな。旦那はんの意向に従わんと、勝手に突っ走りよったのどす」

 喜助の言葉の端に、火の玉のような激しい怒りと憎悪が籠もる。

「なるほど。そんで浪人どもを自分で殺りたかったというわけかい」

「そうどす」

 喜助はにやりと会心の笑みを浮かべた。

「そうどすえ」

 命の残り火を掻き集めるかのように瞳を輝かせ、誇らしげにもう一度、大きく頷いた。

 遠くから、夜鳴き蕎麦ならぬ夜鳴き饂飩の屋台だろう、哀調を帯びた呼び声が静寂を裂くように聞こえた。

「で、こないだの話に戻るんやが。あのとき、なんでわいに『お蔦は権三親分に惚れてた』て大嘘をついたんや」

「陶次親分はんの名を呼びながら息を引き取ったお蔦が憎かったのどす。ほんで『お蔦は悪い女やったと、陶次親分はんに思わせたろ』て思たのどす」

ここまで一気に語り、喜助の声は急に小さく掠れ始めた。

「いやいや……違います。違いますのんえ」

 苦しげに大きく息を吸い込んだ。

「うちはなあ。妬ましい陶次親分はんにイケズしたかっただけどす。……親分はん。イケズしてすんまへんどした。堪忍え」

 喜助は、呪縛から解けたように頬を崩しながら、僅かに微笑んだ。

「いやいや、ほんまのイケズは、わいのほうやったがな」

 乾いた笑いが、荒れ野を吹き抜ける風に嬲られる枯れ草のように、陶次の口から転げ出た。恥ずかしさだけが、唯一残された。

 武士であれば、清く腹を切って詫びるのだろうか。

 だが幸か不幸か、陶次は武士ではない。

 これからも這い蹲って、地を這う蟻のように生きて行くしかなかった。

「喜助……」

 ふと、喜助の顔に目を戻した。

 喜助の唇は微笑んでいた。だが、目は最早、何も映してはいなかった。

「急に静かになりよったと思(おも)たら……。なんやいな」

 陶次は喜助の瞼に触れ、静かに目を閉じさせてやった。


               十二


 明くる日の朝、辰の刻、陶次は一条戻り橋の上にいた。

 特に理由はなかった。それでも、なんとなく昨日の場所に戻り、朝の新しい光の中で、もう一度じっくり考えてみたいと、ふと思ったからだった。

「おはようさんどす」

 番小屋の障子は開かれており、中から番人がはんなりと会釈した。いつもの朝と変わりはなかった。

 澄んだ水が滔々と流れる堀川の中を、碧に輝く藻がゆらゆらと涼しげにそよぎ、追河(おいかわ)らしき魚の群れが、自由気儘に泳ぎ回っていた。

 よく見れば、追河の雄たちだろう。顔に追星が現れ、派手な婚姻色の体に変わっているものが半数ほどいた。川の流れが速い浅瀬の砂礫の中に、今まさに産卵でもしようとしているのだろうか。

 魚も、好き勝手に泳いでるようでも、やはりそれなりの必死さがあるのだろう

 じんわりと首に汗が滲む。明るい日差しは、今日も暑い一日になると告げていた。

 風呂敷包みを背中に括りつけて杖を突いた坊主と、尺八を携えた虚無僧が行き違った。

 良家の妻女らしき揚げ帽子に抱え帯の女が、日傘を差し掛ける下女とともにもう一方の橋の中央で立ち止まり、のんびりと川のさまを見下ろしている。

 そもそも戻り橋という名の由来は、死人がいっとき生き返った話から来ていたのだったと、陶次は思い出した。

 ――延喜十八年(九一八年)の昔、ある漢学者の葬列がこの橋を通った。父の死を聞きつけ、遠方から駆けつけた息子が棺にすがると、雷鳴とともに死者がいっときだけ息を吹き返し、父子は抱き合うことができた――という。

 いっときだけ生き返っても、どうなるというのか。

 お蔦がもし、少しの間でもこの世に戻ってくれれば、どうだろう。

 蒲魚(かまとと)に思えた小首を傾げる科も可愛い仕草となって、陶次の疲れ切った脳裏に全てが夢の中であったかのように浮かんだ。

 もてなしてくれた手料理の味が懐かしく舌に蘇った。陶次が訪ねて来る日と思えば、陶次の好物を買いに錦の市場までいそいそと出かけていたのだろうか。

 お蔦が、もし戻ってきたら……。

 やはり冗談めかして茶化すだけだろう。いや、怒ったふりをするに違いない。

 堀川の川面を湿った風が流れ、川沿いに植えられた柳の枝を涼やかに揺らした。

 お蔦は陶次の家に来たことがなかったと、陶次はいまになって気付いた。

 来たことがないのだから、戻り橋という名の通り『戻って来る』気配は一切なかった。

「そやそや」

 陶次は、急いで家に取って帰した。

 建て付けの悪い腰高障子をがらりと開け、草履を脱ぎ捨てて上がり框を駆け上がると、神棚の下に立てかけたままだった七夕の笹を手に取った。

 あの七夕の朝、お蔦の家から持ち帰った笹竹は枯れきっていた。触れただけで、縮んで細く巻いてしまった葉がさらさらと、日焼けした茶色い畳の上に散った。

「わいは、この京で生きていくで」

 体の底から言葉が形になって浮かび上がり、喉元を突き破った。

 ほかの土地で新しい生活をすれば、死者の面影は次第に遠ざかるに違いない。だが、逃げるのは卑怯な気がした。

 近江八幡にお光を訪ねるのも、もうやめよう。

 一生ずっと、大坂訛りはなくなりそうもなかったが、京のイケズもいいではないかと、ようやく思えるようになった。

 京に溶け込むのは難しいだろう。いつまで経っても京の町は陶次にイケズな顔を見せ続けるのだろう。

 それもいいと、陶次は大きく胸を反らせ、朝の気を精一杯に吸い込んだ。

 見下ろした川面に、銀鱗が誇らしげに煌めく。

 京の平安は今、危うい拮抗で保たれている。この先、どうなっていくか見届けたい。

 どのみち陶次ら町民は、戦になれば尻を絡げて逃げるだけである。それまでは図太くここで暮らしていこう。

 陶次はお蔦の笹をこれ以上は散らさぬよう気遣いながら、そっと家の外に持ち出した。

 日差しの中で、笹につけられた七夕飾りが風に舞う。枯れた葉が小枝を離れ、宙を流れて手の届かぬ空に消えた。

「そうや」

 陶次は腰に差した真鍮製の矢立から筆を取り出し、墨壺に筆先を浸した。

 お蔦が流麗な仮名文字で書き込んだ短冊の一枚を手に取った。

 陶次は短冊の裏に『お蔦成仏』と金釘流の文字で書き込んだ。ついでに『喜助も』と、他の短冊の裏に書き足してやった。

「よっしゃ。よっしゃ」

 京の町の家々の笹は、七夕の夜にすべて川に流されたはずである。色とりどりの笹飾りを付けたまま鴨川から淀川を抜け、今は浪速の海に消えた頃だろう。

「お蔦。ここは一条戻り橋や。いつまでもわいは、ここにおるさかいな。気が向いたら、イケズせんと戻って来いや。待ってるで」

 陶次は一条戻り橋の上からお蔦の笹を、堀川の光る水面に向け、力一杯に放り投げた。

                                                                             

                                了


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一条戻り橋に霧雨が降る 出水千春 @chiharu_d

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