第4話       手繰り寄せた真相は……

                 一


 翌日の夜五つ過ぎ、陶次と勘助は、馴染みの居酒屋ふくやの奥の小座敷で酒を飲んでいた。皿に盛られた煮ころばしは、陶次の好物の鹿ヶ谷南瓜と伏見唐辛子などの京野菜だった。

「これで、権三親分の取り立てに絡む線は、ほぼ消えたな」

「ほんまどすなあ」

 勘助は大物を逃がした釣り人のように、大きな息を吐き出した。

「溜息をつきたいのは、わいのほうやがな」

 陶次は勘助の頭を叩いた。西瓜のように中身が水ばかりな音がした。

 座敷は追い込み式にしつらえられ、隣とは衝立で仕切られていた。隣に座った総髪撫でつけ髪の医者らしき老人が、驚いたように衝立の横から顔を覗かせた。

 陶次がじろりと睨むと、老人は怯えたように目を逸らした。

「三人の浪人者の中に犯人はおるて、目星をつけたんやけどなあ」

 昨日来、陶次らは権三に大きな借金をしていた浪人者の身辺を探って回った。同心である松来の指図ではなく、勝手に探索を始めたものだった。

『天誅ではなかった』と明らかにして、市原の鼻を明かしたい気持ちもあった。

「一人は妻や子を数珠屋町通の長屋に置いたまま行方知れずになっとったしな」

 陶次は南瓜を口に放り込んだ。南瓜の甘さがお蔦の手料理を思い出させた。

あの味はもう二度と味わえないのかと、感傷に浸れば酒が苦くなった。

 ヒビの入った壁を照らす行灯の火影が、頼りなげに恨めしげにゆらゆら揺れる。

「うちも、逃げたと聞いて、てっきり『こいつや』と思うたんどすが……」

 勘助も悔しげに口の端を歪めた。

「半年も前に刀まで質屋に入れとったとは、情けのうて笑い話やがな」

 斬り殺そうにも肝心の刀がないという体(てい)たらくだったから、容疑から外した。

「も一人の若い浪人者も、行方がなかなかわからんと思たらどすえ。借金の取り立て逃れに、ええ場所に逃げ込んでましたなあ」

 注文していた鯛の〝作り〟(刺身)が運ばれてきた。江戸風と異なり、切り目は揃わず乱雑に盛られている。

「なんと、あろうことか壬生狼(みぶろ)の仲間入りしとったとはなあ」

 陶次は刺身を一切れ箸で摘み上げ、本能的に匂いを嗅いでみた。

 若い浪人者は先月、壬生浪士組に入隊していた。さすがの権三も、乱暴者で通る壬生狼がたむろする屯所までわざわざ出向いて行って厳しく取り立てるわけにもいかなかっただろうから、この浪人者も除外した。

「残る一人の老いぼれかて、あきまへんどしたなあ」

 独り住まいの荒ら屋を訪ねてみたところ、病の床に就いていた。痩せ細り煎餅布団から起き上がれない様子は芝居とも思えず、これも外した。

「明日から別の線で当たってみよか」

 陶次は鯛の作りを酢味噌につけて口に運んだ。新鮮な鯛のこりこりとした歯応えが堪らなかったが、酢味噌の味がいまいちで、嫌な甘みが舌に残った。

「今度は権三親分の強請り先を探すんや。強請り先となると、なかなか厄介や。日にちも掛かると思うけどな」

 当然のことながら、強請られる側は必死に隠そうとしている。ひた隠しにする秘密を暴く探索は困難を極めるだろう。

 賭場での借金に喘ぐ痩せ浪人を探るように簡単ではない。

 勘助が店の女に、追加で冷や酒を注文した。二人ともこのあとは帰って寝るだけである。

「ほんまに、天誅て線はないのやろか」

 箸を遊ばせながら呟けば、またも胸の中の弦がぴんと張り詰めた。

「一晩じっくり寝て考えはったら、きっとええ糸口が見つかりますえ」

 酒を相伴しながら、勘助が気休めを言った。

「明日も、うちらは頑張って探索を続けますえ」

 勘助は張り切っている。今一つ元気が出ない陶次を残して暖簾を潜ると、ふらふら京の町の夕暮れに飲まれていった。


               二


「陶次。ここであったか。探したぞ」 

 勘助と入れ替わりに、同心の市原がひょっこりと姿を見せた。

 市原が中間や小者を引き連れていないとは珍しかった。『無礼講』あるいは『気安さ』を陶次に感じさせようとする魂胆なのだろう。

「まあ、呑みながら話さんか」

 市原は陶次の前にどっかと腰を下ろした。

 どうせろくな話ではない。

 酒が不味くなる相手だったが、適当にお茶を濁して陶次から切り上げるしかなかった。

「陶次は権三と親しかったのであろう」

 市原はやおら切り出した。仏頂面の向こうに寂しさが透けて見えた。

 どうやら市原は、権三をよく知るもの同士、故人を忍んで一杯飲もうという心づもりらしかった。

 市原さまは思っていたようなおひとではないらしいなと、陶次は見直した。

 いままで、権三の言葉越しに作り上げていた市原像は芳しくなかった。

 だが、権三の一方的な見方からの判断は間違っていたらしい。傲慢な同心の仮面の下の市原の素顔は同じ人間だった。

「まあ駆けつけの一杯、どないでっか」

 陶次は市原に酒を勧めた。

「わしはのぉ」

 市原は朴訥とした話しぶりで語り始めた。身分違いな二人がじっくり話し合うなど、最初で最後だろう。

「権三を持て余しておったのじゃ。『なかなか使える』と、権三を手下としたものの、いつの間にやら増長しよってのぉ。ふふ」

 恰好をつけた含み笑いが、逆に哀れを感じさせた。

 権三と市原。金回りだけなら逆転も大逆転。権三は木っ端役人とは桁が違う贅沢な暮らしぶりだったから、市原に対する態度も慇懃無礼なものだったろう。

「とはいえ、なかなか憎めぬ男でもあったからなあ」

 博打場のお目こぼしを願うため、権三から市原に袖の下が相当に流れていたろう。そういう意味で、市原にとって権三は『振れば小判が出る、打ち出の小槌』であったから、権三の生意気さや無礼さにも目を瞑っていたということだろう。

 市原の目の下には、暗い火影でも目立つほど黒い隈ができていた。

 太い金蔓が一本ふいに消えて、気落ちしているのだろう。

 同心の禄は微々たるもので、よほどの手柄を立てなければ加増もない。与力への昇進などほぼ絶望的だった。

 なのに小者など雇い人への給金が毎月必要であるから、生活はかなり苦しい。あちらこちらからの付け届けで生きているようなものだった。

「権三はあのような男だったからのぉ。わしにとっては諸刃の剣じゃった」

 もったいをつけながら、市原は陶次に酌をさせた。

 自棄糞なのか、市原のぐいと呷る飲みっぷりは見事だった。陶次も負けずに手酌で飲み干し、店の主に大声で酒の追加を頼んだ。

「もしも、じゃ」

 次第に顔を赤く染め、市原の独壇場は続いた。

「権三が目に余る所行に走るようなら、わしとて進退にも関わってくる。ここ半月ほど前から急に権三の実入りが良ぅなっておったから気になってのぉ」

 市原は、調理場に戻りかけた店の主が思わず振り向くほど大きな咳払いをした。

「博打は目こぼししておるが、大きな〝わるさ〟となれば見過ごせん。手下の金伍に命じ、このところ毎日のように尾行させておったのじゃ」

 権三親分が脅しを懸けていた先の、糸口くらい見えるかも知れないと、陶次は身を乗り出した。

 市原は陶次が勧める盃を、渋い顔をしながら、またも一気に飲み干した。

「一昨日じゃがな」

 市原が眉間に縦皺を寄せ、陶次のほうに身を乗り出した。

「『権三が夕刻に妾の家に入れば朝まで動きはなかろう』と金伍は見張りを止めて家に戻ったわけじゃが。その明くる朝に……。天誅に遭うたというわけじゃ」

 市原の深い皺が刻まれた額の下に光る小ぶりな奥目は、無念さを物語り、心なしか潤んでいた。

 市原と子飼いの権三との関係に、陶次はふたたび思いをはせた。

 気に入らないところがあって、権三に腹を立てつつ憎めぬところを感じて許す。だがまたも権三に対して怒りが湧いてくる、という繰り返しだったろう。

 衝立の向こうに座っていた老人がゆらりと立ち上がり、ふらつきながら帰って行った。

 店の中の客は陶次と市原だけになった。

「で、権三親分はんの〝わるさ〟ちゅうのは、何もわかってしまへんのか」

 肝心のことが聞きたい。陶次は膝を進めた。

「実はな……」

 市原は近くに誰もいないのに、壁に耳でもあるかのように声を潜めた。

「金伍の報告によるとじゃな。権三はあの八幡屋の周辺を探索しておったのじゃ」

 急転直下、解決の道が開けた。灯台下暗しとはこのことだった。  

 八幡屋卯兵衛が飼う浪人どもの鋭い目線を陶次は思い出した。河原で喜助を見殺しにした冷徹さといい、卯兵衛なら邪魔な権三を簡単に抹殺しそうだった。

 なぜ市原の旦那は、強請った相手の仕業と思わないのか。

 陶次は市原の愚鈍さを心の内で思い切り嘲った。

「え。それは間違いありまへんか」

 陶次は念を押し話の続きを促した。

「権三は八幡屋の周辺をうろついておった。船宿で男と女の艶っぽい逢瀬ならぬ、卯兵衛と密談もしておった。それも一度だけではない」

「権三親分は間違いのぉ八幡屋を強請っていたてことでんな」

 言外に『天誅やなかったやありまへんか』と匂わせながら、陶次は嫌味なほど念を押した。

「八幡屋から権三に渡される金子は、喜助がお蔦の家まで持参しておったようじゃの」

「そないやったんですかいな。ほんなら殺しは八幡屋の差し金かも知れまへんなあ」

 陶次は嫌味ったらしく畳み込んだ。

「いかんせん証拠が何もない」

 市原は涼しい顔で答えて唐辛子を口に運び、またも拙そうな顔で酒を流し込んだ。陶次は片付けをしている店の女に身振りでお代わりを頼んだ。

「わしも歳じゃ」

 市原はしみじみとした口調になった。

「このまま平穏無事な暮らしがしたいのじゃ。今までわしは妻子を養って家名を守ることだけに汲々としてきた。この先もそうじゃ。それだけの人生じゃ。はは。笑ってもよい」

 市原は、かんかん照りの日向に転がった石のように、乾いた笑いを漏らした。

 陶次は遙か遠くに存在した市原を、急に身近に感じた。

「あ、いや。笑いまへんがな。それが普通の男でっせ。いや、お武家さまのお家柄やったら、なんちゅうてもお家第一でっからな。波風ぇ立てんようにするため雁字搦めや。何一つ自由にならへん。辛いお気持ちもわかりまっさ」

 くどくど代弁してやりながら、陶次は市原の盃に酒を注いだ。

「ま、そういうことじゃ。わしは『天誅絡みだった』と奉行所に報告いたした」という市原の結論に陶次は、やはりなと落胆しながら、

「八幡屋の金の力は、大きいでっさかいな」

 大きく溜息をついた。

 八幡屋卯兵衛の財力なら、奉行所内の上層部を動かすことも容易だろう。

 市原は所詮、しがない同心でしかない。理由をつけて市原が罷免されるならましなほうで、悪くすれば罪科をでっち上げられて腹を切らされぬとも限らなかった。

「それゆえ陶次、そちを男と見込んで頼みたい」

 市原は陶次の手を取った。がさついた無骨な手は、意外にもしっかりと竹刀胼胝ができていた。

「そちは権三とも親しかったし、お蔦の旦那でもあった。男気があるなら探索して恨みを晴らしてやってくれ」

市原は感情を込め、陶次の手をしっかり握りしめた。自分の言葉に酔い大きく頷く。

 八幡屋が絡んでいたとなれば陶次も、証拠を掴む前に権三の二の舞になるだろう。

 糸口が掴めたと思った瞬間の興奮は、大潮の日の潮が引くように急速に冷めていった。

「あ、いや、先ほどまでの話は戯れ言と聞き流してくれ」

 陶次の顔色を読んだ市原は、手を横に振って打ち消した。

「手下風情一人の手に負える事件ではないわの。あれは天誅じゃったのじゃ。松来殿とて同じ意見じゃろう」

 誰もが我が身可愛さに真実から目を逸らす。

「わかりました。聞かなかったことにしときまっさ。ご安心を」

 陶次は手にした杯の酒を、ぐいと飲み干した。酒の味はもう皆目わからず、水を流し込んだ感触だけが喉の奥にこびりついた。

 だが……。

 陶次の中の天の邪鬼が目を覚ます。

 陶次は目明かしである。無駄足でもいい。このまま有耶無耶にすれば権三が可哀相だった。いや、権三は自業自得にしても、巻き添えを食らったお蔦はどうなるのか。突き詰められるだけやってみないとお蔦も浮かばれない。

 陶次はまたも酒を喉に流し込んだ。

 市原は陶次の決意を知るよしもない。

「色々誰かに詮索されとうないゆえ、拙者とここで会うたことも内密に頼むぞ」

 立ち上がると、さっさと戸口に向かった。縄暖簾を潜ろうとする市原の背中は一段と丸くなり、小さく見えた。

「ご苦労はんどした」

 陶次は戸口まで市原を追い、京言葉で送り出した。


             三


 明くる日の昼下がり、陶次は三条堀川の四つ辻にある古い町番屋で、勘助が来るのを待っていた。

 番屋の屋根には火の見梯子が立てられ、半鐘が吊り下げられている。腰高障子の前の白州には、提灯の他に捕り物に使うための三ツ道具――突棒や刺股や袖絡みがいかめしく立てられ、火事の際の鳶口や纏なども備えられていた。

 千本通の刻の鐘は、既に昼八つ(午後二時)を打ってからだいぶ刻が経っていた。

 陶次は番所詰めの初老の男、庄六から出された薄い茶を啜りながら呟いた。

「まだかいのぉ。勘助は」

 番屋は三畳二間からできていた。陶次がいる部屋は戸口を入ってすぐの小部屋で、壁には補修跡が目立つ古提灯が並んでいる。

「へえ。へえ」

 庄六は上がり框を上がってすぐの場所に置かれた膝隠しの衝立の位置を神経質に直しながら、適当な返答をよこした。 

 陶次は庄六と懇意なので、町番屋の奥をどう使おうと、庄六は見聞きした出来事を漏らしはしないだろう。既に銭は握らせてあった。

「親分、お茶もう一杯、どないどすか」

 前歯の欠けた口を開け、庄六はできるだけの愛想笑いをしてみせた。

 庄六はまだそれほど年寄りではないが、近頃はとみに耳が遠くなった。四十年ほど前に三条堀川の町衆に雇われ、以来ずっと務めているのだが、そろそろ若い者と交代させられそうだった。

 退屈だが待ってるより仕方がなかった。八幡屋周辺の探索に陶次が出張れば、卯兵衛に警戒されてしまう。

 勘助には『喜助を八幡屋の者に知られぬよう連れて来い』と命じてあった。

 そもそも松来さまの了解も得ないで、内緒で調べている。

 ところ構わず喜助を引っ括ってしょっ引くなど、派手な動きはできなかった。

 陶次は勘助らに八幡屋の裏表の出入り口を見張らせ、喜助が他出する機会を狙わせることにした。

 喜助にも『お上の御用ではない』と気付かれれば拙かった。

 様々な深謀遠慮があり、喜助を詮議する場は、陶次の言いなりになる庄六が詰めている町番屋と決めた。

 各町番屋には、町廻りの同心や他の目明かしどもが『異常はないか、言伝はないか』と訪ねて来るが、時刻は決まっていた。仮に突然ふらりと訪れたとしても、庄六に応対させれば上手く誤魔化してくれるだろう。

 陶次は罅の入った朝顔形の茶飲み茶碗を、手の中でせわしなく弄んだ。

 事件の朝、喜助はお蔦の家を訪ねた。喜助は何かを見ているかも知れない。

  陶次は畳の上にごろりと横になった。

 まず知りたいのは、八幡屋が権三親分に強請(ゆす)られていた理由(わけ)だった。

 頭の下で腕を組みながら、陶次は町番屋の簡素な天井を睨んだ。不揃いな木目が、細長い蛇のような奇妙な化け物に見えた。

少し前なら、密貿易によるいわゆる抜け荷だったろうが時代は変わった。開国以来、国内の諸物産を、長崎や安政六年に開かれた横浜港で売り捌く交易は、今や八幡屋の表の商いとなっている。

 この御時世で、八幡屋が裏で大儲けする荒技となれば、およその見当はつくというものだったが、ともかく証拠が要る。だが、八幡屋の悪事の詳細を、奉公人である喜助がおいそれと喋るわけもない。

 陶次は寝返りを打って、うつ伏せになると、頬杖をついた。

 八幡屋の用心棒が権三らを殺めた動かぬ証拠を掴むとなればなおさら難しいだろう。

「まずは喜助から、どんだけタネを得られるかやが、悩ましいところやな」

 庄六の耳が遠いのを良いことに、陶次は心の内を声に出してぶつぶつ呟いた。

 折を見て何度もお蔦の近所の聞き込みをしたものの、皆が天誅と信じているため貝のように口を噤み、豆腐の棒手振りが語った以上のタネは、今もって引き出せていなかった。

 陶次は身軽な動作で起き上がると、胡座をかいた。

 所在なく、またも湯飲み茶碗を手に取り、なんだかわからぬ文様を指で辿った。

 お蔦が門口で送り出してくれた笑顔が、シャボン玉のように浮かんですぐに消えた。

 ほんの数日前なのに、権三の人なつっこい笑みが懐かしく思えた。

 八幡屋卯兵衛との勝負は、戦う前から負け戦に終わるのか。

「もう一杯、お茶、どうどすか」

 庄六が陶次の背に問いかけた。

「熱い茶ぁばっかし飲んどれるかいや。よけい汗を掻くがな」

 陶次は声を荒げてから『しまった。庄六に臍を曲げられたら困るがな』と気掛かりになったが……。

「へえへえ。すぐに淹れますえ」

 庄六は機嫌良く、何度目かの茶を陶次の茶碗に注ぎ入れた。顔の前に差し出された茶は、もはや茶葉の香りなど欠片もしない白湯だった。


              四


 町番屋の腰高障子ががらりと開いた。

「しょっぴいて来ましたどすえ」

 勘助が意気揚々と、喜助を伴ってやってきた。

「早ぅ上がらんかい」

 勘助が喜助に、草履を脱いで上がり框を上がるよう急かせた。

 まるで罪人扱いである。だが『少しでも怪しい奴は、しょっ引いてくる』なぞ、目明かし稼業をしていれば日常茶飯事でもある。

「いったい何の用どすか。うちは大事なお店の用事がおます」

 敷居を跨いだ喜助は不貞腐れた顔で陶次を睨んだ。

「まあ、ゆっくり話をしよやないか」

 陶次はドスを利かせながら顎をしゃくり、障子が閉められた奥の部屋を指し示した。

 表の部屋は畳敷きで、町の寄り合いにも使われるが、奥は板の間で、捕えた容疑者を留置する仮牢にも使える構造になっていた。

 喜助の整った左眉がぴくりと動き、顔色が僅かに変わった。

「いったいぜんたい、うちに何の御用どすかいな」

 動揺を隠すつもりか、喜助は鬢の解れに手をやって滑らかな手つきで撫でつけた。ちょっとした所作が、役者のように絵になる男である。

「ん」

 陶次は喜助の掌に目をやった。

「この手は……」

 喜助の華奢な体の割りに太い手首を、陶次はねじ上げるように掴み、掌を子細に見た。

 痛みに喜助の顔が歪む。

「これは、よう見たら……。力仕事の胼胝のほかに竹刀胼胝ができてるやないかい」

竹刀の胼胝はまだ新しかった。最近になって撃剣の稽古に励み出したのだろうか。

「竹刀胼胝どすか。こいつは剣術を習とったんどすな。こら、ますます怪しおす。殺しの動かん証拠どすえ」

 勘助が陶次の横で痛快そうに囃し立てた。

「おんどれ。この竹刀胼胝は何や。お店者にしたら不似合いやないけ」

 陶次も喜助に詰め寄り、ここぞとばかりに畳みかけた。

 以心伝心なのか、勘助の節穴のような目が底意地悪い光を放った。

「人形みたいな顔してからに。この人殺しが」

 勘助は奥の部屋の障子をがらりと開くと、喜助を手荒く床に突き飛ばした。

「こんな世の中どすから、商人が剣術を習うたかてよろしおすやろ」

 床に倒れた喜助は半身を起こしながら、陶次らに刺すような視線を向けた。

「考えてもみとぉみやす。遠い先のことやおへんやろなあ。この京の町が戦の場になってしまうのは。戦の火ぃがもうそこに迫ってるのは間違いおへん」

 目は憎しみに燃えているが、喜助の言葉はやはりはんなりしており、人を食っているように思えた。

 喜助の餓鬼なんぞに負けるかと、陶次の中で、訳の分からぬ苛立ちが、突風のように巻き起こった。

「わいらは戦うのが商売の武士やあらへん。戦になったら早いとこ尻を絡げて逃げたらええのや。情勢を瞬時に見極める力のほうが、己や己の大事なもんの身を守るのに役に立つんや」

 何気なく発した『大事なもん』という言の葉の響きに、陶次の体の主軸が撓んだ。

 陶次には、後にも先にも大事なものなどなかった。強いていえば、近江にいる娘のお光ぐらいだったが、お光には、大事に守ってくれる家族がちゃんとついている。

 陶次は侘びしい現実に向かおうとした頭を振って、丹田に力を籠めた。

「一人一人の武技がどないに優れてても一人の力は微々たるもんや。どないに強い剣豪かて、雑兵の鉄砲には勝たれへんやろが」

 陶次はどうでもよい空論と考えつつ、むきになった。

「それが大の男はんのいわはることどすか。ふふ。情けのぉおすなあ」

 喜助は鼻で笑いながら襟元を整え、居住まいを正した。

 どんなときでも見た目を構うところが、女子の気を引くのだろう。

 悋気の針が陶次の足裏を突(つつ)いた。

 喜助が殺ったという線もないとはいえなくなった。痴情の縺れは人を狂わす。

 いっそ喜助が犯人であれば小気味よいという気持ちが、どろどろと沼地の汚泥のように湧き上がる。

「なにがなんでも吐かせたる」

 陶次は威圧するべく、喜助の前ですっくと仁王立ちになった。

「ほな。ごゆっくり。うちは耳が遠いさかい、何も聞こえまへんどすよってになあ」

 庄六が意味ありげな薄笑いを浮かべ、奥の間との間の障子を静かに閉めた。

「狸親父の地獄耳かい。上手いこと行ったら、せいぜい駄賃を上乗せしたるさかいな」

 陶次は障子越しに庄六に声を掛けた。ちゃんと聞こえたらしく、庄六は控えめな咳で返事をした。


                五


「あほらしいお疑いは、晴らさなあきまへんどすかさかいなあ。まあ、ちょっとじっくり聞いとくれやすな。うちはどすなあ……」

 陶次の焦りを他所に、喜助はゆったりかつ静かに語り始めた。

「ほんまは武家の出どす。こまい頃から武術の手解きを受けて育ちましたのどす。大番頭に取り立ててもろてからは、自由になる暇も工面できるようになりましたさかいなあ。思い立って、また剣術を習い始めたかて、おかしいことおへんやろ」

 上目遣いに睨む喜助の瞳はどこか誇らしげで、稟としていた。

 軟弱なお店者としか思えなかった喜助の背筋には、一本しゃんと竹の棒が入っていたのか。

 竹はよく撓むから気付かなかっただけで、真っ直ぐに立てればしゃんとする。

 竹といえば……。

 陶次は家に持ち帰ったお蔦の笹が、一条戻り橋の家の神棚の下ですっかり枯れたさまを、唐突に思い起こした。

「ほんなら」

 勘助が横合いから口を挟んだ。

「お蔦はんがお公家はんの家の出で、喜助はんはお武家はんの出ぇどすのかいなあ。はは。うちら下賤の出ぇとはえらい身分違いどすなあ。こら、よろしおすわ。はは」

 揶揄する勘助を喜助は睨め付けた。

「うちは禁裏御付武士の端くれの家の生まれどす。けど、うちが十三のときに父は些細な失態を理由に職を解かれ、浪々の身になってしもたのどす」

 喜助は悲しげな目をした。惨めな生い立ちの者が過去を語る瞳の色は、どれもこれも深い海の暗黒に似ていた。

「失意のうちに父は亡うなり、うちは体の弱かった母を助けるために、もう半元服という十五の歳で遅い丁稚奉公に出たんどす」

「ここにも『世が世なれば……』ちゅう男はんがいはりましたどすえ」

 勘助が下卑た笑い声をたてながら茶化した。

「お蔦と幼馴染みやったっちゅう接点もそういう境遇やったからかい」

 話の辻褄の符合に陶次は頷いた。

「剣術は半年ほど前から始めたのどす。旦那はんも『お務めに支障が出んようなら』て許してくれはりました」

「習ろてる割りには、この前、河原でこてんぱんにやられてたやないか。何か手に持たんと調子が出んてか」

 陶次は、意地悪い間の手を入れた。

「そ、それは……」

 喜助は悔しげに、唇を噛んだ。

「ま、素手の喧嘩と、なまじのお上品な『やっとう』では要領が違うてか」

 実際の戦場では型通りにはいかない。ましてや、素手での喧嘩となれば、少しくらい剣が使えたとしても、喧嘩慣れした者が断然有利だろう。

「喜助。生い立ちはどないでもええ。肝心なんは剣術がでけるっちゅう事実やがな」

 陶次は糸の切れた凧のように漂い出した遣り取りを、本筋に戻した。

「おんどれにも、刀を使うて権三親分殺しができたちゅうことや。違うか。なあ喜助」

 喜助の喉元に十手を突きつけ、顎を上向かせた。

「まだ惚けたこといわはるのどすか。うちのいうてる話をまともに聞いてはったら、うちの腕が未熟なんは分かりますやろ。人を二人も一刀のもとに斬り殺すやなんて、どうあっても無理どすがな」

 喜助は怒りに唇を震わせた。

「馴染みの間柄や。さして剣の腕が立たんでも、権三親分の隙を突いたら、斬り殺すことができんとはいえんで。それにや。子供の頃の素地があるんやから、上達かて早いかも知れんがな。なあ勘助」

「あー。親分のいわはる通りどすな」

 勘助は待ってましたとばかりに抗う喜助を押さえつけ、慣れた手つきで縄を掛けた。

「正直に白状したらお上にもお情けはある……ちゅうても、二人も殺めてたら死罪は間違いないのぉ。きつう責められる前に早ぅ喋ったほうが、まだ楽と違うかいなあ」

 喜助の横顔に、一筋の髪が乱れて掛かる。

 美男の喜助が縄を掛けられた姿が醸し出す不思議な色気は、男の陶次でもぞくりと来る。勘助ならずとも、もっと責めてみたくなるだろう。

「うちは陶次親分のこと、買いかぶってました。もうちょっと話の通じる頭のええお人やと、頼りにしてましたのに」

 喜助は心外そうに首を力なく横に振った。

「そら、すまんかったのぉ」

 陶次は嘯きながら、視線を天井に逸らせた。

「聞いとくれやす。うちが剣術を習い出したのには、それなりの大義がおますのどす」

 喜助の目が必死に無実を訴えている。

「大義と来ましたどすえ。この攘夷かぶれが。お店者がお武家はんみたいに『大義がどうの』て聞いて呆れますえ」

 勘助は、言葉を続けようとする喜助の頬を平手で叩いて黙らせた。

 陶次も若造の粋がりようにのんびり付き合っている暇はなかった。夕刻になれば係りの同心が町番屋を訪ねてくる。庄六が上手く誤魔化すとしても、喜助に騒がれては不審に思われかねない。

「あの朝、お蔦の家から出て来たおんどれを見た者がおるんや」

 陶次は喜助の胸ぐらを掴んで、締め上げた。

「ほんで、わいとも出会うたやないかい。あのときの顔は普通と違(ちご)てた。色々付き合わせたら間違いない。殺めた訳なんぞ、あとからゆっくり吐かせたる」

「た、確かに、あの朝、お蔦はんの家を訪ねましたどす」

 観念したのか、喜助はついに核心に触れ始めた。


                   六


「けど、うちが殺めたのやおへん。権三親分はんはもう事切れてはりました。見事な袈裟切りなんは一目瞭然どした。薩摩の『二の太刀いらず』で名高い示現流の遣い手の仕業と違いますか。ほんでお蔦はんは……」

 お蔦の家に一歩、踏み込んだ際の衝撃が蘇るのか、喜助は感情が高ぶった様子で陶次のほうに身を乗り出した。水面に顔を出した金魚のように、何度も息を継いだ。

「お蔦はんはまだ息がありましたけど、すぐに……」

 喜助の声は震えて掠れている。

 いつもの、のらりくらりした喜助ではない。喜助の心の守りを打ち崩せるのではないか。

 逸る気持ちで陶次は、喜助の肩に手を触れた。

「おんどれやないちゅうのなら……。言うてみんかい。ほんまは殺した者の心当たりがあるんと違うけ」

 指先に力を込めて肩を揺さぶった。

 誰しも我が身第一である。白と黒の瀬戸際に追い詰められた喜助なら、濡れ衣を晴らすために雇い主への不義理も辞さぬかも知れない。

「卯兵衛が権三親分に脅しを懸けられてたことも、お蔦の家に金子を運んでたのがおんどれやということも、ちゃんとタネは上がってるんや」

 陶次は早口で責め立てた。

「陶次親分がそこまで知ってはるのなら、なんでうちが殺したていわはったのどす」   

 喜助は涙目にならんばかりで、恨めしげに呻いた。

「確かに、うちの旦那はんは権三親分はんに脅されてはりました。けど、そないなことはようあることどす。大きな商いをしてたら何かと難癖をつける輩は多おす。そないなもん、いちいち力で始末してたら、どこでどう町方に気付かれてしまわんとも限りまへん。こまい蝿を退治するはずが、却って藪蛇どすがな。お店そのものが危ういことになってしまいますえ」

 やはり雇い主が大事とみえる。持って回った言い回しが癇に障った。

「自分のお店の旦那はんを〝売る〟わけにはいきまへん。これだけはご勘弁願います。うちを拷問蔵にでも何処にでも送っておくれやす」

 喜助はたちまち開き直った。喜助の表情はいっそ清々しくさえあった。

 落ちそうで結局は落ちない。触れれば散りそうな花は、しっかと茎に付いていた。

 京のもんは〝イケズ〟ばっかりだ。

  陶次は、住み慣れた大坂から京に移り住んだ、過日の決断を、今さらながら後悔した。

「えらい忠義だてするんやな。この前は四条河原で見殺しにされたっちゅうのに」

 陶次は別方向から揺さぶりを懸けることにした。

「旦那はんは先生方に『助けに行ったっておくれやす』ていうてくれはったのどすが、先生方もだいぶ酒が入ってはったもんどすから、なんのかんのとぐずぐずしてはって、重い腰を上げはったときは……」

 陶次は手を大きく振り、馬鹿にした素振りで喜助の見方を否定した。

「喜助も人がええのぉ。後では何とでもいえるがな。大儲けしとる輩に限って〝渋ちん〟やど」

 陶次は一息、間を置いてから、喜助に顔を近づけた。

「……喜助かて、近々に暖簾分けしてもらうはずやろが」

「その通りどす。来年あたりというてもろてますけど」

「暖簾分けいうたら、主人はそれ相応の金子を渡さなあかんがな。大店やったら、暖簾分けしてできた店が貧弱では恰好がつかん。よういわれてる銀三貫文(五十両)なんちゅうケチな元手金ではあかんやろ。そやから……もしも暖簾分け前におんどれの身に何かあって、使い物にならんようになったらどないや」

「そら暖簾分けの話もご破算になりますわなあ」

「卯兵衛は目腐れ金でおんどれを放り出すやろな。ほんで中番頭の田助を大番頭に格上げしたら、また何年かは暖簾分けせんで済む。金子が仰山、始末でけるがな」

 先読み、深読みし過ぎかと思ったが……。

「ま、うちの旦那はんのことどすからなあ。それはおへんともいえまへんどすなあ」

 喜助はさらりといってのけた。


                 七


「実をいうと……」

 喜助の話はまたも逸れ始めた。

「うちは、商いにそない執着あらへんのどす。今の世の中は面白いほどどんどん動いてます。腕さえ立ったら水呑み百姓の小倅かて武士の身分になれる機会は、なんぼでもおます」

 喜助は若さゆえの高ぶりを見せる。

「うちの場合は武家の身分に戻りたいというより、志に向こうて歩んでみたい、そのためには剣術かてできなあかんて思てるんどす」

 喜助は一つ小さな咳払いをした。

「そこで大義というか……志の話に戻るのどすけど。病の母はこの先そう長ぅおへんやろ。母に孝行し終わったら、うちは何でも好きにできますえ。そやから……」

「ほっ。喜助はん~。志てなんどすかいなあ」

 勘助がまたも喜助の言葉を遮った。

「志て、尊皇どすか。佐幕どすか。ほんでもって攘夷どすか。開国どすかいなあ。組み合わせは尊皇攘夷に尊皇開国に佐幕攘夷に佐幕開国て四通りもおすがな」

  勘助の舌は油を塗ったくったように滑らかに動く。

「どれもこれも素晴らしい志どすなあ。いったいどれがほんまもんどっしゃろなあ。能書きだけはご立派でも、薩摩のお方も長州のお方も土佐のお方かて『自分らの殿さんの天下にしたろ』て狙てはるだけ違いますのんか」

 勘助は思いがけず辛辣な意見を口にした。

 勘助の饒舌さに呆気にとられた陶次は『そんなら勘助はどないしたらええと思とるねん』と突っ込みそうになって口を噤んだ。

「親分。これで喜助が尊攘かぶれっちゅうのも、いよいよもってほんまもんどしたなぁ。殺しの一件のほかにも、叩いたらようさん埃が出てきますえ」

 醜男の勘助は美男が芯から憎いのだろう。額に青筋を立て喜助を追い詰めに懸かった。

「うちは書肆商いを手広ぅやってます。どないな書物でも揃えてあるのがうちの店の自慢どす。あんまり公にできへんもんも内緒で奥に置いてます」

 勘助の独壇場は続いた。

「久坂はんの書かはった、なんやらいう小難しい書の写しが、たまたまうちの店にもあったんどすわ。それをこの喜助が大事そうに借りて行きよったことがありましたどす。喜助は久坂はんに心酔してるのどすわ。間違いおへんえ」

 長州藩の久坂玄瑞が去年閏八月にしたためた『解腕痴言』には、攘夷思想がかなり明確に理論付けされていた。久坂の思想を軸に据えた長州は、この京で他国の浪人どもを集め、資金と庇護を与える強力な後ろ盾となって天誅を煽っていた。

「滅相もありまへんえ」

 喜助は必死で勘助の舌鋒を躱そうとした。

「うちが長州さまに肩入れしてるやて、勝手に想像されたら困りますえ。うちは、偉いお人の考えを広う読んだり聞いたりして、勉強がしとおすだけどすがな。長州さま方にも薩摩さま方にも肩入れなんかしてまへんえ」

 図星だったらしい。物言いは相変わらずはんなりだが、焦りが伝わってくる。

「ま、薩摩や長州やっちゅうのはええとしよ」

 時刻は過ぎていくばかりである。陶次は舵を目的地方向へと取り直した。

「卯兵衛の脅された理由は、どこぞへ物を流してるっちゅうことやないか。商人は金になる思たら、裏では節操ものぉ何でもしよる。金がのうなってきたお上より、薩摩やら長州やら、長年、密貿易で荒稼ぎしてきた国のほうが金払いもええさかいな。当然の道理と違うけ」

「どないな証拠が揃てるのかは知りまへんが……」

 喜助は睫毛の深い目を閉じ、しばし沈思黙考した。

「『そないなことありまへん』ていうても信じてもらえまへんどすわなあ」

 喜助はやおら話し始めた。

「うちの店が長州なり薩摩なりの倒幕派に物資を流してた。ほんで権三親分はんにその証拠を掴まれてたとしまひょか」

「で、やっぱしお蔦も絡んでたんか」

 お蔦の名を口にすると、昨日に起きた冷たい現実が喉元を迫り上がってくる。

「お恥ずかしいことどすが、お蔦との寝物語に色々と聞き出されたちゅうわけどす」

 気付けば、喜助の言葉の中のお蔦の呼び名は『お蔦はん』からいつしか『お蔦』に変わっていた。陶次の喉に小骨が刺さる。

「あからさまに聞かれたらうちかて警戒しますけどなあ。うちが行った祇園の茶屋の様子とかちょっとした話を、上手いこと権三親分はんが繋ぎ合わせはって、うちの立ち回り先で怪しいそうな場所を推測しはったのどす。ほんで手がかりを元に、うちやら旦那はんやらの跡を尾(つ)け回らはったみたいどす」

 権三のことである。金になりそうだと思えば労力は厭わない。八幡屋は蛇に見込まれた蛙だったろう。

「旦那はんから『あんたがなんぞ漏らしたんやないか』て、きつう叱られたときの驚き具合は、ほんまに寝耳に水どころやおへんどした」

 喜助は肩を震わせた。

「うちはお蔦を問い詰めました。お蔦は『権三親分はんに脅されてのことどす』ていうてました。『親分はんから分けて貰た金子を貯めて、喜助はんと一緒になったとき商いの足しにする心づもりどす』ともいうてくれました」

 喜助は、市松人形を細面にしたような白い顔に、曰く言い難い泣き笑いを浮かべた。

「権三親分はんにも、やめてくれて頼みましたどすけど、そらまあ『はい、そうでっか』と聞くお人なら初めからこないな強請(ゆすり)をしはるわけもおへん」

「権三親分が蛭みたいに吸い付いてひつこう探索したら、次から次になんぼでも強請のタネは出てくるわな」

 陶次は顎を撫でた。丁寧に剃ったはずなのに、剃り残しの髭が一本、残っていた。

「そういうことどす。一回二回の脅しなら、あないな結果にはならへんかったかと思うと……」

 喜助は血が滲むほど唇を強く噛んだ。

「ところでなあ、喜助。ひょっとしたら卯兵衛の飼うてる浪人者二人も薩摩か長州が差し向けたんと違うか。繋ぎをしつつ護衛も兼ねてるというわけと違(ちゃ)うか」

「ま、想像しはるのは御自由どす。あくまで仮に……の話どすけどな」

 喜助は断言を避けながら、さらにつるつると打ち明け始めた。


                  八


「あの日の晩、厠へ立ったうちは偶然、先生方が丑の刻過ぎに裏木戸から出掛けはるのを見た……と思とみやす」

 緊迫した状況を思い出すのか、喜助の息が荒くなった。

「夜遊びに出掛けるにしても妙な時刻どすし、なんやら普段よりぴりぴりと近寄り難い風情どした。うちはいったん寝床に戻ったものの、どうにもこうにも落ちつかれへんで……。『そうや。今晩はお蔦の家に権三親分はんが来てはるはずや。もしや』と明け方近うなってからお蔦の家に向こたんどす。そしたらどすなあ……」

 喜助は唇を歪め『この先を話すかどうか』と思案するように眉根を寄せた。

「そんで何やねん」

 喜助の溜めの長さに、陶次は痺れを切らした。

「実は、あのお蔦は……。うちを裏切ってましたのどす」

 喜助の目は、暗い淵にずぶずぶと沈んでいった。

「どないな意味やねん」

 唐突な言葉に、陶次は聞き返した。

「うちがあの朝、お蔦の家を訪ねたとき、お蔦はまだ息があったて、さっきいいましたどすが……。お蔦は……うちに打ち明けてくれたのどす。ほんまのことを……」

 喜助は反応を窺うように、陶次の目の奥を見詰めた。

「お蔦は権三親分はんに騙され唆されてたんどす。お蔦はうちに『もうちょっと八幡屋はんから金子を絞り取れたら、権三親分はんとどこぞに逃げるつもりどした。喜助はん、騙してて堪忍どすえ』て最後に白状して事切れたんどす」

 島原に売られそうになった窮地を救ってくれたのは、他ならぬ喜助ではないか。

公家の出でも、落ちるとこまで落ちた女は、やはりそんなものだ。

 感傷に浸って敵討ちを考えていた陶次は、馬鹿らしくなった。

「それは……。気の毒やったな」

 喜助に対して抱いていた、卑しい悋気から生まれた敵意が、綺麗に雲散霧消する。

「お蔦も罪な女子(おなご)どすな」と、勘助まで同情した振りをした。

「喜助を騙したなら騙したままにしといたったら良ろしおすのに。喜助もえらい損な役回りどしたな」

 勘助の場合、腹の中で喜助の阿呆さ加減と不幸を笑っているのだろう。

「女の気持ちはわからへん」

 陶次がお蔦の心のうちをついぞ覗くことなく、お蔦はこの世から消え去った。

「もう女子は懲り懲りどすし、我慢に我慢を重ねた奉公かて嫌気が差したのどす。せっかく暖簾分けしてもろて新しい商いを始めたかて、京の町はいつ火の海になるかわからへんどすさかいな」

 喜助はしみじみと、だが突き放したように冷ややかな口調で語った。

「すべてが灰になるかも知れんとなったら、地道に積み上げた努力なんぞ虚しいもんやわのぉ」

「そやからこそ、やりたいことをする決心がつきましたのどす。今まではお蔦のことが気になったから、商人(あきんど)の道をそのまま進むか、志を大事にするかで、えらい迷うてましたどすが」

「そこまで、よういうてくれたな。ありがとうよ」

 陶次は喜助の戒めを勘助に解かせた。

「ほんまにええのどすか。喜助は嘘ばっかしいうてるのと違(ちゃ)いますか」

 勘助は不承不承の体(てい)で従い、表の間との境の障子を開けた。

「へえへえ。ご苦労はんどした」

 庄六が膝隠しをずらして、通り道を広く空けた。

「陶次親分はん。せいぜい頑張っておくれやす」

 上がり框に下り立った喜助は、はんなりと腰を折ると、腰高障子を静かに開けて町番屋を後にした。

 逆光になった喜助の口元は、寂しげに歪んでみえた。

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