第3話      七夕の約束は幻と消えて……


              一


 七月七日。今夜は七夕という五節句第四の日だった。

 夜半からの霧雨は、夜が明けんとするいまも静かに降っている。

「昨日の晩はせんど寝れんかったのぉ」

 昨晩は深酒をし、いったん寝付いたのち夜中にふと目が醒めた。

 湯冷ましを飲んで厠に行き、もう一度どうにか寝ようとしたが、もういけない。布団の上で寝返りばかり打つうちに、暁七つの鐘が聞こえる頃になっていた。

 早く起きても特に用事もない。

 夜明け前から布団を抜け出した陶次は、まずはゆっくりと煙草をふかせて一服した。

 どうにも落ち着かない。何か大事な忘れ物でもしてるような、いや喉に小骨が刺さったような具合だった。

 顔を洗ってから口をすすぎ、神棚の水を取り替えた陶次は、格別これといって何を祈るでもなく柏手を打った。普段は子分三人の誰かにやらせる家中の掃除まで終えた。

 二日酔いだろうか。食欲はなかったが、朝飯抜きも拙いと考えた陶次は台所に向かった。

 江戸では、朝に飯を炊いて昼夕は冷や飯を食うが、京や大坂は午食に炊く。

 飯炊きの通いの婆さんが昨日の午に炊いた冷飯を、陶次は茶漬け茶碗に盛った。蠅帳から香の物が載った小皿を取り出す。

 少し古くなって臭いが強くなった香の物は、塩糠漬けにした乾大根の〝香々〟だった。

 昨日の飲みさしの宵越しの茶で掻き込もうとしたが、どうしても喉を通らない。

 今朝に限ってどうしてなのか。

 今日も昨日と変わらず、判で捺したようにいつも通りの朝である。

 いまこのときにも京の町中で、何か大事が起きているかも知れないが、陶次の暮らしに直接の関係はなかった。

 京師は治安が乱れ、日増しに落ち着かなくなっている。

 従来の京都所司代と京都町奉行所だけでは治め切れず、昨年の末には会津藩主の松平容保が京都守護職として千名の藩兵を率いて入京した。

 三月にはついに将軍の上洛も実現していた。

 陶次のような庶民も『この先もし京が戦の場にでもなったら、どないなるのやろ』と案じないわけではない。かといってすぐに世の中が激変するとも思っていなかった。

 ことが起きて同心の松来に命じられれば、陶次は職務として動くだけである。

少しばかり早いが、出かけるか。

 明け六つの鐘はまだ聞こえないが、陶次は戸口の腰高障子をがらりと開けた。

 闇は重い帳を上げようとしていた。辻々の常夜灯の灯はまだ灯っているが、お役目を終えつつあった。

 外に一歩踏み出した陶次は、中と周りに渋が塗られた渋蛇の目の傘を開いた。傘が要るか要らぬかの僅かな雨である。

 今晩がお蔦を訪ねる日だから、落ち着かないのかとも思えた。

 お蔦に会ったら嫌味の一つも言ってやりたかった。

『喜助とわいと、えらい扱いが違い過ぎるやないけ。どっちゃも旦那は旦那やないけ。自分らの内々で仲良ぅするんは勝手やが、旦那は旦那。同じ扱いにせんかい』とでも言いたかった。だが、立ち聞きしたと白状するも同然であるから拙かった。

 恨み言を言いたいものの言えないのが歯痒く悔しかった。

「奥歯に物が挟かったみたいな、落ち着かん感じなんは、女子(おなご)みたいに心ん中でぐちぐち考えてるからかいや」

 ぶつぶつ呟きながら陶次は町々が目覚めつつある一条通に出た。

 陶次らが普段見回るのは、御定番組が割り当てられた地域だった。

 西堀川通を下がっていく。

 堀川沿いには友禅染めの店が軒を連ねていた。染め物の排水で、堀川の水の色はいつ見てもほんのりと紫色に染まっている。

 友禅職人の景気は堀川の流れの色で判るといわれる。不景気な今は色も薄くなっているのだろうが、まだ仄暗いうえ作業が始まっていないので判然としなかった。

 所司代屋敷の前の竹屋町通で左に折れ、堀川を超えて東に歩いた。

 特に行く当てもない陶次は、いつの間にかお蔦の家の方角を目指していた。

 西洞院通との辻で陶次は、西洞院通を上がってきた喜助とばったり出会った。

まさかお蔦の家に行っての帰りではないだろうな。

 お蔦絡みになると浅ましく想像を巡らせる我が身が、陶次は情けなかった。

 だが即座に、ありえないと思い直した。

 この時刻はまだ権三がお蔦の家で後朝の別れを惜しんでいるはずだった。

 陶次は詰まらぬ妄想を、顔に張り付いた蜘蛛の巣を払うように、すぐさま打ち消した。

 常識で考えれば、喜助は早朝から店の用で使いに出たのだろう。

 堀川を利用しての運搬が盛んな西洞院通には、酒屋や油屋などの重い物を商う店が並んでおり、早朝から荷の出し入れで賑わっていた。

 喜助は陶次に全く気付かず、ふらふらと陶次の目の前を横切った。よく見れば、目は虚ろで尋常ではなかった。たいした降りではないとはいえ、雨降りなのに傘も持っていない。

「おい、喜助。えらい早ぅから何の用やねん」

 陶次は気軽な口調で声を掛けた。喜助は我に返ったように目を見開いた。

「喜助。おかんの具合が悪いそうやのぉ。わいからも見舞いせなあかんとこやが、なにせ目明かし稼業も近頃は景気が悪ぅてのぉ。堪えてくれや」

 嫌味半分の陶次に、喜助の目の中に敵意にも似た光が宿った。だが、すぐにいつもの喜助に戻り、愛想笑いを浮かべた。

「あ、どうも。おはようさんどす。うちは、ちょっと使いで伊達さまのお屋敷へ向かうとこどす。ほなら急ぎますよってに……」

 喜助はそそくさと立ち去った。霧雨の中ですぐに姿は烟(けむ)ってぼやけていった。


                二


 明け六ツは近い。しだいに明るさが増し始めた。

 とはいえ霧雨模様のせいで、夜が明けきろうともすっきり明るくなりそうにはなかった。

 今日は一日こんな天気だろう。『七夕がどうの』とお蔦が言っていたが、今夜は星が見えそうもなかった。

 先日のお蔦の妙に子供じみてはしゃいだ笑顔が、陶次の脳裏に蘇った。

 通りに面した酒屋だの油屋だのの店の間にも、笹飾りを出した家が見えた。京の町に寺子屋がこんなに大小多数あったのかと陶次は不思議に思った。

 去年も陶次は七月七日の晩にお蔦を訪ねたが、別段『今夜は七夕どすえ』という話は出なかった。京や大坂の七夕は、習字の上達を祈る寺子屋の行事に過ぎない。

 なぜ今年に限ってお蔦は、七夕の笹を飾るなどと言い出したのだろう。

 笹飾りのちらほら見える通りを歩きながら、陶次は、昨年、権三から聞いた話を思い出した。

 権三は昨年、暑い最中の七夕の頃に、物見遊山を兼ねた所用で江戸に出かけた。陶次は戻って来た権三から、江戸での七夕の様子を聞かされた。

 権三の話によれば、江戸の七夕は見事ならしかった。

 青竹に短冊や色紙をつけた〝竹短冊〟を、長い竿の端に結びつけ、子供の有無にかかわらず、貧富も無関係に、どの家でも町屋の屋根よりよほど高く掲げるのだという。各家々を見下ろす中空で、色とりどりの笹飾りがひらひら宙に泳ぎ『笹飾りの波の遙か向こうに富士のお山がくっきり見れたときは、雄壮さに涙が出そうやった』と、権三は柄にもなく子供のような目で熱く語っていた。

 お蔦も、権三から江戸の七夕祭りの盛んなありさまを誇張たっぷりに聞かせられていたのだろう。女子供なら喜びそうな話題だった。

 権三の見た光景を思い描き、お蔦も気紛れで真似て見たくなったのかも知れなかった。

 そういえば……。

 今の今まで全て寺子屋かと思い込んでいたが、いくらなんでも多すぎる。近頃は江戸を真似る家が多くなったのかも知れないと思い至った。

 とはいえ陶次には興味のない話題にかわりなかった。

 陶次の足はなおも、お蔦の家がある西洞院蛸薬師の方向に向いていた。

 出雲松平屋敷の横を通った。左手には、薬の市が立つ、こぬか八幡の本堂の甍が町屋越しに見えた。

「近頃、盛んになった七夕の行事かて、もともとは宮中の行事から来てるらしいさかいな。お蔦かて、生まれた家で飾ってたんをふっと思い出して、懐かしなりよったんかも知れん」 

 陶次は上京と下京を分ける二条通を横切った。二条通のこの辺りは薬問屋が立ち並んでいた。二条通は二条城の大手筋で、通りの東端が、京の中心部と伏見とを結ぶ運河、高瀬川の起点だった。

 押小路通を過ぎて小池通も跨いだ。左手は津軽屋敷だった。

 お蔦の家は目と鼻の先になった。

 ここまで来てしまったが、朝帰りの権三とばったり鉢合わせでもしたら、バツが悪いではないか

 夕方の逢瀬が待ち遠しくて、夜明けから女の家の近くをうろついているなど、滑稽きわまりないと考えた陶次は、紀州徳川屋敷の手前で、三条通を東に向かうつもりになった。

 だが……。

 西洞院通と六角通とが交差する辺りで、人の動きがおかしいことに気付いた。

お蔦の家の方角だった。

 胸騒ぎを覚えた陶次は、傘を打ち捨て脱兎のごとく駆け出した。

「お蔦」

 お蔦の家がある新道には、ときならぬ野次馬が山のように集まっていた。

 近くの店の使用人風あり棒手振りあり。寝起きのまま飛び出したらしいだらしない身なりの長屋のおかみさんもいる。裸足のままの職人風の男も見受けられた。

 明け六つは、皆が目覚め活動を始める時間である。もう少し遅い刻なら、見物人はもっと大人数になっていただろう。

 皆の目は新道の奥に向かっていた。

 まさか……。 

 陶次の胸がざわつく。喉がひくつく。

 この新道には何軒も家が並んでいる。他の家で何事かがあっただけで、お蔦の家のはずはないと、陶次は思い直した。

 お蔦はこの時刻、権三と一つ屋根の下にいる。権三は陶次より歳を食っているものの、相撲取り顔負けの力は、いまも衰えていなかった。権三ほど心強い男はそうそういないはずだ。

 角にある仕舞屋の主らしい初老の男が、寝巻きのまま黒塀の前で、内儀らしき女性と顔を見合わせ、ひそひそと話をしている。

 やはり胸が騒ぐ。心ノ臓が存在を主張し、陶次を焦らせる。落ち着いてはいられない。とにかく早く確かめたかった。

「道を空けろ。これが目に入らねえか」

 腰に手挟(たばさ)んでいた十手が役に立った。邪魔な男を十手でこつき、女を押しのけて人の間を縫うようにお蔦の家の前まで来た。

「な、なにがあってん」

 異変の起きた場所は他ならぬお蔦の家だった。

 文吉の妾だった女が、新しい旦那らしき恰幅の良い男の腕にすがりながら、品のない声で鴉が啼くようにぎゃあぎゃあと騒ぎ立てている。

 通りがかりらしき豆腐売りが、誰かと大声で話している。

 お蔦の家の前は、人が近づけぬよう下っ引きらが固めていた。

「おう。陶次親分」

 顔を見知った下っ引きが声を掛けてきた。

「今、町番屋に知らせが入って駆けつけたとこどす。うちの親分が中に入って、市原の旦那が来はるのを待ってるんどすが。えらいことどすわ。権三親分が……」

「権三親分がどないしてん」

 問わずとも下っ引きの顔色と声音で、事の重大さがわかった。権三の生死も大事だったが、陶次にとって肝心なのは、お蔦が今現在、どこでどうしているかだった。

 下っ引きは『権三親分と』とは言わず、『権三親分が』と告げたところから推測すると、権三とともに事件に巻き込まれたお蔦は、無事に逃げおおせたのかと、陶次が安堵する間もなく……。


              四


「親分と……。ほんでから妾の女が斬り殺されてましたんどす」

 下っ引きの一言が、陶次を脳天から打ちのめした。

 そこいらの景色が反転し、雨に濡れて色鮮やかな木々の碧や家の輪郭が、黒く沈んで色を失った。

 下っ引きが何かまだ言っているが、もう聞こえなかった。

 見慣れたはずのお蔦の家が、見知らぬ余所余所しさを見せていた。

 普段と変わりなく、黒板塀のうちには、見越しの松ならぬ高野槇が細々と一本だけ覗いている。今日も縁側には、金柑や万年青の鉢植えが並んでいることだろう。

 だが外からは見えなかった。背が高くなった蘇芳色の朝顔だけが顔を出し、塀の向こうで雨に烟っている。

 陶次は塀の外から腰高障子の戸口辺りを覗いた。障子はぴたりと閉められていて、中の様子は窺い知れなかった。 

 ふと目を戻せば、主を亡くしたばかりのお蔦の家の軒先に、こぢんまりとした青竹が立てられていた。

 昨日の昼間にでも取り付けられたであろう笹飾りは、雨に濡れて風に揺れている。

  陶次は塀の内に歩を進めようと足を踏み出した。

「いくら手先の陶次親分はんゆうても、市原の旦那のお許しがないと入れまへんで」

 陶次を下っ引きが止めた。陶次の耳に〝市原の旦那〟という同心の名だけ大きく聞こえた。

「通さんかい」

 なおも前に進もうとする陶次を、他の下っ引きたちも加わり、体を張って阻止しにかかった。激しく揉み合う。

「どけっちゅうとるやろが。どかんかい」

 陶次は下っ引きたちを殴り倒し、蹴りを入れて蹴散らした。下っ引きらは、陶次の剣幕に気圧されて動きを止めた。

 勝手知ったる家である。陶次は躊躇なく家の裏手に回った。

 鉢植えはいつもの通り濡れ縁に並んでいた。乱れた様子は一切なかった。雨戸が一枚だけ外れている。

 畳の上に、どす黒く染みが広がっていた。

 陶次は縁側を駆け上がり、座敷に上がった。権三の遺体がすぐ目に入った。権三は次の間へと続く襖の前で仰向きに倒れていた。

 お蔦。お蔦は……。

 陶次は速まる鼓動を押さえ、座敷を見渡した。

 お蔦は何故か、座敷の隅に〝仏〟を安置するように寝かされていた。静かに目を閉じ眠っているだけのように見える。浴衣の裾にも乱れはなかった。襲われて逃げ惑い、挙げ句に絶命した姿とはとても思えなかった。

「おう。誰かと思たら、陶次親分かいな」

 顔馴染みの目明かしの金伍が、開け放たれていた襖の向こうからのっそりと上背のある姿を現した。

「陶次親分いうたかて、勝手に入ってもろたら困りまっせ」

 陶次の顔は鬼のような形相だったに違いない。金伍は迷惑げに唇を歪めたが、あえて止め立てはしなかった。

「邪魔はせえへん。すぐ退散するよって」

 同心の差配もなくあれこれ手を触れるわけにもいかず、陶次は辺りの様子をざっと見回した。

 お蔦を最後に抱いた男が、相思相愛の喜助ではなく権三親分だったとは皮肉なものだと、寝乱れた夜具を見て妙な感慨が湧いた。

 主を失った家の中の空疎さは、陶次の心に空いた空洞を意識させた。

 寝込みを襲われ、逃げ出す間もなくどちらも袈裟懸けに一刀両断といったところだろうか。鮮やかな手口に見えた。腕の立つ武家の仕業に違いなかった。

 血の痕に残された草履の跡から推測して、賊は二人以上と思われた。

「そないいうたら陶次親分は、権三親分とえらい親しかったんどすな」

 金伍は迷惑顔から一転して同情の眼差しを向けた。

「そうや。ほんまに世話になってたさかいな」

「ま、わしらも、あっちのほうで厄介になってましたさかいな」

 金伍は壺を振る真似をしてみせた。

 他人から見れば、陶次とお蔦の関係より、権三親分との縁のほうが濃いと思うのだろう。

 自分はお蔦の何だったといえるのか。

 陶次の背筋の中を、隙間風がひゅるっと通り抜けた。

 お蔦とは、銭の遣り取りだけで成り立つ、旦那と妾の関係でしかなかった。

 しかも三人もいる旦那の一人に過ぎないではないか。他人から見れば、馴染みの女郎が死んだくらいに軽い出来事だった。

 陶次は寂しい我が身の立ち位置を、今さら思い知らされた。

 妙な感傷に突き動かされて取り乱す資格すら、陶次にはなかった。

 音もなく霧雨が外の光景を覆う。庭も塀も隣家も、すべてが模糊としていた。

 いつぞや霊山山麓の料亭珠阿弥で覗かせてもらった遠眼鏡を、いきなり目から離したときのように、周囲の景色が目眩を起こしたように遠ざかった。

「権三親分はんには世話になってたんで、ついかっとなってしもて、すまんかったのぉ」

 陶次の口から出た声は、自分でも意外なほど落ち着いていた。

「陶次親分。そら無理もおへん。わかりますえ。急なことどすからなあ」

 金伍はいかにも同情に耐えないといった大仰な素振りで、何度も頷いた。

「おおきに。ほならわいは退散しまっさ」

 陶次は平静さを装いながら門口に戻った。大地が地震のようにゆらゆら揺れる。気のせいに違いない。陶次はよろけぬよう気をつけながら足を運んだ。

 黒塀の外に一歩を踏み出して一息ついた。

 隣の家の軒端に、七夕の笹飾りが賑やかに見えた。

 派手な飾り付けを見て陶次は、隣の住人が寺子屋を営んでいたと思い出した。

 今日は子供たちの書いた手跡がとりつけられる手筈だったのだろう。

 短冊や色紙のほか、酸漿(ほおずき)形や帳面形や筆形や、はたまた西瓜を切った形など種々の作り物が、色とりどりに青竹に付されている。

 雨を避けて軒下に取り入れられてはいたが、それでもかなり惨めな姿になり果てていた。

 寺子屋の師匠らしき年配の浪人が、お蔦の家の様子を気にしながら笹飾りをさらに軒の奥に立て直そうとしている。  

 お蔦は、隣の家が去年、派手に飾っている様子を見て、幼い頃でも思い出したのか。それとも『旦那の気を引くための小道具に使たろ』と思いついたのか。

  陶次は『七夕の笹は小細工のための工夫だった』と思いたかった。

 昨今は飾りが売られ、出来合いを買い求める者も多いと聞く。

 だがお蔦の竹飾りは手作りらしく、不器用な出来だった。

 陶次はまとわりつくような雨に濡れそぼりながら、心の奥底まで湿りそうな気持ちを、埃を払うように一掃した。


             五


 ようやく市原が到着し、黒塀のうちで調べが始まった。

 家の中を野次馬たちが無遠慮に覗き込み、ひそひそと根も葉もない噂話をしている。

「やっぱし、今まさに大流行りの〝天誅〟ちゅうことどすやろか」

 いつの間にやってきたのか、陶次の脇に勘助が立っていた。小者を通して各町番屋に届いていた知らせを番屋詰めから聞いて、駆けつけたらしかった。

「天誅てか……」

 天誅という言葉に、陶次の胸の奥の糸がいきなりびんと張り詰めた。

「この前かて、ありましたがな。ほら……」

 勘助はいかにも恐ろしげに声を潜めた。

 勘助自身はあまりの下っ端ゆえ、天誅に遭う恐れなど一切なかった。無責任に、他人の不幸や恐怖を面白がっているのが本音だろう。

「斬り殺されたんやから、確かに天誅の線かもな」

 戊午の大獄――安政の大獄時の井伊直弼による過度の〝粛清〟の嵐は、桜田門外での本人の死を持って吹き止み、逆向けの暴風雨が京に荒れ狂ったのは、つい一年から半年前だった。

 権三も攘夷派の召し捕りに熱心だった。尊攘派に大きな恨みを買っていないとは言い切れなかった。

「権三親分の殺しが天誅やったら……」

 懸念を口にすれば気掛かりは影を深めた。文吉の亡骸の悲惨さが、今更ながら鮮明に蘇った。

「権三親分はんが天誅に遭わはったちゅうことは、陶次親分はんかて危のおっせ」

 勘助は図に乗って鼻の穴を膨らませ、陶次に姑息な脅しを懸けた。

 目の前で金伍の下っ引きたちが意気込みながら「誰ぞ、怪しげな奴を見たもんはおらへんか」と聞き込みを始めた。

 誰もが「知りまへんどす」「見てなんかおへんえ」と口を揃えた。関わり合いになりたがらないのか、一向に埒が明かないようである。

「のぉ、勘助。みんな怖がってるんや。不逞浪士は『尊皇や、攘夷や』いうて大義を振りかざしてるけど。あれは口実や。京の町は〝ただ暴れたいだけの狂った奴ら〟のええようにされてる」

 陶次は霧雨を降り撒く暗い空を睨め付けた。細かい雨は薄衣のように、あらゆるものに覆い被さる。

「まあ、不平不満や鬱憤を溜め込んで『誰ぞ血祭りに挙げたろ』て思てる連中どす。言い懸かりみたいな災難かてありまっさかいな」

 勘助は短めの顎を太短い指で撫でた。

「陶次親分はんかて『関係あらへん』て髙を括ってたら、あきまへんどすえ」と付け足した。

 対岸の火事のはずが、川の幅は思ったよりも狭くて、向こう岸の火の粉はこちら岸にもどんどん舞い始め、今にも飛び火せんとしている。

「言われんでも、わかってるがな」

 陶次は勘助の諄(くど)さが癇に障り、怒鳴りつけた。勘助は太い首を竦めて頭を掻いた。若さゆえの傲慢さや生意気さと自信過剰の裏返しの劣等感は、陶次にも覚えがあった。

「わいが京に来てすぐ、桜田門外での異変の知らせを聞いたんや。そやから攘夷派の召し捕りやら密告に、わいはまるっきり関わってへんが、そないな事情を勘案してくれる相手とは限らんからのぉ」

 文吉と権三と陶次は、お蔦繋がりの目明かしだった。陶次も〝同じ穴の狢〟として、次に狙われないとも限らない。なにしろ理由をつけて人を殺すことが〝天誅〟であると信じる物騒な輩が、この京にごまんと集まっている。

 不安が、黒々した夜の波のように陶次の心に押し寄せた。


             六


「お、出てきよりましたどす」

 勘助の言葉に陶次は、お蔦の家の戸口に目を移した。

 菰を掛けられ戸板に乗せられた遺体が、家の中から運び出される。

「お蔦も災難どしたな。一緒におったばっかしに巻き添えを食うてからに」

 勘助が気の毒そうに呟きながら、神妙に手を合わせた。

 勘助のやることなすことを態と臭く感じるのは、自分の気持ちがひねくれているからなのかと、少しばかり自省しながら、陶次も神妙に仏たちに手を合わせた。

 ぶらりと力なく垂れたお蔦の腕は、いつにも増して異常に白く、人形のようだった。馴染みの女だったとはとうてい思えなかった。

 普段の検使のときに視る、見慣れた見知らぬ骸(むくろ)と変わらず、諸行無常が身に染みた。

「わいかて、いつなんどき『天誅や』て同じ骸にされるかわからんてか」

 お蔦と夕涼みに出掛けた六月初めの四条河原の喧嘩でも『天誅や』と声高に叫ぶ者がいた。騒動の記憶が今頃になって、陶次の心の中で恐怖の羽を広げた。

『必ず手を下した者を捕えてこましたる』と威勢良く言いたいところだったが、天誅となれば話は別だった。

 天誅は、個人的な恨みとは無関係なので特定が難しい。尊攘派周辺を迂闊に嗅ぎ回れば『幕府の犬』として容易に抹殺されかねなかった。

 長州や薩摩など雄藩の何れかが暗殺者の後ろについていれば、なおさら探索は難しいうえに危険だった。町方の陶次などの手に負えない。最初から腰が引けてしまった。

 天誅のとばっちりを受けぬ間に、いっそ京を離れたほうがよいのではないかとの、男らしくない選択肢が、陶次の頭をよぎった。

『君子、危うきに近寄らず』という格言もあるではないかなどと、うだうだ考えていたとき。

 同心お決まりの絽の黒い羽織姿を着た市原が、戸口からのっそりと姿を現した。

「おう。陶次も駆けつけておったのじゃったな」

 軒端の陰に立つ陶次を目敏く見つけて声を掛けてきた。

 自分の手下が殺害されたとあれば、市原とて動揺しているのだろう。気軽さを装った呼び掛けは暗みを帯びた色をしていた。

「天誅絡みじゃな。間違いない。そのほうらも気をつけたがいいぞ」

 間近で見た市原の顔は、血の気が失せて紙のように青褪めていた。

「安政年間の仕返しっちゅう意味での天誅は、去年の秋でもうお仕舞いやと思てましたが」

 昨年九月二十三日に、京都町奉行所の与力が四人も『我が身が危うくなった』と京を逃げ出したが、江戸へ下向途中だったところを殺害され、首が粟田口に晒された。

 とはいえ、与力殺害を最後に攘夷派の矛先は他に向いていた。

 一段落と安堵していた矢先の事件であるから、陶次同様に市原にとっても恐怖は迫っていると考えているのだろう。

「油断は禁物じゃったな」

 市原とて職務上、いつ火の粉が降り掛からないとも知れない。

「お上に仇なす不逞の輩は許せん。必ずお縄にしてみせる」

 市原は態とらしく鼻息を荒くし、大股で足早に去って行った。

「この新道に住まうもんは、後ほど引き合いをつけるよってに、出歩かずに家の中で待つように」

 金伍が周囲の人々に念を押す。

 下っ引きが野次馬を蹴散らすように肩で風を切りながら、金伍の後にぞろぞろ続いた。


               七


 町方が去ったあとも、陶次はお蔦の家の軒先にいた。

 軒端の笹飾りが触れて欲しげに揺れている。短冊に書かれた文字まで気に掛けなかった陶次だったが、

「どれどれ。お蔦は何と書いとったんやろ」

 重い空気を吹き消すよう軽い口調で言いながら、短冊の一枚を改めて手に取った。

「なんやて。『とうじさん むすめ へいゆきがん』て……」

 流麗な平仮名が雨に滲んでいた。

「あ、そうか。『陶次さん、娘、平癒祈願』ちゅうことかいな」

 ようやく意味が読み取れた陶次の喉元に、ほろ苦いものが込み上げた。

「わいの機嫌取りかい」と苦笑しながら、他の短冊も手にしてみた。勘助が横合いから覗き見て、

「陶次親分はんのことばっかしどすな」と大仰に感心した。

 確かに、喜助や権三の名を書いた短冊は一枚もなかった。

「七夕の夜はわいが訪ねる日やったからな。他の旦那は来(け)えへんから、他の奴の名前は要らへんかったってか」陶次は苦笑した。

「こないな心遣いで、旦那一人一人に『うちの真心は、あとの二人にはのうて、あんさん一人にありますのんえ』て思わせとったんどすな」

 勘助はしたり顔で、喉の辺りを撫で上げた。

「まあそういうこっちゃ」

 旦那たちを巧みに操っていたお蔦のしたたかさが憎らしくもあり、今となっては、一瞬にして萎む朝顔に似て哀れでもあった。

 天誅絡みとなれば、騒ぎの拡大や飛び火を恐れて、市原の上司である与力が、果たして探索させるか疑わしかった。

「連中が死骸を晒すときみたいに、罪状を書いた捨札でもして、『何某が天誅を下したものである』と世間に知らしめへん限り、誰が殺ったか雲を掴むような話やからな」

 刻が経ち、冷静さが戻るにつれて絶望だけが増した。

 天誅の火の粉がこちらまで飛び火せぬうちに、本当に京を逃げ出そうか。

 お上にも京にも、別段これといって何の義理もない。

 小者でしかない自分には似合いの決断だろうと、陶次は目を瞬かせながら、霧雨に煙る空を見上げた。

「ねえ、親分はん。天誅は怖おすなあ」

 勘助がまたも不安の火を掻き立てるつもりか、狭い額に縦皺を寄せて陶次の顔色を窺った。

「いや待てよ」

 陶次は勘助の意地の悪さに、却って冷静になった。

「捨札で思たんやが……」

 陶次は雨の新道に踏み出した。道はぬかるんでいる。大勢いた野次馬の姿もかなり減っていた。

「天誅の線は弱いやろ。天誅やったら権三親分の死骸をそのままにして立ち去ることはあらへん。首を三条河原に晒すなりして、己らの所行を世間に誇示したがるはずや」

 陶次は自ら下した判断に安堵するとともに、要らぬ心配をせねばならぬ日頃の行いを情けなく感じた。


               八


「せっかくやし。もろて帰ろか」

 陶次はお蔦の作った七夕飾りがついた笹を持ち帰る気になった。

「天誅でなかったとすれば、怨恨か物取りか」

 歩み出した陶次の縞の小袖は雨を含んで重みを増し、肌にすがりついた。

「恨みつらみの線どすやろな」

 勘助は陶次に自分の破れ傘を差し掛けながら、いっぱしの目明かし気取りで目を輝かした。

「物取りに入るんなら角にある仕舞屋のほうが、なんぼか狙い目やろしな」

「権三親分はんを恨んでた輩は多おすからなあ」

 お互い思いつきを言い合いながら、考えを纏めていく。

「刀で斬られたんやから絞られるんと違うか」

「必ずしも二本差でのうても、普段から刀を使い慣れてる者かもしれまへんどすなあ」

 権三の周りに渡世人が多かった。一本差のヤクザ者とも考えられた。だが、大多数のヤクザ者が使う得物といえば匕首(あいくち)だろう。

「権三を恨む誰かが、知り合いの痩せ浪人に頼んだっちゅう場合も考えられるけどな」

「うちが一っ走りして……」

 勘助が傘を片手に掲げながら、器用に腕捲りした。

「あとの子分二人にもこれから知らせてきますえ。うちら三人で、この辺りのもんに当たってみます。何か手がかりになるものを見聞きしてるかも知れまへんどすから」

 勘助は小才が利くので、町中に出てタネを集めるには役に立つ。

「頼むわ。わいも、権三親分の賭場に出入りしてた人間から調べてみるさかい」

 賭場での負けが込んでいたり、高利で金子を借りていて権三から厳しい取り立てに遭っていた浪人数名の心当たりがあった。

 陶次は、黒塀の並ぶ新道を、勘助と並んでゆっくりと歩いた。野次馬たちは元の日常へと去り、通り沿いの家も、見かけだけはいつも通りの朝に戻りつつあった。

「喜助はんに知らせんでもええんどすか。お蔦はんの旦那どすやろ」

 心の端に引っ掛かっていた喜助の名を、勘助が持ち出した。

「そやなあ……」

 陶次は言い澱んだ。

 今朝方に出会った際の喜助の顔色は尋常でなかった。あれは、お蔦の死をいち早く知っていたためだったのか。

 知っていたなら、どうして陶次に告げなかったのか。

 あれこれ考えながら、新道の角の仕舞屋の近くまで戻った。

「……それがどすなあ」

「へえ。ほんまどすかいな」

「そいつが天誅を下したのかいな」 

 豆腐売りが仕舞屋の主夫婦相手になにやら立ち話をしていた。

 お上の関係の者は、見張り以外、引き上げたと思っているのだろう。

 気を許しているのでさほど小声ではなかった。

 陶次たちが近寄って来るのにも無頓着で話し込んでいる。

 幸い三人は、陶次の腰の十手にも気付いていないらしかった。

「手前で待っとれ」

 陶次は腰に手挟んでいた十手を抜き取るや、素早く勘助に手渡した。ついでに手にしていた笹も持たせた。手習いの師匠宅の軒下に勘助を残すと、陶次は勘助の破れ傘をさした。


                九


 端折った小袖の裾を元に戻し、陶次は何気ない様子で話の輪に近づいた。

「ほんで、ほんで、あんたはんが、お蔦はんの家から出てくるのを見たっちゅう男は、どないな顔やったんどす」

 仕舞屋の女房が興奮冷めやらぬ様子で首を前に突き出した。

 女房の着ている小袖は値が張りそうなものの、頭のほうは歳のせいで髪が薄くなり、髢(かもじ)を入れてようやく貧弱な島田髷を結った体(てい)だった。

「けど、見かけたんはお店者どっせ。刀で斬り殺されはってんから関係おへんで」

 棒手振りが担いできた、一丁が十二文、半丁が六文の豆腐の桶は、野次馬どもを相手に商売をしたものか残り少なくなっていた。今は豆腐ならぬ油を売っているらしい。

「そやし、お上に聞かれたときかて『何も見てしまへんどす』て答えたんどすがな」

「それがよろしおす。うちらみたいに閑な隠居は、引き合いをつけられても構しまへんけどなあ。あんたはんどしたら、豆腐売りの商売あがったりになるさかいなあ」

 老人シミが目立つ角張った顔をした仕舞屋の主が、したり顔で頷いた。

「ほんまに。ほんまになあ。そうどすえ」

 亭主の言葉に、女房が大して意味のない相槌を打った。

「けど、お店者に化けた武家崩れの盗賊とか浪人者かも知れへんがな」

 亭主が穿った意見を述べた。

「それは。気付きまへんどしたな」

豆腐売りがとってつけたような笑い声を上げた。

 喧々囂々、噂話はまだまだ続きそうである。

 手がかりが掴めそうな気配に、陶次の掌が汗ばんだ。

「わしも見ましたどすえ」

 陶次はすたすた歩み寄ると、惚けながら、京言葉もどきで話に加わった。

「うちは、その先の家の遠縁のものどす。昨日の晩は泊まってたんどすが、まだ暗いうちどしたかいなあ。お蔦さんちゅう人の家からその男はんが出てきはったんは……」

 陶次は縄跳びの縄に入るときのように、気軽な口調で鎌を掛けた。

「いや、いや」

 蟷螂のように痩せた豆腐売りは、口を尖らせて、すぐさま乗って来た。

「うちが、こないして豆腐売りに来たのどすから、夜明け前どした。晩とは違いますえ」

「そうどしたかいなあ。うちかて寝ぼけてたもんどすから」

 陶次は頭を掻いてみせた。

「あんたはんが見かけはったのは、どないな男どした」

 鶏がらのような内儀が餌を啄(ついば)むように陶次に向かって首をぐいと突き出した。

「どないてなあ……。お店者ちゅう以外は……」

 陶次は豆腐売りの口の軽さに期待しながら、口を濁した。

「やっぱしお店者風どしたか。細身どしたけど、えらい男前どしたなあ。それが、なんや真っ青な顔して、逃げるみたいにお蔦はんの家から出てきはったんどす」

 やはり喜助はここに来ていた。

「そうどしたなあ。うちが見た男はんとおんなじどすわ。で、豆腐屋はん、あんたはんは他に何か見はりましたかいな」

 陶次は逸る心で畳みかけた。

「それだけどすなあ」

 豆腐売りは一つ大きく唾を飲み込むと「これは内緒どすけどな。実は……」と陶次に顔を寄せた。

「お蔦はんは、わしのお得意はんどしたし。ちょっと気になって、家の外から声を掛けたんどす。返事があらしまへんよってに、念のため裏から回って覗いて見たら……」

 豆腐売りの息が陶次に掛かった。興奮のため口中が乾いているのか、鼻が曲がりそうな異臭がし、陶次は思わず顔を背けた。

「すぐ町番屋に走って、名前は告げんと障子の外から『亀薬師近くの新道のお蔦はんの家が大変や』ていうだけいうて急いで逃げ戻りましたんえ」

 話が核心に迫って陶次の心ノ臓が鷲掴みにされる。

「そら誰かて、関わり合いにはなりとうないもんな。へた打って、どないな嫌疑が掛かるやも知れへんしなあ」

 陶次は思わず大坂言葉に戻ってしまったが、幸い誰も気付かなかった。

「ほな、売れ残った豆腐が腐りますさかいなあ。うちが見たっちゅうんは内密に頼みますえ」

 豆腐売りはそそくさと仕事に戻った。豆腐売りの間延びした声がたちまち遠ざかっていった。

「ほなわしらも家に入ろか」

 仕舞屋の主夫婦も、揃って黒塀のうちに姿を消した。

 勘助が小走りで駆け寄り、陶次がさした傘のうちに入りながら、小声で囁いた。

「怪しいでんな。ひょっとして喜助が殺したんやおへんか」

「あほかい。喜助は刀なんか持ってへんがな」

 刀と無縁なお店者の喜助が罪を犯したとは、どうあっても思えなかった。

「考えてみたら、喜助の件は、なんちゅうことあらへんがな」

 陶次はその場で勘助に説明し始めた。

「喜助はお店(たな)の用事で、暗いうちからお蔦の近くに出かけたんやろ。そんで『恋しいお蔦の顔を一目だけでも見られへんか』て、権三がまだいることを承知で、お蔦の家を覗きに行きよったんや」

「なるほど。それで」

 勘助が間の手を入れた。

「そこで喜助は異変を知ったが、寄り道を知られとない。関わり合いになって幾度も奉行所の引き合いに通わされては、商いに支障を来たす。卯兵衛はんに叱られるわな」

 陶次は確認するように勘助の目を見た。勘助は余所見を指摘された寺子屋の童のように慌てて、二度も大きく頷いた。

「そんで黙って立ち去りよったんやろ。ふらふら歩いているところをばったりわいと出くわしたけんど、事情があるもんやからわいにも『お蔦が死んだ』て告げられへんかったっちゅうわけや」

 推測が大部分だったが、真相はこの見当だろう。

「そういう顛末どすか。さすが陶次親分はんどす。ようわかるものどすなあ」

 単純な勘助は、いかにも感心したふうに大袈裟に頷いた。 

 お蔦の死体だけ着物の乱れを直してきちんと寝かせてあったのは、喜助のせめてもの心遣いだったのだろう。

 今頃、喜助は奉公人の悲しさで、何食わぬ顔をしてその日の用をこなしているだろう。

 笹を手に陶次は歩き出した。

 さきほど道端に放り出した、陶次の傘はどこにも見あたらなかった。 

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