第2話     次は七夕の夕にと約したが……


            一


 祇園会も終わり、七月に入って二日目だった。

 今夜は陶次がお蔦の旦那の番である二のつく日だった。暮れ六つ半でまだ完全に日は落ちていない中、陶次は亀薬師裏にあるお蔦の家を訪ねた。

お蔦の家は表通りにこそ面していないが、表店と表店の間を入った細い路地裏にあるような裏長屋などではなかった。小路や新道と呼ばれる、やや広い幅九尺ほどの道に面していた。

通りの裏は西洞院川に面しているので、家々の間を通り抜ける涼風が心地よかった。

角の家は、引退した西陣織の大店の主だった初老の男が住まう仕舞屋(しもたや)である。

「いつ見ても豪儀なもんや。わいらは商売を辞めたら、すぐにおまんまの食い上げっちゅうのに」

 大塀造(だいへいづくり)と呼ばれる立派な塀が目立つ屋敷は、二階建てだった。

 仕舞屋の先に黒板塀で囲まれた平家が建ち並んでいる。

 同じ黒塀でも、主によって趣が違っていた。

 陶次は家々の佇まいを眺めながら、お蔦の家を目指した。

 三味線の師匠の家は粋で、商家の通いの番頭宅は当たり障りなく質素で平凡である。

 藪で有名だった町医者宅は、流行らなかったために窮して転居したのか、塀の板が一枚剥がれたままで、間から見える庭も荒れ放題だった。

 お蔦のような囲い者の家が他に二軒あり、いずれも文吉の囲っていた妾の家だった。

 文吉の死後、妾の一人は行方知れずで、もう一人の妾はお蔦のように新たな旦那を取って住み続けている。

「お蔦の家が、この界隈では一番の小ぶりやな。それでもわいの家より大きいがな」

 お蔦の家は本瓦ではなく、京に多い勘略瓦葺きの平屋だった。

 広い住まいではないが、小さな庭もあり、それなりに粋な構えの家である。

「ごめんよ」

 二間ある黒塀の引戸を開けると、ささやかな庭が見え、朝顔の鉢から蔓が伸びていた。今朝方に開いた花がいくつか萎んで、名残を留めていた。

 陶次が塀の内に入るか入らぬかのうちに、格子戸ががらがらと音を立てて開けられた。

「陶次はん」

 待ち構えていたらしいお蔦が、戸口から転がるように出て来た。

「聞いとくれやすな。今朝、起きてみたら、可愛がってた蘭虫の美濃吉はんが死んだはりましてん」

 涙ぐんで陶次の太い首根っこに囓りついた。

 お蔦は湯上がりに派手な柄の浴衣を着て、綺麗に化粧していた。

「泣いたら化粧が剥げるがな。そもそもお蔦は色が白いんやし、肌理も細いさかいに、白粉なんか要らんがな」

 陶次は女の涙に弱い。かつて女の涙にほだされて所帯を持った挙げ句に三行半を書かされた苦い経験もあった。

 涙を見れば心がひどく波立つ。何か小言の一つでも言って怒った振りをせねばならない気持ちになった。

「魚の一匹や二匹、どないしたっちゅうねん。お蔦かてしょっちゅう魚を食うてるやないけ」

 陶次はお蔦の腕を我が身から引き離し、意識して口をへの字に結んだ。

「そない言わはっても、あの美濃吉はんは、妾奉公を始めたときに奮発して買うた金魚どす」

 意外な言葉がお蔦の口から出た。

「文吉親分が買ぅてくれたのと違(ちゃ)うかったんか」

  陶次の言葉に、お蔦の眉が金魚の尻尾のようにぴくりと跳ねた。

「陶次はんが、初回のとき『足入れ金』やていうて、枕元に置いていかはったお手当で買うたんどすがな。そやから陶次はんに『美濃吉はんが死んでしまはった』て言いたかったんどす」

 なにやらむず痒い感触が陶次の足許から這い上がり、心ノ臓を揺さぶった。

「けど……そないな話、初耳やで」

 お蔦の口から足入れ金の使い途を聞かされた記憶はなかった。

「え。言うてしまへんどしたかいな。そんなはずはおへんえ」

 お蔦は陶次の記憶の不確かさを詰る目をした。

 二年前の当時、酒に酔っていて、お蔦の話をいい加減に聞き流したのだろう。

「文吉親分がお蔦の気ぃ引くために、高価な蘭虫を買うたったて、今の今まですっかり思い込んでたがな」

 陶次は首の後ろを掻きながら、笑い飛ばした。

「陶次はんのイケズ~。文吉親分に買うてもろた金魚やったらこないに大事にしてますかいな~」

 お蔦は鼻に掛かった声を出しながら、涙目できっと睨んだ。

「それにしても、えらい派手な色目の浴衣て珍しいやないけ」

 陶次は不自然だと分かりながらも、懸命に話を逸らそうとした。

「陶次はんがこないだ言わはったどすがな。『地味な色ばっかしやのうて綺麗な色も着ぃ』て」

お蔦は拗ねたような口調で、陶次をやり込めた。

「そうやったかいのぉ。とんと記憶にござりまへんがな。しかし、ええで。よう似合(にお)てんがな」

 陶次は念入りに剃り上げた月代を撫でた。

「美濃吉はんが亡うならはったのは悲しおすけど。死んでしまはったもんは、しょうがおへん」

 機嫌を直したらしいお蔦は、陶次の手を取って家の内に招き入れた。

「金魚ごときに、なんでいちいち敬語を使うねん」

 陶次は呟きながら敷居を跨いだ。

 京では、我が子や飼い猫にも『……したはる』などと敬語をつかう者が大勢いる。陶次はいつまで経っても耳慣れず、奇異に感じてしまう。

 子供や猫を独立した相手として気持ちを尊重しているのか、何に対しても一定の距離を置こうとする京の人の心の冷たさの現れなのかは、わからなかった。

 陶次は中の間を抜け座敷に通された。座敷の向こうには前栽が見える。前栽に突き出した縁側には、万年青などの植木鉢が置かれていた。

 前栽から御簾を通して風が通り抜ける座敷には、酒の肴が並べられ、蠅帳(はえいらず蝿不入)が掛けられていた。

「ええ匂いがするがな。お蔦がほんまに作ったんかいや。仕出し屋に頼んだんと違(ちゃ)うんか」

 冗談を言いながら、陶次は上座にどっかと腰を下ろした。お蔦が慣れた手つきで蝿帳を取り去った。

鹿ヶ谷南瓜に、万願寺唐辛子、賀茂茄子、壬生菜などで作られた京の家庭料理で、四季に合わせた〝おばんざい〟のとりどりの色が目に優しかった。

「お一つどうぞ」

脇に座ったお蔦と差しつ差されつ。酒に酔うのか、お蔦から漂う甘い香りに酔うのか。しだいに陶次の心は解れていった。  

 ふと横目で見た箪笥の上には数冊の書が載っていた。陶次は厠に立った戻りぎわに書を手に取った。なにやら小難しいそうな漢文の書である。

「なんやいな。これは……」

 お蔦ふぜいが読むとすれば黄表紙が精々だろうにと、陶次の心がざわついた。

「あー。それどすかいな。お店に持って帰るのも具合悪いいうて、喜助はんが置いていかはったんどす」

 お蔦はこともなげに答えた。

「やっぱし喜助の置き土産かい。権三親分もわいもこないな高尚な本は読まんさかいな」

 陶次のほかに二人も旦那がいるのは承知の上だから、誰かの持ち物が置き忘れられていても、文句をいう筋合いはないものの、他の旦那の名残は、目につかぬようにしておく配慮が欲しかった。

 お蔦の鈍感さに陶次は苛立った。

「喜助は学があるんやのぉ。こないな本を読むんかいや」

 裏返すと、書肆商いの店の印が押されていた。陶次が使っている下っ引き、勘助の親が営む店から借り出された書だった。

「林子平の『海国兵談』かいな」

 頭が痛くなりそうな漢文が並んでいた。陶次はお蔦に学がないと思われたくない。わかったふうなふりでぱらぱらと頁を捲った。

 勘助の店は、この近辺では本揃えが良かった。喜助が本を借りる姿を見かけた覚えはあったが、どうせ読本がせいぜいだろうと髙を括っていた。何を借りたか知ったのは今日が初めてだった。

 陶次が読めば頭が痛くなるような書を喜助が読んでいたと知れば、面白くなかった。

「尊皇や攘夷や言うてる輩が好きそうな本やがな。こないな本を読んでたら、あんましええことないんと違うか」

 陶次は嫌味を言った。

 世の中の風向きは完全に変わっているから、当節の京では嫌味にもならないと重々承知していたが。

 喜助も、お蔦の手前、わかりもせぬのに背伸びをしているだけかも知れなかった。

「ま、ええ。飲み直そ」

 陶次は、涼しげな籐で編まれた網代の敷物の上にどっかと腰を下ろした。

「陶次はん……」

 目の縁をほんのりと染めて陶次の体にしなだれかかったお蔦の手が、陶次の崩した膝を撫でた。

 引き寄せると、お蔦の体が吸い付くように陶次の腕の中に収まった。乱れた裾から白い素足が覗く。

「お蔦……」

 陶次はお蔦に覆い被さった。お蔦の細い腕が『こんなに力があるのか』と思うほどの強さで陶次の体にしがみついた。

 泣きつくのも拗ねて見せるのも手練手管の芝居。こうして媚びるのも猿芝居に違いない。

 可愛いと思う愛しさを、陶次は封じ込めようと思った。お蔦の旦那でいられるのも、そう長くはないだろう。のめり込むのは拙い。

 陶次はもう若くない。そのくらいの分別はあるつもりだった。

 陶次はお蔦の陶磁器のように滑らかな太腿に指を這わせた。


            二


 明け六つ前に陶次は、縞の着流しを慣れた手つきで手早く端折った。後ろからお蔦が、同じ縞柄の羽織をそっと陶次の肩に羽織らせた。

 蚊帳の中に残されたままの寝乱れた布団を横目に、陶次は大股で戸口に向かった。煙いばかりで効果の薄い蚊遣りの香りが、まだ何処かの家から漂ってきた。

「ほんならな」

 陶次は身軽に上がり框から下り、お蔦に向かって言葉少なに告げた。

 後朝(きぬぎぬ)はいつも寡黙になる。心地よい疲労感と後ろ髪を引かれる思いともやもやした得体の知れぬ不安が、鍋の中でドロドロぐつぐつと煮え、闇鍋が出来上がる。

 次にここへ来る日は、中四日空けての七日だった。

 一月のうち、権三が一と六のつく日で、陶次は二と七のつく日、喜助は四と九のつく日という具合に、約束を交わしている。  

 陶次は上がり框に腰を掛けた。三和土には真っさらな草履が用意されていた。草履を履かせてくれるお蔦の指が、陶次の足の甲に温もりをもたらした。

 正確にいうと中三日だったなと、陶次は自分の思い違いに苦笑した。

 七月二日の夕暮れ時に訪ね、精も根も尽き果てての今朝は、もう七月三日なのだから、七月七日の夕方までは中三日である。

 戸口から裏庭までは、通り庭と呼ばれる土間が続いていた。通り庭は採光と風通しのために天井が吹き抜けで、竈が置かれた台所にもなっており、磨き立てられた水屋箪笥が重々しく黒光りしていた。

 中三日は長いような短いような……。

 陶次は肌に残ったお蔦の温もりを噛み締め、ざらつく舌で唇を湿した。

 余韻が深ければ、なおさら割り切れぬ思いが気泡になって、ぶくぶくと湧き上がった。

 権三親分と陶次は日にちが連続しているが、喜助だけ間が空いていた。生業として仕方なくこなす旦那二人は纏めて終わらせ、喜助との楽しい逢瀬は日にちを空けて十二分に鋭気を養ってからなのだろう。

 早朝の風が爽やかに家の中を吹き清めて、艶めいた余韻に水を差す。

 初めて会ったときのお蔦は生娘のようで、恥じらいが先に立っていた。だが、いつの間にやら、お蔦はすれっからしの女になった。もともとそういう質で、かまととぶっていただけかも知れなかった。

 二年が経った現在(いま)は十分に熟れてきた。か細いが必要なところだけは豊満な体で、陶次が戸惑うほど、際限なく求めてくるようになった。

  鯨帯を自堕落に締めたお蔦は陶次に向かって、昨夜の疲れを滲ませたはしたない笑顔を向けた。

 鉄漿(おはぐろ)に染めた口元は、蓮っ葉さが隠せない。

 昨日の晩も『男なしには一日もようおりまへん』という狂いようだった。男なら誰でもよくて、空いた日には男を咥え込んでいるかも知れない。いや、約束の日にち以外にも喜助が訪ねてるのに違いない。

 喜助はお蔦に似合いの男だった。根っから真面目で仕事もできる。おまけに、男である陶次から見ても、役者にしたいような良い男だった。

 ここは素直にお蔦の幸せを願ってやるのが筋だろう。だが、思う先から負け惜しみが首を擡げる。

 喜助はお蔦と一緒になれば、体が保たずたいへんなのではないか。

 お蔦の好き者具合は半端ではない。陶次ですら閉口するくらいの激しさなのだから、惚れた喜助相手なら、いったいどんなに狂うことやら。所帯を持てば、喜助は食い殺されるのではないか。

 陶次は喉が痒くなり、こほんと小さく咳をした。

「次に来てくれはるのは、ちょうど七夕の夜どすなあ。ふふ。うちなあ。笹飾りの短冊に願い事を書くつもりどすえ。なんて書くとお思いやすか。ちょっと考えとみやす」

 お蔦は思わせぶりに流し目をくれ、態とらしく小首を傾げる得意の科を作った。

いくらいっても、お蔦の首を傾げる癖は治らない。

 お蔦は旦那の気を引くのが上手いと、小憎らしく苦々しく思う一方で、陶次にまだ機嫌取りをするからには、すぐに妾奉公を辞めようというわけではなさそうだと、希望の芽が、ほんの一寸ほど地面から芽吹いた。

 だがすぐさま、ただの気紛れかも知れないと思い直した。

 女心は皆目わからない。ましてや、京女の心持ちは真綿か何かでくるまれていて、容易に透けて見えない。

 忖度できぬ陶次は、茶化すか怒ってみせるしかない。

「七夕がどうのてなんやいな。手跡を習(なろ)てるガキやあるまいし」

 京や大坂では、手習いの子供が詩歌を五色の短冊や色紙に書き写し、青笹につけて師匠宅に出向いて遊ぶだけで、戸毎に七夕飾りをする家は少なかった。

「やっちょもない」

 陶次は立ち上がり、戸口から一歩外に踏み出した。明るい日差しに一瞬だけ目が眩んだ。

「うふふ。内緒、内緒。ま、楽しみにしとくれやす」

 お蔦は艶やかな髪を引っ詰めに結った寝乱れ髪を黒鼈甲の櫛で撫でつけた。

 庭の朝顔は、露に濡れた蘇芳色の花を揃ってこちらに向けている。

「あほか」

 陶次は昨晩の夢の名残を頭から振り払いながら、敷地の外に踏み出した。

 門口で黒塀を背にして見送るお蔦に向かい、振り向くこともなく、陶次はぶっきらぼうに手を振った。


             三


 新道の角を曲がって通りに出たところで、下っ引きの勘助が「陶次親分はん」と、ぬっと姿を現した。

 今朝は勘助を供に連れて町番屋を回る約束だったことを、陶次は今になって思い出した。

「今日はお早いお帰りで」

 勘助は気の毒なほど醜悪な面相に、からかうような笑みを浮かべた。

「へへ。『名残が尽きんで後朝が長引いて、うちはだいぶ待たされるやろな』て覚悟してたんどすが」

 二十歳の勘助は血気盛んを持て余し、男女の仲がよほど気になるらしい。にやけながら陶次の半歩後ろを歩き始めた。

「喧嘩でもしはりましたどすか。いやいやそのお顔は『堪能した』て書いてますぇ」

 後ろに付き従っていたかと思えば前に回って、陶次の顔をしきりに覗き込んだ。

 勘助の親が営む書肆商いの店は、他所から来た旅人の名所巡りに役立つ『都名所図絵』など高価な書も貸し出している。

 喜助ら庶民が借り出すような書では儲けが知れている。高価な書から上がる利益が頼りだった。

 だが京の町が物騒になり、年々商売はあがったりになりつつあった。

 とはいえ父親が借家を何軒も持っているため、勘助は暮らし向きには困らない様子で、暇に飽かして陶次と一緒に町番屋を訪ねて回っていた。

 食用の鳥を扱う〆鳥屋の小僧が、暖簾を上げている。前を、豆腐売りと卵売りの棒手振りが威勢の良い掛け声と共に擦れ違った。

「なあ、なあ。陶次親分。昨日の晩はどないどした。正直に言うとおみやす」

 下卑た笑みを浮かべながら、勘助は馴れ馴れしく陶次の腕を突(つつ)いた。

 いまだに大坂訛りを通す陶次からすれば、勘助の京言葉は男として軟弱に思えてならず、癇に障る。今朝は、なおさら苛立った。

 無言のままの陶次の顔色に構わず勘助は、

「なあ陶次親分はん。言うて減るもんやおへんやろ。え? どないえ? どないどす?」

 涎を垂らさんばかりの顔で、しつこくせっついた。

 苛つく理由は京言葉のせいとは言い切れないなと、陶次は思い直した。

 権三は京言葉で喋っていてもきっちりドスが利いているし、喜助もはんなりしてるが、何処か一本しゃんと芯が通っていた。

 勘助の京言葉は、同じ商人である喜助と似ていたが、印象がまるで違う。

「色男はもてもてでよろしおすなあ。お蔦はんもぞっこんどっしゃろ」

 勘助は陶次の気持ちを他所に、指笛でも吹かんばかりに冷やかし続けた。

「あほ言うな」

 一喝した陶次に勘助は『親分はんは謙遜してはる』とでも思ったらしい。

「陶次親分はんは、苦み走ったええ男どすがな。腕っ節も半端やおへん。手下を務めてはる親分衆は、捕り物のとき先頭を切って捕縛に向かわはるのに、素手が基本どっしゃろ。十手術やら捕縄術やら日頃の鍛え方が違いますがな」

 褒めれば相手が喜ぶと単純に考える短慮が、勘助の京言葉を貶めているらしかった。勘助はまたもだんまりを決め込んだ陶次になおも畳みかけた。

「羽振りでいうたらなんちゅうても、二条新地に妓楼を構えてはった猿の文吉親分はんどしたけどなあ」と、少しばかり遠い目をした。

 商人らしい拝金主義が、卑しい顔を覗かせる。鼻の先を短い人差し指でこすりながら、

「けどまあ、なんちゅうても、男ぶりでも頼りがいでも、やっぱし陶次親分はんどっせ」

 勘助は我がことのように、誇らしげに胸を張った。勘助の身贔屓は有難かったが陶次は背中がむず痒くなった。

「はは。ええかげんにしさらさんかい」

  陶次は勘助の胸板を拳で軽く突いた。

「そない言わはっても……」

 勘助は心外とばかりに口を尖らせた。

「勘助、あいにくやが、お蔦がぞっこんなんは、あの喜助やがな」

 喉元に苦いものを感じながら、陶次は吐き捨てた。

「ひえぇ。お蔦はあないな優男がええんどすかいな。お蔦も見る目がおへんな」

 勘助は不満げに鼻を鳴らし、ついでに手鼻をかんだ。

「勘助。男が見てええ男と思うのと、女が思うのは全然違うんやで」

 陶次の頭に、先程の小難しい書が浮かんだ。

「喜助は学もあるらしいやないけ。おんどれの店で、えらいひこ難しい書を借り出してるそうやないか」と水を向けた。

「そうでんねん。ほんま喜助ちゅうやつは、身の丈をわきまえへん生意気な男どすえ」

 勘助も苦々しげに応じた。

「学問好きが嵩じて、いつの間にやら危ない集まりにも顔ぉ出して攘夷かぶれしてるっちゅうことも、あり得るわな」と、ふと漏らした陶次の言葉に、

「なあ親分はん。親分はんが喜助を気に入らはらへんのどしたら、周りを探りまっせ。言いがかりつけてしょっぴく算段でもしてみまひょかいな」

 あくまで陶次贔屓の勘助は、にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべた。

嗅ぎ回れば、お縄にできる口実くらいは見つかるかも知れない。無かろうとも、この御時世『なんぞの一味や。不逞浪士の繋ぎをやっとる』とでっち上げて無理矢理にでも吐かせれば、どうにでもなる。

 一瞬だけ暗い考えが陶次の頭をよぎった。拷問蔵で厳しく責め苛まれる美男の喜助の哀れな様が気泡のように浮かんで、たちまち消えた。

 自分は何を考えているのか。男の悋気はみっともない。

 陶次は首を振って、顔の周りを飛び回る藪蚊を追い散らすように、妄想を振り払った。

 ついでに、勘助は本気なのかと、豚に似て鼻が上向いた顔を横目で睨んだ。

 贔屓目に見ても有り得ないほど不細工な勘助は、美男の全てに恨みを持っているのかもしれない。少なくとも妬みや嫉みは陶次より深く重いだろう。

「な、親分はん。やってみまひょか。おもろおまっせ」

 にやりと笑った勘助の、節穴のような瞳の奥に『誰かを不幸に追い込みたい』というどす暗い欲望の深淵が、ちらりと姿を垣間見せた。

「攘夷かぶれくらいなんぼでもおる。いちいち捕まえてたら、今でさえ手狭な六角の牢屋敷は、すぐ一杯になって溢れてまうで」

 陶次は豪快に笑い飛ばした。

 一陣の風が通りを吹き抜けた。朝まだ早いのだが、風は既に生ぬるくなっていた。

「あ、噂をすればなんとやらどす。向こうから歩いて来よるのは喜助でっせ」

 勘助の声に陶次は思わず用水桶の後ろに身を隠した。

「あほ。なんでわいらが隠れなあかんねん」

「へへ。手下と下っ引きの悲しい習性どっしゃろな」

 勘助が黄色い歯を覗かせた。

 喜助はなにやら落ち着かぬ様子で、他人目(ひとめ)を避けるように歩いてくる。

 陶次と勘助には気付かぬ様子で、用水桶の脇を通り過ぎた

「朝っぱらからお蔦の家に行きよるんどっせ。うちがちょっと〝探索〟してきますえ」

 言うなり勘助は陶次の指図も待たず、喜助の後を追った。

「『外周りのついでに、ちょっとだけ楽しんでこましたろ』っちゅうとこやろ」 

 陶次の中にかろうじて残っていたお蔦との余韻の一欠片が、真夏の淡雪のようにあっさり消え去った。

「そないな濡れ場を見ともないわ」

 陶次は道端の石を蹴飛ばした。  

                      

             四


「……とはいうもんの。勘助をここでぼけっと待ってるのも退屈や。わいも行ってこましたろ」

 忘れ物をしたとでも言ってお蔦と喜助の邪魔をしてやろう。驚くだろうと思えば小気味よい。陶次はもと来た道をとって返した。

 お蔦の家に通じる新道まで来ると、勘助が中の様子を窺うように、塀の外でうろうろしているのが見えた。

「おんどれ、まるで盗人みたいやないけ」

 陶次に肩を叩かれた勘助は、蛙のようにびくりと跳ね上がった。

「喜助は上に上がらんと門口で喋ってまっせ」

 勘助の言葉に頷いて陶次は塀の中に踏み込み、物陰から中を窺った。門口で話しているお蔦と喜助の遣り取りが聞こえてくる。

「お蔦はん。これは納めといてんか。うちの気ぃが済まへんさかいに」

「ええんどす。喜助はん。うちは構しまへんえ」

 双方とも甘ったるい声音で、なにやら押し問答の最中だった。

 痴話喧嘩かと、陶次は黙ってじっと聞き耳を立てた。

「先月の給金、待ってもろたんやさかい。今月の給金と二ヶ月ぶん纏めて払わしてもらうがな」

 喜助の声が次第に大きくなり、よく聞き取れるようになった。

 喜助が先月の支払いを待ってもらっていたとはどういうことだ。

 お蔦の扱いのあまりの違いに、陶次の頭にかっと血が上った。

「喜助はんのお母はんは病いが治ったわけやおへんやろ。この銭でもっと薬やら精のつくもんやら買うとくれやす。お母はんがようならはるまで、給金のことは気にせんとくれやす」

 喜助が持参した給金を受け取るの受け取らぬので、しつこく揉めている。お蔦と喜助のどちらもが、善意の押し売り合戦だった。

 気心が知れた者同士のやりとりが憎らしい。気遣いに溢れた言霊の交換は、愛の交歓に思えた。

 お蔦と喜助は幼馴染みである。

 幼い頃から積み重ねた刻には、陶次がどう足掻こうと歯が立たない。蟷螂の斧である。

 子供の頃の豊かな思い出は根雪となって残っている。根雪は融ければ、深い谷を作る。知り合ってまだ日の浅い陶次など断固として寄せ付けない。

「どないだす」

  勘助も陶次の背後にやってきて耳を欹てた。

「あほらし。行くで」

 陶次は勘助の腕を乱暴に掴み、塀の外に連れ出した。

「なんどすえ。どない決着するんか、今からが面白おすのに。痴話喧嘩のあとの〝なに〟は、また格別と違(ちゃ)いますかいなあ」

 渋る勘助を放って、陶次は新道をすたすたと戻り始めた。  

 お蔦は一方の手で喜助の頭を撫で、もう一方の手で集(たか)った蝿でも追い払うように陶次の頼みをすげなく拒否したのだ、と思えば誇りが大いに傷ついた。陶次はその場で地団駄を踏んで暴れ出したくなる心を宥めた。

「このドあほ。早ぅ来(こ)んかいや」

 息を切らせながらようやく追いついた勘助を従え、陶次は肩を怒らせながら新道を後にした。


             五


 陶次と勘助は、姉小路通に面した金座の前をゆっくり歩いていた。この辺りには金座と銀座が置かれ、両替町通の名前の由来の通り、金融商や金銀細工の店が立ち並んでいた。

 勘助は少し遅れ気味に陶次と並んで歩いている。陶次と勘助は身の丈に大きな差があるから、勘助の歩みは歩幅が小さいせいで小走りに近かった。

「喜助だけ依怙贔屓にもほどがおますな」

 勘助が不格好な鼻の穴をさらに膨らませた。

「給金を貰おが貰うまいが、お蔦の勝手やがな」

 陶次は腹立ちを見透かされまいと、懸命に繕った。

「喜助は雇われた奉公人や。わいらみたいに、ゆとりっちゅうもんが一切ない。ちょっと思わぬ入り用ができたら、たちまちお蔦への給金にかて窮するのも道理や。考えたら気の毒なもんやがな」

 陶次は心と反対の虚勢を張った。

「ま、いわはったら、確かに親分の言わはる通りどすなあ」

勘助はあっさりと納得したようだった。

 日が高くなるにつれて、一気に蒸し暑さが増した。陶次と勘助は軒端の日陰を選んで歩いているものの、汗の不快さがじわじわと首筋や額を責め始めた。

 陶次の胸のむかつきは増すばかりだった。憤懣やるかたないとは、このことである。

 喜助への嫉妬でしかないのはわかっていても、心の波立ちはおさまりそうもなかった。

 気分を変えようとした陶次は、今宵催される寄り合いの約束をふと思い出した。

「あ、そやそや。今晩は、七条にある蓮華王院の池の端の茶屋まで出かけるんやった」

 蓮華王院とは東山の裾に位置する三十三間堂の正式名称だった。

「『七夕』てお題をもろてるさかいな。今晩の句会までに一句どうにか捻り出しとかんとあかんかった」

 詰まらぬ用でもいくらか気が紛れそうだった。

「え。親分はんは句会にまだ通(かよ)てはるんでっかいな。偉(えろ)おすなあ」

勘助が追従し、幸いにも話題は大きな弧を描いてずれた。

「まあな。句会はいわば無礼講や。貴賤を問わず俳号で呼び合うんやさかいな。普段は口もきけん偉いお人とも、気軽に話がでける。どんどん動いてく世の中かて肌で感じられるっちゅうもんや。〝銭〟というより〝金子〟になるおもろいタネが見つからんとも限らんしな」

 というものの、陶次は恰好をつけるために句会に通っているだけだった。上手い句などできるわけもないが、周りの者――特にお蔦に『通人や教養人』の端くれと思われたいという下心があった。

「思うたら今まで色々と首ぃ突っ込んだが、ものになった例(ためし)はないのぉ」 

 三味線や常磐津や謡に手踊りから果ては撃剣の道場まで。

 決して暇だったわけではないが(自分には何かできる才が隠れてるんやないか)との思いであれこれ試みてきた。

「大坂におったときかて……」

 大坂時代、店を継げそうな気配になった絶頂期に陶次は『これからの商人は、広ぅ物事を知らんとあかん』と無謀な挑戦をしてすぐに敗退した過去があった。

「適塾に通うたこともあったがな。問い屋やら両替の店やらの大店が仰山ある船場にあったんやが」

「何どすか。適塾て」

 勘助が調子良く間の手を入れた。

「学問するとこやがな。大人のための寺子屋や。誰でも入れるっちゅう建前やが、どないにも賢いやつばっかしやさかい、わいは二、三日で辞めてしもたけどな」

「頭のよう回る陶次親分はんにも歯が立たへんて、ほんまどすかいな」

 分からないくせに妙に慰められると、陶次は余計に惨めになった。

「熱心なもんは、寝る間も惜しんでオランダ語の辞書の『ヅーフ・ハルマ』とかいう書物を奪い合(お)うて書き写しとった。塾の二階にある学生大部屋に寝起きして、真夏に汗まみれで風呂も行水もせんと、真っ裸で机に囓りついとった。毎日、風呂を欠かさへんわいは閉口したのなんの。あの二階の部屋がなんともかんとも男の臭いでどえらいこっちゃった」

 人生のうちで希望に燃え華やかな時代は、挫折さえ懐かしい。

 だが急転直下の暗転を思えば、楽しい記憶も暗く沈んだ。

「なんもかんも済んだこっちゃ。はは」

 陶次は自嘲気味に締めくくった。

 話は途切れ、陶次と勘助は、黙々と高倉通を北に上がった。

 文吉親分宅は、すぐ先の押小路高倉だったなと、思い起こしながら押小路通を横切った。かつて目明かし文吉が身分不相応に贅を尽くした居宅に今は住む人もなく、生け垣も伸び放題になって侘びしい佇まいを晒していた。

「わいは今から家に帰って寝る。おんどれも家に帰ったれ。ちっとは書肆商いの手伝いして親孝行しくさらんかい。用事があったらまた誰ぞに使いさせるさかい」

 解せぬ糸のように縺れ合った胸中を、勘助ごとき若造に気取られるのは真っ平である。陶次は勘助の返事を待たず、ずんずん通りを上がっていった。

 自分は、女も学問も習い事も何一つ自分のものにできぬまま老いて行くのか、と思えば情けなくもあるが、我が身の才覚と出生や年齢を勘案すれば、この程度がせいぜいだろう。

 つつがなく寿命まで生き長らえられたら良しとせねばと、陶次は達観することにしていた。

 まっすぐに突き当たった先は禁裏だった。遙か彼方に、宝永年間に創設され、聖徳年間に宮号が下賜された四宮家の一つである、閑院宮の屋敷の屋根が、霞んで見えた。 

                      

                  六


 四条河原の夕涼み後、陶次は利子分だけなんとか工面して権三に返した。

 しばらくして賭場でのつきが戻り、借金を多少取り返せたもののまだかなり残っていた。金子に変わる〝タネ〟(情報)を、まだまだ探す必要があった。

 勘助と別れたあと、陶次独りで四条と三条の町番屋を廻ったが、特段の用もなかった。同心の松来は用向きがあれば町番屋に小者を遣わすが、松来からの言伝も届いていなかった。

 三条堀川の町番屋で町雇いの初老の男、庄六と茶を啜り、無駄話をしてから重い腰を上げた。

 今日も蒸し暑くなりそうだった。夕べの疲れがまだ残っている。

 昼間のうちは、本当に、家で昼寝でもするか。

 陶次の足は麩屋町通を南に下って綾小路通を突っ切ると、仏光寺通に出た。右に曲がれば、喜助が長年奉公している八幡屋があった。

 いつ見ても、たいした繁盛ぶりだった。

 高々と一際立派な卯建(うだつ)が上がっている。八幡屋と染め抜かれた大きな暖簾が派手派手しかった。両隣の仏具商と瀬戸物商の店は、すっかり霞んでいた。

 八幡屋の凝った屋根つき看板が、店の者が忙しなく出入りしているさまを見下ろすように、二階中央に掲げられていた。

「主の用心深い心根がよう出とる。潜り戸がついた開き戸は、盗人よけに、音を立てて開くようになっとるらしいがな」

 通りの向かい側、仏光寺の土塀に沿って歩きながら、陶次は呟いた。

 軒下の格子垣の駒寄せには、荷馬車の馬が二頭繋がれていた。紅殻格子(べんがらごうし)と呼ばれる色の濃い格子と犬矢来が目立っている。

 八幡屋の店表は、二階の天井が低く、虫籠(むしこ)窓がある厨子二階(つしにかい)と呼ばれる二階建てだった。陶次はあらためて店構え全体を見渡した。

意外に小さく感じられた。

 今や押しも押されもせぬ豪商に成り上がっている割に、八幡屋の間口はそれほど広くなかった。京の町屋の習いで、間口が狭く奥行きが深い造りなので、大坂人の陶次にすれば物足りなく感じられた。

 よほど急ぐ用があるのか、中番頭の田助が青筋を立て、忙しなく店の者の差配をしている。怒鳴られた丁稚が汗を掻き掻き右往左往している。

  陶次は奉公人同然で扱き使われた、過去の我が身を思い出した。

 ――子供の頃の陶次は兄たちによく虐められたが、三人とも世間知らずの坊ちゃんだったから、上手く煽てたり騙したりして小金をせしめ、お遣いの途中で買い食いしたものだった。

 奉公となると十歳前後の丁稚から始まって、辛抱の連続である。並大抵では続かない。次々に脱落して同輩はどんどん減っていく。

 手代から番頭になり、中番頭に昇進してついには大番頭まで順当に出世している喜助は、よほど心も体も頑健でしかも要領が良いのだろう。

卯兵衛は、この前の喧嘩のときも、袋叩きに遭っていた喜助に助けもやらずに冷たかった。そういう扱いだから喜助も『女のとこで息抜きしたろ』となるのだと、陶次は妙に得心しながら独りで頷いた。

 店に出入りする客が怪訝そうに陶次を見た。

 ここで阿呆のように、ぼうっと突っ立って見ていても暑いばかりである。

 扇子で顔を扇ぎながら陶次が立ち去りかけたとき。店の大戸の前に駕籠が三挺、横付けされた。

 卯兵衛が出かけるらしく、店の者を従えて戸口から貫禄たっぷりな姿を現した。

 続いて付き添って行くらしい浪人が二人、店奥の闇からのっそり出て来た。油断なく視線を四方に素早く走らせた。

 陶次は大柄でしかも目つきが鋭いから、どこにいても目立った。浪人の一人の目が止まった。

「いやいや、なんでもござりまへんでぇ。わいはこない見えても、ただの通りすがりの詰まらん岡っ引きでんがな~」

 浪人の鋭い一瞥に、陶次は小声で軽口を叩きながら、畏怖したような仕草で首を竦めた。浪人は見下すように鼻で笑って『早く行け』とばかりに顎をしゃくった。

「あ、陶次親分はん。お役目どすか。ご苦労はんどす」

 末成りの瓢箪のような顔の田助が陶次に気付き、慇懃無礼ととれるほど丁寧な挨拶をよこした。浪人が怪訝な眼差しで陶次を睨んだ。陶次は田助に軽く手を振りながら、足早に歩み去った。


             七


 陶次の住まいは一条戻り橋近くにあった。

 堀川一条通にある戻り橋は、渡辺綱が鬼の腕を太刀で切り落としただのといった、いくつかの伝説が有名で、京に都が置かれて以来、洛中と洛外を分ける橋だった。

どうもいかんな。頭が麩になったようだ。

 陶次は汗で滑る首筋をぼりぼり掻きながら、仏光寺東洞院で右手に曲がった。綾小路通から四条通を越える。

 さほど広大ではない薩摩島津屋敷を横目に、陶次は武家屋敷が散在する静かな佇まいの東洞院通をなおも上がった。

 六角堂の名で親しまれる頂法寺(ちょうほうじ)に差し掛かった。

「立花(たてばな)の池坊の僧で有名な寺やが、天上から見たら真ぁ六角ちゅう塔頭(たっちゅう)が珍しいのお」

 急ぐわけではない。独り言を呟きながら、なおもぷらぷらと歩いた。日差しはますます険しくなる。陶次は手拭いで胸元の汗をぬぐった。

「陶次。陶次やないか」

 聞き慣れた濁声に振り向くと、権三が向かってくる。

「お。権三親分はん。朝から御用の向きでっか」

 出会いたくない相手との遭遇に、陶次はできるだけの愛想笑いを返した。

「ちょっと詣っていこか」

 権三は陶次の返事も聞かず、頂法寺の境内へ歩を進めた。

残りの金子を催促するつもりだろう。

(わかってまんがな)と心の中でぼやくものの『六角さんに詣でよう』と誘われては断るわけにもいかない。

 紫雲山頂法寺は京の町衆の信仰のよりどころだった。過去十数回の火災にも拘わらず、都度都度、京の人々の力で復興されてきた。祗園会での山鉾巡行の順を決める籤取り式も、毎年六角堂で行われる慣わしになっていた。

 権三の広い背中を見ながら、陶次は後に続いた。

 本堂の正面に『六角柳』と呼ばれる縁結びの木があり、御神籤が無数に結ばれていた。

 お蔦の結んだ御神籤もあるのだろうかなどと思えば、悋気の虫が蜂となって、心ノ臓にちくりと小さな針を刺した。

 陶次はずぶりと刺さった〝悋気〟と銘の入った針を抜き取り、地面に叩き付けて、草履で思い切り踏んづけた。

 頂法寺は西国三十三所の十八番目の札所でもあるので、地元の民の他に、平服の上に木綿の袖無しで半身の単衣を着た巡礼や、仏像を入れた厨子を背負って鉦や鈴を鳴らしながら米銭を請い歩く六十六部の姿が目立った。

 負けず劣らず大柄な陶次と権三は、二人して神妙に手を合わせた。

「残りの金は、またおいおいと……」

 陶次は参拝が終わるか終わらぬかのうちに、先手を打って切り出した。

「てめえと俺っちの仲やがな。残りはもうよろし」

 豪快な笑いとともに意外な返答が返って来た。

「え。それは、どないな意味でっか」

 陶次は思わず聞き返した。

 阿漕(あこぎ)で名高い権三親分がどういう風の吹き回しなのか。『代わりに……』などと言い出され、何か面倒を押しつけられるのではないか。

 わざわざ道端から境内に引っ張り込んだところからして、そもそも怪しかったと、陶次は身構えた。

 今までなら手荒い手伝いもしたが、目立つことの片棒は、絶対に担ぎたくない。

 文吉の一件以来、陶次は気が弱くなっていた。情けないが用心に越したことはなかった。

「実はな……。ちょっとばかしええ金蔓ができたんや。こないだも思たよりようさん金子を巻き上げられたしな。蔓はぶっとい。放さんとしっかり蔓を引いたら、もっともっとなんぼでもお宝がついて出てきよるがな」

 強請たかりの恰好の先が見つかったというところだろう。権三は鰻の匂いだけ嗅がせるように、意味深に匂わせた。

「それはまた羨ましいことでんな。わいもあやかりたいもんですわ」

 追従で『あやかりたい』と言ったものの『いっちょ噛み』は御免だった。

 権三は、目明かし猿の文吉を小者にしたような男だった。時流に乗って一気に懐の財布を膨らませた文吉には遠く及ばないが、権三も相当な悪党に違いなかった。権三と比べれば、陶次など、しごく全うで善良な人間の部類に入るだろう。

 ――もともと権三は博打で入牢していたが、有用な差し口(密告)をして『この男は役に立ちそうだ』と同心の市原に認められ、罪を減じられて市原直属の小者になった。

 罪人であっただけに、お上の手先となっても所行は荒かった。いや、お上に連なる権力を笠に着て、ますます増長した。

 思えば、文吉の運命と権三の命運は紙一重だった。

 文吉はたまたま島田左近という大物に取り入れたから栄華を貪り、挙げ句に悲惨な最期を遂げた。

 権三とて切っ掛けさえあれば同じ道を歩んでいただろう。中途半端な悪党だったことが幸いして天誅のやり玉に挙がりもせず、今なおのうのうと悪事を続けている。

「ま、おいおい、てめえにも、ええ目、見せたるで」

 権三は陶次の肩をぽんと叩き、上機嫌で獅子舞いの獅子のような歯を見せた。

 権三の笑った顔には妙に愛嬌があり、普段の強面との違いが大きいだけに『意外にええ人かも知れん』と思わせる。

「ほなな。俺はまだ寄るとこがあるさかいな」

 権三は山門を潜ると六角通をさっさと歩き去った。

  陶次も続いて通りに出た。真ん中に丸い穴の空いた六角形をした石を踏みそうになって、慌てて避けた。

「はは。京の臍を踏んでまうとこやったで」

 ここら辺りが京の中心地なので〝へそ石〟と呼ばれて親しまれている〝本堂古跡の石〟だった。

「ま、何でもええ。残りの借金のうなったんやし。これでまた心置きのぉ、権三はんの賭場に出入りできるっちゅうもんや」

ぶつぶつ呟きながら、陶次はもと来た東洞院通に戻った。

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