一条戻り橋に霧雨が降る~目明かし陶次の小さな嘘が悲劇を呼ぶ

CHIHARU

第1話    祇園会の夕涼みでの狂騒は……

 文久三年六月九日、夏も真っ盛りの夕暮れどきだった。


 京は、北山、東山、西山の三つの連峰に囲まれた盆地である。

 夏の暑さは強烈で、京の洛中は相も変わらず、朝から蒸し暑い一日だった。 


 目明かしの陶次は、四条河原を目指し、人の波に混じって、お蔦とともに四条通を東に歩んでいた。


 今夜は京都町奉行所のお役目絡みでの市中見回りではない。

 お蔦に頼み事があって、四条河原まで夕涼みとしゃれ込んでいる。


 唐犬の権三の仁王のようにいかつい顔が、目の前にちらつく。

 五十を過ぎて、ますます凄みを増した権三の黄色く濁った目で睨まれるとどうもいけない。


 権三は、金には異常に厳しく、目明かし仲間でも容赦がない。  

 女房に逃げられ大坂でぶらぶらしていた三年前、京に呼び寄せてもらった恩があるから、なおさら頭が上がらなかった。


 お蔦の家を訪ねたとき、すぐに切り出すべきだったが、団扇片手に頬を上気させ『早ぅ、早ぅ、行きまひょ』と戸口で待ち受けていたお蔦に急かされ、言い出せなかった。


「なあ、お蔦。実は……」

 思い切って声を掛けたが、灯が入って華やぐ通りを眺めるのに夢中で、一向に気付かない。



 この頃は、世の中も様変わりしたな。

 暮れかかる東山の山並みに目をやった。


 ご公儀の御威光にさえ翳りが出始めている。ご公儀と細い糸で繋がる、末端も末端の目明かしの威勢の凋落は、なおさらだった。


「そもそも手先といえば、正規の雇いじゃねえ」

 自嘲気味に、もごもごと呟いた。


 岡っ引や手先、御用聞きなどと呼ばれる目明かしは、同心の私的な配下でしかない。ご公儀からは鐚一文たりとも貰ってはいない。


 役得で、それなりに良い実入りがあったからこそ、子分を三人も持てて『親分、親分』と立てられてきた。

 だが、十手の威力だけで付け届けが転がり込んでくる時代ではなくなりつつあった。


「ただでさえ世知辛い暮らし向きになってきたのに、権三親分の賭場でこれほど負けが続くとは、どういうこってえ」

 口の中で、なおもぼやいた。


 先月末の大負けを取り戻すつもりが、なおさら負けが込んでしまったのは、いつになく欲をかいたせいだった。


 別れた二度目の女房お長との間できた、お光の〝帯解〟に、結構な祝いをしようと思いついたのが、そもそもの間違いだった。



 お長の実家は、近江八幡で蚊帳や畳表を手広く商いしている。

 お長とともに引き取られたお光は、何不自由なく大事に育てられていた。


 帯解の日には、付け帯びを解いて、大人のような幅広の帯を締める。


 昔から『七つ前は神のうち』といわれ、乳幼児の死亡が多かったから、十一月十五日の帯解の儀は格別の行事となる。

 お光の祖父母とて、目出度い祝いの品を無下に突き返しはできないだろう。


 この前のように門前払いせず、お光の顔くらい見せてくれるだろうと、胸算用したのだが、殊勝な心持ちが運の尽きで、娘に会いに行くどころか、目先の生活にも困ってしまった。



 昨日も本能寺門前の一膳飯屋の前で出会った権三から、脅し紛いに露骨に催促された。

 明後日には、利子だけでも払わねばならない。


「俺の生き甲斐は、博打だけだ。権三親分の賭場に出入り禁止になったらどうなる」と、お蔦に聞こえぬよう口の中でぼそぼそ文句を垂れた。


 賭場は、洛中、洛北、洛南、洛西、洛東――何処ででも開かれるとはいえ、目明かしという立場がある。

 突如、町方に踏み込まれては、大恥をかくどころで済まない。


 お上からお目こぼしになっている権三の賭場は、陶次たち目明かしにとっては貴重な遊び場だった。


 なんとしてもお蔦には、今月分の〝給金〟を待ってもらわねばならない。


 酒代やその他の支払いは、半ば脅して、来月や再来月回しにさせた。

 三人いる子分への奢りも控えている。


 残る交渉相手は、妾のお蔦だけだった。


 だが……。


 今夜、給金が入ると、ほくほくだろうから、怒り狂って、

『給金が払えんのやったら、旦那でもなんでもおへんがな』と妾奉公を辞退されかねなかった。


 歩きながら込み入った頼みごとなどできそうもない。刻ばかりが過ぎる。



「京は大坂と違って、暑さも寒さも半端じゃねえな。冬は乾いて寒い。けど夏は、もっとだめだ。湿気が酷くて堪らん」

 せわしなく扇子を使いながらお蔦を振り返った。


「ほんま、風もあらへんし、敵いまへんどすなあ」

 目を合わせたお蔦は、切れ長の瞳を細めた。

 薄闇に、白い顔が、一際、浮き出て見える。



 旦那と妾という関係とはいえ、陶次の立場は弱かった。

 なにしろ旦那は陶次一人でなく、他に二人もいるのだ。


 お蔦は〝下直けちきなる囲女〟と言われる安囲いの女で、陶次と権三と大店の大番頭喜助の三人一組で囲っていた。

 陶次一人いなくなっても、お蔦の器量なら、すぐに別の旦那が決まるだろう。


 お蔦は、安囲いの女にしておくには勿体ない美形だった。

 上手い具合に旦那の一人に納まれたが、そのような僥倖が二度と訪れるわけがなかった。



 高瀬川を越えると、鴨川に架かる四条大橋は近かった。

 京を代表する花街、先斗町の細い通りを越えると、人通りはますます多くなった。


 お蔦の顔には、「早う、給金を渡しとくれやす」と書かれている。

 妙にいそいそしている理由わけは、陶次と夕涼みに出かけるからではない。


 特別な行事ごとがある日は、給金とは別に祝儀を渡していた。

 他の二人に差をつけたかったからだ。


 お蔦は若い喜助に〝ほの字〟である。

 端から負けているが、せめて金の力で気を引きたかった。


 先月の五月は賀茂の葵祭という名目で祝儀を弾んだ。

 賭場で勝って気が大きくなって、いくら渡したかさえ覚えていなかった。



 今は、祇園会が始まったばかりである。

 月の給金の他に多額の割り増し手当が上乗せされると期待しているだろう。


 上乗せと延期とでは、晴天と沼地の開きである。

 ますます言い出しにくくなっていた。



「俺は三十七で京に移り住んで、もう三年だが、一向に、この暑さに慣れねえ」

 豆絞りの手拭いを懐から取り出し、首の後ろをごしごしこすった。   


「京の人かて、暑さに閉口してますさかいに、みんなして鴨川へ、夕涼みに来てますのんえ」

 お蔦は汗一つ掻いていない白い首筋を、ゆるゆると京団扇で扇いだ。




 四条大橋の袂に出た。

 昼間なら、橋の向こうに北芝居、南芝居の幟が見えるはずだが、薄闇に溶け込んで見えない。


 鴨川の広大な中州には、歌舞伎や浄瑠璃など大小の芝居小屋や見世物小屋が立ち並んで賑わっている。

 四条大橋の上を、さも楽しげに夕涼みの人が行き交う。


「賑やかどすなあ」

 陶次の思いを他所に、二十一歳になったばかりのお蔦の声は華やぎ、童のようにはしゃいでいる。


「京も、この御時世で落ち着かなくなったものの、京の者は動じないというか、てえした人出じゃねえか」


 京都守護職設置あたりから、政の中心は江戸から京へ移った感があった。

 雄藩の藩士をはじめ、尊攘派志士が京の都で入り乱れている。


 四月には、薩摩藩国父島津久光が藩兵を率いて上洛し、伏見の寺田屋で藩内の過激分子を一掃するという、血なまぐさい出来事があった。


 その久光が五月に京を去るや、今度は、不逞浪士たちが天誅と称して好き勝手に暴れ回るようになり、京の治安は乱れる一方である。


「一年前の七月には、この橋で島田さまの首が晒されていたというのに。皆、忘れているのか。まあ、島田さまは京の皆に嫌われていたから、関係ねえか」

 余所者の陶次は、苦笑しながら河原を見渡した。


「あれが天誅の始まりどしたなあ」

 お蔦も陶次と話を合わせるつもりか、感慨深げに頷いた。


 九条家に仕えた島田左近正辰は京で絶大な権力を誇り、『今太閤』などと持て囃されたが、土佐勤皇党の武市瑞山の台頭とともに旗色が変わり、薩摩藩の田中新兵衛らによって愛妾宅で襲われ、首が四条河原に晒された。

 

 ともあれ陶次にとっては、こんな話より、目先の頼み事が大事である。

 頭の中を、眉間に皺を寄せた権三と、目を釣り上げて怒り心頭なお蔦の顔が、交互に駆け巡る。


「所司代さまでさえ、天誅というと取り締まりができねえ。土佐勤王党にいいようにされている。今の京の都は、治安もへったくれもない。先行きは、ますます分からねえな」

 陶次は当たり障りのない世相談義を続けた。


「こないな時季やからこそ、京の人は毎年の行事を大事にしてはるんと違いますやろか」

 お蔦が穿った見方をしてみせた。



 両岸に並ぶ四百軒もの茶屋が川床を出し、中洲に板の橋を渡している様子が見える。

 お蔦の首筋のほつれ毛を、まじまじと眺めた。


 お蔦の横顔は絶品だった。

 仇で蓮っ葉な外見の奥に、何処か品が見え隠れする。

 零落した貧乏公家の血筋を引いているという話も、あながち嘘ではないのかも知れない。


 陶次が前を歩き、お蔦が小走りで後を追う。

 先斗町側の茶屋と茶屋との間を抜けて河原に向かった。



「息をするのも苦しいとは、このことだ」

 はだけた襟元に扇子で風を送りながら、お蔦が飼っている金魚を唐突に思い起こした。


 お蔦の世話が行き届いているのか、金魚は二冬を越し、飼い始めて二年近くも生きていた。

 陶次がお蔦を妾にした直後から飼い始めた勘定である。


 金魚の中に、高価な蘭虫が一匹いた。

 背鰭がなく、ずんぐりとした体で、頭に瘤のような隆起があり、更紗と呼ばれる紅白模様が鮮やかな金魚だった。


 お蔦は、亡くなった母親の在所に預けられた、年の離れた弟妹三人に『食い扶持の足しに』と銭を送っているから、値の張る珍しい金魚を買う余裕などない。

 蘭虫は、文吉親分に買ってもらったに違いなかった。


 文吉親分といえば……。

 亡くなって、もう一年近く経つとあらためて気付いた。


 京の町で羽振りを利かせていた〝猿ましら〟の文吉も、かつては、お蔦の旦那の一人だった。


 喜助が、陶次の家に、『幼なじみのお蔦が島原に売られそうになっている』と、相談に来たことが発端で、権三を経由して文吉にお蔦を引き合わせた経緯があった。



「京の者は、暑くねえのか」

 汗を掻いているのは、陶次だけに思えてくる。

 胸の奥が落ち着かず、なおさら暑い。



 広大な中洲には見世物小屋が出ていて、〝大カラクリ〟の小屋が一際ぐんと目を引く。矢場なども見える。

 まずは、お蔦の機嫌取りとばかりに土手を下り、中洲へ続く板張りの急造の橋を渡り始めた。


 黒い流れは速く、手摺りは心許ない。

 手を繋いでやろうと、お蔦を見返したものの、照れくさい。出しかけた手を引っ込めた。


「床机に座って豆腐田楽でも食うか。酒を飲んで、話を切り出してみよう」と覚悟を決めたときだった。


「喧嘩や。喧嘩どす」

 甲高い叫び声が後方から響いてきた。

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