第5章 帰郷 真知子先生との再会 その2
あくる日、真知子先生の嫁ぎ先の住所と、地図を〈しんちゃん〉に書いてもらって、僕は真知子先生の嫁ぎ先であるB町に、バスに乗って出かけた。〈しんちゃん〉からの手紙で真知子先生のことは、大体聞いて知っていた。
真知子先生は2年ほど入退院を繰り返していたが、体調も戻り退院し、暫くしてB町に嫁いだ。恋愛結婚ということであった。嫁ぎ先は農家で、主人になる人は町の役場に勤めていて、田畑もそこそこにあり、嫁ぎ先の姑と農作業をやらねばならず、学校の先生を辞めることが相手先の条件だった。
農作業なんかやったことのない先生に、石田家は猛反対であったが、先生は反対を押し切って結婚した。姑さんが中々しっかり者なので、「先生は苦労されるじゃろぅー」と村の人たちは噂したらしい。
「病み上がりの身体で、慣れぬ畑仕事にも姑は容赦がなく、先生がたまに実家に帰ってきたのを見て、やつれて大変そうなのがわかる」と、〈しんちゃん〉は書いていた。
結婚相手の人は多分あの人だろうと思った。5年生が終わろうとしていた3月「勝治とのお別れ会や」と、真知子先生は言って、海を見たことのなかった僕たち野球メンバーを、山陰の海に連れて行ってくれた。その時同行した背の高い男性がいた。
3月の海はまだ寒く冷たかったが、初めて見る海に皆は感動して、海に足を入れ、波打ち際で遊んだ。突堤の上を歩く、その男の人と真知子先生の姿を見たとき、僕は皆と別れる日が近いだけでない寂しさを感じた。
B町で降りて、20分ほど歩いた。嫁ぎ先の農家は土塀こそなかったが、立派な造りだった。少し緊張したが、「こんにちは」と挨拶をして土間を入った。裏手で何か仕事をしていたのであろう、「どちらさん、今行くけんねぇー」と声がし、前掛けで手を拭きながら、年配の女性が出てきた。その人が姑だった。
「真知子先生を訪ねて来ました」と言うと、学生服を見て、昔の教え子だと分かったのであろう、「折角来てくれたのにねぇー、真知子さんは今、実家に帰ってるんよぅ。どっから来んさったねぇ?」。僕が石田の家のある村からだと言うと、「それは、二度手間じゃったねぇ。石田の家に行ったらおるじゃけ、ちょっと待ちんさい」と言って、裏に走って行って、葡萄を新聞紙に包んで渡してくれた。
僕は「これだったら、先に石田の家に行ったのに」と思いながら、その葡萄を食べ食べ、又、20分の夏道をバス停まで歩いた。
久し振りに、石田の門をくぐった。孔雀小屋はあったが、その横には黒塗りの車はなかった。母屋の玄関先から大声で挨拶したが、誰も出てこず、人がいそうな気配もしなかった。少し図々しいと思ったが、知らない家ではない。たたきを進み中庭に出た。真一や達也達と遊んだことが思い出された。右手の離れが先生の部屋のあったところだ。先生はピアノのあった部屋ではなく、その横手にある和座敷で昼寝をしていた。
夏のことなので部屋は開け放たれ、先生はスリップ姿で横になっていた。声をかけたものかどうか迷っていたら、人の気配に気付いたのか、半身を起こし、こっちを見たが、まだ、まどろみが覚めないのか、目が空を迷ったようだった。
「勝治か?」と言って、横にあったブラウスをあわてて羽織るなり、縁側に降りて来て、僕の手を握り、顔を覗き込み、「ほんまに、勝治や!」と言って、僕を座敷にひっぱり上げた。
「玄関で声をかけたのですが」とバツが悪そうに僕が言うと、「働いている人は、お盆休みでみな帰ってるんよ。家のものは町まで出かけて、だーれも、おらんのよ。こんな格好で昼寝してたらいかんねぇー」と言って、ブラウスのボタンを留めた。これで少し目のやり場に困らなくなった。先生は、下はそのままで、まず父のことを尋ねてきた。
「お父さんは元気でやっておられるかねぇ?」先生の言葉は、以前のような標準語ではなく、田舎の言葉だった。家出して1年遅れで高校に行っている事は、言いたくなかったので、2年生だと嘘を言った。
「来年は受験やね。何処を受けるつもり」と訊かれたので、「京大です」と少しいい格好をした。
「京大は難しいからね。来年は頑張らんといかんねぇ」と言って、母屋からサイダーと葡萄を持って来てくれたので、嫁ぎ先の方に行ってきた事を話した。
「暑いのに、手間だったねぇ」と言って、扇いでいた団扇の手を止め、僕のほうに風を向けてくれた。
「先生はもう身体の方は大丈夫ですか?」と〈しんちゃん〉の言う通り、少しやつれられたなーという思いで尋ねた。
「お陰さんで、大丈夫よ」と答え、大阪での暮らしぶりを訊かれた。
母の回転焼き、父のあんこ屋のことを話し、例の温泉事件のことに及んだとき先生はお腹を抱え笑われたが、急に真面目な顔になって、被爆直後の広島市内に入った時の父のことを話してくれた。
何日も風呂にも入れず、汚れたままの人たちを見て、父は、何処からかドラム缶をオート三輪に積めるだけ積んできて、焼け跡の木切れを集め、女性用は戸板で囲い風呂を沸かしたそうだ。温泉マークは父の思いだったのだ。
「その時のお父さんの得意げな、嬉しそうな顔が忘れられない」と先生は言った。
何時しか真一や、達也たちと遊んだ話になり、黒塗りの車で村を疾走した日のことを話しあった。お互い、それが真一を見た最後の日になったことに思いを馳せ、話は止まってしまった。
先生は自分の部屋に行き、何かを持って来て、「勝治、私の膝の上に頭を乗せて」と言った。「なにかな?」とは思ったが、別段嫌な事ではないので、横になり先生の膝の上に頭を乗せた。あの日、車の中で抱き寄せられて、頭で先生の膨らみを感じたあのやわらかい感触がそこにはあった。
先生の持って来たのは耳かきで、「耳の掃除をしてあげるから」と言って、僕の頭を横向きに変えた。「ほら、ある、ある。大きいのを見つけたぁー」と言って、僕の手の上にコロリとした耳垢を置いた。
「こうして、真一のをよく取ったのよ」と言って、先生は落ちる涙をこらえようと上を向いたが、先生の涙が僕の頬を伝った。僕は、先ほどから押えていた、どうしょうもない感情をぶっつけた。
「先生、キスをしてもいいかぁ?」と言うと、先生は黙って顔を近づけて、唇を僕の唇に重ねた。そしてキスだけでなく、やさしく僕を大人の世界に導いてくれたのだった。
その晩、僕は真一の夢を見た。真一は僕と同じように成長していたが、一度も見た事のない不機嫌な顔だった。
村を出るとき、僕はもうここには帰ってこないだろうし、帰ってきてはいけない気がした。そして、父とのことは、もういい事だと思った。「父とは関係なく、自分の道を見つけるんだ」と、少し大人になった気持ちでバスに乗った。
1年後、〈しんちゃん〉は手紙で真知子先生の死を知らせてきた。先生は死の近いのを予感していた…のだろうか?白血病であった。
前編了
幻の試合 北風 嵐 @masaru2355
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