第5章 帰郷
【真知子先生との再会】 その1
大阪に行ってから、一度だけ広島の田舎に帰った事がある。家出後も、父とことごとく対立し、「俺の言う事はいっこも聞きよらん。あいつの考えていることがわからん」と、父は田中店の伯父さんにこぼした。伯父さんは「また家出されたらかなん」と心配したのか、「夏休みになったら、一度田舎にぜひ遊びに来い」と勧めてくれた。
1年遅れて行き直した学校も面白くなく、何かもやもやしていた。思い切って田舎に帰ることに決めた。真知子先生にも逢いたかったのだ。
広島市の駅から見た駅前にはビルも建ち、焼け野原ではもうなかった。市内に下りることなく、直ぐに乗り換えて2時間、M町に着いた。ここまで来ると田舎の匂いがしてくる。 バスに乗り、僕の生まれ育った田舎が近づいてくると、やはり胸が高鳴った。バスを降りると、僕の家は昔のままだった。違っていたのは『藤原自転車店』という看板だけだった。父は店のぼんさんだった藤原さんに部品、道具類付で店を譲ったのだった。
藤原さんが僕の顔を見て、「勝治やないけ、えろー大きゅうなって、久し振りじゃのー」と声をかけてくれた。「わかりますか」と言うと「わからーでどうする。お父さんも、お母さんも元気なさっとるかぁ?」
「元気でやっとります。又後で寄ります」と答えて、伯父さんの店に向かった。といっても、3軒筋向いだ。藤原さんは村では売っていなかった軟式のボールを、M町に出かけた時は、必ず買って来てくれたのだ。
伯父さんは僕の顔を見て、「よー、きたのう。遠かったじゃろ。はよぅー上がれや」と言って、店の西瓜を切って出してくれた。
「兄貴は遊び人で、店の売上を持っては近くの町に女と酒を求めてくりだす。朝の仕入れこそ行くが、後のかたづけは勿論、炊事洗濯と俺は女中並みだった。一度腹が立って店の入口に鍵をかけてやった。朝、ちゃんと布団で寝ている。こんなこともあろうかと、2階の窓は鍵をかけず、電信柱を伝って2階の窓から入ったとのこと。俺は呆れはてた」と父が言ったことがあるが、僕はこの叔父さんが好きだった。 自転車屋をする前、父は小学校を卒業して商家の丁稚に2年ほど奉公に出ていたが、伯父さんが田舎で魚屋を開いたのでそれを手伝った。他に魚屋はなく、よく売れたらしい。
伯父さんにお嫁さんが来たので父はいらなくなって、自転車屋のボンさんで住み込んだ。そこの女将さんがケチで食べ物が少なくて、1年ほどでやめて、紹介する人があって、呉の造船所の職工として務めるようになったそうだ。
店の姿も、店で売っている商品も、昔のままだった。途中の家並みも何も変わっていないし、何かタイムトンネルをくぐってきたような奇妙な感じがした。と同時に、懐かしさがどっとこみ上げてきた。小学校5年を終えて、大阪に出て行った日のことが思い出された。
父は用意したトラックで、荷物と、タローを乗せ、先に大阪に入った。父のトラックを見て「それは借り物か?」と聞くと、「いや、買ってきた。今、町では極端に物が不足しちょる。大阪で売り飛ばせばええんじゃけん」と言って、タンスや嵩張る家財道具は売り払い、ほんの身の回り品だけにして、米を買い込んでトラックに積めるだけ積んで出かけたのだ。このとき僕は、「父は賢い」と思った。持って生まれた才覚と言うのだろう。
〈しんちゃん〉と、〈あっちゃん〉が、朝から僕の家の前を行ったり来たりしている。僕と母と妹が、バスで出て行くのを見送ろうとしているのだ。二人とも、仲間だった友が遠くに出て行くのを、どう見送っていいのかわからないのだ。後から来た菊ちゃんも、直ちゃんも同じだったに違いない。菊ちゃんの顔は、今にも泣き出しそうだった。
バスが出る時間が近づいて、健吉爺さんも佳世さんも、村の人も何人か見送りに出てきた。伯父さん一家の顔もあった。母は、一人一人に挨拶を終え、僕たち3人はバスに乗り込んだ。淋しかったのは、真知子先生の顔が見えなかった事だ。被爆後の広島市内に入ってから、先生は体調がすぐれず、M町の病院に入院していた。
バスが出発して後ろを振り返ると、〈しんちゃん〉、〈あっちゃん〉、直ちゃん、菊ちゃんが走りながらバスを追いかけ、手を振っている。その姿が段々小さくなっていく。僕はかすみ目で、見えなくなるまで手を振った。横を見ると母も手を振っていた。
バスが、〈えのきち〉たちと喧嘩した小橋にかかると、橋の袂に、〈えのきち〉を筆頭に野球のメンバーが揃って、僕たちに手を振って見送ってくれた。あの日から5年が過ぎているのだ。5年という大阪での大変だった生活の日々が、瓦礫の焼け跡の光景と共に頭をめぐった。
荷物を置くと、その足で大阪からの土産を持って〈しんちゃん〉の所に出かけた。といっても田中店の隣である。〈しんちゃん〉はM町の実業高校に行っている。「卒業したら、神戸の大きなカメラ屋に2年ほど、修行を兼ねて働きに出るよって、勝治とは又そのとき会えるなぁ」と元気な声で言った。
〈しんちゃん〉からは年に2回定期便の手紙が来ていた。身長に似合わぬ細かい字で、村の出来事が箇条書き文で書かれていた。このほうがあっさりと良くわかった。大阪に行って3年目ぐらいだったか、佳世さんに子供が出来た事が書かれていた。さすがに、健吉爺さんの子だとは村の誰も言わなかったらしい。爺様にそんなに元気をされたら困る人が多かったのかもしれない。
佳世さんは誰の子とも言わなかったし、健吉爺さんも聞かなかったということだ。これを読んで、僕は健吉爺さんに孫が出来て良かったと思った。村にいたら噂の輪に加わったのかもしれないが、大阪にいる僕には関係ないことだった。
健吉爺さんは去年亡くなった。向かいの佳世さんの家に行って、健吉爺さんの仏壇にお参りをした。お参りを済ますと、佳世さんがお茶を出しながら、「ようきんさったねぇー。爺様が存命であったら、どんなに喜んだことじゃろぅー。何時も、勝治さんの家のことを話してたんよ。〈しんちゃん〉にもたまに聞いたりしてねぇ」と言った。
すると、よちよち歩きの男の子が、佳世さんの膝に乗りに来て、「こんにちは」と挨拶をしてくれた。膝の上でその子をゆすりながら、佳世さんは健吉爺さんの最期を話してくれた。
健吉爺さんは前の日まで元気をしていて、湯上りに佳世さんに肩を揉んでもらって、「ああ、いい気持ちだ」と言って寝た。あくる朝、何時も早い健吉爺さんが起きてこないので、起こしに行ったら、亡くなっていて、安らかな死に方だったと云うことだ。
「爺様が亡くなられて寂しいが、この子もおるし、炭焼きもタドン作りも教わっちょるし、ここで暮らしていける」と佳世さんは言った。
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