オトキさんとの出逢いー4

【別れ】


 オトキさんは横浜生まれの浜育ちだ。お母さんは神戸の人で、それでオトキさんの関西弁風、関東弁が出来上がった。オトキさんが話すから様になるのだろう。お父さんは船乗り(機関長)で、神戸のお母さんと知り合った。

 弟さんを入れての4人暮らしで、戦前は贅沢ではなかったがそれなりの暮らしは出来ていたという。横浜の空襲のとき、お母さんと弟さんを亡くした。下半身を負傷したお父さんは、今も病院暮らしという事だ。オトキさんは、たまさか買出しに三崎の方に行っていて、難を逃れたのだ。これはオトキさんが直に話してくれた話しである。

 オトキさんは余り無駄口を叩かないし、あれこれ聞いてこない。例えば、「何処に行ったの?」と聞いても、「そこで何をしたの?」とは聞いてこない。どうしても話したい事や、面白い事があったとき、僕が熱を込めて話すと「ふーん」とか、「そんなもんかなぁー」とか、笑いながら聞いてくれる。これが何時もの2人の食事風景だ。


 卓袱台の上にはすき焼きの用意がされている。すき焼きのときは、たいてい仲間が来てパーティになるが、今日は誰も呼ばれていない。

「食べる前に話しておきたい事があるの」と、いつにない神妙な顔でオトキさんは言った。

《勝治、家にお帰り。もう6ヶ月も過ぎた。お父さんも焼が入ったやろぅ。多分、勝治がいなくなって、男泣きしたと思う。しょうもない事したら、大切なもん無くす事が分かったはずや。でも勝治、泣いてくれる人があるのは幸せなことやで。妙さんのことかて、大人になって、まだ好きやったら行ったらええことや。勝治は頭もええし、勉強せんとあかん。でも、お父さんの言う事も少しわかるわ。この世の中はいい人ばっかりやない、生きていくにはもうちょっと強くならんとな。平和国家や、文化国家やと、又、スローガンかお題目言っているけど、お題目は大嫌いや。  大事なのはそれをきっちり作ることや。あんたらが勉強して作らんと。弟が死んだのは丁度あんた位の歳やった。旧制の中学4年生やった。勉強が好きで、何時も本を読んでたわ。勉強したかっても出来んようになった子かていてるんやで。東京駅で声をかけたのは弟に似てたからや。勝治と暮らしてよかったのは、昔の暮らし思い出したことや。弟は出来ないけど、子供やったら作れるなぁー。何時までも「こんな女に誰がした」と言ってられんやろ》


 話しながら、オトキさんは涙ぐんだ顔で、「サー、食べよ!お別れパーティや。今日のお肉は特上やで!」と鍋に肉を入れようとして、オトキさんの大粒の涙が鍋の上に落ちた。その涙は鍋の上で、肉より先に、〈ジュン〉と音をたてて消えた。

 6ヵ月後、僕は懐かしい大阪に帰った。16歳の家出は、十分な自由を味わって、僕に生きていく活力を与えてくれた。

 

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