後編
ぼんやりとした意識の中で、「子どもがほしい」と数か月まえに彼女が言っていたことを思い出した。おれはそれに対して何と答えたのか、あまりよく覚えていない。
そうだ、確か何も答えなかった。しかし、つくったところで彼女ひとりで育てていけるわけがないのだと、心の底で考えていた。
浅い眠りから覚めると、半勃ちになっていることに気が付いた。腰、いや、腹のあたりに重さを感じて身をよじると、くちびるに柔らかな感触を得た。
彼女がおれに覆い被さり、おれに口づけをしていた。息苦しくなり、咳をひとつ、ふたつすると、自分の頬が急激に冷えた。水滴がいくつか落ちるのを感じ、おれは目を開けた。
その正体は、彼女の涙だった。おれの乾ききった頬を伝い、枕を確かに濡らした。
聞こえるか、聞こえないか、よくわからないぐらいの声で、彼女は、す、き、と言った。おれは自分の身体を起こして、そのまま彼女を押し倒した。これが正しいかどうかはわからない。ただ、そうしたかった。彼女に触れていたかった。
寝起きだからだろうか、意識がもうろうとしていた。しかし、いま、確かに彼女と繋がっていることはわかった。当たり前だが、心が繋がっているだなんてそんな子どもじみたことは思わない。そんなことは、誰にも、当事者もよくわからない。繋がっているのは、たいてい、身体だ。
お互いに息が荒くなり、鼓動が速くなったころ、どちらかが口を開いた。
「うれしい」
おれが言ったのか? 彼女が言ったのか? そんなことさえ、もうわからなかった。
渇いた口をひらいて、彼女への想いをささやいてみようとした。
う、れ、し、い。
さっき聞こえたような声は聞こえてこなかった。じゃあ、やはり彼女の声か。
目を開けてみる。目を瞑ったまま、おれを求めてくれる彼女がいる。彼女が長いまつ毛の本数を数えていると、彼女は舌を強くねじ込んできた。
彼女は、口では何も言わなかった。しかし、彼女のくちびるは、私をちゃんと愛せ、と、確かにそう言った。
**
「行くぞぉぉぉぉぉぉぉぉ」男の太い声が母艦内に響き渡る。聞き慣れた合図だ。問題は無い。あとは精神力だ。それを太く短く保ち続けることが重要なのだ。じきにわれわれは射出される。まだ見ぬ世界へ。
どこまでいけるか、どこまでいけるか。
「きた、きた、合図だ。みな、いくぞ」
「ああ、達者でな」
「おれ、ここまでこられて楽しかった」
「そりゃそうだ。ここまでこられているだけでも大したもんだぞ」
背後から猛烈な勢いの濁流がやってきて、われわれは一気に前方へと流されていった。後ろの者の肉体に押され、押され、押され、われわれは見知らぬ世界へと射出された。ほとんど真っ暗だった空間を抜けると、非常に強烈な光を感じた。
数十秒、目を慣らしていると、赤黒い空間全体が、どくん、どくんと脈を打っていることに気付いた。
これが、外の世界か、と周りを見渡していると、同志らが宙に浮かんだまま死んでいることにも気付いた。どうした、おい。そのように声をかけようとするが、まるで声にならない。おれの言葉が死んでいるのではなく、物理的に音を出すことができなかった。
辺りを動いているのは自分自身の身体だけだった。いや、正確には、この空間全体も、どくん、どくんとやはり脈を打っている。
どちらが来た道で、どちらがこれから向かうべき道なのかは、すぐにわかった。別に標識や看板があるわけではないし、もちろん先導してくれる同志ももういない。ただ、本能でわかった。
しかし、動こうにも、身体にうまく力が入らない。この空間を泳ぐには、忍びないが同志の遺体を蹴って進むしかなかった。すまない、と何度も心で祈りながら彼らを階段にして先へ突き進んだ。
ほとんど何も見えないなかで、全身に柔い感触を感じた。これ以上先へ進むことができない。透明な膜にぶつかったようだ。なんとか勢いをつけて、破ろうとするがびくともしない。
こんな罠があるなんて、なにも聞いていない。生まれてから今日までの訓示を思い出してみるが、こんな話は思い起こせない。
いや、待て。ある。今日、聞いたのだ。
「オカモトノゴムにあたったら終わりだ」
誰かが言っていた言葉が反芻する。
そんな、まさか。そのXデーが今日だなんて。
なぜ、今日、おれが、そんな目にあうのか。
ちくしょう、と思いつつも、その先に見える赤黒い粘膜へと突き進もうとした。何度も身体を柔い膜にぶつけていると、少しばかり膜の薄い部分があることに気付いた。そこからわずかにずらして身体をぶつけた。ぶつけつづけた。さらに薄い部分を見つけた。さらにぶつけた。もっと薄い部分を見つけた。
ここだ。最期の力を振り絞り、この身体をねじ込んだ。
**
指先についた残滓を雑にティッシュで拭くたびに、最近こんなことを考える。
愛おしい、が確かに閃光する一瞬のあいだで、自分と彼女の在り方を何度も考える。
おれの傍らで眠入った彼女を強く抱きしめると、彼女は身体を仰け反らせて、「なに? 珍しいね」と言った。そのまま抱きしめていると、頭に彼女の手のひらを確かに感じた。
もう、このままずっと目を閉じていよう。
最期の一回の瞬きで、黒い点々が一つ一つ離れていくのが見えた。おれは重い瞼をせいいっぱい見開いてみた。そうだ、さっき見かけたカラス――
向こうの電線から、カラスたちがいっせいに、丸い月へと向かって飛び立っていった。薄く、ぼんやりと見える夕刻の月に、その黒のうちの一つが重なると、「おやすみなさい」という声が聞こえた。
しんせいじん 西村たとえ @nishimura_tatoe
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