第三話:祖父と僕

「うぅ……寒っ」


 僕はマフラーに顔を埋めた。

 十二月の墓地は閑散としている。それとは対照的に、落ち葉は絨毯じゅうたんのように地面に敷き詰められて賑やかだ。

 御影石で作られた墓石の群れを見ていると、ごま塩みたいな柄だなといつも思う。


「よぉ、来たか」


 低音のガラガラ声が聞こえた。僕は『篠崎家』と書かれたごま塩の墓石に向かって、手にしていたビニール袋を軽く上げる。

 墓前の供物を置く場所を椅子代わりに座っていたのは、白髪の角刈り頭で作務衣姿の祖父だった。


「じぃちゃんの好きな豆大福を買ってきたよ」


 僕は、透明なパックに入った豆大福をビニール袋から取り出した。祖父は、目の前に置かれた豆大福を細目で眺めてから「酒はどうした?」と尋ねる。


「帰りのバスで酒臭いのは勘弁」


 僕は苦笑いしながら、ペットボトルの温かい緑茶を袋から出し「これで我慢して」と、豆大福の横に置いた。

 祖父は白い無精ひげを片手で触り、不服そうな顔で「食え」とだけ言う。

 中身が無くなった袋を地面に敷き、僕は腰を下ろした。「いただきます」と言ってから、豆大福を食べ始める。その様子を、どこか満足げに祖父が見ていた。


「こっちに来んでも、仏壇に挙げておけば酒も飲めるんだがな?」


「仏壇の前で、じぃちゃんと話したら変な目で見られちゃうでしょ?」


 ペットボトルのキャップをカチリと開け、緑茶を飲みながら僕は答える。「そりゃそうか」と、祖父は喉奥で笑った。


 祖父、篠崎紀一郎しのざききいちろうと初めて会ったのは、自動車事故で僕が死の淵を彷徨さまよっているときだった。


「おまえは助かる。安心せい」


 眉間にしわを寄せながら、ぶっきらぼうに言う祖父の顔を枕もとで見た。

 夢なのか現実なのか、あのときの僕には判断がつかなかった。その次に祖父と会ったのは、僕が伯父の家に引き取られてからだ。

 

 仏壇に置かれた祖父母の白黒の遺影は一段高いところにあり、僕の父と母、妹の色鮮やかな遺影が二人の前に置いてある。

 伯父家族が寝静まると、僕は毎夜、仏壇の前で膝を抱えて座っていた。眠れないのだ。

 遺影を何度見ても実感がわかない。

 僕が病院で目を覚ましたときには、葬儀はすでに終わっていた。

 白の陶器を見せられて、これが家族だと言われても、骨が入ったつぼという感想しか出てこない。だが、いつまでっても家族は僕のもとへ帰ってこないのだから、みんなの言っていることが正しいのだろうとも思った。


 ある晩、いつものように仏壇の前で膝を抱えていると、いつの間にか祖父が横であぐらをかいていた。

 驚きはしたが、恐怖はなかった。僕は、この人をいつも近くに感じていた気すらしていた。


「すまなかった」


 しわがれた低い声が聞こえた。


「何が……」


 声がかすれた。このときに初めて、しばらく誰とも口を利いていなかったことを思い出す。


「守りたかったんだが……。俺の力じゃ、何もできなかった……。情けねぇ……」


 悔しそうにうなだれる祖父の顔を、僕はあれ以来見たことがない――



 二個目の豆大福に僕が手を伸ばしかけたとき「そういえば」と祖父が言った。


「坊主が、ばぁさんと一緒にあいさつに来たぞ。オレンジジュースをありがとう。家族のもとへ無事に帰れましたってな」


「あぁ……」


 残暑の中で出会った、迷子の少年のことを思い浮かべた。死者は律義だと、僕は常々思う。

 あの少年は、一年ほど前にあの場所で亡くなったらしい。そのことを、仕事で出向いた酪農家に教えてもらった。

 急こう配のカーブを車が曲がりきれず、電柱にぶつかった。その事故に巻き込まれたのが、父親と秘密の花畑に向かう途中の少年だった。


 腕組みをした祖父が、ため息交じりに言う。


「坊主の父ちゃんが、自分だけ生き残ったことをずっと悔やんでいるんだとよ。だから『そんなことないよ』と懸命に伝えてるんだと。おまえが『信じ続けていたら、必ず伝わる』と言ったからってな」


「そうなんだ……」


 伝われば良いなと素直に思った。僕も、なぜ自分だけが生き残ったのだろうと、出口のない自問自答を繰り返す日々を送った経験者だから。


「おまえ、良いこと言うな」


 祖父の言葉に僕は照れ臭くなり「思ったことを言っただけだよ」と言って、ぬるくなった緑茶を一口飲んだ。


「そういえばさ……。僕が小さい頃に迷子になったとき、助けてくれた人って」


 最後まで言わないうちに、祖父が口を開く。


「あぁ、俺のおやじだ。おまえのひい爺さんだよ」


 やっぱりと思った。

 仏壇の上の壁に飾られている古い遺影の中に、ショッピングモールで会った細身の男性とよく似た写真があったのだ。そう祖父は結核で早くに亡くなったと、伯父が話してくれた。


 祖父が続けて言う。


「そうだ。あと、美人さんも来たぞ」


 立てた片膝に肘をついた祖父は、ニヤニヤとだらしのない顔で笑った。


「美人さん……って、頼子さんのこと?」


「鼻筋の通った、色白の美人さんだった。うちのが居なかったら、れてたな」


「そんなこと言ったら、ばぁちゃんに怒られるよ?」


 僕があきれると、祖父は途端に神妙な顔つきになり「もう怒られた」とぽつりと言った。

 思わず笑う。祖父と話をしていると、生と死の境界線があやふやになってくる。


「頼子さん、なんて?」


 そう尋ねると、祖父は神妙な顔つきのまま僕を見つめた。


「おまえのことを心配していた」


「……」


 何も答えられない僕を見つめたまま、祖父が言う。


「おまえ、まだへ行けてないんだな」


 僕は、声を発するために息を吸い込んだ。だが、言葉が出てこない。


 祖父の言う『あの場所』とは、家族が亡くなった事故現場のことだ。

 おそらく、そこには誰かがいる。僕の家族か、事故の加害者か、それはわからない。たぶん後者だろうとは思う。

 僕は頼子に言った。「いまだに運転手が憎い」と。

 自責の念に駆られる頼子と、それを見ているだけしかできない両親の悲しそうな姿を目の当たりにして、僕の気持ちは複雑だった。

 僕は、頼子に「犯した過去は消えないが、先に進んでよいのでは?」と言った。

 果たして今の僕は、僕の家族の命を奪った加害者に、同じことを言えるのだろうか?

 もしかしたら頼子は、僕のそんな気持ちを見抜いたのかもしれない。

 想いの執着が強すぎて動けなくなっているのは、僕も同じだった。


「頼子さんは……本当に優しい人だね」


 僕は話をらした。祖父はふっと笑い「美人さんだからなぁ」と、おどけた表情になる。

 祖父の顔を、僕はじっと見つめた。無精ひげに白髪の角刈り頭で、色黒の顔には深いしわがいくつも刻まれている。

 表情には出さないが、祖父もまた心を痛めている一人だろう。息子と義理の娘、そして孫をいっぺんに失い、唯一の生き残りの僕は憎しみに囚われているのだから。


 僕は、すっかり冷えた緑茶をごくりと飲んだ。


「たまに思うんだよね。僕は望んでいなくても、死者に会える。なのに、じぃちゃん以外の身内には、望んでも会えない。理不尽だなって」


「そうだな。理不尽だ」


「なんで会えないんだろう?」


 祖父は口をつぐみ、どこか遠くを見つめていた。その表情は、何をどう伝えたら良いかを思案しているようにも見えた。

 少し間を置いて、祖父は口を開いた。


「俺が思うに、準備ができていないからだろうなぁ」


「準備? って、会う準備ってこと?」


「そうだ。お互いにその準備ができていない。だから、神さんなのか仏さんなのか知らないが、会わせてくれないんじゃねぇのかな」


 今度は僕が口をつぐんだ。

 祖父は、僕には話さないが両親たちに会っているはずだ。その祖父が『お互いに』準備ができていないと言う。つまり、僕の家族の心も穏やかではない……ということだろうか?

 そんな考えを見抜いたのか、祖父が喉奥で笑った。


「安心しろ。俺やウチのばぁさんが付いてる。それに……」


「それに?」


「あいつらは、おまえのことをよく見てる。おまえが笑えば、あいつらも笑うし、おまえが悲しめば、あいつらも悲しむ。心のつながりがあるってことだけは忘れんな」


「うん……」


 祖父が何度も口にする言葉を聞き、僕は自分を納得させるようにうなずく。


「それによ、おまえが人生をキッチリまっとうすれば、いやでも会える。だから、そう焦んな」


 ニヤリと笑う祖父に、「そうだね」と僕も笑った。



「気をつけて帰れよ。またあっちでな」


 背中越しに、祖父にそう言われた。「仏壇でまた会おう」とは、なんとも不思議な言葉だ。そうでなくとも、祖父はどこかで僕を見ているに違いなかった。


 帰りのバスは、夕方のラッシュ時にもかかわらず、乗っている人は少なかった。

 途中のバス停で乗車してきたうちの一人の男が、僕の座っている二人掛けの席の横にやって来る。


「ここ、よろしいですか?」


 僕はすぐさま席を立った。


「次で降りるので」


「そうですか。すみません」


 男は軽く会釈し、僕のいた席へと座る。雨にでもあたったのか、髪やスーツがれている。

 バスは次の停留所に停まり、僕は出口へ向かおうとした。前の席の女性が、不思議そうな顔で僕を見る。彼女にスマホを見せ、すまなそうに会釈してバスを降りた。


 外は、夜のとばりが下りている時間帯だった。ぷしゅーっとドアが閉まる音がして、僕は振り返る。

 前の席の女性は、怪訝けげんそうな顔でまだこちらを見ていた。僕が座っていた場所には誰もいない。

 小さくため息をつく。本当は、四つ先の停留所で降りたかったが仕方ない。

 僕は薄暗い道をゆっくりと歩き始める。不意に、肩をトントンとたたかれた気がした……。


 ―了―

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幻影カウンセラー 芳乃 類 @yoshino_rui

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