第二話:捨てられない女

 僕は途方に暮れていた。

 正面にある擦りガラスの引き戸をじっとにらみつけ、口を真一文字に結んでいる女性は、横に座る僕を無視し続けている。もう三十分ほどが経過しているだろうか。

 気分はまるで、浮気がバレて口を利いてくれない彼女といるようだ。もっとも、僕には付き合っている女性はいないけれど。


 薄紫色の着物を着たこの女性の名前は、岩戸頼子いわとよりこ

 頼子は、ここ一帯の土地を所有する商家の一人娘だった。そして、親が勝手に決めた婿むこ養子のDV夫に苦しめられた。

 頼子が命を絶ったきっかけは、夫の愛人が身ごもり、岩戸家に転がり込んできたせいだった。

 子宝に恵まれないのは自分のせい。理不尽な暴力も、夫の期待に添えない自分のせい。家を存続させるために婿となった夫を敬わなければならない。そんな積年の我慢がついに爆発し、衝動的に首を切って絶命した。三十二歳の春のことだった――


 頼子がこの世を去ってから、すでに百二十年ほどっている。それにもかかわらず、彼女は商家があった土地に建つ古びたアパートに居座り、怪奇現象を起こしていた。

 僕は、この部屋の住人である高校時代の友人の悠斗ゆうとに頼まれて、頼子の話を聞きに来たのだが……。


「あのぉ……」


 僕が申し訳なさそうに声を掛けると、頼子は迷惑そうに視線だけをこちらに向けた。


「あなたもしつこい方ですね。どなたが来ようとも、私はここから動けません。どうぞお引き取りくださいませ」


 ぴしゃりと言う頼子の声は、りんとしてきれいな声色だった。

 この部屋は『おはらい』が幾度となく行われている。だが、どうやら効果はなかったらしい。


「私はどこへも行っていないのに『消えた』と偽り、金銭を受け取るなんて……本当に浅ましい」


 吐き捨てるように言う頼子に、僕は思わず苦笑した。


「まぁ、おっしゃることはわかります。ただ僕は、友人が困っているから来たんです。ちなみに、金銭は受け取りません」


「ご友人がお困りなのは……申し訳なく思っております……。けれども……」


 頼子も、今の状況が好ましくない自覚はあるらしい。ほんの少しのやり取りではあるが、言葉遣いやしぐさなどから人格者であることがうかがえる。


「そうですね……あなたの怒りはもっともです。誰も責められない。僕は男ですが、あなたと同じ状況になったら同じことをしていたかも」


 頼子は驚いたように目を大きく見開き、そして僕を見た。


「私が何をしたか、知っていらっしゃるの?」


 僕はこくりとうなずく。


「同調っていうやつです。僕は、その人に何があったのかが見えてしまうんです」


「それなら……お分かりになるでしょ? 私は愚かなことをしました。これは、その罰なのです」


 頼子は唇をんだ。

 彼女は死後、夫と愛人、そして彼らの間に生まれた幼子を呪い殺した。

 夫と愛人の死は、当然の報いだと思っている。だが、幼子の命まで奪ってしまったことに、頼子はとてつもない後悔の念を持っていた。

 僕は頼子をじっと見つめる。

 

「ある人に僕は教わりました。あなたのような人は『想いの執着が強すぎる』と」


「想いの執着……」


「頼子さん、あなたは自由です。亡くなっていらっしゃるのだから。それでもこの場から動けないと思うのは、あなたが犯した罪を誰も罰せず、誰も責めないから。自責の念が強すぎるんです」


「私の罪は、許されることではありません」


「確かに、犯した過去は変えられません。ですが、頼子さんが償ってきた時間は十分すぎるほどに経っています。あなたが生きていた時代から、もう百二十年以上は過ぎているんですよ?」


「え?」


 頼子は絶句して僕を見た。

 死者は時間の概念が消える。よくある現象だ。だから頼子にとって、幼子を呪い殺したことはつい最近という感覚なのだ。

 頼子は何かを思案する顔つきになった。少しの沈黙のあと、彼女は首を横に振る。


「どんなに時間が経とうとも、私は自分を許せません」


 僕は頼子から視線を外した。

 も、彼女と同じ気持ちなのだろうか? もしそうだったら、僕が抱える闇は晴れるのだろうか? そんなことを考えてしまう。

 僕は大きく息を吸い、肩で吐き出した。


「僕の家族は、自動車事故で亡くなりました。生き残ったのは僕だけ。居眠り運転でぶつかってきた相手の運転手も亡くなったそうです。事故から十年経ちますが、僕はいまだにその運転手が憎い」


 突然の告白に、頼子は息をのんだ。僕は続ける。


「でも言われたんです。『恨むだけの人生は、死者への冒涜ぼうとくだ』と。亡くなったおまえの家族は、おまえにそんな人生を送ってほしいとは思わない。おまえは馬鹿者かって」


 僕は、無精ひげを生やした角刈り頭の祖父の顔を思い浮かべた。


「亡くなったご家族には……お会いになったの?」


 頼子が遠慮がちに聞く。僕は首を横に振った。


「会えていません。だから、僕を残していった家族がどんな気持ちでいるかなんて、想像できなかった。今日までは」


「今日までは?」


 怪訝けげんそうに聞き返す頼子から、僕は視線を正面に移した。同じ方向を見た頼子が「あっ」と短く声を上げる。


「お父さま……お母さま……」


 僕の正面には、光沢のあるグレーのスーツに身を包んだ老紳士と紺色の着物を着た老婦人がうなだれるように座っていた。


「いつから……」


 頼子が尋ねても、老夫婦は悲嘆ひたんにくれる顔をするだけで答えない。


「多分、ずっとです。ずっとあなたのそばにいた」


「ずっと?」


 僕は頷く。この老夫婦は、頼子が僕に心を開いた時点から見え始めていた。彼女はまったく気づいていなかったが。


「死者は基本的に、見たいものしか見えず、聞きたいことしか聞こえません。頼子さんは犯した罪にばかり囚われ、ご両親の嘆き悲しみに気づけなかった」


 頼子は老夫婦のほうに顔を向けたまま、震える手で自分の口を覆った。


「私……私……」


 言葉が続かない頼子に、僕はなるべく穏やかな口調で語りかける。


「犯した過去は変えられません。でも、もう前へ進んでもいいんじゃないでしょうか」


 頼子は驚いた目で、老夫婦から僕に視線を移した。


「前へ? 前へって? 私は死んでいるのよ?」


 僕はにこりと笑う。


「でも、頼子さんが亡くなってからも時間は進んでいます。だからこうして、僕と話をしているじゃありませんか。生も死も無関係に、時間は平等に進むみたいです」


 頼子はぽかんと口を開けてから、少しだけ微笑ほほえむ。初めて見た笑顔は可愛らしかった。


「前へ進むなんて、考えもしなかった……。それに、両親の気持ちもまったく考えていなかった……。私は親不孝者ね」


「今こうして気付けたんですから、親不孝ではないと思いますよ」


 険が消えた頼子は、穏やかな表情で僕を見た。


「そういえば、あなたのお名前を聞いていなかったわ」


「あ……すみません。申し遅れました。僕は、篠崎清一郎しのざきせいいちろうと言います」


 ぺこりと頭を下げた僕の頭上から頼子が言う。


「篠崎清一郎さん……。もし私がご家族にお会いしたら、あなたのことを伝えておくわね」


 頼子の申し出に一瞬だけ躊躇ためらったが、僕はにこやかな表情で首を振った。


「ありがたい話ですが、たぶん大丈夫です。頼子さんと同じように、家族は僕を見てくれていると思うから」


「あ……そうよね」


 そう言った頼子は小さく頷く。


「清一郎さん、私の背中を押してくださってありがとう。これでやっと前へ進めるわ」


 頼子は、その場からすくっと立ち上がった。それと同時に、彼女の両親も立ち上がる。

 老夫婦が頼子に向かって手を差し出すと、彼女はその手に飛びついた。

 頼子の姿は、大人から子供になっていた。薄紫色の着物は、白のブラウスと紺色のスカートに変わっている。


 親子三人は、にこやかな表情で僕に深々とお辞儀をした。僕もそれにならう。そして顔を上げると、わずかに揺れるグレーの遮光カーテンがあるだけだった。

 新たな旅立ちを見送った清々しい気持ちで、僕は息を吐き出す。ポケットからスマホを取り出し、悠斗の番号へリダイヤルを押した。

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