幻影カウンセラー
芳乃 類
第一話:迷子の少年
僕はポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭った。
九月も半ばを過ぎたというのに、姿の見えない蝉たちが渾身の力を振り絞ってミンミンと大合唱を繰り広げている。
僕は、ふぅーっと大きく息を吐きだした。
駅を出たときに、何気なく目についた自動販売機。そこで飲み物を買って、本当によかったと思う。かばんの中にあるボトルホルダーに入れたペットボトルは、まだ冷えたままだろう。それにしても……。
「まったく……なんて坂だよ……」
文句を言いつつ、視線を少しだけ上げる。急こう配の上り坂は終わりが見えない。
なんでこんな目に合うのか。今とはなっては後悔しかない。
仕事の都合で、僕はこの先にある酪農場へ向かっていた。そこへは、車で行ったほうが断然に楽だと事前にわかっていた。だが僕は、どうしても徒歩で行きたいと思ってしまったのだ。
相変わらずミンミンと騒がしい蝉の鳴き声に混ざり、子どもの泣き声が聞こえてきた。
えーん……えーん……。
少し先にある電柱のたもとで、サイクリング用の青いヘルメットをかぶった少年がしゃがんでいる。泣き声の主は、その子だった。
小学校低学年くらいだろうか? サイクリング用のヘルメットはかぶっているが、肝心の自転車が見当たらない。
少年のそばまで行くと、僕はしゃがみながら声をかけた。
「どうしたの?」
驚いたように僕を見上げた少年の顔は、警戒心と恐怖の色がにじみ出ている。
僕はもう一度尋ねた。
「何か困ったことでもあったのかい?」
少年は涙で
「お父さんが……いなくなっちゃった……」
彼が言うには、父親とサイクリングに出掛けたが、途中ではぐれてしまったとのことだった。
「自分の家がどこかわかる?」
僕の問いに、少年は無言で首を横に振った。そうか……と周囲を見回すが、僕たち以外は誰もいない。
少年の瞳が潤み、目の周りが赤くなる。鼻をずずっとすすり上げた。
「ボク、もう……おうちに帰れないのかな……」
「大丈夫。僕もね、子どものころに迷子になったことがあるんだ。でも、僕はちゃんと家に帰れたから、キミも必ず帰れるよ」
少年は「ほんと?」と、不安げな面持ちで僕を見た。
「うん。助けてくれた人がいたんだ。その人のおかげで僕は家へ帰れた。だから、今度は僕がキミを助ける番だ」
僕が迷子になったのは、小学校一年生になったばかりのころだった。
ショッピングモールの広場で行われた戦隊ショーを夢中で見ていた僕は、いつの間にか家族とはぐれてしまった。
焦りと混乱、そして恐怖に追い立てられるように、僕は広大な店内をやみくもに動き回った。そのせいで、自分の現在地もわからなくなり、泣き出す寸前で声を掛けてくれた人がいた。
「迷子になったのかい?」
僕の横には、スラリとした長身の男がいつの間にか立っていた。
僕が無言で頷くと「心配ない。家族も、キミを探しているはずだから。すぐに会えるよ」と言った。か細い声だったが、優しさが混じった聞き心地の良い声だった。
男は「こっち」と言って歩き出す。その歩幅は大きく、どんどん離されていった。
置いていかれないよう小走りで男に近づいた僕は、彼の左手をそっと握った。すると、男の体が驚いたようにびくりと跳ねた。だがすぐに僕を見下ろし
店内にあるサービスカウンター付近まで来ると、そこには青ざめた顔でスタッフに何かを訴える両親の姿があった。
「お母さん!」
堪えていた涙がどっと
これが、僕の最初で最後の迷子の思い出だった。
僕の話を聞き終えた少年は、まるで絵本を読み終えたかのようなホッとした顔つきになった。
「おじさんが家族に会えてよかったぁ」
先月二十七歳になったばかりなのだが、この年齢の子が見れば、僕はおじさんなのかと、思わず苦笑する。
「ありがとう。でも僕は、助けてくれた人にお礼を言えなかったんだ。だから、僕みたいに迷子になったキミを助けることが、その人への恩返しになるんだよ」
少年は、よく分からないといった顔で少し首を
「ボク、家へ帰れるのかな?」
僕は、少年を元気づけるように力強く頷く。
「家族の顔は思い出せる? お父さんとお母さんの顔、兄弟はいたのかな?」
少年は眉間にしわを寄せ、記憶を探るような顔つきになった。
「妹がいた。名前は、えーっと……チサト。そうだ。チサトの誕生日に花冠をプレゼントしたいって、お父さんに言ったんだ。お父さんは……秘密の花畑があるから一緒に行こうって。お母さんは、あそこは遠いからって心配してた。お父さんは、男の子は冒険しなくちゃって……」
「そうだったんだね」
気が付くと、あれほどけたたましく鳴いていた蝉たちの声が消えていた。どこからともなく、リーンリーンと金属音が聞こえてくる。
「ボク……誕生日プレゼントの花冠を渡せなかったんだ……。それだけじゃなくて……」
そこまで言うと少年は黙り込んだ。服の裾をぎゅっと握りしめている。
リーンリーンという金属音が、さらにはっきりと大きく鳴り響く。線香のにおいがふわりと香った。
僕は少年の顔を
「今、キミが思っている気持ちを伝えてあげなきゃね」
「……伝わるかな?」
「きっと伝わるよ。僕は、そう信じてる」
少年は唇をきゅっと結ぶと、僕を見た。その目には、決意のようなものが見て取れる。
もう大丈夫。僕がそう思ったとき、少年は驚いたように目を丸くした。視線の先は、僕を通り越して坂の下を見ている。
「おばあちゃん‼」
僕は振り返った。
坂の下には、ベージュの日よけ帽子をかぶり、淡い青のブラウス姿の老婆が立っている。
「え? なんで? おばあちゃん、ボクが幼稚園のときに死んじゃったんだよ? お母さんが言ってた。ガンって病気に勝てなかったって」
老婆を不思議に見る少年に、僕は言う。
「キミを迎えに来てくれたんだよ」
僕がそう言うと、老婆は同意するようにぺこりと頭を下げた。僕もそれに
「さ、もう大丈夫。僕はここで見てるから、行っておいで」
少年は「うん!」と力強く頷くと、勢いよく老婆のもとへと走った。だが途中、思い出したかのように立ち止まる。そして僕のほうへ振り返り「おじさん、ありがとう!」と腕を大きく振った。
僕は遠慮がちに小さく手を振り返す。
次の瞬間、鳴りを
「じゃあね!」
蝉の声に紛れ、そう聞こえた気がする。だが、坂の下にはもう誰もいなかった。
僕は複雑な気持ちになりながら、酪農場へ続く坂を上ろうとした。革靴に何かがカサリと当たる。
僕の横にある電柱には、暑さでくたびれた花束が数束立てかけられていた。それらと一緒に、子どもが好きそうなお菓子やジュースが添えられている。
僕は、駅の自動販売機で買ったペットボトルをかばんから取り出した。それを地面へと置きかけたが、腰を上げた。ペットボトルのキャップをカチリとひねり、ごくごくと中身を飲む。
オレンジジュースを飲むなんて、いつ以来だろう? オレンジの酸味がカラカラの喉に染み渡った。生き返った気持ちになる。
大きく息を吐きだした僕は、再び歩き始めた。僕がこの坂をどうしても歩きたくなった理由が、やっと分かった気がした。
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