第2話

 立ち止まっているのだろうか、凌太はかかとからつま先へとゆっくり降ろして音を殺しながら壁伝いに足音の方へ顔を覗かせた。顔は固定して眼球だけで端々まで見やったが、やはり誰もいなかった。改札に入れずに引き返したのだろうか。凌太は小さく息を吐いた。

 凌太はそのまま足音を殺し、トイレへと向かった。古臭い便器の匂いが充満するトイレの手洗い場の前に置き忘れていた腕時計がそのまま放置されていた。

「よ……」

 よかった、と言いかけて思わず手を塞いだ。不審者に聞かれるとまた追ってくるかもしれない。足音と息を殺しながら改札まで壁伝いに行き、再び改札の奥を覗き込んだ。誰もいない、日に焼けた緑色のコインロッカーが異様な存在感を放っていた。

 ICカードを改札にタッチすると機械音が静寂な駅に反響した。人間ならば確実に口を塞いでいただろう。凌太は早歩きで階段まで向かった。そのとき、先ほど聞いた湿った足音が再び、凌太の背後に迫ってきた。

 階段を降り切るとすぐ先にトイレがある。凌太は階段の最後三段を跳んで降りきって、追ってくるものの姿が見えないうちにそのトイレへと駆け込んだ。このトイレもかなりさびれており、個室のドアを開閉すると錆びた鉄の留め金どうしが擦れて甲高い音が響く。なるべくゆっくりと閉め、鍵を閉めた。足音はトイレの外からずっと響いてくる。

 なんなんだよ、と心の中で何度も問いかけた。普通襲うなら若い女の子じゃねえか。なんで俺みたいな普通の大学生なんだよ……。しかし足音は徐々に小さくなっていった。どうやらトイレを通り過ぎて凌太から離れていくように感じる。それでもしばらく凌太はトイレに籠っていた。先ほども、ずっと凌太のことを待ち伏せしていたことを考えるとやはり油断はできない。

 父からもらった時計はもうすぐ日を跨ごうとしていた。迎えに来てもらうために連絡しても両親はもう寝ている時間帯だった。両親は一度寝ると、スマートフォンが鳴っても起きることはない。

 つむじに冷たい滴が落ちてきた。このトイレは全く修繕されておらず、蛍光灯もついていないほどだったので雨漏れしてもおかしくはなかった。雨漏りの滴がおちたところを指先で撫でてみる。指先を目の前に持ってくるが真っ暗で何も見えない。スマートフォンの明かりを外に漏れないようにしてつけて指先を見ると赤く染まっていた。指先の感覚を研ぎ澄ませると、それは水分より、多少ではあるがどろどろとしている気がする。

 凌太はスマートフォンの光を上に照らした。反射的に逃げ場のない個室の壁に背中をくっつけた。白目をむいた男が口から血を滴らせながら凌太を凝視していた。

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札付きのコインロッカー 佐々井 サイジ @sasaisaiji

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