札付きのコインロッカー

佐々井 サイジ

第1話

 男子トイレに入った途端、尿を煮詰めたような臭いが凌太の鼻孔に押し寄せた。素早く出し尽くしたあと、陰茎を小刻みに振り、皮の先端についた薄く黄色い滴を小便器に落とす。小便器の隅は茶色く変色しており、トイレの壁のタイルには解読不明の落書きがされてある。ボタンを押して蛇口から水が流れているうちに手を差し込むが、満足に洗い切る前に水が止まってしまい、もう一度ボタンを押す。洗面台にはピンク色の水垢が発生していて、清掃員が掃除している気配はない。いや、今朝このトイレに入ったときは確か『清掃中』という黄色い看板が置いてあったから掃除はしているはずだった。

 所詮田舎の駅のトイレなどいい加減にしか扱われないのか。凌太は小さくため息をつきながら腕時計を外し、汗でべたついた手首を水で流した。見上げたときに鏡を見て、前髪の割合を七三に整える。整えたところでもう友人や恋人に会うわけでもなく、そもそもこのあと自転車に乗って帰宅するわけなので、あまり意味はなかった。鏡を見ると髪型をセットしてしまうのは色気づき始めた中学生の頃からの習慣になっていた。

 改札に向かっていると、もうさっきの人の流れはとっくになくなっている。ICカードを当てて改札をくぐるとくすんだ黄緑色のコインロッカーがあった。もともとこういう色なのか、それか鮮やかだった緑が日に焼けてくすみだしたのかはわからない。コインロッカーの端々は錆びた鉄がむき出しになっていた。

 コインロッカーは縦横、それぞれ五列ずつあり、一つが正方形の形をしていた。一つの場所を除いてすべてに鍵が刺さっている。実際、誰かが利用しているところを見たことはない。上から二番目、左から三列目のコインロッカーだけ、ずっと閉まっている。凌太は高校生から六年間、長期休暇を覗いて毎日この駅を利用しているが、この場所だけは閉まり続けていた。

そこに視線が行くと背筋が粟立った。そのコインロッカーの中には殺された人間の手首や足首、または頭部が入っているという噂が地元で広がっている。その都市伝説が真実味を帯びているのは、コインロッカーのドアにお札が貼ってあるからだ。お札の字が崩れていて何が書いてあるのかわからない。しかし、お札が貼ってあることで禍々しい雰囲気と真実味を増す役目を果たしていた。

 凌太が乗った電車は終電でトイレに入っていたこともあり、駅にはもう乗客はおろか、窓口に駅員もいなかった。自分一人だけという状況を認識した。吸い寄せられるように札の張られているコインロッカーの前に立っていることに気づき、身体の奥がざわついていた。近寄ってはいけない、とどこからか響いてくる気配すらあった。凌太はすぐにコインロッカーから離れ、階段を降りた。

 ふと腕に軽さを感じ、手すり触れる手に目をやると、いつも身に着けている腕時計をはめていないことに気づいた。「あっ」という声が階段に響いた。先ほど、トイレで腕時計を外して洗面台に置いたままにしてしまったのだ。幸いICカードがあるので、駅員がいなくても改札を通過できる。しかし、またあのコインロッカーの前を通り過ぎなければいけない。外の空気は湿気を孕んでおり、一刻も早く自宅に帰ってシャワーを浴びたい。さっき洗った手はもうすでにべたついてきた。

「まあ行くしかないよな……」

 腕時計は大学の入学祝に父親からプレゼントされたものだった。値段は言われなかったが、インターネットで調べると五万円を越していた。それを駅のトイレに忘れたとなれば叱られることは目に見えている。そもそも今まで父からプレゼントをされたことがなかった凌太にとってあの腕時計は特別なものだった。

 口元を引き締め、つま先を百八十度回転させた。朝に老夫婦が階段の真ん中で荒い呼吸をしながら手を膝についているところを見たことがある。大学生の凌太も登りきると息が荒くなるほどだから無理もない。

 一段飛ばしで階段を上っていると、タン、タンと背後から音がした。前を向き直すが蛍光灯が弱弱しく駅構内を照らすだけで人はいない。気のせいかと思い、また昇り始めると同じように音が聞こえる。凌太は鼓動が一気に速くなった。見えない何かがいる。幽霊など信じてはいなかったが、三日前にテレビの心霊番組の特番を見たせいで味わった恐怖が最悪のタイミングで甦ってくる。

 背後からの重く湿った足音は消えない。凌太は階段を上り終えると駆け出して改札を抜けた。壁に身を寄せて足音に耳を澄ませた。ゆっくりとした歩調の足音はゆっくりと近づいてくる。来るな来るな来るな。心の中で唱えていたはずが、気づけば口元が動いており、両手で口を塞いだ。足音が大きくなってきて体を縮こませた途端、急に音が鳴らなくなった。

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2024年10月14日 18:00

札付きのコインロッカー 佐々井 サイジ @sasaisaiji

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