無名の君へ

あれからどれ程経っただろう

出会ってから紫陽花の咲く季節を超え、落ち葉が舞い、雪が降り、桜が咲いた。

その間も私は彼からジュースをもらい続けて、同じくらい彼に同じ味のジュースをあげた。


でも、私は彼の名前を聞いたことがない。

彼も同じく、私の名前を聞いてこない。

きっと、今日もいるはずだと、来てくれるはずだとお互い思っているから。


けれど、いつかはこの関係も終わるのだろう。

私も彼も将来があるから。

私は進学したいし、きっと彼はだいぶ上手くなった歌を続けていくのだろう。


私の中で彼がどんな存在になっているのか、自分自身でも整理ができていない。

ただ一つ言えるのは大切な何かになっていることだけだ。

だから、今日も私は屋上にいく――


「やぁ、今日も来てくれたね」

「ジュースが欲しいもの。はい、差し入れ。歌えば喉が渇くでしょ?」

「……ありがとう。それじゃあ、歌うね」

「うん、聴いててあげる」


いつも通りの短い淡泊なやり取り。

それだけしかない、それだけで伝わる気持ち。

心地よいこの気持ちの名前を、私はまだ知らない。

今歌っている彼の名前と同じように。


聴いていると、普段と歌詞も曲も違うことに気が付いて――

そして、段々と鼓動が早くなってきた。


(やばい、これ――)


誰が誰に向けた歌詞かわかってしまう。

ずっと聴いているからこそ、伝わる彼の思い。

ずっと有耶無耶で済ませてきた気持ちに聴診器を当てられるかのような、むずがゆくて、恥ずかしい気持ちが湧く。

言葉では知っていたはずなのに、意識してなかった自分の思いを自覚させられる。

彼の思いが、私に答えを求めてくる。

切ない歌詞が、優しいフレーズが、私に聴いてくる。


気づけば最後のフレーズが終わり、静寂が訪れていた。

心なしか彼の耳が少し赤く思える。

なんで、こんな日に限って、彼はうつむいて顔を向けてくれないのだろう。

いや、わかっている。答えを待ってくれているんだって。

だからこそ、私は雑多な話題で間をつなごうとする。


「あっ……えっと、曲名は?」

「――無名の君へ」

「そういえば、私の名前、言ったことあったっけ……」

「ないから。できれば知りたいっ。」

「私の、私の名前は雛菊。春咲雛菊、だよ。」

「俺の名前は音羽和音だ。できれば、これからもっと色んなことを教えてほしい。」

「わ、私もっ!!」


今まで感じなかった、高鳴る鼓動がすごく心地よい。

暖かい感情がどんどんあふれてくる。

”もしも”、あの時私が声を出していなかったなら、貴方という”異常”は私の日常には生まれなかったでしょう。

でも、そんな”もしも”が”異常”が、今の私にはとても心地よい。


無名の君へ、ありがとう――

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無名の君へ @Nairiku_No_Umi

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