後編 読む側も力を抜いて
バーミヤンの翌日、薄明の頃である。Tモスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、出社の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、早く出社して、仕事の遅れを取り返そうと思っていた。そうして笑って退職願を叩きつけてやる。Tモスは、悠々と身仕度をはじめた。その日も雨だったが、小降りの様子である。身仕度は出来た。さて、Tモスは、愛車に乗り込みぶるんとエンジンをかけて、雨中、矢の如く走り出た。
私は、今日、退職願を出す。辞める為に出社するのだ。未来の自分を救う為に走るのだ。社長の事業計画を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は退職する。今からでも名誉を守れ。さらば、会社。若い時、Tモスは、つらかった。過去、幾度か、立ちどまりそうになった。その時も、えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。仕事を覚え、一人で仕事ができるようになり、バイトをまとめ、部下を育て、少し自分の仕事が楽になるかなと思った頃には、社長が嫌だ、社内行事が嫌だ、この給料ではやっていけない、と皆辞めた。
会社に着くと、Tモスは額の汗をこぶしで払い、社長室前まで来れば大丈夫、もはや会社への未練は無い。部署の人たちは、きっと腹を立てるだろう。だが、決意した私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに社長室に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌を頭の中で流し始めた。
ゆっくり二歩行き三歩と足を進め、そろそろ社長室のドアをノックできるくらいに到達した頃、降って湧わいた災難、Tモスの足は、はたと、とまった。見よ、後方の彼を。きのうの会議で他部署の仕事まですることが決まり、定時帰りの部署はいよいよ楽に、我が慢性的なサビ残部署の不満は頂点に達した。そこからリストラか自主退職かという話がまたたくまに広がり、会社に対する罵詈雑言が社屋に響き渡って、経営理念をこっぱみじんにし社是を跳ね飛ばしていた。
その中で彼――我が部の部長――は茫然と、立ちすくんでいた。あちこちをなだめすかし、また、声を限りに落ち着くように言ったが、その言葉はひとつ残らず不平不満にさらわれて影はなかった。
私が辞めれば、仕事の流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになって、それは部長がやることとなってしまう。部長は、男泣きに泣きながらTモスに手を合わせて哀願した。「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う怒りを! 時は納期に向けて刻々に過ぎて行きます。当初の予定から既にかなりの遅れが出ています。ここで部下を一人でも失ったら、私が死ぬのです」
カレンダーは、部長の叫びをせせら笑う如く、バツ印だけが増えていく。秒針は寸分違わぬ残酷な音を響せ、労働者を煽り立て、確実に時は、刻一刻と消えて行く。今はTモスも覚悟した。押し切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 部長の死にも負けぬ勇気と決断の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。
Tモスは、コンコンコンと社長室のドアをノックし、これから起こる悲劇にのた打ち荒れ狂う部長を無視して、必死の闘争を開始した。
中からの返事を聞くやいなや、満身の力を腕にこめて、重々しい社長室のドアを、なんのこれしきと押し開けて、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。見事、社長室の中に入る事が出来たのである。ありがたい。Tモスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐさま社長の机の前に向かった。一刻といえども、むだには出来ない。緊張は既に限界を超えている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら社長の顔を見て、いつも通りの阿保面だったことにほっとした時、突然、横に総務部長が躍り出た。
「待て」
「何をするのだ。私は決意が揺らがぬうちに社長へ伝えなければならぬ。放せ」
「どっこい放さぬ。その手のものをこちらに渡せ」
「私にはこの他には何も無い。その、たった一つのこれも、これから社長にくれてやるのだ。」
「その、封筒が欲しいのだ」
「さては、自らの査定に響くと思い、追いかけてきたのだな」
総務部長は、封筒を引ったくろうとした。Tモスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く襲いかかり、その手を掴んで、
「気の毒だが民法627条に基づいて二週間後の退職を申し出る!」と猛然一撃、たちまち、総務部長を突き飛ばし、さっさと退職願を社長の机に置いた。
一気に部屋を出たが、流石に疲労し、折からエアコンの効かない社屋の熱気にTモスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。
ああ、部長を振り切り、総務部長をも撃ち倒しここまで突破して来たTモスよ。真の勇者、Tモスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。社長が退職願を受理するところまでを見届けるはずだったのに。
血檻は、私を信じたばかりに、キャリアカウンセラーとしての信頼を失うことになる。辞める勇気もなかろうと、たかを括っているあの社長の、まさしくの思うつぼだぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎なえて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。近くの空き部屋に入りごろりと寝ころがった。
身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸をたち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。友人のまごころに胸を打たれたその血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。
けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な人間だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友の思いに答えられなかった。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。血檻よ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。私がブラックに堕ちる前は、いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私の退職を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、血檻。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。血檻、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ!
私はこれまでの自分を振り切ってここまで来たのだ。部長との情を突破した。総務部長の圧力からも、するりと抜けて一気に社長に退職願を叩きつけることが出来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。
あの時社長は私に向かって、蔑むような目を向けた。若いならいざしらず、中年に差し掛かったお前が辞めたところで行くところなどないだろう、と。私は社長の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は社長の思うままになっている。私は、転活に自信がない。自分にできることが何なのかわからない。こんな歳で雇ってもらえるところはあるのだろうか。
社長は、私を笑い、そうして事も無く私をまた飼い殺しにするだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に愚痴しか口にしない労働者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。血檻よ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、敗北者として生き伸びてやろうか。私には家が在る。家族は、まさか私を家から追い出すような事はしないだろう。生きがいだの、やりがいだの、人生の意義だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い敗北者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉かな。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
ふと耳に、虫の鳴く声が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ外かららしい。よろよろ起き上って、窓の外を見ると、目の前の草むらから聞こえてくるようだ。その草むらに吸い込まれるように向かい、Tモスは身をかがめた。虫の音を聞いたのなんて、いつぶりだろうか。いや、毎年、虫は鳴いていたのだ――。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。
歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。朝陽はその光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も輝いている。始業のミーティングまでまだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! Tモス。
私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。Tモス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、勇気ある労働者の鑑として死ぬ事が出来るぞ。ああ、人が出勤してくる。始業ミーティングの時間が迫ってくる。待ってくれ、ゼウスよ。私は生れた時は正直な人間であった。正直な人間のままにして死なせて下さい。
始業準備をする人を押しのけ、跳はねとばし、Tモスは黒い風のように走った。朝の掃除をしているまっただ中を駈け抜け、コートを脱ぐ人たちを仰天させ、ゴミ箱を蹴けとばし、コードを飛び越えた。総務部長とすれちがった瞬間、不吉なセリフを小耳にはさんだ。「いまごろ退職願など破られているよ」ああ、あの時、あの時ひよって啖呵を切らなかったために私は、いまこんなに走っているのだ。
血檻を死なせてはならない。急げ、Tモス。しくじってはならぬ。勇気と決断の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。Tモスは、いまは、ほとんど子どもであった。呼吸も出来ず、二度、三度、鼻血が出て手で拭った。見える。社長室のドアが。Tモスはノックもそこそこに勢いよくドアを開けた。
「ああ、Tモスか」うめくような社長の声が、空調と共に聞えた。
「はい、勤続二十年目のTモスです」
「もう、駄目だ。退職願を撤回しようともむだだ。見苦しい言い訳は、やめろ。もう、お前を助けようとする者はいないよ」
「いや、私は退職を撤回しに来たのではない。二週間後の退職を確定させに来たのだ」
「お前のような恩知らずはいらぬ。だが、二週間後の退職とは生意気な。恩どころか世間も知らないとは恥ずかしい奴め。一般常識として一カ月後だろ」
「いや、二週間だ。こんな会社の空気を吸っているだけで肺が腐ってしまう。しかも有休を使うから、明日から出社はしない!」Tモスは胸の張り裂ける思いで、社長の憎らしい顔を見つめていた。睨むより他は無い。
「自分を育ててくれた部署に悪いと思わないのか? 面倒をみてくれた先輩たちに仕事を押し付けて、お前には罪悪感がないのか? 私はお前の安易な裏切りを許さないが、部長が頭を下げるなら、それに免じてこの退職願を撤回してもいいと思っている。部長は、お前を信じていたぞ。どの会議でも、お前がいるから仕事が回っているんだと言っていた。私が、さんざん疑っても、Tモスは有能だ、とだけ答え、強い信念を持っていたよ」
「それだから、辞めるのだ。信じられているから辞めるのだ。働く、働かぬは問題でないのだ。人のプライドも問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に辞めるのだ。目にものみせてやる! 社長!」
「ああ、気が狂ったか。それでは、うんと狂うがいい。ひょっとしたら、一度狂った方がいいかもしれない。狂うがいい」
言うにや及ぶ。まだ言えてないことがたくさんある。最後の死力を尽して、Tモスは叫んだ。Tモスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて叫んだ。仕事の楽しさが奪われたこと、お客さんに誠意を尽くせなかったこと、人が辞めていくこと、口を開けは皆愚痴だらけのこと、低賃金で生活がままならないこと、生きる活力が失われていること……。社長室は、Tモスの叫び声で揺れた。
最後、喉のどがつぶれてしわがれた声がかすかに出たばかりだった。
「私はもう……一瞬だってここにはいたくないのです……」と、かすれた声でつぶやくと、ついに社長は「わかった。受理しよう。詳細は総務部長と決めるように」と言って、Tモスは社畜道から解放された。
その日、周囲から恨みと羨望の眼差しを受けながら残りの仕事を片付け、総務部長と打ち合わせをして定時で退社した。血檻に電話をかけ、バーミヤンで会うことにした。
「血檻先輩……」Tモスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴ってください。ちから一ぱいに頬を。私は、途中で一度、悪い夢を見ました。先輩が若もし私を殴ってくれなかったら、私は先輩と抱擁する資格さえ無いのです。殴ってください」
血檻は、すべてを察した様子でうなずき、バーミヤン一ぱいに鳴り響くほど音高くTモスの右頬を殴った。殴ってから優しくほほえみ、
「Tモス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はあれから、たった一度だけ、ちらと君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない」
Tモスは腕にうなりをつけて血檻の頬を殴った。
「ありがとう、友よ」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
バーミヤンの客と店員は、二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがてまたそれぞれの食事と仕事に戻った。
「Tモスの望みは叶かなったぞ。おまえは、ブラック企業の洗脳に勝ったのだ。ホワイトとは、決して空虚な妄想ではない」
ネコ型ロボットが、タピオカミルクティーを捧げた。Tモスは、まごついた。血檻は、Tモスが来る前に先に頼んでいたのだ。
「Tモス、君は、緊張と不安の毎日から自由になった。早くそのタピオカを飲むといい。祝杯をあげよう」
勇者は、ひどく赤面した。
(完)
走れTモス 千織 @katokaikou
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